【大阪編】








1月の日誌

扉(目次)

深川全仕事

大量点計画

江戸川時代

メ ー ル

平成二十年二月一日(金)


きょうは安い日だった
BGM : Radioio Acoustic


 きのうの木曜日は、夕方6時に伊丹へ。伊丹で降りる頃に車内の路線図を見て初めて、自分があのJR宝塚線(福知山線)に乗っていることに気づいた。3年前の脱線事故は塚口と尼崎のあいだ(伊丹より2駅ほど大阪寄り)なので、知らないうちに現場を通り過ぎており、帰りも酔っていたので見忘れてしまったが、まあ、見てどうなるというものでもない。地元の人々がどのような気分で乗っているのかわからないが、われわれ東京の人間もサリン事件のあった地下鉄に乗るときにこれといって特別な気持ちにはならないので、とくにどうということもないのだろう。決して事故のことを忘れてはならないが、忘れないと成り行かない日常というものもある。伊丹では、串カツ店で桝岡さんにインタビュー。一昨年の世界選手権から昨年のアジア選手権まで代表チームのコーラーを務めていた人物で、兵庫サムライスターズの監督でもある。現在は盲学校にお勤めだが、以前は中学校の体育の先生として生活指導もなさっていたとのことで、ブラインドサッカーと関係ない教育談義にも花が咲いた。お話も面白かったが、串カツも絶品。

 きょう金曜日は、取材のない昼間に映画を見た。そんなつもりはまったくなかったのだが、阪神百貨店の地下で遅い朝食を取ったあと、その裏手にあるE−Ma(表記は曖昧)とかいう商業施設にぶらぶらと入ったらシネマコンプレックスがあり、気がつくとふらふらとチケット売り場に並んでいた。取材はどれも楽しいが、毎日ブラインドサッカーのことばかり考えていたのでさすがに頭が疲れていたのかもしれない。なにも大阪で映画なんか見なくてもよさそうなものだが、東京ではなかなかそんな時間も持てないので、まあ、よかろう。いいも悪いも、もう見てしまったわけですが。

 時間を潰せれば何でもよかったので、すぐに始まるやつを見ようと思って時間だけで選んだのは『スウィーニー・トッド』であった。売り場のお姉さんに「1000円です」と言われて「大阪は地下鉄運賃は高いが映画は安いのか!」と驚いたが、聞けばきょうは1日なので安いんだそうな。そんなつもりで足を運んだわけではないので、なんかすごく得した気分。客席は高校生ぐらいの男女ばかりで、連れもいない単独行動のおじさんは完全に浮いていた。それはともかく、誰が出ている何の映画なのかさっぱりわからないまま席についたので、ドキドキだ。始まったらジョニー・デップがいきなり台詞を歌いだしたので、ものすごく意表を突かれた。ミュージカルだったのかー。「R−15のミュージカル」って過去にあったのだろうか。血がいっぱい流れる、猟奇ミュージカル。音楽はとても美しかったが、なにしろぶっ殺した死体をミンチにして人肉パイをこしらえるお話である。チキンナゲットとか食いながら見ていた人は、どんな気分だっただろうか。

 あまりに陰惨なものを見てしまったので口直しをしたくなり、1000円だということもあって、引き続き『母べえ』を鑑賞。客席はお年寄りばかりで、40代の若僧は完全に浮いていた。平日の昼間の映画館では、何を見ようが40代の男は浮く仕組みになっている。吉永小百合の主演映画を映画館で見たのは初めてかもしれない。戦争中、思想犯として逮捕された学者の妻と2人の娘がいろいろな苦労をするお話。ちょっと泣いた。「母娘モノ」だからちょっとで済んだが、「父息子モノ」だったら号泣してしまったかもしれない。もっとも、ちょっとで済んだのは、隣に座っていたおじいさんのお陰でもある。最初から最後までイビキをかいて寝ている人の隣で号泣するのは難しい。おっちゃん、何しに来とんねん。スクリーンに笑福亭鶴瓶が登場したとき、客席が「やあやあ出てきよった」という感じでざわついたのがおかしかった。アーセナルの試合に稲本が登場したときの日本人の反応も、こんな感じだったような気がする。

 夜はなんばで、大阪ダイバンズのコーラー峯田さんと会食。「峯田さん」だと関係者でもわからない人が多いかもしれないが、これは要するにゆかりちゃんのことである。「要するに」ってことはないが、韓国のアジア選手権にも応援に来ていたベラボーに朗らかな23歳だ。お好み焼きを食いながら、取材とも身の上話ともつかないお喋りを楽しむ。この年代の娘さんに悩みなど打ち明けられると、おいらも立派な中年になったもんだよなぁと感慨深い。彼女にかぎらず、20代前半の若者たちといろいろな話をする機会が得られるようになったのは、ブラインドサッカーの取材を始めて良かったと思えることのひとつ。

 大阪入りしてから1週間、そろそろ関西取材ツアーも大詰めだ。ホテルは明朝にチェックアウトし、土曜の晩は風祭監督のお宅に泊めていただくことになっている。日曜日の昼にもうひとりインタビューしてから帰京する予定なので、大阪での更新はこれでおしまい。しかし、もっと話を聞きたい方もいるので、執筆前にまた来ることになりそうな気がする。あと、福岡と新潟にも行くことになるだろう。できれば仙台にも行きたいと思っている。もちろん東京周辺での取材もガンガンしますので、関係者のみなさま、よろしくお願いします。







平成二十年一月三十日(水)


人類の進歩と調和
BGM : Radioio Acoustic



 昨日は道頓堀、今日は万博公園へ。太陽の塔には、6歳で万博を見に行って以来37年ぶりの再会。取材先の国立民族学博物館に到着してタクシーを降りたら、いきなり後ろ姿が見えたので意表を突かれて面白かった。後頭部をこつんと叩きたくなるような愛らしさ。どういうものかよく知っているはずなのに、間近で仰ぎ見るとあらためてその偉容に圧倒され、思わず「うわー」とか「すげー」とかなぜか笑いながら呻いてしまうという点では、富士山と双璧かもしれない。富士山に匹敵する存在感を持つ芸術作品というのは、世の中にそう多くないと思う。それにしても、大阪のシンボルたちはなぜ両腕を広げがちなのだろうか。脇が甘いのだろうか。それともハンドボールのディフェンスをしているのだろうか。

 道頓堀では、午前10時から、日本ライトハウス盲人情報文化センターの岩井和彦館長にインタビュー。2000年に別件で韓国を訪れたときにたまたまブラインドサッカーの存在を知り、それを「輸入」した人物だ。現地視察の際に行われた韓国チームとの練習試合でPKを決め、「国際試合」における日本人初ゴールを記録した人物でもある。公式記録には残らないが重要な歴史である。それ以外にも、きちんと書き残しておかなければいけない黎明期のお話をたくさん聞くことができた。取材後、盲人情報文化センターの内部を見学。基本的にそこは「図書館」で、点字の本やCDに録音された本などがびっしり並んでいた。CD化された「週刊新潮」など見ると、なんとも不思議な心持ちになる。発売から1週間程度の遅れで聞けるようになるそうだ。「黒い報告書」とかも聞けるのだろうか。聞かせてもらえばよかった。あと、館長ご自身が使っていた点字用のメモパッド(ロールペーパーがセットしてあって手元で点字が打てる)やデジタルの拡大鏡や点字の地球儀(むろん国境も立体的)など、その世界を知らなかった人間が「なるほど」と唸らされるような道具がたくさんあった。そうえいば「喋る体重計」もあったが、あれ、イヤホンジャックはついているのだろうか。家族に聞かれたくない人もいると思うのだが。

 きのうは、その盲人情報文化センターでの取材を終えてから、同行してくださった協会の宮嶋さんと昼食を共にし、道頓堀でぶらぶらと時間を潰したのち、夕方5時から鶴橋で代表選手の山口さんにインタビュー。知り合ってから1年半になるが、じっくりと話を聞くのは初めてだったので面白かった。最初の韓国遠征からプレイしている選手のひとりである。その韓国戦に向けた練習で、初めて紅白戦を行ったとき、最初のゴールを決めたのが彼だということを知る。こちらは「日本人同士の試合における最初の得点者」だ。公式記録には残らないが重要な歴史というのはいろいろある。鶴橋は焼き肉の街なので、焼き肉をたらふく食った。こっちに来てから、飲んだり食ったりしてばっかだよ。帰京したら、喋る体重計には絶対に乗りたくない。

 本日は午後3時から6時まで、国立民族学博物館で研究者として仕事をしている広瀬浩二郎さんにインタビュー。約20年前に全盲学生では初めて京都大学文学部に入学したことでよく知られている人物であり、ブラインドサッカー日本代表チームの初代キャプテンでもある。私とほぼ同世代で、ライトハウスの岩井館長よりは15歳ぐらい下になる広瀬さんが使っている点字用メモパッドは、紙を使わないデジタル製品だったのでまた「なるほどー」と唸る。視覚障害者問題について広くお話をうかがう一方、自分が考えていることもいろいろと聞いていただいた。今回はゴーストライターとして他人の意見を書くわけではないので、そういう機会も必要なのだ。しかし喋ってみると、自分の考えがまったく整理されていないことがわかる。私の場合、結局は書かないと物事を整理できない人間なのかもしれないが、そろそろ整理しなければ。取材を終えて外に出るとすっかり暗くなっており、闇に浮かぶ太陽の塔も見ることができた。

 わしズム冬号が発売された。掲載誌は大阪のホテルに届かないので、阪神百貨店近くのBook 1stで購入。今回は深川名義の原稿を2つ載せてもらったので、早く見たかったのだ。書いたのは、いつもの連載「嫌いな日本語」と、特集用の課題作文「大暴れする『論点すり替え』モンスターのアクロバティック言論」の2本。学生時代に『芽むしり仔撃ち』だの『万延元年のフットボール』だのを読んでいた頃は、まさか自分がそれを書いた大作家にちゃちゃを入れるような文章を書くことになろうとは思わなかったが、まあ、人生も長くなると、いろいろな成り行きというものがあるんである。よろしかったら、ご笑覧を。っていうか、必ず「笑覧」で頼む。  







平成二十年一月二十八日(月)


飲みに来たわけではない
BGM : Absolute Blues Hits ( http://www.1.fm )



 大阪3日目の晩である。エスカレーターの右側に乗ることにもすっかり慣れ、新世界の串カツ屋ではソースの「2度付け禁止ルール」にもすぐに順応した。他人の文体に影響を受けやすいタチであるせいか、話し言葉にもたまに「それちゃいますやん」的なものが混じる。帰京する頃には、少しはボケとツッコミの技術が身についているかもしれへんなぁ。しかし本場のボケとツッコミはそう簡単なものではないということが、昨夜サムライスターズの宴会に参加してよくわかった。べろべろだったので具体的には覚えていないが、こっちの人は会話におけるリアクション・パターンの引き出しがものすごく多い。東京の人間が「寒っ!」という(その反応のほうがよっぽど寒い)ワンパターンで済ませるような場面だけでも、「いなす」「怒る」「流す」「乗る」「嘆く」「けなす」「自分を責める(寒いことを言わせた自分のせいにする)」など少なくとも7パターンぐらいの受け方があったように感じた。それを一瞬で反射的に使い分けるのだから、おそるべきコミュニケーション文化である。この多彩な受けによって、会話の「行間」は実に濃密なものになるのだった。いや、行間が濃密だから受け方も多彩になるというべきか。そんなわけだから、たとえば府知事選の結果を伝えるテレビのニュースで大阪人の街頭インタビューを見ていても、新橋のサラリーマンや銀座のおばさんたちの何倍もおもしろい。とても勉強になる。

 そんなことを勉強しに大阪までやって来たわけじゃないんだった。もちろん、真面目に取材もしている。一昨日の土曜日は、ホテルのカフェで午後3時から6時まで落合さんのインタビューをし、いっしょに新世界まで行って串カツを食い、梅田に戻って落合さん行きつけのスポーツバーで日本 × チリ戦を観戦したのち、またホテルのバーでインタビューだ。移動の際はもちろん私が前を歩いて手引きするのだが、なにしろ大阪では(渋谷でも似たようなもんだが)右も左もわからない私は「そこの右奥に階段がありますから降りてください」などと落合さんにナビゲートしてもらうわけで、どっちがガイドなのかわからず妙な感じだった。客の家に近づいたときのタクシー運転手って、あんな気分なのかもしれない。大阪の市営地下鉄は(東京の都営地下鉄もそうらしいが)障害者の付添人は無料で乗れるとのことで、すばらしいと思いました。

 きのうの日曜日は、朝10時から夕方5時まで、西明石の兵庫県立障害者スポーツ交流館で行われた「兵庫バリアフリーフットサルカップ 2008」を見学。視覚障害(B2/B3)、聴覚障害、知的障害、脳性麻痺(CP)などの障害者チームに健常者の小学生チームと女性チームを加えた9チームが試合をするというイベントである。年に一度の開催で、今回が3回目だそうだ。障害の種類は違っても基本的なルールは同じなので「視覚対聴覚」「知的対CP」などの試合が成立するというのは、当たり前といえば当たり前だが意外といえば意外な話(※ちなみに知的障害のことを業界では「知的」と略すことが多い。ちょっとヘンだとは思っている)。戦力の均衡を図るために試合によっては「6人対4人」などのハンデをつける工夫もされていた。さすがにブラインドサッカー(B1)や電動車椅子サッカーはルールやコートが違いすぎるので無理だし相手が危険すぎる(とりわけ後者は試合中に交通事故が起きかねない)が、とても面白い試みである。総当たりのリーグ戦ではなく(各チーム5試合ずつ)、順位を決めるような大会でもなかったが、いちばん強かった(唯一全勝した)のは予想どおり兵庫ろう者サッカー協会(聴覚障害)チームだった。ふつうに上手い。無論、選手も監督も試合中に手話で意思を伝え合うわけだが、まずいプレイに苛立った監督が選手に指示するときは手話の動きも激しくなる(意味がわからない者にも明らかに怒っているように見える)というのは、その世界を初めて間近で見た人間にとっては新鮮な発見だったものの、まあ、それは当然そういうものであろう。夫婦喧嘩とか、人前ではやらないほうがいいかもしれない。いや、それはどんな夫婦でも同じか。大会終了後、聴覚と視覚の選手が即席の混成チームを作って、CPチームを相手にゲームを楽しんでいたのがとても印象的だった。聴覚の選手が「一緒にやろう」と誘い、それを視覚の選手が理解するまでちょっと苦労していたようだが、意気投合するやいなやすぐにボールが動き始め、パスが回る。そこには、ただサッカーだけがあった。

 で、そのイベントが終わってから三宮でしこたま飲んだという次第。三宮では、先月のはじめにもしこたま飲んだ。それまで関西にほとんど縁がなかった私が2ヶ月続けて三宮で飲んでいるというあたりが、人生の不思議である。このところ忙しくて、東京ではほとんど飲みに行ってないわけですけども。成り行きにまかせて生きていると、たまに思いがけない風景が広がるものなのだった。

 きょう月曜日は、午後2時に天下茶屋へ。べつにお茶を飲みに行ったわけではなく、大阪にはそういう名前の駅があるのだ。で、そこの駅前で鍼灸院を経営している松本義和さんにインタビューをした。シドニーパラリンピックで銅メダルを獲得したことで有名な柔道家だが、日本に導入された当初のブラインドサッカーでも代表選手の一人として大きな役割を果たした人物である。昨晩、サムライスターズのGK田中さんに連絡してもらい、急に取材を申し込んだにもかかわらず、とても丁寧に(しかも3時間にわたって)たくさんのお話を聞かせてくださった。明日と明後日も、韓国からこの競技が「輸入」された当時の関係者に会うのだが、それまで誰も知らなかったスポーツを手探りでやり始めた人たちの話というのは、とても貴重だ。たとえば明治時代に初めて「ベースボール」をやり始めた日本人の体験談がどれほど文字で残っているのか知らないが、あるなら読んでみたいと思う。50年後、100年後に関係者が読んで「なるほど最初はそうだったのか!」と思えるようなものが書けたら、それはとてもすばらしいこと。  







平成二十年一月二十六日(土)


大阪へやって来た
BGM : 大阪へやって来た / 友部正人



 というわけで、梅田のホテルである。大阪へやって来たのである。友部正人は10トントラックでやってきたようだが、私は新幹線でやって来た。何をしに来たかというと、ブラインドサッカーの取材をしに来た。試合の取材ではなく、関係者のインタビューをしまくるのである。この日誌ではまだ書いていなかったような気がするが、夏ぐらいに本を出すつもりなのだ。夏ぐらいに本を出すには、5月のGWぐらいまでに原稿を書かなければいけないのだ。原稿を書くためには取材が必要なのだ。だから、大阪へやって来た。でも今日は代表選手の落合さんと飲んでべろべろなので、詳しくはまた明日。もっとも、明日は明日で兵庫サムライスターズの宴会に出席してべろべろになると思われるのだが。で、友部正人の「大阪へやって来た」は、一体どこから大阪へやって来たのだろうか。それがよくわからない。わかるのは、私が大阪へやって来たということだ。おやすみなさい。