4月の日誌

扉(目次)

深川全仕事

大量点計画

江戸川時代

メ ー ル

平成二十一年五月二十七日(水) 81.0 kg


踏切を許す
BGM : One More for from the Road / Lynyrd Skynyrd


 なにしろ自他ともに認める「イライラ型」の性格で、行列のできるラーメン屋なんか絶対に行かないし、エレベーターがなかなか来ないと階段を駆け上がることも多い私だから、ゆうべ何かの拍子に「踏切で待たされるのはあんがい好きだ」という話を愚妻にしたら、「ものすごく意外」と驚嘆された。愚妻はあんまりイライラしない精神安定人間なのだが、踏切で列車を何本も待たされるのだけは許すことができず、「いまなら開けられるじゃないのよ!」と内心で罵ったりするらしい。

 私も、ギリギリで遮断機が閉まったりすると、「ちっ」と舌打ちすることはある。しかし踏切の場合はどういうわけか即座に「いやいや、まあ、そないに急がんでもええがな」と(なぜか関西弁で)反省するのだった。何でしょうね、あれは。愚妻に「だったら、いつも反省すればいいのに」と言われ、まったくもって仰るとおりなのだが、踏切以外はダメだ。待たされるとイライラが止まらない。ただひとり踏切だけが、「彼岸と此岸の運命を素直に受け入れよ」と諭してくれるのである。

 たぶん私は、踏切のあの佇まいが好きなんだろうと思う。交互にチカチカと点滅する左右の赤い目玉、それと同調すりゃいいのにちょっとズレたリズムでカンカンと鳴る不器用な警報機、そして、くぐり抜けられるかどうか微妙な速度で降りてくる黄色と黒の遮断機。なんか、こう、ケナゲな感じがしませんか。私はする。あんなに一生懸命なキカイはいまどき珍しい。「人間のために献身的に頑張るロボット」という点では、首振り扇風機と双璧であろう。昔からデザインがほとんど変わらないのもいい。

 もしかしたら、「あかずの踏切」で有名な武蔵小金井で育ったことと何か関係があるのかもしれない。私は駅の北口に住んでおり、踏切が開かないので南口のほうへは滅多に行かなかった。だったら踏切が嫌いになりそうなものだが、踏切がもたらすある種の諦念に慣れているとも言えるし、南北を「遮断」されているがゆえに「こっち側は自分の世界」だと強く思えたということもあるだろう。たまに南口へ行くと、別世界を訪れたような新鮮さがあった。

 まあ、理屈はいろいろつけられる。いずれにしろ、家から仕事場まで踏切を渡らずに行けるにもかかわらず、あえて線路を二度横切るコースで通勤しているぐらいだから、かなりの踏切好きだ。通り過ぎる電車の乗客と目が合うと、「キミは先に行け、オレはここに残る」と、ほぼ無意味なメッセージを込めて微笑んだりするから、向こうは不気味に思っているかもしれないが、井の頭線の三鷹台−久我山間だけは高架化しないでほしいと思う。

 井の頭線で思い出した。私は井の頭線の2番線(渋谷方面行き)ホームで聞ける女声のアナウンスが好きなのだった。「間もなく、2番線に、電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側でお待ちください」と言われると、「あー、電車来るんだー」とワクワクする。なんかね、すごく楽しそうで、張り切ってる感じの声なのよ。まるで、スペースマウンテンの到着を告げているかのようなのだ。あの声で「ただいま、メールを受信いたしました」と教えてくれる「着アナ」があるのなら欲しい。





平成二十一年五月二十六日(火) 81.6 kg


ひと息ついている
BGM : 想い焦がれて~カラーディ歌集~ / サローキ・アーギ



 座談会原稿(100枚)とSAPIOのコラム(1750字)と自著の初校(230頁)とセガレのお誕生会の料理(4品×7人分)が雪崩を打って押し寄せたので先週はデタラメに多忙だったが、きのう初校を戻してすべてにカタがつき、今週はスコーン!とヒマである。ごはんとかお酒とかを私にご馳走したい人は今がチャンスだぞ。私がご馳走するチャンスでもあるし割り勘のチャンスでもあるが。それにしてもアレだ、本来はもう1冊あった新書(250枚)が延期になっていなかったらと思うと、気を失いそうになるのだった。月内に上げるのは絶対に無理だったよ。天佑神助としか言いようがない。

 あ、でも、サカマキさんが「雑誌創刊するから手伝えよこの野郎」とか(実際はもう少し謙虚な表現で)言ってたよな。あれ、そろそろリライト頼まれるんだろうな。サカマキさんは出版社勤務時代に出会った私の人生初上司で、いまは編プロ経営者なのであるが、長く請け負っていた雑誌が潰れてしまったもんだから、自力で季刊から始めることにしたそうだ(発売は学研から)。この出版不況時に無謀を承知であえて勝負に出るというのだから、私としても「いざ鎌倉」なのである。えいえいおー。





平成二十一年五月二十日(水) 81.6 kg アカンなあ。


ヘレフォードだった
BGM : Stand Up / Dave Matthews Band



 数日前に、来年の第5回ブラインドサッカー世界選手権の開催地を「ロンドン」と書いたが、これは誤りで、イングランド北西部の「Hereford」が正解。「ヘアフォード」でも「ヒアフォード」でもなく「ヘレフォード」と読むようだ。ヘレフォードシャー (Herefordshire) の州庁所在地がヘレフォード、と、そういうわけである。ちなみに米国にも、アリゾナ州やコロラド州やノースカロライナ州やペンシルバニア州やテキサス州など、あっちゃこっちゃに「ヘレフォード」があるみたいだが、たくさんあるわりにあんまり耳にしない地名だよなあ。どんなトコなんだろうか。

 ……と思ってHerefordshire's public service community portalの写真コーナーを覗いてみると、まあ、牛や馬がのんびりと草を食む風光明媚な田舎町っぽい雰囲気。なんでまたこんな観客を集めにくそうな町で世界大会をやるのかわからんし、ホテルやレストランがちゃんとあるのか心配だ。こういうことは首都でやれよ首都で。でも大会は8月の予定と聞いているので、夏休みの旅先としては悪くないか。がんばれニッポン!





平成二十一年五月十八日(月) 81.0 kg


12月のアミノバイタルを満員にしたい!
BGM : Before These Crowded Streets / Dave Matthews Band



 土曜日にブラインドサッカーアジア選手権の記者発表があり、大会公式サイトもオープンしたので、是非ご覧いただきたい。思い切ったキャッチコピーと釜本邦茂さんの豪快な写真は話題性抜群。ほかの障害者スポーツではまず見られないであろう大胆なセンスのポスターである。感動した。釜本さんは、かつてJFLのポスターで披露した後ろ向きヌード写真に次ぐインパクトかも。ともあれ、この大会の決勝戦でスタンドを満員にして、(3年前にブエノスアイレスで聞いた千人のアルゼンチン国歌と同じくらい)盛大な「君が代」を聞くことが、当面の私の野望である。この日誌の読者諸氏は万難を排して駆けつけるべし。ところで記者発表会に登場した名波浩さんだが、アイマスク着用の体験コーナーでは、異様に上手かった。トラップはノーミス、パスも相手の足元にきちんと届く。風祭監督も「いままで体験してくれたJリーガーの中で一番上手い」と感心してました。侮れない人だ。あらためて、尊敬した。





平成二十一年五月十四日(木) 80.6 kg


たたた助かったぁぁぁ!!
BGM : The Allen Toussaint Collection / Allen Toussaint


 いやー。あまりにも喜ばしいことがあったので本日2度目の更新だ。今月中に上げることを厳命されていた新書の発売が7月から9月以降に延期され、原稿は7月中に仕上げればよいことになったのだった。うほー! うほー! この開放感の巨大さを世間様に理解してもらえるかどうか不明だし、他人と共有できるものではまったくないが、誰かに抱きつきたいくらい嬉しいのだ私は。だって、全っ然、書いてなかったんだもんなあ。いい加減「来週の私」に期待してもいられないし、もう1冊の取材が明日なので、今日あたりは徹夜してでもこっちを大幅ゲインさせねばイカン!と目を血走らせておったのだ。ああ。神様っているのかもしれないなあ。いやはや。「2点差以上つけて勝ち点3」だった予選突破の条件が、突如「引き分けでオッケー」になったような感じ。発売延期って素晴らしい。人類の叡智を感じる。まるで意味わからんが、いやっほーう。





平成二十一年五月十四日(木) 80.6 kg


寒リミナル
BGM : I'm Back at Carnival Time / Bo Dollis & The Wild Magnolias


 NHK、大河「天地人」でサブリミナル技法? の指摘が視聴者からあったそうな。問題の本能寺爆発シーンは私も見たが、とくに違和感も何も抱かなかった。だいたい、視聴者が「サブリミナル技法では?」と知覚できたなら、それはサブリミナル技法じゃないだろうよ。まさか視聴後に、なぜか空、水田、明智光秀役の俳優などが無性に欲しくなったわけでもあるまい。急に田植えを始めた人でもいるのか?

 それ以前に、鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』(新曜社)によれば、サブリミナル効果なるもの自体がきちんと実証されていない(というか論理的に証明できない)そうだ。映画館でポップコーンやコーラの売上が増えたという1950年代の例の有名な実験も、捏造の疑いがきわめて濃い(そもそも当時の技術では1/3000秒だけ画面を映写することなど不可能だった)らしい。すごく面白い本なので(なにしろオオカミに育てられた少女はいなかったのだ!)詳しいことは買って読んでもらいたいが、同書にはこんな記述もある。

サブリミナル広告の効果は、論理的に証明不能ということに加えて、現実問題としても、証明不能である。マスメディアが、映画の観客やテレビやラジオの視聴者など不特定多数の人々に向けて、そうしたことをしてはいけない、という自主規制を敷いてしまったからである。つまり、ほんとうに効果があるのかどうかは不問に付して、とにかくそうしたことは倫理的に許されないことだという判断を下してしまったのだ。つまりは、「クサイものにフタを」したわけだ。
 NHKは国内番組基準の中で「通常知覚できない技法で、潜在意識に働きかける表現はしない」と定めているというが、できるかどうかもわからないことを「しない」などと言うから、視聴者も「できる」と思い込んでしまうのだろう。抗議の電話は、NHKが自ら蒔いた種ということになろうか。細かいカット割りの映像を見るやいなや「サブリミナルだ!」と鬼の首ゲット反応を示す浅薄な視聴者自体が心理学の研究対象として興味深いのではないかと思うが、彼らもまた、メディアの事なかれ主義の犠牲者だとすると、気の毒に思わんでもない。そして世論調査や国政選挙といったものは、そういう気の毒な人たちが結果を左右するのだった。嗚呼、なんて気の毒な民主主義!





平成二十一年五月十三日(水) 80.6 kg


それではまた来週!
BGM : Balance / Sara Tavares


 今月は新書のリライトが2冊あるだけでもえらいことであるのに加えて、来週には自著の初校ゲラも出るし、コラムの締切もやって来る。なので猛烈に追い込まれているはずなのだが、もう13日だというのに、どうもGWのあたりから心身共に弛緩した状態が続いており、手が動かなくていけない。手が動かないのは頭が働いていないからで、頭が働かないのはなぜかといえば「バカだから」以外に理由が思い当たらないわけで、じゃあ、まあ、しょうがないじゃん。開き直ってんじゃねえよバカ野郎。

 それにしてもアレだ、この焦燥感のなさは何なのだろうか。どうしてこの状況で「まあ何とかなるだろう」と思えるのだ私は。今週の私がこんなにダメなのに、なぜ来週や再来週の私のことをそんなに信用できるのだ。

 しかし考えてみると、今までずっと、常に「来週の自分」に期待(というか依存)するライター人生を送ってきたのだった。そして「来週の私」は、たいがいのことを何とかしてくれた。えらいなあ、来週の私。こんど「尊敬する人物は?」と質問されたら、「来週の私」と答えることにしよう。だから今回も頼んだぞ、来週の私。頑張れ来週の私。負けるな来週の私。と、先週も思っていたような気がしなくもない。一番ダメなのは、いつだって先週の私だ。そして今週の私は先週の私を内心で罵倒しながら来週を迎えるのだった。来世を迎える前にこの生活習慣を改められるだろうか、どうだろうか。





平成二十一年五月十一日(月) 81.2 kg


私をイギリスに連れてって
BGM : Guarda Que Viene El Tren / Raffo



 日本視覚障害者サッカー協会(JBFA)のサイトで、第3回IBSA視覚障害者サッカーアジア選手権大会の日程が発表された。本年12月15日〜20日、味スタ併設のアミノバイタルフィールドにて。暮れの慌ただしい時期ではあるが、多くの人に足を運んでもらいたい。来年イギリスで開かれる世界選手権の予選を兼ねた大会である。行きたいよイギリス。ちなみに今週の土曜日には、記者発表会およびメディア向け体験会が開かれる。名波浩さんもゲストで登場するそうなので、メディア関係者は積極的にゴー!

 きのうは、そのJBFAの2008年調査研究事業報告会に出席。ある日本代表選手に、「いま深川さんの『キャプテン翼勝利学』を読んでもらってるんですが、すごく面白いです!」と言われて恐縮した。たぶん奥さんが音読してくれているのだと思うが、あまり声に出して読みたい日本語だとは思えないので、想像するとえらく恥ずかしい。点訳か音訳があれば、コソコソと読んでもらえるのだが。……あ、テキストデータをあげればいいのか。でも著者だからって、勝手にそんなことしちゃまずいよなあ。

 きのうの夕方は、「母の日」ということで、セガレと協力してキーマカレーおよび玉ねぎとトマトとししとうのレモン味サラダ(料理名は失念)を作った。「妻の日」ではないのでやや納得いかないが、男ふたりで台所に立つのもなかなか楽しいものである。さすが図工が得意なだけあって、トマトを1センチ角に切る作業はセガレのほうが上手だった。仕事って部下がいると楽だなあ、とも思った。

 本日のBGMは、アルゼンチン産の知られざる名盤。ロックともプログレともジャズロックともフュージョンともアルゼンチン音響派とも言い難いジャンル分け不能の音楽だが、じつに素晴らしい。私はずいぶん前にザビエル・レコードで購入したのだが、現在は在庫切れのようだ。ここにないと、手に入れるのは難しいかもしれない。こんなに値打ちのある音楽が入手困難というのは、ひどく間違ったこと。





平成二十一年五月九日(土) 81.0 kg


神様に関する素朴な疑問
BGM : Live @ the Fillmore / Lucinda Williams



 ロックとはほぼ無縁な青春時代を送っていたし、いまも日本のロックは聴くとしても主にプログレ系だったりするので、亡くなった忌野清志郎さんに対してとくに深い思い入れはない(音盤も1枚も持っていない)私だが、葬儀の様子を伝えるマスコミ報道を見ると、<「ロックの神様」と呼ばれていた>とか<ファンが「キング・オブ・ロック」を偲んだ>といった文言が散見されるのであり、これには「そうだったのか?」と思ったのである。日本のロック情報にほとんど接していないせいかもしれないけれど、少なくとも私の中には、生前の彼が「ロックの神様」だの「キング・オブ・ロック」だのと呼ばれていた記憶がないんだよな。そんな称号が似合う人だとも思えないし。

 で、試しに「ロックの神様」で検索してみたところ、Yahoo ! 知恵袋の「ロックの神様」といえば誰(グループ)でしょうか??という解決済みの質問(2006年)が見つかり、こんなモンを論拠に何かを語るのもいかがなものかとは思うが、そこでベストアンサーに選ばれているのは「個人だと矢沢永吉」「ジミ・ヘンドリックスもそう言われている」というものだった。ふうん。「ロックの神様はチャック・ベリー。エルヴィスは王様。King of Rock」という回答のほうが妥当な気がしなくもない。知らないけど。ともあれ、それ以外の回答を見渡しても、忌野清志郎さんの名はまったく出てこないのだった。日本人では矢沢永吉が二度出てくるだけだ。実際のところ、どうなんでしょうか。もし、生前は世間が口にしていなかった称号を取って付けたように冠しているのだとしたら、むしろ死者に対して失礼だと思うのだが。まあ、彼の(本当の)ファンがこうした報道に違和感を抱かないなら、それでいいんでしょうけども。ちなみにウィキペディアのプロフィール欄には【自称「バンドマン」「ブルースマン」】とあった。





平成二十一年五月八日(金) 81.0 kg


不自由なエリアと水に流す技術
BGM : Duty Free Area / D.F.A.



 このところ、奥歯に食い物がはさまりやすい。愚妻によれば「歯が減ってるのよ」とのことで、ならば減量にはプラス(というかマイナスというか)なので良しとすることにする。良くないと考えたところで、老化現象なんだからしょうがない。自然の摂理に良いも悪いもない。ところで奥歯に食い物がはさまったとき、舌先でその位置を探り当ててからおもむろに指を差し入れて取り除こうとすると、必ずそこには何も無くてイライラするのはどういうわけだ。私だけではない。セガレも「そうそう」と言っていたから、これは老化現象ではなく、たぶん皆そうなのだろう。あのイライラ感って、プログレの複雑な変拍子を聴きながら「どうなってんだ?」と必死で理解しようとするときのもどかしさに似ている。その意味で、D.F.A.は実に奥歯に物がはさまったようなバンドなのだった。7拍子の曲でさえホッとひと息つけるタイプの音楽。でもカッコイイ。

 バルサ戦の判定への不満を口にしたヒディンクに、某掲示板で「おまえが言うな」が連発されていたので何のことかと思ったら、2002年ワールドカップの韓国だって審判に助けてもらったじゃないか、という話らしい。いまだに、ある種の日本人にとっては「ヒディンク=韓国」なのだった。まだアレを根に持ってんのかー。しつこい「恨」はむしろあちらの半島に特有の心性かと思っていたが、もしかしたら近頃は「水に流せない日本人」が増えているのかもしれん。そういえば5年前の強制猥褻事件で医師を告訴した女性もいるし、凶悪事件の時効撤廃を求める声も高まっている。べつに、犯罪被害者に対して「すべてを水に流せ」と言いたいわけではない。いくら流しても落ちない頑固なヨゴレもあるだろう。でもなぁ。少なくとも私には、水に流してもらいたい過去がいくつもある。水に流してやった過去も、そう多くはないがある。どちらも私を楽にする。ような気がする。





平成二十一年五月七日(木) 81.4 kg あらら。


チェルシー対バルセロナ
BGM : Lavori In Corso / D.F.A.



 セガレが「見てから学校に行かないと友達に結果を言われてしまう」と言うので、無理やり5時半に起床してチェルシー対バルセロナ(欧州CL準決勝第2戦)を観戦したのだった。そのわりに、セガレは途中で居眠りしてたけども。ともあれ、どっちがどうやって決勝進出を決めたのかまだ知りたくない人は、カニさんから下に目をやらないように。と、そういう気遣いをセガレは友達に求めているわけだが、小学生には無理。

 というわけで、少し前にローマダービーを見て以降、チェルシーとリバプールのアホみたいな殴り合いとか、マドリーがバルサにアホみたいに殴られまくった試合とか、モウリーニョがどんなインテルを作ったのかと思ってラツィオ戦を見てみたら案の定インテルのモウリーニョ化に失敗してモウリーニョがインテル化していて笑ったとか、こんなインテルが首位じゃそりゃあセリエ勢はCLで負けるよなあと思ったりとか、けっこう欧州サッカーは見ているのである。「試しにちょっと左右にフェイントしてみては簡単に諦めてあっさりバックパス」をくり返すフィーゴには心底から失望した。誰ひとりゴールラインまで深くえぐる選手がいない。ほかにやる気のある若い奴はいないのかあのリーグには。サネッティまだいるし。

 そんなことよりチェルシー対バルサだ。監督はいつの間にかヒディンクとグアルディオラである。「グアルディオラ」ってここに書いたの久しぶりだなあ。ATOKがまだ覚えていた(一発でカタカナに変換した)ことが不思議な気がする。まあ、毎週のように「グアルディオラ」とか「クライファート」とか書いてた昔の自分のほうが不思議といえば不思議だが。試しに「リバウド」と書いてみたら、おお、ATOKはこれもカタカナにしてくれたのだった。「フランク・デブール」も大丈夫。驚いたことに「カビエデス」もATOKは覚えている! 私もよく覚えていたものだな。えーと、カビエデス君というのは、10年ほど前にペルージャにいた人です。たしかエクアドル人。

 思い出に浸っている場合ではなかった。準決勝の話だ。審判がダメだった。私は昔からのチェルシー贔屓なので、とくにそう思う。たぶん、あのブヨブヨの大型コッリーナさんは、試合のことを2割程度しか覚えていないはずだ。きっと「自分が何をしているのかよくわからないまま、気がついたら90分が過ぎてました〜」というパターンに違いない。ペナルティエリア内でバルサの選手が犯したファウルを外からのFKにした時点で、もうどうやってバランスを取ればいいのかわかんなくなってただろオマエは。あるいは、最初から「今日は絶対PK取らないんだもんね」と決め打ちしていたのだろうか。バルサのハンドを見逃したときは、バラックが主審を絞め殺すんじゃないかとヒヤヒヤした。あのとき初めて「あ、バラックいたんだ」と思ったけどね。それまでどこで何してたんだよ。あとダメだったのはドログバだ。へなへな倒れてばっかで、好調時の色気がまったくナッシング。もっと男臭いセクシーさを迸らせてくれなきゃイヤです。

 何の観戦記にもなっていない気がするが、ともあれ、2本の強烈なミドルシュートにサンドウィッチされた試合は1-1のドロー。敵地ゴールの差でバルサが勝ち上がったのだった。チェルシーは、いつになったらクラブW杯で来日してくれるのだろうか。  





平成二十一年五月三日(日) 80.4 kg


あえて憲法記念日に
BGM : Steady On / Shawn Colvin



「ムラの掟」について考えようと思ったわけではなかったのだが、なぜか気が向いて、吉村昭『破船』(新潮文庫)を読んだ。読了と同時に全身がゾワーッと総毛立つほどの圧倒的な衝撃。しばらくは頭がクラクラし、足元もフラフラした。未読の人に同じショックを味わってほしいので、内容については書かない。底知れぬほど深い絶望と、ささやかだが確固たる希望が、ギリギリのところで辛うじて均衡することもある――そんなことを思った。いま日本人が読むべきは『蟹工船』なんぞではなく、この『破船』ではあるまいか。なまくらな個人主義や生命至上主義を、ひと振りでなぎ倒す一冊。もっと若い頃に読んでおくべきだったと思う反面、10代や20代では違う読み方になってしまったような気もする。





平成二十一年五月二日(土) 80.0 kg !!


やったぜベイビー
BGM : Livro / Caetano Veloso


 4月の減量に失敗したので、昨日の夕食前に1時間ほど歩いてみたら、4月どころか5月の目標まで一気に達成してしまった。生真面目で頑張り屋さんな自分の性格には、思わず溜息が出てしまう。つまらない男だよまったく。ぐふふ。おそらく、一昨日も夕食前の空腹時に計測すれば、81キロを切っていた(つまり実質的には目標を達成していた)に違いない。もちろん、この数値が最大瞬間風速的なアレであることは承知しているのだし、これを月末までキープするのは容易ではないけれど、とても気分がよい。今日の話はそれだけだ。





平成二十一年五月一日(金) 81.6 kg


管理主義者来襲
BGM : Funk Is in the House / Walter Wolfman Washington


 4月の減量目標(81キロ)は達成できず。上記の体重は夕食後に計測したものなので、通常どおり夕食前に計れば数百グラム少ないはずだし、一昨日は81.2キロだったので惜しいところだが、まあ、失敗は失敗。

 セガレの小学校に4月から赴任した副校長(女)の評判が、保護者のあいだで頗る悪いらしい。「学校だより」だか何だかの巻頭に寄せた文章を読んで、「なるほど」と納得。どうやら始業前や放課後に児童が校庭で遊ぶ際のルール適用が厳格になされていないことが我慢ならないようで、ひたすら「いかに約束や決まりを徹底するか」という話ばかりしている。「朝は8時から校庭で遊んでいいことになっているのに8時前から遊んでいる子供がいる」って、そりゃあ、授業開始までは自由時間なんだから遊ぶだろうよ。建前上は8時から登校可だから校庭使用も8時からってことになってるんじゃないの? 教員の始業前に怪我でもされて責任を負わされるのは困るとか、うるさいので近隣住民からクレームがあるということかもしれないが、だったら、8時まで校門を開けなければいいじゃないか。早出した子供たちが路頭に迷って何をするかわからんけど、それは「学校の責任ではない」と言い張れるから先生方は安心だろ?

 というわけで、タイトルを「わたしの管理主義宣言」としたくなるような文章ではあった。これまでボランティアの保護者たちが、自らの責任で現状に合わせて柔軟に運用してきた放課後の校庭使用のルールにも、何だかんだと杓子定規に口をはさもうとするから反発を買うのである。新参者の管理者が現状をよく観察もしないでいきなり「ああしろこうしろ」と言い出せば、そういうことになるのは当然だろう。やり方が下手なのである。あと、文章も下手。「そりゃライターから見れば下手に見えるだろう」と思われるかもしれないが、そうではない。お母さんたちが一読するなり「うわ」と顔を顰めたというレベルの下手さ加減なのである。これで何年か前までは教壇で作文指導もしていたのかと思うと茫然とする。

 まあ文章の巧拙はともかくとして、私がいちばん間違っていると思ったのは、この副校長が、ルールの運用等について「学校と家庭が同じことを言わないと子供に対して説得力がない」という意味のことを書いている点だ。自分が保護者の反感を買っていることを承知で、「こっちの言うことを聞け」とケンカを売っているとしか思えない。当人にはそのつもりがないとしても、こちらにそう思わせた時点で、教育者の発言としては落第点である。「管理人」としては及第点かもしれんけど。

 いずれにせよ、この人は児童のみならず家庭教育まで管理したいのだろう。しかし各家庭の価値観や教育観や世界観はさまざまである。常に「学校と同じこと」なんか言えるわけがない。だいたい、学校側が一枚岩ならともかく、卒業式で君が代を歌う教師もいれば歌わない教師もいるような状態で、どうやって「学校と同じこと」を言えというのか。あるいは、毎日のように「ごはんと牛乳」という奇妙な給食を子供たちに与える学校と、どうして同じことが言えるというのか。学習発表会の合奏で、ラテン音楽のノリを台無しにするおかしなリズムで「コパカバーナ」を演奏させる学校と、どうして同じことが言えるというのか!

 たとえば英国では「学校の先生とご両親が違うことを言ったら、ご両親の言うことを聞きなさい」と、ほかならぬ教師が子供に言って聞かせる――という話を聞いたことがある。おそらく「上流」の学校の話であろうし、家庭がマトモに機能していることが前提なので、モンスター系の保護者がウヨウヨいる今の日本には通用しない面もあるだろう。だが、学校と家庭のどちらがより長く(しかも最終的な)教育責任を負うのかを考えれば、原則的にはこれが健全な考え方だと思う。べつに、こっちは学校に「家庭と同じことを言え」とは求めない。世の中には「ダブル・スタンダード」ってもんがあるということを子供に知らしめるのもまた教育である。