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最後まで「名」を惜しんだ真の舞台人

―― 朝比奈隆さんを悼む ――


清瀬 六朗



目次



朝比奈隆氏の訃報

 朝比奈隆氏の訃報を聞いたのは2001年12月30日の朝5時のNHKニュースでだった。冬の朝のまだ真っ暗な時間だった。


 驚いた。「嘘だろう?」と思った。ふだんけっして起きない時間に起きて、頭がよく回っていなくて、起きる前の夢と起きてから見たニュースとがごっちゃになっているのかも知れないと思った。その日一日、そう思っていたものだ。


 朝比奈隆さんが亡くなったこと自体、信じられなかった。そして、「老衰」のためということは、なおのこと、信じられなかった。

 私は、亡くなる一年すこしまえの2000年11月、私はNHK交響楽団の定期演奏会で、朝比奈隆指揮のブルックナー交響曲第四番「ロマンティック」を聴いている。その少しまえには、新日本フィルハーモニー交響楽団のブラームス・チクルス(「チクルス」は「全曲演奏会」というような意味。英語でいえば「サイクル」)で、ピアノ協奏曲第一番と交響曲第一番を聴いている。どちらも長丁場であるし、重厚な曲である。指揮者が楽に指揮できる曲ではない。

 その長丁場を、「指揮者は立って指揮できなくなったら引退するもの」というご自身のことばのとおり、指揮台の上で立ったまま指揮をされた。曲が終わっても何度もカーテンコールで舞台に呼び戻され、オーケストラが退場してからも、帰らないで舞台の袖につめかけたファンに向かって恒例のカーテンコールに応えておられた。舞台の袖から指揮台への歩みもとてもしっかりしていたし、お辞儀はとても美しい敬礼で、まさに矍鑠たる感じがあった。

 一年後に「老衰」で亡くなるようにはとても見えなかった。

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名を惜しんだ舞台人

 しかしこれはやっぱり思いこみだったようだ。

 『音楽の友』2002年3月号に載っているご子息の朝比奈千足氏のインタビューによると、最後の演奏会となった2001年10月24日の名古屋での演奏会のころにはすでにかなり衰えておられたようである。同様のことは、同誌掲載の当日のソリストの小山実稚恵のインタビューにも見えている(『レコード芸術』2002年3月号にはより詳しく載っている)。


 思いこみというより、朝比奈隆さん自身が、元気に、矍鑠(かくしゃく)としているように見せておられたのだろう。

 少しむかしの舞台人で、舞台の袖までは人に支えられていないと立ってもいられない状態だったのに、舞台に出ると体調に何の問題もないようにその舞台の主役をしっかりとこなしたという人がいた。それと同じように、どうあっても指揮台に立てなくなるまで、元気な姿で指揮台に立ちつづけるというのが、朝比奈隆さんの命をかけた「指揮者としての生きかた」だったのだろうと思う。


 私は甘く見ていた。

 指揮台に立つのが辛くなって引退され、そして引退の数年後にご逝去の報に接し、そのときになって少し昔に接した舞台姿をしみじみ思い出す。そんな別れを私は勝手に思い描いていた。

 そうではなかった。朝比奈さんのばあい、「指揮台に立てなくなる」というのは、「立つのが辛くなる」というのとは断じて違うことだったのだ。文字通り立つことがどうあっても不可能になるまで立つ決意であり、指揮者である以上、それが当然だと観じておられたのだ。

 命を賭しても「名」を惜しむ舞台人だったのである。


 ここで「名」というのはたんなる「名まえ」や名声のことではない。古代中国での「名学」というと「論理学」のことだ。「名」とは論理のことである。「名」を惜しむというのは、「自分が自分であるために譲れない論理」からけっして逸れないというような意味といえばいいだろうか。

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財界重鎮の「一喝」

 その「名」を惜しむ舞台人らしいところは、自分の仕事で苦労しているところをけっして見せようとしない姿勢にも現れていた。

 朝比奈さんは、著書『楽は堂に満ちて』(現在は音楽之友社刊)に収録されたエッセイで、ある大阪財界の重鎮との思い出を書いておられる。

 当時の大阪市長とこの財界人といっしょに車に乗られた朝比奈さんは、市長から「あなたは交響曲を指揮される時いつも暗記してやっておられるが、よく覚えられるものですな」と言われた。そこで、朝比奈さんは、最近は年のせいで楽譜が見にくいので譜面を暗記するようにしているんですよ、というようなことを答えられたそうだ。ちなみに「年のせい」というが、この会話の当時は朝比奈さんはまだ50歳代だったはずである。

 ところが、それを聞いていたこの財界人が、市長のいっしょにいる車の中で朝比奈さんを叱りつけた。

 文楽で語りを担当する太夫は、演目のすみずみまで諳んじていても、客の前ではきちんと見台に本を開いて語っている。それに対して、「年のせいで覚えられないから楽譜を見ないで指揮する」とはなんという横着さだ。文楽の太夫と「同じ芸の道を歩む君が楽譜をそらんじることをとくとくとしかも軽々しく考えておるとはなにごとであるか」と一喝したのである。

 朝比奈さんは、このことばを、「心のゆるみ」を覚えたときの戒めのことばとして永く覚えておられたそうである。


 しかし、この会話は、傍から見ると、この財界人こそ指揮者の芸術性を軽く見ていたとしか思えない。朝比奈さんのばあい、楽譜の隅々に至るまでの知識と、なぜ楽譜がそうなっているかということへの洞察は、とても「楽譜が見にくいから楽譜を見ないで指揮する」というようないい加減なレベルのものではない。文楽の太夫とオーケストラの指揮者は、「同じ芸の道」でもぜんぜんちがう仕事である。この大阪の財界人は、上方文化が育てた文芸である文楽に誇りを持っていたのだろうが、どこまでオーケストラを指揮することを理解しての発言だったのだろうか。

 朝比奈さんは、楽譜を見ないでオーケストラを指揮することのたいへんさを、専門家以外の人に向かって熱弁しようと思えばできたはずである。けれども、それを「トシのせいで」などと、「いいかげん」ととられそうなことばで表現してしまう。「自分は努力してます」などということをけっして人に語ろうとはしなかったのだ。


 こういうのを「美談」ととればそれまでだ。また、逆に、「ひとに努力しているところを見せない」ということをくだらないという人もいるかも知れない。

 けれども、私は、ここに、たとえ恥をかいても、自分が努力しているところをけっしてひとにさらけ出そうとしない「照れ」と、その「照れ」を引き受けたところにある「やせ我慢」の精神を感じる。いや、無理に「我慢」しているというのとも違う。

 「人間ができている」というようなきれいごととはまったく違う。いいも悪いもない、たぶん「芸の道を歩む」者として、そう生きるしか生きられないのだ。

 それが「名」を惜しんだ舞台人の本領ではなかったかと思う。


 だから、朝比奈さんが、いかにも、軽い、どうでもいいことのように言われたことが、朝比奈さんの真意をそのまま語っているとは限らなかったのかも知れないと思う。

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「版」の問題

 その一つに、ブルックナーの交響曲を演奏するときの楽譜の「版」の問題がある。

 朝比奈さんは、19世紀後半に活躍した作曲家ブルックナーの交響曲をたいせつなレパートリーとし、その生涯に何度も演奏し、また、録音してきた。


 ところで、このブルックナーの交響曲の楽譜には複数の「版」がある。

 ブルックナーは、曲を発表してからも、自分の曲に大きく手を入れて改訂したりしている。それが複数の「版」が生まれた根本原因だ。しかも、その改訂部分のなかには、弟子や友人たちに「このほうがいい」と言われて、ブルックナー自身はあまり気が進まないままに改訂の手を入れた部分もあるらしい。そのような改訂をどう解釈するかが編集者・校訂者によって違ってきてしまうのだ。


 そのため、出版楽譜では、だれが校訂・編集したかで「版」に違いができてしまう。旧全集版のハース版と、第二次全集版のノーヴァク版(ノヴァーク版とも)の二種類がその主なものである。もちろん、出版楽譜を使わずに自筆楽譜に基づいて演奏しても、「ブルックナーの改訂部分をどう解釈するか」という問題が生じるのは避けられない。

 ちなみに、ブルックナーの交響曲の楽譜が最初に出版されたころは、ブルックナー自身が手を入れたさらにその上に弟子や指揮者が勝手に改訂を加えた版になっていた。20世紀前半はこちらの版での演奏が普通だった。現在、「改訂版」と呼ばれているのがこの版である。したがって、ブルックナーの交響曲は、「改訂版」→「ハース版」→「ノーヴァク版」という順番で世に出たのである。

 だから、20世紀半ばに録音を残した往年の大指揮者のレコードでは、クナッパーツブッシュの指揮した演奏が改訂版をもとにしており、フルトヴェングラーの指揮したものにも改訂版によるものがある。


 現在はノーヴァク版での演奏が普通である。ところが、朝比奈さんは徹底して旧版全集のハース版にこだわった。

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ギュンター・ヴァント氏のばあい

 晩年、ブルックナー指揮者としての名声を博し、そして、朝比奈さんを追うように2002年2月に亡くなったドイツの名指揮者ギュンター・ヴァント氏も、ブルックナーの交響曲を演奏するときには朝比奈さんと同様にハース版を使いつづけた。


 ヴァント氏はその名を耳にするだけで怒り出すという話もあるほどのノーヴァク版嫌いで知られていた。そして、なぜノーヴァク版がだめで、ハース版を用いるべきなのか、明確に理由を語っている。


 ところが、正直に言うと、ここまで話を進めてきて、これから先のかんじんなところが私にはよくわからない。というのは、私は楽譜もろくに読めないからである。楽譜の見かたはいちおう知っているが、和音一つ解き明かすのに数十秒を要する状態で、これでは交響曲の楽譜などとてもじゃないが手に負えない。レコード(CD)を聴いたところでやはりハース版とノーヴァク版の区別がつくほど聴きこんだわけでもない。

 だから、ノーヴァク版だハース版だといっても、自分の実感としてはよくわからない。それでもわからないなりに、朝比奈さんやヴァントさんの言っていることを読んで「こういうことなんじゃないか」と考えた。


 第二次大戦後に編まれた第二次全集であるノーヴァク版は、なるだけブルックナーの書いたものに即して校訂・編集されている。つまり、ブルックナーがほかの人の意見の影響を受け、あまり納得しないままに手を入れた部分でも、ブルックナーがそう書いている以上はそれを採り入れている。

 したがって、たとえば、大作でありブルックナーの代表作である交響曲第八番では、ブルックナーがあとで「×」印をつけたりして抹消している部分は出版楽譜には採用していない。ブルックナーがどの程度まで納得していたか、客観的に示す証拠がない以上、人の意見に左右されたらしい部分でもブルックナーの書いたものをあくまで尊重するというわけである。

 これは、音楽之友社版のノーヴァク版による交響曲第八番のミニチュアスコア(小型版の楽譜)の巻頭に載っている校訂者ノーヴァク自身の前書きにも書いてあることである。


 しかし、ハース版は、ブルックナーが納得していないと校訂者が判断した改訂は採用しなかったらしい。だから、第八番の抹消部分も、ブルックナーの真意ではないと考えられたところは、抹消扱いにせずにもとのままで残してある。


 ヴァント氏は、ノーヴァク版が機械的な校訂方針でブルックナーの音楽の良さを損なってしまったと考えているのだろう。ブルックナーが手を入れたために曲の美しさが損なわれてしまった部分までブルックナーの真意だと解するのがノーヴァク版であって、それに従って演奏するのは作曲者に対する侮辱であり冒涜だとヴァント氏は考えたらしい。いっぽうのハース版は、ブルックナーの筆による改訂であっても、ブルックナーの音楽の美しさを損なっていると判断した部分は採用しなかった。ブルックナーの音楽の「本来」のよさ、美しさが、機械的な校訂によって損なわれていないとヴァント氏は考えたのだろう。だから、ヴァント氏にとって、ブルックナーの交響曲の楽譜は、ハース版でなければならなかったのだ。


 ヴァントさんの伝記には「ほかのやり方ではなく、このように」(もう少しくだけた表現だと「こうでなれればならんのだ」)というようなタイトルがついているらしい。ヴァントさんはそういう指揮者だった。理事会や楽団員がなんと言おうと、自分の満足するスケジュールでのリハーサルを貫徹した。自分のやり方を一途に通し、しかもその理由を明確に説明しつづけたひとであった。「巨匠」を意味する「マエストロ」ということばで呼びかけられると、「私の名まえはギュンター・ヴァントです」と答えて「巨匠」扱いされるのを嫌ったという。頑固一徹なオーケストラ指揮の職人でありつづけ、自分がそうであることを自分ではっきりと世に示しつづけたのである。

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「芸の道」に生きる

 朝比奈さんは、対談相手から「マエストロ」と呼びかけられてもそのままにしておられる。たしかに「巨匠」であったと思う。また、楽譜の細部にまで常にはっきりと気を配っている姿には、ヴァントさんと同じ職人らしさを感じる。

 けれども朝比奈さんはそのどちらでもないものを身につけていたと思う。

 それは、やはり、近世の日本から引き継いだ「芸の道」に生きる生きかたであったのかも知れない。大阪の財界人に一喝されたその内容を朝比奈さんがずっと座右の銘になさっていたのは、朝比奈さんが、そのことばを、文楽の大夫と同じ「芸の道」に生きる者であれという激励として身につけようとしていたからに違いない。

 『レコード芸術』2002年3月号の金子建志さん執筆の文章によると、朝比奈さんは、楽員や評論家からの短いことばであっても、理屈の通ったものであれば自分のものとして採用しておられるようだ。だから、もしその大阪の財界人のことばの内容そのものに心服されたのなら、楽譜を見ないで指揮するのをやめられたはずだけれども、そうはしておられない。

 その大阪の財界人の「一喝」から朝比奈さんが得たものは、「楽譜を見て指揮するべきだ」ということではない。もしかするとその財界人氏があまり深く考えて言ったわけでもないかも知れない「生きかた」観こそが、朝比奈さんの「座右の銘」としての価値を持っていたのだ。

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朝比奈さんとハース版

 厳しくノーヴァク版を非難したヴァント氏に対して、朝比奈さんは、「ハース版が正しく、ノーヴァク版の編集方針は間違っている」とは明確には言っておられないようである。


 私が読んだのは、新日フィル(新日本フィルハーモニー交響楽団、略称NJP)を1993年に指揮した交響曲第八番のディスク(フォンテック)のライナーノートでの、金子建志氏との対談である。ここで、朝比奈さんは、最初はノーヴァク版で指揮していたけれども、名古屋大学の学生オーケストラを指揮したときに学生たちの主張を入れてハース版で指揮したのがきっかけでハース版を使うようになったと語っておられる(1976年1月の演奏であろうか? 『レコード芸術』2002年3月号のディスコグラフィーによれば、この演奏を収録したLPがプライヴェート版で出ていたそうである。ただし、そうだとすると、朝比奈さんはこれ以前にハース版で録音した交響曲があるので、このエピソードは「第八番でハース版を使ったのは...」という意味になる)。

 さきに書いたように、交響曲第八番では、ノーヴァク版がブルックナー自身による部分的なカットをそのまま採用しているのに対して、ハース版はそのカットを採用していない。朝比奈さんは、ともかくその「省略」の少ないハース版をぜんぶ演奏してみて、「スッといく」ということを感じた。それ以来、名大の学生たちに「啓発」されて、ハース版を採用しているというのである。

 学生オーケストラに教えられたという表現がいかにも朝比奈さんらしい。


 朝比奈さんがブルックナーゆかりの聖フローリアン教会で交響曲第七番を演奏したときに、ノーヴァク版校訂者のレオポルト・ノーヴァク氏が聴きに来ていた。このとき朝比奈さんはノーヴァク版を使わなかったことを詫びたという。それに対して、ノーヴァク氏も「版の問題なんてたいした問題ではない」と答えたということだ。


 朝比奈さんは、ブルックナーのばあいでも、ベートーヴェンのばあいでも、「版」の問題に指揮者が深入りするものではないというスタンスを貫いておられた。「版」について考証するのは学者の仕事で、音楽家はできてきた楽譜を信じてそれを忠実に演奏するのが仕事だというわけである。


 それはそれで朝比奈さんの信念であったのだと思う。けれども、けっして「版」の内容にも無関心ではなかったはずだ。

 朝比奈さんは、1950年代にドイツを訪れ、最晩年の大指揮者フルトヴェングラーと会った。このときにフルトヴェングラーに「ブルックナーの交響曲第九番を演奏するなら原典版でやれ」と言われたという思い出話がある。フルトヴェングラーの言いかたが印象的だったのかも知れないが、朝比奈さんが「版」の問題を軽く考えていたならば、このことばが心に残ることはなかっただろう。


 ブルックナーで旧版のハース版を、ベートーヴェンでも旧版のブライトコプフ版を使いつづけられたのは、やはり、ギュンター・ヴァント氏と同様にスコアのすみずみまで検討された結果なのであろう。また、ポニー・キャニオンの全集に収録したブルックナーの交響曲第三番(通称「ワーグナー」)では改訂版を使っておられる。その理由を、朝比奈さんは、演奏を聴いていた評論家の宇野功芳氏に、「どの版の楽譜を使うかなど、それほどたいした問題ではないのではないか」と話しておられたらしい。けれども、これだって、ほんとうのところは、あるいは詳細に検討した結果だったのかも知れない(なお、小石忠男氏によれば、2001年秋に予定されていた第三番の演奏では「第一稿」を使うつもりでおられたという)。


 「まじめに努力しています」というのを、できるだけひとに伝えず、いつも「自然体」でいるところを見せようとする。そういう生きかたがこの楽譜の選択にも表れていたのではないだろうか。

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朝比奈さんの音楽と私

 このようなことを書いているけれども、私は最初から朝比奈隆さんを高く評価していたわけではない。

 最初に買った朝比奈隆さんのディスクは、大阪フィルを振ったベートーヴェンの「田園」だった。


 当時は私はクラシック音楽には何の興味もなかった。高畑勲監督の『セロ弾きのゴーシュ』を上映会か何かで見て、そのなかで使われていたベートーヴェンの「田園」を聴きたくなった。そして「日本人の指揮者が日本のオーケストラを振った「田園」」ということで探して買ったのがこのCDだったわけである。

 なぜ「日本人の指揮者」や「日本のオーケストラ」にこだわったのか、よく覚えていない。たぶん、高畑監督の『セロ弾きのゴーシュ』が明確に日本を舞台にした作品として作られていたことの印象が強かったからだろう。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』は、「ゴーシュ」という主人公の名まえからしても、日本を舞台にしない解釈もあり得るからだ。


 そんな事情で朝比奈隆さんの演奏を買ったのはいいのだが、聴いてみた第一印象は「すごく鈍くてまったく楽しめない演奏だ」ということに尽きた。

 まぁ、クラシックなんか何も聴いたことのない人間が、いきなりベートーヴェンの交響曲にぶつかったわけだから、当然といえば当然の結果だった。アニメ映画のなかで、しかもこの曲のとりわけ描写的な部分を主に取り出して演奏されているのとは、当然ながらわけが違うのである。

 でも、まぁ、知らないというのは恐ろしいもので、「朝比奈隆というのは鈍くてちっともおもしろくない演奏をする指揮者だ」と勝手に思ってしまった。だから、30歳を超えて、クラシック音楽をちっとは聴くようになってからも、朝比奈さんの演奏は敬遠していた。


 きっかけとなったのは、宇野功芳氏の『交響曲の名曲名盤』(講談社現代新書)で、宇野さんが朝比奈隆さんの指揮したベートーヴェンの交響曲を高く評価しておられるのに接してからである。

 それでいくつかレコード(CD)を買って聴いてみたけれども、それでも私は朝比奈隆さんの指揮したベートーヴェンがそんなにいいとは思わなかった。以前のような嫌悪は感じなかったというだけである。「地味な演奏だな」という印象はやはりあった。

 やはり宇野氏が大推薦されているブルックナーはというと、こちらは指揮がどうこういう以前に曲自体が理解できなかった。


 そのうち、ブルックナーの交響曲は、フルトヴェングラーの指揮した第四番「ロマンティック」や、クナッパーツブッシュの指揮した第八番を聴くうちに、ある程度、馴染んできた。フルトヴェングラーの指揮した交響曲第九番を聴きおわったときには涙が出るほどだった。それまで「わけのわからない長大な交響曲を書く人」だったブルックナーの作品を、ブラームスやベートーヴェンと同様にすこしは親しみを持って感じられたのはこのときからである。

 ただし、フルトヴェングラー指揮のブルックナーは、私はけっこう好きでよく聴いているけれども、「標準」的な演奏とは言いかねるのでだれにでもお勧めするということはしない。でも、このフルトヴェングラーの演奏に接しなければ、いまだに私がブルックナーの交響曲第九番を好きになることができていたかどうか、さだかではない。

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「音楽に風景が附けられている」という感覚

 そんなこんなで、ようやくブルックナーがわかるかな、と思ってきたときに、朝比奈隆さんの指揮でNHK交響楽団(N響)がブルックナーの交響曲第九番を演奏するという知らせがあった。そこで私は二日めのチケットを買ってきた。

 なお、NHK交響楽団は、一年に九回、本拠地のNHKホールとサントリーホールとでA,B,Cのプログラム名のついた定期演奏会を開いている。これらの定期演奏会では二回ずつ同じ演目を演奏する。朝比奈さんが指揮するA定期の二日めのチケットを買ってきたということだ。


 私の行くことにしていた演奏会の前日である。

 午後7時過ぎ、職場に一人で残っていた私は、たまたまFMラジオでNHK‐FMをつけた。

 ブルックナーの交響曲第九番の第一楽章が流れてきた。私が行く演奏会の同じ演目の一日めの中継である。もちろん朝比奈隆指揮、NHK交響楽団の演奏だ。NHK‐FMは、A〜CのN響定期は、二日のうち一日はぜんぶ中継するのである。


 聴いているうちに、5月の長い日も暮れて、夜の帳が下りた。窓の外には夜景が拡がっていた。私は電灯もつけないで、魔法をかけられたようにブルックナーを聴いていた。たぶんいすに腰かけるのも忘れて、立ったまま聴いていたと思う。

 職場に居残っていたからには何か仕事があったに違いないのだが、とても仕事が手に着く状態ではなかった。


 第二楽章が過ぎ、チューニングを経て第三楽章に入ったころには、窓の外に拡がる夜景がラジオから流れる朝比奈のブルックナーに附随する風景のように見え始めた。家々の窓辺のあかり、ビルに灯る赤い航空危険灯、遠くを走る自動車のヘッドライトの流れまでが、朝比奈とN響のブルックナーのために演じられている「背景」として、全体で一つの意味を持って動かされているように見え始めたのである。風景に音楽が附随しているのではない、音楽のために窓の外の風景がしつらえられているような感覚を私は感じていた。こんな体験ははじめてである。

 NHKは、オーケストラ退席後、朝比奈隆が一人でカーテンコールに応えるところまで律儀に中継していた。その観客の気もちが私には十分に伝わってきた。

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NHKホールで

 翌日、仕事を終えて早めにNHKホールに向かった。

 このホールでこのオーケストラに接するのは何度めかのことだったのだが、この日はオーケストラそのものがぜんぜん違って見えた。

 もっとも、座る席が私が定期会員として持っている席と違っていたということもあるし、ブルックナーの曲は金管が多いのでたしかにふだんより金ぴかに見えるのだけれども、けっしてそれだけではなかったと信じる。


 ふつう、クラシックの音楽会では、演奏が終わると、わりとすぐに拍手が起こったり、すぐに「ブラヴォー」と叫ぶ人が出たりする。ばあいによっては演奏が終わらないうちに叫ぶ人がいたりする。

 こないだサントリーホールで行われたバレンボイム指揮のベルリン国(州)立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ)のブラームス・チクルスでは、ブラームスの交響曲第三番の演奏が完全に終わっていない(すくなくとも指揮者はまだ演奏中の体勢だった)うちに「ブラヴォー」と大声で叫んだ方がいらした。

 これには、指揮者かオーケストラか観客かから苦情があったらしく、休憩後の後半プログラムの開始前に「演奏後の余韻をおたのしみください」というアナウンスまで入っていた。

 これは客のせいでもあるのだが、指揮者の指揮やオーケストラの演奏による部分もある。このときのバレンボイムのブラームスは煽り立てるようなスタイルだったので、客が思わず興奮してしまったのかも知れない。


 ところが、この朝比奈隆/N響のブルックナーのときには、演奏が終わっても、会場全体が術にかけられたようにまったく身動きできない雰囲気に包まれていた。だれかが「ブラヴォー」と叫びかけたのだけれど、雰囲気に圧されたようにすぐに声をのんでしまった。

 それから、どこからとなく、遠い海鳴りのように小さく拍手が始まり、それが波となって会場全体を包んでいった。そして、その拍手は、例によってオーケストラ退席後、さらには指揮者がいちどカーテンコールに応えた後、舞台で片づけが始まった後まで、20分もつづいた(おかげでNHKホールの舞台構造の一端をかいま見ることができた)。私は楽団の偉い人が「朝比奈先生はお疲れで……」とあいさつに出てきた時点で帰ったけれども、もしかしたら拍手の嵐は私が帰ったあとまでつづいていたかも知れない。ホールのなのかオーケストラのなのか指揮者のなのか知らないけれど、この日のカーテンコールがカーテンコールの最長不倒記録だとのちの定期演奏会のパンフレットに書いてあった。

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実演の感動

 この体験以来、私は、ブルックナーの音楽も、朝比奈隆指揮の曲も、好んで聴くようになった。


 実演で感動するというのはけっこう難しい。指揮者の気が散っているとか、オーケストラの調子が出ないとかいうこともある。それ以上に、自分の体調が悪いとか、近くに不愉快な客が座っているとかいうだけで、感動的かも知れないはずの演奏がすごく後味悪い演奏に化けてしまったりする。

 けれども、この日の朝比奈隆/N響の演奏のような感動はやっぱり実演でないとあり得ないものだと思う。この夜の演奏はフォンテックからCDとして発売されているけれども、いま目の前で音楽が刻まれているというその場での感動はこのCDで聴くのよりはるかに大きなものだった。


 これが私にとっての朝比奈隆との出会いであり、ブルックナーの交響曲との出会いである。2000年の5月だった。だから、このときのブルックナーの交響曲第九番と、先に挙げたブラームスと「ロマンティック」としか、私は朝比奈隆の実演に接していない。

 それでも、その一度ごとの演奏が私の心には深く残っている。朝比奈隆の演奏に接したことで、私にとってのクラシック音楽の持つ意味は劇的に豊かなものになった。その思いを、私は追悼のことばとしてここに書いておきたいと思う。


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―― おわり ――




関連アーティクル

CD評:朝比奈隆 指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー『交響曲 第八番 ハ短調』(清瀬 六朗)

書評:朝比奈隆,東条碩夫『朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る』(清瀬 六朗)



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