恭仁(くに)京を訪れる

清瀬 六朗



1.

恭仁京大極殿跡(44KB)
恭仁京の大極殿跡

 昔、恭仁京という都があった。741(天平13)年から744(天平16)年までのわずか3年間だけ都だった場所である。

 740(天平12)年末、聖武(しょうむ)天皇は奈良の平城京からこの恭仁京に移り、翌年の正月には恭仁京で朝廷の儀式を執り行い始めた。平城京の大極殿もこの恭仁京に移設したらしい。

 しかし、恭仁京に首都を置いた翌年の742(天平14)年には紫香楽(しがらき)(信楽)に離宮を造営し始め、この紫香楽に大仏を造営し始める。さらに744年には首都を難波(なにわ)京に移して恭仁京は見捨てられた。そのまた翌年の745(天平17)年には難波京から平城京に首都を戻し、大仏造営も平城京でつづけられることになる。

 なんか「首都移転」が中途半端に繰り返された時代のように見える。

 この時期は聖武天皇の政府がいろいろと国制の変革を試みていた時期でもあり、太宰府を廃止してみたり、安房(房総半島南部)や能登(能登半島)、佐渡といった地方の「国」を廃止して隣の「国」に併合したりということをやっている。しかしどの改革も長続きせず、後に元に戻っている。

 ただ、この時期の政策で、後の日本に長く定着した重要な政策がある。墾田(こんでん)永年私財法である。荘園制度はここから始まったのだ。この荘園制度は、戦国大名が自分の「国」を完全に自分の手に握って支配を確立するまで、日本の社会制度の中心を形づくる制度だった。

 だから、この時代の「改革」のすべてが上滑りして不発だったわけではない。「改革」などというのは、十ぐらいの改革を行って一つぐらい「あたり」があれば成果が上がったと考えるほうがたぶんいいのだろうと思う――と後の世の人間は思う。

 何にしても、聖武天皇政権は、この時代に、中国から直輸入し、しかもその当の中国でも必ずしもうまくいっていなかった制度の手直しをいろいろと試行錯誤していたのかも知れない。

 聖武天皇が仏教を国教として採り入れ、各「国」に国分僧寺・国分尼寺を造営し、首都に東大寺を造営して大仏を作ったのも、必ずしも中国文化の導入とはいえない。当時の中国の唐王朝はたしか形式的には道教を国教にしていたはずだ。唐でも仏教はさかんだったが、マニ教やネストリウス派キリスト教(景教)もさかんだった。つまり唐では中国起源でないいろんな宗教がさかんだったのだ。仏教はその一つだったにすぎない。

 このへんは根拠薄弱なかなり危うい想像だということを断ってから私の考えを記すと、当時の仏教はむしろ漢人から見た異民族()的な宗教だったのではないだろうか。当時の中国の中心地域と考えられていた黄河流域に仏教を流行させ、大仏を建立したのは、異民族(トルコ系といわれる)の鮮卑(せんぴ)人だった。鮮卑人はやがて漢人と一体化してしまったが、渤海‐新羅‐日本と栄えた仏教は、この(漢人から見た)異民族性を思い起こさせる宗教ではなかったか。

 漢人の中国をバイパスして遠い中央アジアからインドへつながる世界意識をかき立て、中国に対抗することのできる教えという性格を持っていたのではないか。

 こう言えば、日本の仏教は南中国の長江流域(いわゆる「六朝(りくちょう)」)の影響も受けているという事実を無視することになるかも知れない。しかし、南中国は、経済的に発展していたとはいえ、当時はまだ黄河流域から見れば辺境地帯だった。聖武天皇の時代から100年あまり前までは南中国は北中国とは別の王朝に支配されてきた。というより、長江流域の南中国が北中国の王朝に支配されたのは漢(前漢)と後漢の400年ほどでしかなく、それより前もそのあとも南中国は基本的に独立王朝の支配下にあったのだ。けっして中国の中心ではなかったのである。やはり「仏教」は当時の「中国の中心」からはズレた存在に見える。

 ついでに言うと、唐の皇帝家は祖先をたどると明らかに鮮卑人なのだが、そのことに強いコンプレックスを持っていて、「自分の家は正真正銘の漢人だ」と言い張っていた。唐王朝は仏教を受け入れようとしてみたり強烈に排斥したりと複雑な対応を示す。これは、仏教が持つ「異民族」的イメージが皇帝家のアイデンティティーと重なり合ったりぶつかったりしたせいではないかと想像する。

 聖武天皇政権は仏教のその中国(漢人)から見た異民族性を承知のうえで国教に採用したのではないだろうか。

 飛鳥時代の仏教は、仏教といっても道教の影響を色濃く受けたものだったようだ。聖武天皇は、あるいは、そういう混じり合った宗教という性格を整理して、日本を仏国土として大成させ、中国よりきちんとした国家に仕上げようとしたのかも知れない。

 この時期の頻繁な「首都移転」を複数首都制の試みだったと考える研究者もいるようだ。たしかにこの時期の中国の唐は長安と洛陽を中心に五都市を首都とする複数首都制をとっていたし、マンチュリア地方(現在の中国東北地方)を中心に存在した渤海(ぼっかい)国も同じように五つの首都を定める複数首都制をとっている。唐の次の統一王朝である漢人の宋も、渤海のあとに成立したキタイ(契丹(きったん))人の(りょう)、ジュシェン(女真)人の金も複数首都制だし、モンゴル人の元も大都と上都の複数首都制だった。複数首都制は当時の東アジアで普通に行われていた制度だったのである。

 だから、聖武天皇も、平城京・恭仁京・紫香楽京・難波京の複数首都制を試みようとしていたと考えてもそんなにふしぎではない。そのなかで、恭仁京は陪都(ばいと)または副都に位置づけられていたのか。あるいは、一時期は恭仁を首都にして他を陪都・副都にしようとしていたのかも知れない。少なくとも、恭仁と紫香楽は、恭仁が首都で紫香楽が「大仏のある都」という関係として構想されていたようだ。これが実現していれば、恭仁と紫香楽の関係は平城京と東大寺との関係になったわけで、王朝の中心寺院が王朝の都からかなり離れた別の都に置かれることになったのだろう。

宮殿跡から南側(29KB)
 宮殿跡から南を望む 国分寺塔跡から。この方向に首都の市街が広がっていたはずなのだが...。

 古代の交通路について私はよく知っているわけではないが、現在、平城京のあった奈良から恭仁京の近くまでバス路線が通っているし、そこからさらに和束(わつか)町の小杉までバスが走っている。どうやら現在はなくなってしまったらしく時刻表に載っていないが、以前はその小杉から信楽(紫香楽)までバスが走っていた。このバス路線が古代の道に沿っているとすれば、奈良から恭仁を経て紫香楽まで道はつながっていたのである。奈良と難波は、現在は近鉄線でつながっているし、昔も複数のルートで結ばれていただろう。紫香楽‐恭仁‐奈良(平城京)‐難波は道で一本に結ばれていた。しかも、紫香楽が近江(おうみ)、恭仁が山城(当時は「山背」と書いた)、平城京が大和で難波が摂津と別々の「国」に属している。手当たり次第に遷都を繰り返したというよりは、首都圏の「国」に一つずつ首都を配置して国の体制を固めようというのが当時の聖武天皇政権の構想だったのではないか。

 当時の聖武天皇政権は、天皇が聖武で、遠縁(祖父の祖父の父の兄の子孫)の皇族出身の橘諸兄(もろえ)が右大臣(途中から左大臣)として天皇を支えるという構成になっていた。その少しまえに皇族の長屋王を駆逐して権力の中枢を握る勢いを示していた藤原一族は、737(天平9)年に相次いで天然痘にかかって一挙に中堅世代を失い、一時、退潮していた。やがて藤原豊成(とよなり)が749(天平感宝・天平勝宝元)年に右大臣になるが、豊成は一貫して橘諸兄と協調路線をとっている。

 橘諸兄と藤原氏出身の光明皇后(聖武天皇の皇后)は異父兄妹だし、諸兄の妻は光明皇后の妹である(「妹萌え」のひとには羨ましい設定かも知れない)。だから、諸兄と藤原氏はけっこう縁の深い関係であり、他方、諸兄は皇族としてはかなり当時の天皇家からは縁遠い人物である。当時の天皇家は7世紀後半の天武天皇の子孫であり、それに次ぐ地位にあったのが天武天皇の兄で645年の蘇我氏打倒クーデターに活躍した天智天皇の子孫のようである。諸兄の家はそのどちらでもない。だから、この橘諸兄と藤原氏の関係を、皇族 対 藤原氏という図式でかんたんに割り切ることはできない。

 757(天平勝宝9)年に橘諸兄が亡くなると、藤原仲麻呂(なかまろ)が陰謀事件を利用して諸兄の息子の橘奈良麿(ならまろ)を処刑し、自分の一族であるにもかかわらず豊成を左遷する。仲麻呂は強力な唐化政策を推進し、官名を唐風に変更し、自らも唐風の「恵美押勝(えみのおしかつ)」と名まえを改める。「恵美押勝」というのが「唐風」とはちょっと思えないのだけれども、当時はこの名まえが唐風だと思われていたのだろう。官僚機構の唐化は徹底していて、当時、中国の各地に置かれていた地方広域軍事長官「節度使(せつどし)」も唐に倣って設置しているぐらいである。

 橘諸兄政権が中国風と一線を画そうとしたのに対して、藤原仲麻呂政権は徹底して中国風を採り入れようとしたのではないか。ただ、聖武‐橘諸兄政権にしても、大炊(おおい)(後に天皇号を追贈されて淳仁(じゅんにん)天皇)‐藤原仲麻呂政権にしても、日本を大国らしくしようと懸命だったのは確かである。中国とは違う方向で大国らしさを見せるか、それとも中国に倣うことで大国らしさを示すかという違いがあるだけだ。

 その背景には朝鮮半島を支配する隣国新羅(シルラ、しらぎ)との政権レベルでの緊張関係があったようだ。藤原仲麻呂政権は新羅と戦争する準備までしている。大炊王‐藤原仲麻呂政権はやがて聖武天皇の娘である先帝孝謙(こうけん)上皇(天皇位に復活して称徳(しょうとく)天皇)と高僧道鏡(どうきょう)のコンビに追いつめられ、反乱を起こして崩壊する。道鏡は帝位に野心があったということで「怪僧」・悪者のイメージがあるが、たんに道鏡の野心だけで起こった事件ではないだろう。その背景にはこの対外関係の緊張があったはずだ。

 藤原仲麻呂は近江(滋賀県)で孝謙上皇側と戦って敗死している。この近江は、琵琶湖の水運を使って北に抜ければ、若狭湾から海路で朝鮮半島やマンチュリア(渤海国)に到達できる要所にあたる。かつて663(天智天皇=中大兄皇子称制2)年に唐‐新羅連合軍と戦って敗れたあと、近江に遷都したのも同じ理由からだろう。

 聖武天皇が恭仁京に遷都するきっかけになったのは、740(天平10)年に太宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱である。天皇は、一時期、この反乱の波及を恐れて伊勢・美濃などの地方に逃れ、その後、恭仁に落ち着いたという。広嗣の官職であった太宰少弐というのは、福岡県で対外外交・防衛の拠点になっていた太宰府の第二次官である(長官が(そち)、第一次官が大弐(だいに))。この広嗣の反乱は、橘氏政権に対する藤原氏の反乱のようにも言われるけれど、その官職を考えれば、それよりも対新羅政策をめぐる対立が原因と考えたほうがいいだろう。527(継体天皇21)年に九州で起こった地方豪族の反乱「磐井(いわい)の乱」と同じような性格があるのかも知れない。

 だから、この時期の聖武天皇の頻繁な遷都も、王朝貴族の足の引っぱり合いとかよりも、新羅との関係の緊張の高まりを背景に考えるべきではないだろうか。

 ちなみに、藤原氏のなかでのちに摂政・関白を出す家系は豊成系でも仲麻呂系ではなく、この時代にはまったく目立っていなかった人物の子孫である。

 なお、この時代の対立抗争は、皇族・橘氏 対 藤原氏という図式にすっきり整理できるわけではなく、皇族内部、しかも同じ天武天皇の子孫のあいだでの抗争も激しかった。藤原氏もこの時点では巨大氏族に成長しており、したがって藤原氏内部にもライバル関係が存在した。むしろ、「聖武天皇‐橘諸兄‐藤原豊成」とか「大炊王(淳仁天皇)‐藤原仲麻呂」とかいうかたちで、氏族を横切って派閥が形成され、その派閥間で抗争が繰り返されたと考えるほうが実態に合っているだろう。保元の乱(1156(保元元)年)や応仁の乱(1467(応仁元)年〜)はそういう氏族を横断した派閥間での闘争なのに、奈良時代や平安初期の政治史では「皇族 対 藤原氏」とか「藤原氏 対 ほかの貴族」とかいう氏族単位の対立ばかり想定するのは不自然な気がする。


 附記 2004年3月30日更新時に写真を掲載しました。写真は3月に加茂を再訪した際に撮影したものです。本文執筆時に撮影したものでありません。「恭仁京を訪れる 2.」以降も同様です。なお、この再訪時の旅行記は、「伊賀上野と恭仁再訪」としてこの「ムササビは語る」のページに掲載しています。


つづき

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