久しぶりの明大駿河台校舎。
ずい分古くなったなぁ!

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No12 60年+1秒だよ 1994年4月号
Bulletin〈JIA機関誌)

 昭和33年4月、私は明治大学工学部建築学科2部に入学した。今、建築学科は生田に移って2部も失くなってしまったが、当時は研究室や材料実験室のある古ぼけた駿河台校舎もあつたし、授業も駿河台で行われていた
 私が夜間部である2部に入ったのは、父を戦争で失くし、決して生活が楽でなかったので働きながら学校へ行こうと思わないでもなかったのだが、一つには、高校時代全く理数系の勉強をしていなかつたので、とても1部入学は無理だつたからでもある。高校時代は文学部の部長をやり、人並以上の熱烈な恋をし、3年の秋には文化祭の執行委員長までやった。要するに豊かな高校時代を満喫したのである。 私はジャーナリストになりたかったので、数学や理科には見向きもしなかつた。
 文学部に合格した直後、建築会社をやっていた伯父から建築をやるように説得され、とにも角にも昼間は伯父の会社で仕事をし、夜は明大に通学することになつた。したがって、夢をいだいて大学に入ったわけではなく、何とはなしの挫折感と共に建築の世界に入つたのである。


1年間出雲大社の講義だけ
 2部にはゼミかなかったし、絶対休めない材料実験の講座は取らなかったので、
私はほとんどの授業を、堀口捨己先生の設計による白色で端正な外廊下のある新築の校舎で受けた。
この校舎が、私の建築との出会いのはじまりだったかもしれない。
 堀口先生には、日本建築史を教わった。とはいっても先生は1年間出雲大社の講義だけをなさったのである。
ひとかかえもある資料を毎回お持ちになって“学説はこうなっているけど私はそうは思わない”と淡々と御自分の成果を話された。私は先生の話をそれほど面白いとも思わず影響を受けたとも思わないが、30年たった今、天にも届きそうな壮大な社と、気の遠くなるような雄大な木造の階段の姿が、先生のお顔と共に思い浮ぶのは何故なのだろう。
 狩野芳一先生が私達の入学と同時に東大から明大に来られた。私達は、今は工学部の学部長である先生の1期生である。これからは私学の時代であるとおつしやられた先生は、でも私達があまりにもできないので、びっくりなさつたに違いない。昨年30年目の同窓会をやった時に、“あの君達がねえ”と一人前になつた私達をみてつくづく感慨を覚えられたようである。少なくとも私は数学は大の苦手、先生がいくら噛んで含めるように構造力学を教えて下さっても、ちんぷんかんぷんだったのだから。私は今でも建築学科が工学部にあるのか釈然としないのである。  
 授業にはきちんと出ていたが、建築を志す青年としては必ずしも真面目とは言えなかつた私も、いつの間にか建築にのめり込むようになっていた。いつもスケッチブックを持ち歩いてコルビジユエばりのパース風の絵を描いた。その頃は,コルビジジュエがはやり(?)だつたのである。
 製図の川嶋甲士先生は、机の向い側に座ると、図面を自分の方に向けずにそのまま右手だけでなく、左手も使つてチェックを入れた。時々「ル」が「」になつたりするのが面白かった。ちょっとキザだなと思ったが、建築家ってこういうものかなとも思った。住宅の課題の時、私のラフスケッチを、とても誉めて下さった。誉められたことはいつまでも忘れない。喜び勇んで、スケッチにスケッチを重ねた私の住宅は、だんだんコルビジユェのロンシャン風になっていった。途中から先生は何もおっしゃらなくなった。今でも練れば練るほどつまらなくなる私の建築は、どうもその頃に端を発しているようである。
私達が一番好きだった先生は、東大から理科大へ行かれた斎藤平蔵先生である。今でも熱交換の原理のよくわからない私ではあるが、授業か終ると、よく銀座の樽平という飲み屋に連れていって下さった。ある時皆で銀座の大通りの真中で立小便をした。しかし先生が連れションをしたかどうか私には全く記憶かない‥‥‥。

志功先生から物をつくる心奥様には物を使う心
さて卒業することになって、また挫折感を味わう事となつた。すっかり建築のとりこになっていた私は、どうしても設計事務所に行きたいと伯父に談判をした。伯父は早稲田の2期生で、村野藤吾先生の親友であり、今井兼次先生も毎々訪ねて来られるような人だったが、私に根負けして、それではいい建築家を紹介しようと言われたとたん、ああ俺はやはりこの伯父の所で仕事をすべきだと思い、正式に入社してしまったのである。2部に通学しているということに妙に肩身の狭い思いをしていた私は、自分の意気地のなさにがっかりした。しかし、今ではこの伯父に感謝している。
 板画家の棟方志功先生御夫妻と出会うことかできたからである。画家でもある会社の副社長が志功先生と親交かあり、住宅をつくる時私か担当することになった。今でも志功先生の奥様から“あの時はよくケンカをしたね”と言われる。25才だった私が、志功夫人とケンカのできるわけはないのだが、意地張りで生意気だった私に手をやいたに違いない。でも銀座のたくみで手に入れた欅の引手を見てもらいに、コンサートに行っていた御夫妻を追いかけて九段会飴に行ったり、先生の好みというステンドクラスを観に、ボーナスをはたいて倉敷の大原美術舘に行ったこともある。その一途さが先生御夫妻に信頼されることになったのかもしれない。
 私は,志功先生からは“物をつくる心”を,奥様には“物を使う心”を教わったと思っている。
 お茶のお好きな先生は私かお訪ねすると、手をやすめてアトリエをお出になり、奥様のたてられたお茶を一緒にいただくのである。茶碗は“のんこう”であったり、浜田庄司先生のものであつたり、黒高麗であったりする。それをあぐらをかいて無造作にいただく。どんなに高価な茶碗でも、作者は使ってもらうためにつくるのだから、私達は飾っておくのではなく、大切に使ってあげなくてはいけない、と奥様はおつしやる。先生に“お茶ののみ方か上手になつたね”と言われたあの時のうれしさを忘れることかできない。きつと自然においしくお茶を味わうことができるようになったのだろう。
 先生は作品に落款を押す時に“兼松君,60年+1秒だよ”といわれた。物をつくるということは,60年の生涯をかけて1秒で印をしるすのだと私に教えて下さったのである。物つくりの心を教えて下さった先生、私にとってはまぎれもなく建築の師である。
 2軒目の棟方志功邸の設計を行い、工事を担当した直後ついに私は会社を出、大学の友人のやっていた設計事務所に転職した。そして志功先生御夫妻にお仲人をしていただいて結婚、1年後、第1次オイルショックで仕事が失くなった機会に独立した。昭和50年10月だった。                  

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