(2回に分けて掲載された)

自画像 ワークス 継承と理念 フォト・・視る
エッセー B l o g △HOME

No3 残したい「木造  下田・大浦小校舎を考える

1998年5月26,27日
新潟日報 掲載


大正5年に建てられた木造2階建ての新潟県下田(しただ)村大浦小学校は、1999年(平成11年)取り壊され鉄筋コンクリート造に建て替えられた。この「残したい木造」は、前年の1998年(平成10年)526日、27日の2回に分けて「新潟日報」に掲載されたものである。取り壊す寸前の1999年の3月、新潟で保存活動に関わった美術評論家大倉宏さんの車に同乗し、現地を訪ねた。校庭の反対側に竣工寸前の新校舎が建ちあがっていたが、木造の体育館ではドッジボールをやっている子供達が走り回っており、その楽しそうな有様を見て涙が出そうになったことを思い出す。
三条市から289号線を山に向かって車を走らせると、右手の山麓に木造2階建ての学校が見えてくる。大正5年に建てられた南蒲原郡下田村村立 の大浦小学校である。
下田村は人口12000人、村立の小学校を5つも持つ全国でも有数の大きな村である。3校は既に鉄筋コンクリート 造に建て替えられているが、大浦小と荒沢小の2校の木造校がまだ残っている。
4月1日、新潟下田郷人会会長Y氏の案内で大浦小を訪れた。 銀杏の大木もまだ芽吹いておらずひっそりとしていたが、 講堂に入ると入学式の準備ために紅白の幕が張りめぐらされており、若い先生方が職員室を出入りしていて華やいだ空気に満たされてい る。どこからか子供たちの声が聞こえてきそうだ校門から校庭に入ったときおやっと思った。私が6年間を過ごした熊本県天草島の下田村 (現在は天草町)の小学校にとてもよく似ていたのだ。私の学校は平屋だったが、前面に校庭があり、校舎も一段高いところに建てられていた。 講堂(体育館)も右手にあり、便所も校舎の内外から使えるように工夫されている。校庭側に片廊下があり、私は大浦小の子供たちと同じように 教室から裏山を見ながら勉強したのだ。
大浦小の外壁は下見板貼り、教室や廊下の天井は珍しい竿縁の天井で床板も厚く、柱の背割れも注意深 くとられておりしっかりつくられていることがよくわかる。講堂は寄せ棟で火打梁等の構造材が意匠として組まれており、私たち建築家が見ると 当時の大工の意気込みと感性が伝わってくる見事な空間である。
二つの学校の相似は必ずしも偶然ではない。長い間建てられてきた木造校舎の 典型的な形なのである。 階段の踊り場に上棟式と竣工時の写真が掛けてある。校舎をバックに道に椅子を並べて腰かけている村人はいかにも誇 らしげで嬉しそうだ。(でも銀杏の樹はまだない。)大浦小は村人の夢の具現化されたものだったのだろう。以来82年間に渡り村の人たちはこ の学校を大切に使い続けてきた。その校舎を取り壊してしまうというのである。
校長先生の話を伺った。老朽化して危険だと言われていて不安 だという。あゝやっぱりと思った。神戸の大震災以来、構造不安を理由に壊された建物は枚挙にいとまがない。それに学校の場合、文部省の立て 替えの基準に点数制度があり、建物の状態如何にかかわらず50年以上たつと極端に評価が低くなり壊そうとする人達の格好の理由にされてしま うのである。
大浦小の校舎の基礎は、基礎石上に土台と束を設置する束立てと言われる工法で作られており通風がとてもよい。同行した建築構造家M氏による と、この工法はある種の免震構造になっているようだという。勿論長い間使われてきたので痛んでいるところもあるが、耐震診断をした上で手入 れをすることにより、十分使い続けることができると思われる。壊すのはあまりにもったいない。壊してしまったら2度と作れない。私達は大浦 小の保存要望書を持って村役場を訪れた。

私が大浦小のことを最初に耳にしたのは、大銀杏の伐採に対して村民から反対運動が起きているというこ とだった。例え銀杏が村のランドマークであったにせよ、何故校舎の保存運動が起きないのかと不思議に思ったが、想像のつくことだ。構造不安につい ての正確な情報が、村民や関係者に伝わっていない、と言うより老朽化して危険だと間違った形で伝えられていたからだと言っていいだろう。 しかし、建築の保存の問題はそう簡単ではない。
どんなにしっかり創られた建物でも、費用をかけてメンテしないと維持できない。 残念ながら日本の建築行政は、メンテに金をかけるシステムになっていない。建て替えには国から多額の補助金が出るが、変わりつつあるとはいえ、 メンテではほとんど補助をうけられない。新しいものがいいのだというスクラップ&ビルドの精神が、点数制度と相まってここにも生きている。 これでは、建て替えた方がいいということになってしまう。 それとどうやら「コンクリート神話」が未だに残っているようだ。木造よりコンクリート 造の建築の方が上等で価値があり、丈夫であるという考え方。近接の市町村の学校がコンクリート造に建て替えられ、立ち後れていると考えている村民の意識、 しかし、私は知っている。木の温もりと素朴な校舎のたたずまいが子供たちにどれくらい豊かな空間を与えているかということを。
村長室に迎えてくれた村長と助役は、私達が東京から大浦小の保存要望書を提出にきたと知ると、一瞬絶句し誰に頼まれたのだと詰問した。 政治の問題だと考えたのである。
私達はこれは文化の問題であり、教育の原点に関わることだと述べた。話がなかなかかみあわなかったが、 私達は文化財登録制度を説明し、大浦小の登録を検討してくれるよう依頼し役場を辞した。
平成8年文化庁は、建てられてから50年以上たった 近代建築を後生に幅広く継承していくために、緩やかな保護措置を講じる<文化財登録制度>を発足させた。長く親しまれてきた建造物を、 使い続けながら残していこうという発想で、現在900件余りが有形文化財として登録されている。
大浦小は十分有形文化財に該当する。 建物を修理する際の設計監理費の1/2を国が補助 するなどの優遇措置があるが、何よりも親しんできた建物が文化財だという喜びはかけがえのないものだ。文化財だけが大切だとは思わないが、 保存維持して行くためには、大きな力になる。なんとか登録を実現したいものだ。
建築家が近代建築を 考えるときに、建築学会編纂の「日本近代建築総覧」 を参照する。実は大浦小はここにもリストアップされている。この建物を失うことは、日本 の近代建築史にとっても、大きな損失になるのである。
私の想いは、結果として村長には通じなかったようだ。その後私達が要望書を提出した ことは村民に知らされていない。私は文化の問題だと言ったが、やはり政治の問題でもあるのだろう。そうだとしたらなおさら村の文化と子供た ちの将来のため、情報を公開し維持費の問題も含めて、改めて大浦小の取り壊しの是非を村民に問うてもらいたい。村長と、行政の英断に期待する。




▼Back Page top▲