ILLUME 16号(1996) 「考えるデザイン-4」

デザインの今日と明日

f.l.write
ダナ邸ダイニングルーム(設計:フランク・ロイド・ライト)

生活を忘れた商品

市場に出回っている様々な商品を見ていると、作る論理、売る論理が先行し、形態の新奇性や機能の多様性にこだわり過ぎたモノが多いように思います。モノの置かれる環境や生活者の生活スタイルを無視し、実際の生活とかけ離れている商品が目に付きます。

たとえば、私は最近、空気清浄器のデザインのため、店頭で売られている空気清浄器をいろいろ見て回りました。ステレオやコンピュータほどではありませんが、様々なデザインの商品があり、造形的にも凝ったデザインも多く見受けられました。しかし、考えても見て下さい。家の中に形に凝った存在感のある空気清浄器が鎮座ましましていたら、訪ねてきた人は「まあ、素晴らしい空気清浄器ですね」と言うでしょうか?恐らく「空気清浄器を使わなければならない程、普段は空気が汚れているのね」と心の中では思うのではないでしょうか。この種の機器の存在は誰も目立って欲しくはないはずです。

しかし現実には、小売店の店頭で他社のモノより目立つように、カタログに載せるにしても見栄えがするようにデザインされているのです。

ラジカセのデザインも気になります。ラジカセはメーカーを問わずほとんどが「鯨ののたうち回ったような」黒くぼてっとした形態で、若い人もお年寄りも同じ様な製品を使わざるを得ません。「ドリカム」を聞くのも民謡を聞くのも同じ様な形をしたラジカセで良いのでしょうか。台所で料理をしながら音楽を聴きたいときも同じ様なぼてっとしたラジカセを使うしかありません。システムキッチンの扉の色や食器のデザインにこだわっても、ラジカセには選択肢がほとんどありません。これはデザインが固定化し、幅広い生活者のニーズに対応していない、生活のスタイルに即した商品が少ない例の一つといえるでしょう。

「かたち」と「あかり」

私自身もデザインをしていますが、照明器具にも不満があります。照明器具は本来、家具、テレビ、エアコン、壁に飾る絵などと同じように生活空間を形成する「かたち」あるひとつの大きな要素です。

ところが、電気店やスーパーの店頭に行くと、大量生産された安い価格の照明器具、例えば本来、木の彫り物である部分を樹脂で成形した様な商品が、蛍光灯を煌々と光らせながら、ところ狭しと売られています。こういった商品を見る限り、生活空間の探求の中から生まれてきた「かたち」あるモノとは思えません。

昔の著名な建築家、F.L.ライトやC.マッキントッシュは建築空間をデザインする際に、家具や照明器具までデザインをしています。彼らの作品を見ると、住宅空間のなかでふさわしい形態の照明器具とは何かということについては工業デザイナーではなく、昔のように建築家が考えるべきではないと思うこともあります。

照明器具にとっては、「かたち」も重要ですが、どんな「あかり」なのかがもっと重要です。どんな光の質なのか、どういう影が出来るのか、どんな気分になるのかといったことが重要なのです。店頭で煌々と光る蛍光灯の光を見ると、それらの照明器具が豊かな生活シーンを創造するとは思えません。

モノを作る側、デザインする側は、光の質、影、気分などを把握した上で、こんな生活にはこんな「あかり」をと提案するのが使命ではないでしょうか。さもなければ、いくら照明器具のデザインをしても、形態だけが虚ろに存在することになります。

デザインという包装紙

昔からいつも「これからはデザインの時代だ」と言われて続けてきました。デザインは単に思いつきで絵を描くだけでなく、使う立場、作る立場、売る立場の事もふまえた上で絵を描かなければなりません。モノを使う立場では心理学や人間工学に関する知識、モノを作る立場では製造方法や素材やコストに関する知識、モノを売る立場では、マーケティングに関する知識が必要です。さらに近未来にわたっての、技術進歩の予測やライフスタイルの変化を読みとることや、在来の概念から抜け出た、モノの新しい有用性をたえず提示する事も求められます。

このように、様々な分野の知識とそれらを関連づけて横串を刺す見識、発想の柔軟性が必要だからこそ、いつも「デザインの時代だ」と期待されていたのでしょう。

しかし、いくら知識と見識があったとしても、現実は先に述べたように、生活の在り方を忘れて、デザインは市場で競合に勝つ為の論理、すなわち、商品の差別化や目立つ形態や色彩などが求められてきました。同じ中身の商品でも去年と違うように見せるためにモデルチェンジを繰り返してきました。逆に中身が随分違うのに効率化のために同じ格好のモノもあります。これでは、生活の中に不要なモノ、そぐわないモノを、デザインという包装紙にくるんで無理矢理売っているだけなのではないでしょうか。

デザインレスの時代?

A.トフラーが十六年も前に著書「第三の波」で予測したように、大量生産、大量消費至上主義の工業化社会は徐々に終焉を迎え、今、高度情報化社会の波がひたひたと、もう腰ぐらいまで押し寄せてきています。

旧来の工業化社会に依拠したデザインもまた、その存在基盤を失いつつあります。デザインという概念は歴史的に見ると、もともと産業革命以降、大量生産の仕組みの中で、より市場で勝ち残れるよう、商品の差別化のために生まれた概念ですが、工業化社会の終焉とともに一旦その概念の終焉を迎える時期かも知れません。大量消費を前提とした横並び指向のデザインや、効率化のための片棒をかつぐデザインは過去のものになりつつあります。

旧来の概念に基づくデザインだったらデザインしないことも一つのデザイン、言い換えれば「デザインレスデザインの時代」かもしれないと、ちょっと立ち止まって考える時期だと思います。

昨日のデザインから明日のデザインへ

その先には何があるのでしょうか?

高度情報化社会におけるモノ作りは、恐らく、ネットワークの発達やテクノロジーの進化により、個人個人の気持ちや感情までも反映させるモノ作り、異文化を理解しあうためのモノ作り、真に環境負荷を考えたモノ作りが重要になってくると思います。

多層的に展開される情報化の波の中だからこそ必要なことは、単なる思いつきではない、生活の在りようを深く追求した、作り手の強いエネルギーだと思います。また、それは作り手が企業だとしても同じ事で、豊かな生活理念に裏付けられた強固な企業意志が必要です。

その作り手の強いエネルギーこそが、真に生活者の意識や生活スタイルを変革させ、地球上全ての人々のため、地球環境のための新しいモノの在り方についての概念の原点になるのではないでしょうか。

もっともっと自分が欲しいモノをデザインしていきたいと思います。生活の在りようを深く追求し、作り手の強いエネルギーをモノに込めていきたいと思います。そのことは、けっしてエゴイスティックなデザインではなく、結果として皆の生活のため、社会のため、地球環境のための一つの力になるはずだと確信しています。


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