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恭仁京の大極殿跡 |
昔、恭仁京という都があった。741(天平13)年から744(天平16)年までのわずか3年間だけ都だった場所である。
740(天平12)年末、
しかし、恭仁京に首都を置いた翌年の742(天平14)年には
なんか「首都移転」が中途半端に繰り返された時代のように見える。
この時期は聖武天皇の政府がいろいろと国制の変革を試みていた時期でもあり、太宰府を廃止してみたり、安房(房総半島南部)や能登(能登半島)、佐渡といった地方の「国」を廃止して隣の「国」に併合したりということをやっている。しかしどの改革も長続きせず、後に元に戻っている。
ただ、この時期の政策で、後の日本に長く定着した重要な政策がある。
だから、この時代の「改革」のすべてが上滑りして不発だったわけではない。「改革」などというのは、十ぐらいの改革を行って一つぐらい「あたり」があれば成果が上がったと考えるほうがたぶんいいのだろうと思う――と後の世の人間は思う。
何にしても、聖武天皇政権は、この時代に、中国から直輸入し、しかもその当の中国でも必ずしもうまくいっていなかった制度の手直しをいろいろと試行錯誤していたのかも知れない。
聖武天皇が仏教を国教として採り入れ、各「国」に国分僧寺・国分尼寺を造営し、首都に東大寺を造営して大仏を作ったのも、必ずしも中国文化の導入とはいえない。当時の中国の唐王朝はたしか形式的には道教を国教にしていたはずだ。唐でも仏教はさかんだったが、マニ教やネストリウス派キリスト教(景教)もさかんだった。つまり唐では中国起源でないいろんな宗教がさかんだったのだ。仏教はその一つだったにすぎない。
このへんは根拠薄弱なかなり危うい想像だということを断ってから私の考えを記すと、当時の仏教はむしろ漢人から見た異民族(
漢人の中国をバイパスして遠い中央アジアからインドへつながる世界意識をかき立て、中国に対抗することのできる教えという性格を持っていたのではないか。
こう言えば、日本の仏教は南中国の長江流域(いわゆる「
ついでに言うと、唐の皇帝家は祖先をたどると明らかに鮮卑人なのだが、そのことに強いコンプレックスを持っていて、「自分の家は正真正銘の漢人だ」と言い張っていた。唐王朝は仏教を受け入れようとしてみたり強烈に排斥したりと複雑な対応を示す。これは、仏教が持つ「異民族」的イメージが皇帝家のアイデンティティーと重なり合ったりぶつかったりしたせいではないかと想像する。
聖武天皇政権は仏教のその中国(漢人)から見た異民族性を承知のうえで国教に採用したのではないだろうか。
飛鳥時代の仏教は、仏教といっても道教の影響を色濃く受けたものだったようだ。聖武天皇は、あるいは、そういう混じり合った宗教という性格を整理して、日本を仏国土として大成させ、中国よりきちんとした国家に仕上げようとしたのかも知れない。
この時期の頻繁な「首都移転」を複数首都制の試みだったと考える研究者もいるようだ。たしかにこの時期の中国の唐は長安と洛陽を中心に五都市を首都とする複数首都制をとっていたし、マンチュリア地方(現在の中国東北地方)を中心に存在した
だから、聖武天皇も、平城京・恭仁京・紫香楽京・難波京の複数首都制を試みようとしていたと考えてもそんなにふしぎではない。そのなかで、恭仁京は
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宮殿跡から南を望む 国分寺塔跡から。この方向に首都の市街が広がっていたはずなのだが...。 |
古代の交通路について私はよく知っているわけではないが、現在、平城京のあった奈良から恭仁京の近くまでバス路線が通っているし、そこからさらに
当時の聖武天皇政権は、天皇が聖武で、遠縁(祖父の祖父の父の兄の子孫)の皇族出身の橘
橘諸兄と藤原氏出身の光明皇后(聖武天皇の皇后)は異父兄妹だし、諸兄の妻は光明皇后の妹である(「妹萌え」のひとには羨ましい設定かも知れない)。だから、諸兄と藤原氏はけっこう縁の深い関係であり、他方、諸兄は皇族としてはかなり当時の天皇家からは縁遠い人物である。当時の天皇家は7世紀後半の天武天皇の子孫であり、それに次ぐ地位にあったのが天武天皇の兄で645年の蘇我氏打倒クーデターに活躍した天智天皇の子孫のようである。諸兄の家はそのどちらでもない。だから、この橘諸兄と藤原氏の関係を、皇族 対 藤原氏という図式でかんたんに割り切ることはできない。
757(天平勝宝9)年に橘諸兄が亡くなると、藤原
橘諸兄政権が中国風と一線を画そうとしたのに対して、藤原仲麻呂政権は徹底して中国風を採り入れようとしたのではないか。ただ、聖武‐橘諸兄政権にしても、
その背景には朝鮮半島を支配する隣国
藤原仲麻呂は近江(滋賀県)で孝謙上皇側と戦って敗死している。この近江は、琵琶湖の水運を使って北に抜ければ、若狭湾から海路で朝鮮半島やマンチュリア(渤海国)に到達できる要所にあたる。かつて663(天智天皇=中大兄皇子称制2)年に唐‐新羅連合軍と戦って敗れたあと、近江に遷都したのも同じ理由からだろう。
聖武天皇が恭仁京に遷都するきっかけになったのは、740(天平10)年に
だから、この時期の聖武天皇の頻繁な遷都も、王朝貴族の足の引っぱり合いとかよりも、新羅との関係の緊張の高まりを背景に考えるべきではないだろうか。
ちなみに、藤原氏のなかでのちに摂政・関白を出す家系は豊成系でも仲麻呂系ではなく、この時代にはまったく目立っていなかった人物の子孫である。
なお、この時代の対立抗争は、皇族・橘氏 対 藤原氏という図式にすっきり整理できるわけではなく、皇族内部、しかも同じ天武天皇の子孫のあいだでの抗争も激しかった。藤原氏もこの時点では巨大氏族に成長しており、したがって藤原氏内部にもライバル関係が存在した。むしろ、「聖武天皇‐橘諸兄‐藤原豊成」とか「大炊王(淳仁天皇)‐藤原仲麻呂」とかいうかたちで、氏族を横切って派閥が形成され、その派閥間で抗争が繰り返されたと考えるほうが実態に合っているだろう。保元の乱(1156(保元元)年)や応仁の乱(1467(応仁元)年〜)はそういう氏族を横断した派閥間での闘争なのに、奈良時代や平安初期の政治史では「皇族 対 藤原氏」とか「藤原氏 対 ほかの貴族」とかいう氏族単位の対立ばかり想定するのは不自然な気がする。
附記 2004年3月30日更新時に写真を掲載しました。写真は3月に加茂を再訪した際に撮影したものです。本文執筆時に撮影したものでありません。「恭仁京を訪れる 2.」以降も同様です。なお、この再訪時の旅行記は、「伊賀上野と恭仁再訪」としてこの「ムササビは語る」のページに掲載しています。