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指揮者朝比奈隆の「若すぎた逝去」



朝比奈隆 指揮
大阪フィルハーモニー交響楽団

ブルックナー
交響曲 第八番 ハ短調

エクストン/オクタヴィアレコード


 先日、レコード屋に行くと、朝比奈隆の指揮したブルックナーの交響曲第八番のCDが出ていたので買ってきた。朝比奈の最後のベートーヴェン・チクルスと同じ「エクストン」レーベルからの発売である。


 2001年7月の演奏だから、結果的に「最晩年」の演奏ということになる。

 なお、『音楽の友』2002年3月号によると、他にブルックナーの交響曲のうち四番(「ロマンティック」)、五番、七番、九番も出るということだ。つまり、ブルックナーの交響曲のうち、主立った大曲は、最晩年の演奏でぜんぶ出るということである。そのうちでは9月録音の九番がラスト・レコーディングだったらしい。

 なお、この四番、五番、七〜九番以外の交響曲は、ブルックナーとしては比較的規模が小さい。有名なのも四番、五番、七〜九番の五曲で、あとは三番「ワーグナー」(ワーグナーに献呈された曲だからこのタイトルがついた)ぐらいだろうか。

 そして、朝比奈隆や、評論家で昔からのブルックナー愛好家である宇野功芳によると、その小さい曲のほうが、じつは演奏するのが難しいらしい。


 最初に、私なんかの解説ではずいぶん心許ないことは承知のうえで、いちおう曲目の解説をしておく。


 ブルックナー(1824〜1896)の交響曲第八番ハ短調は、1884〜87年に第一稿が書かれ、88〜90年に第二稿が書かれた作品である。同時代人にブルックナーの「宿敵」視されていたブラームスの最後の交響曲第四番が書かれたのが1884〜85年だから、書き始めに関してはほぼ同時期の作品だ。


 なお、初演時期から言うと、ブラームスの交響曲第四番と近いのはブルックナーでは交響曲第七番である。

 ウィーンでの初演はともに1886年で、ほぼ同時だ。

 それまで、ウィーンでの演奏では、ブラームスの交響曲が好評だったのに対して、ブルックナーの交響曲はかなり酷評されたという。現在ではブルックナーの代表作としてよくとりあげられる交響曲第四番「ロマンティック」など、ウィーンフィルに演奏を拒否されたこともある。しかし、この第七番では、ブルックナーの交響曲も成功を収め、ブルックナーは交響曲作曲家として一定の自信を得ることができた。とくに、ワーグナーびいきの批評家や音楽家は、ブラームスの作品を酷評し、ブルックナーの交響曲を高く評価するようになっていたのだ。その評価を受けて書き進められたのが交響曲第八番だという。

 とはいっても、やはり周囲にはあまり高く評価しない関係者もいたらしい。作曲者自身は、とくに、ワーグナー最後の楽劇(「舞台神聖祝典劇」)『パルジファル』の初演指揮者ヘルマン・レヴィの評があまりよくないのを気にしていたという話もある。ブルックナーは弟子や指揮者たちの意見を聴きつつ、交響曲第八番でも修訂の手を入れ、それが「第二稿」に結実したという。


 なんせ、自分の曲の演奏を録音し、再生して聴くことのできない時代である。

 したがって、楽譜からオーケストラの音を思い浮かべるには、現在よりもはるかに習熟と想像力が必要だった。ブルックナーは長いあいだ教会でオルガンを弾いていた人で、オーケストラの響きには必ずしも親しんではこなかった。自分よりもオーケストラの響きをよく知っている弟子や指揮者の意見を押し切るほどの自信は晩年になっても持てなかったようである。


 朝比奈隆が使用している楽譜は、第二稿を基本にしつつ、ブルックナーの意図とは異なると考えられる部分はそれ以前の旧稿を採用した旧全集版、いわゆるハース版である。


 曲は、四楽章から成り、第一楽章はアレグロ・モデラート(穏やかな程度に速く心地よく)、第二楽章はブルックナーふうのスケルツォ(軽い楽想の楽章)、第三楽章はアダージョ(落ち着いた速さで)で、第四楽章が「荘重に、速くなく」と記された最終楽章である。演奏時間80分程度の大作である。両端楽章は「主題」(その楽章の核となる主要なメロディー)が三つあるブルックナーふうのソナタ形式で書かれている(一般的なソナタ形式では主題は二つ)。

 演奏時間は80分前後を要する大交響曲であり、とくに第三楽章と第四楽章は、20分以上という長さである。もちろん、マーラーの交響曲第二番・第三番あたりを知っていると、そんな驚くほどの長さでもないだろうけれど。

 まぁ、聴いたことのない人はこういう説明をされても何がなにやらわからないだろうし、聴いたことのある人にはいまさら言われなくてもわかっていることではあろうけれど。


 私は、朝比奈隆のブルックナーの交響曲第八番では、1990年代にポニーキャニオンから出たブルックナー交響曲全集の大阪フィルとの演奏(1994年)と、その少しまえの新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏とを持っている。

 新日フィルの演奏をより洗練させたのが94年の全集版の演奏であると言っていいと私は思っている。だから、1994年の大阪フィルとの全集版が朝比奈のブルックナーの交響曲第八番演奏の総決算だと私は考えていた。宇野功芳氏も今回のライナーノートでそういう趣旨のことを書いておられる。

 ところが、正直に言うと、私はこの94年の全集版の演奏には少し違和感を感じていた。

 もちろんよい演奏である。オーケストラも力演だ。ただ、どことなく、私には高貴すぎるように感じたのだ。

 とくにそれを感じたのは最終楽章の結尾部のいちばん最後である。この部分(楽譜で「Zz」の符号がついている部分)では、トランペットとクラリネットとフルートが上に上がる旋律を吹き(これが第二楽章の「主題」と関連があることは、楽譜を見てはじめて気づいた)、それと入れ違いにトロンボーンが上から下へ急速に下りる旋律を吹く。それが掛け合いのようになっていて、他の楽器が全体として和音を奏でてその金管の掛け合いを包みこむようなつくりになっている。

 この94年の演奏では、ここの和音が溶け合いすぎていて、トランペットとトロンボーンの音があまり響かない。とくにトランペットがあまり聞こえない。


 私は、この曲はずっとクナッパーツブッシュが指揮したミュンヘン・フィルの演奏(1963年)で聴いてきた。この演奏は、気品の高い演奏であるとともに、力強い演奏でもある。最終楽章の結尾部でも、金管が調和を保ちながら、それでも個々の金管の音が輝かしく響き渡る。トランペットとトロンボーンの掛け合いのような部分が目立つのである。

 それに慣れた私には、朝比奈隆の94年盤は、音が全体でまとまりすぎていて、高貴ではあるがおとなしすぎるように感じられた。


 もっとも、ブルックナーは非常に敬虔なカトリック教徒だったわけだから、高貴すぎていけないということはないんだろうと思う。カトリックは、変動のない、不変の秩序が確立された世界をその理想としているのだから。

 また、朝比奈隆は作曲家の人間的背景には無関心でいようとした人である。だから、「カトリック教徒のブルックナーは高貴に演奏しなければならない」などとカッコつけて演奏したわけではないだろう。

 となると、やっぱりブルックナーの楽譜を忠実に音にするとこんな音になるのか。いやたしかにブルックナーが親しんでいた楽器の音はオルガンの音のはずで、ピアノみたいに歯切れのいい音はブルックナーの趣味じゃなかったはずだ。

 しかし、それにしても、私の「好み」からすると、やっぱり「高貴すぎる」点がなんか引っかかっていた。


 ところが、今回の2001年の大阪フィルとの演奏は、前回の「高貴さ」とはすこし違って、力強いブルックナーだった。要所要所をティンパニの硬めの音での強打で締め、金管は金管らしく、木管は木管らしく思い切って歌わせている。楽器がそれぞれ思い切って楽器らしさを出しているのに、その楽器が全体から「浮き上がった」感じがない。

 しかも、80分もの長い曲で徐々に高揚していく感じを途切らせない緊張感にあふれた演奏だと思う。少なくともこの演奏に関するかぎり、朝比奈の配慮がオーケストラの隅々にまで行き届いているのを強く感じる。

 それは、オーケストラを「管理」しているというのとはまったく違うことである。

 朝比奈隆が若い頃の軍事教練か何かで軍馬に乗ったときのことを話している文章がある(『朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る』)。馬はいい加減な乗り手が乗るとすぐに勝手な行動に出て道に生えている草を食ったりするが、きちんとした乗り手が乗っているとお行儀よくしている。オーケストラもこれと同じだという。フルトヴェングラー時代のベルリンフィルで、フルトヴェングラーがその場にいるだけで練習中のオーケストラの音が急によくなったという話も好んで引用している。岩城宏之氏によると、カラヤンも、オーケストラを制馭しようとしてはだめで、自分で走っていくように仕向けなければいけないと語っていたという話である。「練習嫌い」として知られたクナッパーツブッシュも、じつはオーケストラを心服させてしまうタイプの指揮者だったらしい。

 これに対して、たとえばハンガリー系指揮者でアメリカ合衆国で活躍したジョージ・セルなどは専制君主的な指揮者で、楽団をきわめて厳格に「管理」した。気に入らない楽団員は次々に追放してしまったという。トスカニーニも同じタイプかも知れない。トスカニーニの育てた楽団では、トスカニーニの音楽を自分の音楽と心がける楽員以外は生きのびられなかったようだ。

 朝比奈隆は、演奏面ではフルトヴェングラー的なものの影響を脱しようとつねに挌闘した人であった。けれども、オーケストラを心服させてしまったフルトヴェングラーの人間性には、終始、敬意を表しつづけ、それに倣おうとしたのではないかと思う。楽団を扱きあげて自分の音を定着させるタイプではなかったようである。


 朝比奈隆/大阪フィルの2001年盤は、94年盤よりもクナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィルの演奏に大きく近寄った演奏である。感覚的な表現をすれば、そのクナッパーツブッシュの演奏よりも、さらにブルックナーがほんらい持っている「明るさ」を存分に引き出した演奏である。


 オーケストラの隅々にまで配慮が行き届いているのと同じように、オーケストラ用の楽譜全体(「総譜」とか「スコア」とかいう)の隅々までも配慮が行き届いている。


 たとえば、ソナタ形式の主要部分というのは、「主題」とよばれる目立つメロディーを「経過句」と呼ばれるあまり目立たないメロディーでつないでつくられている。当然、それを演奏するときには、「主題」のところを印象深く残るように極めなければいけない。

 それはそうなのである。しかし、この朝比奈/大阪フィルの演奏を聴くと、そういう「主題‐経過句」というような音楽の構造をいったん括弧に入れて、経過句の隅々まで神経を配って曲が演奏されていることがよくわかる。どこの音が重要で、どこの音があんまり重要でないというのを最初から決めつけないで、丹念に検討したうえで、自分自身でブルックナーの交響曲の「構造」を再構成しているのである。


 このブルックナーの交響曲第八番を指揮したこともあり、したがって曲の構成を熟知しておられるはずの宇野功芳氏が、ライナーで「スコアの新しい発見もある」と書いておられる。スコアの隅々まで軽く流さずに演奏するという今回の朝比奈の演奏スタイルがもたらした成果なのだ。

 形式をふまえつつ、しかし、その形式に寄りかかって型どおりに演奏するだけにはとどまらない演奏が、自分で指揮もする古参の音楽評論家に「新しい発見」をもたらしたのだろうと思う。


 その演奏のスタイルは、さらに、ブルックナーの交響曲の構成という、私には歯が立たないような大それた問題意識にまでいざなっていく。


 たとえば、この演奏のスケルツォ楽章(第二楽章)の「トリオ」(主要部に対する「中間部」)のしずけさの表現はどうだろうか。


 スケルツォ楽章というのはもともとは軽妙な楽想の音楽を聴かせる楽章である。ほんとうに軽妙な楽想で書かれた「主部」と、主部どうしをつなぐ、ややなだらかな楽想の中間部「トリオ」から構成されるのが典型的なスケルツォ楽章ということになる。

 「トリオ」とは「三重奏」の意味で、昔のヨーロッパの舞曲ではこの部分が三重奏だったからこの名があるそうだ。けれども、現在では、「スケルツォ楽章のトリオ」は三重奏ではなくなっている。たんなる「中間部」の意味だ。


 交響曲というのは、「速い‐遅い‐速い」の三楽章構成のあいだにスケルツォ楽章がひとつはさまった全四楽章構成が基本型である。両端の第一楽章と第四楽章が速いテンポで、中間のどちらかの楽章、つまり第二楽章か第三楽章がゆっくりゆったりしている。このゆっくりゆったりした楽章を「緩徐楽章」などという。一時期、「癒し」効果があるなどと宣伝された「アダージョ」というのがこの「緩徐楽章」にあたる。そして、その中間の二つの楽章のうち、ゆっくりゆったりした楽章でないほうがスケルツォ楽章というのが標準的な型である。

 ベートーヴェンが交響曲にスケルツォを導入したときには、第二楽章が緩徐楽章、第三楽章がスケルツォだった。しかし、第二楽章がスケルツォで第三楽章が緩徐楽章という構成もあり、有名な「第九」(ベートーヴェン交響曲第九番「合唱」)は、第二楽章がスケルツォ、第三楽章が緩徐楽章という形式で書かれている。

 ブルックナーでは、交響曲第七番までが「第二楽章が緩徐楽章、第三楽章がスケルツォ」の形式で、第八番と第九番がスケルツォが第二楽章に来て緩徐楽章が第三楽章に来る形式になっている。なお、第九番は最終楽章になるはずだった第四楽章が未完成のままなので、普通は第三楽章の緩徐楽章を最終楽章として演奏される(最近は草稿をもとに第四楽章を「復原」して演奏する試みも多くなったようだ)。


 ところが、ブルックナーのばあい、この八番だけでなく、もともと他の交響曲でもスケルツォの主部自体があんまり「軽妙」ではない。速くて軽いのがスケルツォだけれど、ブルックナーのは速くても軽くないのである。しかも、トリオ(中間部)が「速いところと速いところのつなぎ」以上の重みを持つ。

 この朝比奈/大阪フィルの八番を聴くと、スケルツォ主部のあいだにはさまれている「トリオ」部分(中間部)はしずけさに満ちていて美しい。

 とすれば、もしかすると、本来の交響曲の緩徐楽章の役割を、この「トリオ」部分は担ってしまっているかも知れない。

 しかしこの第二楽章につづいてこの曲には第三楽章に美しい緩徐楽章が置かれている。では、この緩徐楽章の意味とは、いったい何なのだろう? そこから、第七番までのやり方を変えてスケルツォを緩徐楽章の前に置いた意味も見えてくるのではないか。そんなことを考えてしまうのである。


 もしかすると、この第三楽章は、第四楽章の長い長い前奏なのではあるまいか。最高峰の第四楽章をはるかに望む、なだらかで見晴らしの利く、お花畑のなかの山道のようなものではないのだろうか。そう考えてみると、この第三楽章は、全体としてゆったりした楽章でありながら、たえず上へと向かっている感じもあり、また、ところどころに急峻な坂があったりする。私は音楽に安易に情景を読みこむことは好きではない。けれども、後半に弦楽器が奏でつづけるフレーズは、常に上へ上へと上がっていく動きを示している。そこに金管楽器やハープが上へ上がっていく旋律をときどき重ねていく。そのことをみれば、この第三楽章は、第四楽章の高嶺に向かっていく歩みであると言っても、そんなにハズレではないのかも知れない。

 けれども、翻って考えれば、こんな長い「前奏」があるわけがなく、やっぱり固有の意味がある楽章であるにちがいない。また、「山道」という晴れやかな感じよりも、ところどころ透明な水に深く沈んだ、清澄な、内省的な感じもする。

 けっきょく結論は出ないし、私なんかに出せる結論でもあるまい。


 ただ、この問いを問うことは、ブルックナーがなぜ交響曲を書いたのかという問題にもつながっていくかも知れない。


 ブルックナーの「宿敵」視されたブラームスにとっては、交響曲というのはまずベートーヴェンの確立した音楽形式であった。

 ブラームスは、少なくとも交響曲第一番を作る過程では、つねにベートーヴェンの背中を見ながら作業を進めたのだ。そのブラームスも、交響曲第一番から第四番まで、「スケルツォ」楽章にあたるはずの楽章の扱いにはけっこう苦慮している。


 では、ブルックナーにとってはどうなのか?


 ブルックナーは聖フローリアン教会という教会のオルガン弾きだった。なお、この聖フローリアン教会での朝比奈隆/大阪フィルによるブルックナー交響曲第七番の演奏が発売されている。神をたたえるためならば宗教曲を書いていれば十分なはずで、げんにブルックナーはミサ曲などの宗教作品も書いている。そのブルックナーが、それもたしか年下の師匠に弟子入りしてまで交響曲の作曲法を学んだのである。いま「第〇〇番」(ダブル・ゼロ)などと呼ばれているヘ短調の交響曲がこの時期の習作である。なお、同じく習作扱いされてきた「第〇番」は、じつは第一番のあとに書かれたのではないかという説が有力なようだ。

 それにしても、なぜブルックナーは交響曲を作曲しないではいられなかったのか? 交響曲をどういう音楽だと捉えていたのであろうか? 「速い‐遅い‐速い」にスケルツォの加わった形式は、ブルックナーにとってどういう意味を持っていたのか?

 このことを考えることは、たとえば、さいきん盛んな「未完の交響曲第九番の第四楽章を完成させる試み」などにとっては不可欠なはずなのだが。


 この2001年の演奏を収めたCDを買ってきた私は、どうしても他のCDを聴く気になれなくて、二日ほどこの演奏を繰り返し繰り返し聴いていた。そして、聴いているうちにそんなとりとめのないことまで考えていたのである。

 私にとって、この演奏は、それほどまでに新鮮で、こういってよければ衝撃的なものだった。


 ともかく、朝比奈隆は、94年盤で完成の域に達していた自分のブルックナーの交響曲解釈を、大げさに言えば一からやり直しているのだ。何度も自分の型を完成させつつ、それを疑い、解体すべきところは解体してまた出発しなおす、そういう音楽家だったのではないか。

 金子建志さんが、私が定期演奏会で聴いたN響との「ロマンティック」を収録したディスク(フォンテックから出ている)の解説で、同じ演目で二日演奏するばあい、一日めと二日めの演奏が大きく違うことがあると書いておられる。朝比奈隆は、演奏のたびごとに、慣れた音楽だからということで流してしまうことなく、音楽の「スクラップ・アンド・ビルド」を繰り返していたのだろう。そういう指揮者だったのだ。

 だから、朝比奈隆の音楽は、93歳にしてなお、「試行錯誤」の段階だったのである。これだけの演奏を私たちのまえに提供しながら、まだ発展していく余地は、あったのだ。


 そう考えると、朝比奈隆の逝去については、「93歳の若すぎる逝去」と評するのがいちばん適当なようにも思う。

―― おわり ――




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書評:朝比奈隆,東条碩夫『朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る』

最後まで「名」を惜しんだ真の舞台人――朝比奈隆さんを悼む(清瀬 六朗)



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