伊賀上野と恭仁(くに)京再訪

清瀬 六朗



1.

伊賀上野三田方面の街角(26KB)
伊賀上野三田地区の街角

 「恭仁京を訪れる」を書いたときから、もういちど、近いうちに恭仁京を訪問したいと思っていた。前回の恭仁行きは突発的だった。時間も短かった。写真も撮っていない。それに冬だった。大極殿(だいごくでん)跡には桜の木が植わっていたけれども、葉は枯れてぜんぶ落ちていた。この大極殿跡いっぱいに桜が咲いたころに訪れればきれいだろうと思った。

 そこで3月の後半にスケジュールを空けてもういちど恭仁を訪れることにした。今年は桜の開花が早いという。3月中に行かないと桜が咲いて散ってしまうのではないかと思った。

 予定を空けたつもりだったが、予定を空けたらそこにあとから予定が入ってしまうもので、気がついてみるとまとまって空いているのは2日間だけだった。しかも用意したのが「青春18きっぷ」である。旅客鉄道会社(ジェイアール)線乗り放題のかわりに普通列車にしか乗れない。恭仁にいちばん近い加茂(京都府)まで行くのに、乗り継ぎが順調に行っても東京駅から9時間ほどかかる。さらに、寒暖の差が激しい気候ゆえにか、たんに日ごろの不摂生がたたったからか、出発前日に風邪を引いてしまった。

 でもやっぱり恭仁京跡に桜が咲いているところが見たかった。桜は来年も再来年もそのあとの年も咲くだろう。しかし、桜が咲くということは年度替わりの多忙な時期ということで、来年や再来年のそのころにスケジュールに空きが作れるかどうかわからない。今年はともかく2日間は空いている。それで風邪をおして出発した。

 まだ風邪が十分に回復していなかったので、行きは普通列車の乗り継ぎはやめ、名古屋まで新幹線で行くことにした。おかげで1万円を超えるよけいな出費が生じてしまったがしかたがない。風邪をおして「鉄」るまでの元気はいまの私にはない。


 今回、泊まったのは伊賀上野だった。

 伊賀上野は関西本線で亀山から加茂に向かう途中にある。伊賀地方の中心都市で、松尾芭蕉が若い日々を過ごした城下町だ。私は、以前、深川の芭蕉庵跡を訪ねたことがある「芭蕉庵跡と芭蕉記念館」。そのときから伊賀上野は訪ねてみたい都市ではあった。

 けれども今回は伊賀上野の町をゆっくり歩いて見ている時間はとっていない。たんに加茂の手前の大きな都市として泊まる町に選んだだけだ。

 名古屋に7時ごろに着き、亀山行きの列車に乗り換え、さらに亀山で加茂行きの列車に乗り換える。ディーゼル気動車2両編成の列車が伊賀上野に着いたのは午後9時だった。

 ジェイアールの伊賀上野の駅を出て、私は町が暗いのに驚いた。駅前だというのに、開いている店は一つもない。コンビニもない。町を歩くひとの姿もほとんど見えない。車もほとんど走っていない。その上を春のぼんやり湿った星空がただ大きく覆っているだけだ。

 その町をホテルに向けて歩き出した。駅から少し下ると少しは車が走っている道に出る。しかし、それでも、長い赤信号で信号待ちする車が2台とか3台とかいう数だ。それに町が暗いのには違いがない。人工の明かりがところどころにしかないように感じる。

 この寂しい夜の町を歩きながら、私は、一日は最初から24時間ではなかったんだということを実感した。

 この寂しい町だって、昼間は店も開いていればひとも歩いている普通の町なのだろう。しかし、夜には外を出歩いているひともまれだ。ひとは家に帰って、お風呂に入ったり、家族とテレビを見たり、寝る準備をしたり寝たりしている時間だ。人間の生きかたが昼と夜とではまったく違う。町も全く表情を変える。

 それが本来の「人間の生きている時間」だと思う。出発直前に風邪を引くまでの私のように、夜中まで起きて仕事をしていたり、ホームページに載せる原稿を書いていたり、あんな番組こんな番組をリアルタイムで見たりしていて、昼と夜とで時間の区別がないほうが「本来」ではない人間の生活なのだろう。昼と夜は質の違う時間だった。その昼とは質の違う夜の時間がこの駅前の町には息づいている。昼と夜とが連続して流れる時間感覚で生活していると、夜中でも昼と同じようにものを買う必要も出てくるし、腹も減るから、コンビニや24時間営業の飯屋(すこし前までなら「牛丼屋」と言ったのだが……)が必要になる。しかし、夜は異質な時間で、人間が昼と同じように活動しないとすると、コンビニも24時間営業の飯屋も必要ない。

 ただ、伊賀上野駅前が非常に寂しい町に感じられたのには、その直前までの私の生活が異様に忙しかったという以外にも事情があるようだ。伊賀上野駅周辺は上野市の市街地の中心ではないのだ。

 伊賀上野の町はお城の周辺が中心らしい。近鉄の上野市駅のあたりが町の中心のようで、その上野市駅は城のさらに南側にある。城下町がそのまま近代都市になり、町の中心に公園を抱えこんでいる、あまり規模の大きくない都市だ(『飛べ! イサミ』の大江戸市みたい――って覚えているひとどれだけいるかな? いちおうNHKの新選組番組だったんだけど)。近代都市の理想的なあり方の一つのようにも思える。

 ジェイアールの伊賀上野駅は城から北に2キロほどのところだ。ジェイアールの線路は市街地の北端を掠めて走っている。詳しいことは住んでいないからわからないけれども、市街地の中心とジェイアールの駅とのあいだには服部川が流れている。それがさらに市街地とジェイアールの駅周辺との落差を作っているように思える。


 私は、予約したホテルの名まえは覚えていたけれども、その場所を正確に書いた地図は持っていなかった。住所も電話番号も控えていない。駅を出て、南に行って、大きい通りに出たら曲がるといういいかげんなことしか覚えていない。どうせホテルなんだから駅のそばだろうし、目立つだろうからとタカをくくっていたのだ。これも東京でつけた悪い癖かも知れない。

 駅を出て最初の大きい交差点で左に曲がった。そこを少し行くとすぐにホテルに着くと思った。

 見当ははずれた。民家のあいだを抜けると、道の両側は大企業の工場になってしまった。それも広い敷地を持つ大きな工場だ。二つの大工場の敷地のあいだ、直線の道を延々と歩きつづける。

 周囲の町が寝しずまっていても、道の両側の工場は動きつづけている。

 産業化が昼と夜の時間の区別を消し去り、一日を24時間にした。工場のあいだの道を歩くとそのことがよくわかる。

 関西本線の走る亀山までの地域は伊勢湾沿いの工業地帯だ。伊賀上野もその中京工業地帯の一部分なのかも知れない。ここから西の関西線沿いには工業都市はないはずなので、この伊賀上野が中京工業地帯の西の端ということになるのだろうか。

 この「グローバル化」の時代に地方都市の工業がどんな立場に置かれているのか知りたいとも思う。地方都市の工業は、現在では、労働賃金が圧倒的に安い発展途上国の工業を競争相手として争わなければならない時代だ。それに、企業を抱える地元はともかく、全国的に平均すれば、企業が日本国内の地方都市に工場を置きつづけることに世論が必ずしも温かいとはいえない。というより、いま、「日本国内の工業」について世論がどれだけ関心を持っているだろう? 「空洞化」ということには関心があっても、それが「国内で工業が動きつづけること」への関心にはつながっていないように感じるのだ。

 同時に、発展途上国に工場を移転するということは、その地域の伝統的な時間感覚を破壊して、「一日は24時間だ」という産業化社会の時間感覚を持ちこむことでもある。それがその発展途上国の多くの人の生きかたを変え、社会を変えていくのだ。そのことに「そんなことをしていいのか?」という後ろめたさを感じるのか、それとも、「日本も同じことを経験して豊かな国になったのだし、日本の企業がやらなければどこか他の国の企業がやるのだから、日本企業はそんなことにはかまわずに堂々と工場の海外移転を進めればいい」と割り切るのか? 私はまだどう考えていいかわからない。でも、すくなくとも、それは、海外に工場を移転する企業だけが考えることではなく、やっぱり国民の一人ひとりが考えなければいけないことだと思う。


 そんなご立派なことを考えたのは後のことで、その工場のあいだの広い道をひとり歩いているときには心細いばかりでそんなことを考えている余裕もない。やがて道は突き当たりまで来た。左に曲がると関西本線の線路だから、右に曲がるしかない。右に曲がって工場の敷地沿いに進む。

 ここまで来て、やっと泊まり先のホテルが見えてきた。このまままっすぐ進めばいい。そう思って歩いていくと、なんと道が行き止まりになってしまった。行き止まりの先には川があって、川には橋がなく、したがって川の向こう側には行けないらしい。

 駅前の通りをまっすぐ行くと橋があることはわかっていた。それ以外のどこに橋があるかは知らない。これ以上、暗い町をさまようのも心細いし、東京よりも寒い。風邪が治ったか治らないかという身体にはこたえる。しかも、夜になると寝しずまる町のホテルだから、もしかすると門限があるかも知れないと思った。この体調で締め出されたらどうなることか。少しでも確実な道を行こうと、私はいちど駅前まで引き返して橋を渡る道へと進んだ。

マンホールのふた(16KB)
上野市のマンホールのふた

 この橋がかかっている川は服部川という。ああ、なるほど、服部半蔵(正成(まさなり))の家はこの地名にちなんだものだったのかと思う。伊賀というとやはり芭蕉と伊賀忍者とが観光資源らしい。近鉄線には車体にまるごと忍者を描いた塗装の電車が走っているし、マンホールのふたも忍者だったりする。

 ちなみに、江戸幕府と関係の深かった剣術家の柳生家(あんまり関係ないかも知れないけど、こんな番組にリンク貼っときます)も大和の柳生の出だ。柳生は伊賀から見ると南西の方角で、そんなに遠くないはずだ。このあたりから江戸幕府を支える武力集団がいくつも出ているのは偶然ではないだろう。

 ところで、このときには、この服部川は西から東と流れていると思っていた。三重県の沿岸部に出て伊勢湾に注ぐと思っていたのだ。しかし、翌日、確かめてみると、この川は西へと流れている。やがて木津川へと合流する。木津川は大阪の市街を横切り大阪湾に注ぐ。

 私は、笠置や月ヶ瀬口(つきがせぐち)の東側あたりで木津川の水系は終わり、そこから東の川は伊勢湾に注ぐものと思っていた。けれども、この服部川の流れを見ると、大阪湾と伊勢湾の分水嶺(ぶんすいれい)はもう少し東らしい。この服部川は三重県から京都府を通って大阪湾に注いでいるのだ。そういえば、後に無事にたどり着いたホテルで見たNHK総合テレビは大阪局(JOBK)のものだった。

 ところが亀山から少し東へ行くともう線路は伊勢湾沿いに出てしまう。つまり、紀伊半島のこのあたりは、東のほうが急な坂で、西は緩やかに大阪湾や紀伊水道へと下り坂になっているのだ。それを考えると、この西側の奈良や大阪が古代文明のなかで力を持った理由もわかる。水運が有力な交通手段だった古代にはそちら側のほうがより広い範囲の水運を使いこなせるからだ。


 この関西線沿いは古代には重要な交通路だったらしい。ヤマトタケル(『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建)の墓と伝えられる前方後円墳はこの沿線にある。ほかにも古墳があるらしい。

 ヤマトタケルは、三浦半島から東京湾を横断したあと、現在の東京都のあたりを横切って、大和に帰る途中に伊吹山で亡くなったという。うろ覚えだが、東京の古い地名には、その地名の起源をヤマトタケルの「東征」に関係づけている場所があったはずだ。少なくとも、「東」を「あずま」と読み、「吾妻」・「我妻」と書いたりすることの起源は、ヤマトタケルが東京湾で亡くした妻を思って嘆いたことばと説明されている。なお、ヤマトタケルの墓と伝えられる古墳は大阪府にもある。

 ヤマトタケルは『古事記』ではアウトロー的な孤独の英雄の色彩が強い。天皇に疎まれたにもかかわらず、さまざまな危機や悲しみを乗り越えて、九州から関東まで大和の国に従おうとしない荒々しい「敵」を退治した。しかも、大和に帰る途中に伊吹山で倒れ、ついに大和に帰ることはできなかった。『古事記』ではその魂は鳥になったというが、鳥は大和の先の大阪湾まで飛んでいき、海の上に去っていったとされる。いずれにしても、大和の英雄でありながら、大和に帰ることはなかったのだ。

 しかし、『古事記』・『日本書紀』の系譜によると、そのヤマトタケルの子が仲哀(ちゅうあい)天皇になる。この仲哀天皇と、新羅(しらぎ)遠征の英雄神功(じんぐう)皇后とのあいだに応神(おうじん)天皇が生まれている。応神天皇は、その後の「河内王朝」と呼ばれる一群の大王(のちに時代をさかのぼって「天皇」の称号を与えられた)の祖先に位置づけられている。「倭の五王」を出したのがこの王朝だというのが有力説である。また、6世紀初頭ごろに実在が確実とされる継体(けいたい)天皇もこの応神天皇の子孫に位置づけられている。

 どうも孤独のヒーローと王朝の祖先というのはイメージが違う。しかし、もしかすると、古代の王たちにとっては、その祖先に型破りのヒーローがいて、その血統を活性化させてくれていることが必要だったのかも知れない。とくに、この河内王朝の大王たちは、九州の有力者や朝鮮半島の国ぐにとときには武力を使って関わりを持った王たちである。継体天皇もそうだ。荒々しく、孤独に死んだヒーローが祖先にいて、その荒々しさや無念の思いを受け継いでいるとしたほうが、自分たちの精神的支柱にもなるだろうし、相手国の王家への圧力にもなっただろう。

 その後も、7世紀には、関西線沿いを通ったのではないようだが、のちに天武(てんむ)天皇となる大海人(おおあま)皇子も近江朝廷からの王権奪取を図って現在の奈良県から伊勢湾沿岸方面へと抜けている。そして、740(天平12)年には藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱を避けてではあるが、聖武天皇がやはり伊勢湾沿岸方面に行っている。その後に恭仁遷都が行われたのだ。

 奈良時代の王朝も含めて、大和王権にとっては、この伊賀・伊勢・美濃といった地域は、つねに気にしていなければならない重要な地域だったのだろう。もしかすると、8世紀末の平安京への遷都を考えるには、この伊賀・伊勢・美濃・近江などの地方の動きも考えに入れなければいけないのではないだろうか? 具体的にどう関係するのかはまったく見当がつかないのだけれど。


 こんなこともあとで考えたことで、このときにはやっぱりそんな気もちの余裕はない。

 しかも、この服部川にかかる橋から見ると、さっき工場の向こう側からは見えたホテルが見分けられない。見晴らしのいい場所なのにである。何か狐につままれた雰囲気――というより、ダンジョンに踏み入れたような雰囲気だ。しかも刻々とマップが変化するダンジョンのように思えた。心細いことこの上ない。

 その服部川に沿った道を進んでいく。進むにつれて周囲は都会的になってきて、店が並び、スポーツ施設も見えてきた。そして、道は、唐突に車の交通量の多い道路に出た。道路の沿線には深夜まで営業している新古・古書店もある。

 いくら何でもこの道を通り越して先ではないだろう。私はこの道に沿って歩き始めた。すると道はふたたび川を渡る。さっき、ホテルは、工場の敷地を抜けた川の向こう側のすぐ近くに見えていた。けれども、さっき工場沿いに歩いた距離から見て、ここからさらに川沿いに歩くと、いくらなんでも遠すぎる。意を決して橋を渡る。片側一車線の狭い橋で歩道もない。しかも道を大型トラックが次から次へと高速で走っていく。すぐ横を高速でトラックが走っていくわけで、橋だから逃げ場もない。怖い。

 橋の上からはさっきの工場が川の対岸側に見える。その対岸から見てホテルは対岸にあったのだから、対岸の対岸で川のこちら側にないとおかしい。だからそろそろホテルが見えていいはずなのに、しかしホテルはあいかわらず見えない。時間はそろそろ夜10時である。ここまで一時間さまよったことになる。これでさらに道をまちがうとまた一時間もさまようことになるかも知れない。それは避けたい。

 橋を渡りきったところにマクドナルドの店舗があった。店は夜9時まで、ドライブスルーの店としては10時までということで、店はもう片づけに入っている。その店の窓を叩いて店員に「道に迷ったのですが……」と道を聞いた。この道でいいのだという。このときほどマクドナルドの存在をありがたく思ったことはない。もう10年以上もマクドナルドで何かを買って食べたことはなかったが、次の日、せめてものお礼ということで、この店でビッグマックセットを買って食べた。

 少し行くと、ウィークリーマンションらしいところもあったし、東京にもある焼き肉屋チェーンの店もあったし、コンビニもある。ここでは伊賀上野の駅前よりもこの道路沿いのほうが「都会」なのらしい。そんなわけで、町を一時間以上もさまよって、ようやくホテルにたどり着くことができた。

 ホテルの部屋から見ると、やはり川があって、すぐ向こう岸に工場が見える。つまり駅前では一本だった服部川が、ここに来る途中で二本に分かれていて、工場とホテルを隔てていたのはその分かれたほうの川だったのだ。こちらの川は柘植(つげ)川という。

 で、このときの教訓としては――はじめての町に行くときには地図ぐらい用意しましょうということだった。しばらく、遠出をすると言っても東京都内か地理のだいたいわかった近隣県ぐらいで、「だいたいの土地勘」でなんとかなっていたため、そういう初歩的なことを忘れていた。

 ホテルから見えるのは関西線側だ。やはり町は寝しずまっている。関西線をたまに列車が走るのと、関西線の横の道路をやはりたまに車が走っていくぐらいだ。あとは家々の明かりと街路灯が見えるだけで、ただ対岸の工場からはあいかわらず湯気が立ち上っている。

 外国に旅行したときは別として、日本国内で夜になると寝しずまる町に身を置いたのはずいぶん久しぶりのように思う。

 名古屋までの新幹線から日の入りを見たあと、こんどはこのホテルの窓から月が沈むところを見た。月はどういうふうに沈むのだろうと思っていると、けっこう速く沈んでいくように見える。日の入りのようにあとに夕焼けは残さないけれど、やはり月が沈んでしばらくは、その沈んだあたりの山の上がぼんやり明るく月の色に光っている。

 春だからか、天候のせいか知らないが、この夜の空はそれほど暗くなく、見える星は東京で空がよく晴れているときより少しよく見えるかなというぐらいだった。それでも、地平線に近づいても月や星の光がくっきりしているというのは、やはりこのあたりの空気が澄んでいるということなのだろう。

 伊賀上野駅に着いて工場のあいだに迷いこんだころ、西北の空には金星が残っていた。地平線が近いのにぎらぎらと明るく輝いている。ほかの星に較べて異様に明るい。もちろん月のほうが明るいのだけれど、金星は輝きが一点に集まっているうえに、輝きの色が黄金色でほかの星とぜんぜん違っている。東京の空では、空そのものが明るいのでちょうど「明るい星」という印象にとどまるが、ここの空では「星」の範囲を超えた異様な輝きに感じられる。

 朝方、日が昇る前に見える金星を、まだ夜が明けないうちに東京の西側の山の上から見たことがある。やはりほかの星とは離れた激しい光の放ちかたをしていたうえに、東京方面の空気が濁っていたのか、赤みを帯びて見えて何か不気味に感じたのを覚えている。ヨーロッパでは朝方の金星(明けの明星)を Lucifer と呼び、魔王と見ている。どうして夕方のあの明るい星が魔王なんだろうとずっと思っていた。暑い夏の夕方など、空に宵の明星が輝き出すとほっとするし、日暮れの時間が早くなる季節の宵の明星は人恋しさを誘う。それがどうして「魔」を思わせるのかということが私にはなかなかわからなかった。けれども夜遅くや朝早くの空の金星を見るとその感覚がわかるようにも思う。

 とりわけ、このときには心細くてあせっていたので、その金星の輝きがよけいに異様に感じられたのかも知れない。


つづき

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