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結末のあとに残されたものがたり



ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国(州)立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ)
ベルリン国(州)立歌劇場引越公演

ワーグナー
ニーベルングの指輪
四部作

神奈川県民ホール
2002年1月16日〜23日


ハリー・クプファー演出
ファルク・シュトルックマン(ヴォータン)
ワルトラウト・マイヤー(ジークリンデなど)
デボラ・ポラスキ(ブリュンヒルデ)
クリスティアン・フランツ(ジークフリート) など


 1月に、神奈川県民ホールで四日にわたって開かれた『ニーベルングの指輪』四部作の上演に行ってきた。ベルリン国(州)立歌劇場の引っ越し公演(舞台装置をそのまま使い、出演者と楽団をそのまま引き連れた公演)である。


 「ニーベルングの指輪」は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの文字どおりの大作である。

 序夜『ラインの黄金』、第一夜『ワルキューレ』、第二夜『ジークフリート』、第三夜『神々の黄昏』の全四部から構成され、上演時間は総計15時間近くになる。実際の上演では休憩時間などが加わる。だから、今回の上演では、四作のなかでは短い序夜『ラインの黄金』で3時間程度、他の上演は5時間前後かそれ以上かかった。


 「ニーベルングの指輪」は、長いうえに、舞台も、ライン川の川底、天上界、地下の「ニーベルング族」の国、人間界とさまざまで、複雑である。それが韻文(詩の文体)で歌われるので、ドイツ人でも聴いただけではなかなか理解できないらしい。ワーグナーを尊敬する作曲家ブルックナーが、上演を見て、音楽には感銘を受けたものの、物語の筋はほとんど理解できなかったという話もあるらしい。

 しかし、今回の上演は、LED(発光ダイオード)掲示板での字幕つきで、字幕も直訳ではなくわかりやすいように工夫されていたので、「わからない」という不満はなかった。字幕つき上演には「いちいち字幕が出ると気が散る」という意見もあるようだが、率直に言って私は外国語の作品を日本で上演するときにはやはり字幕つきのほうが嬉しい。


 最初に、その「複雑」なあらすじを、それもごく粗く紹介しておく。


 序夜(第一話)『ラインの黄金』は、ライン川の川底の黄金が、地下に住む醜い工芸民族「ニーベルング」族の長アルベリヒに奪われる話から始まる。この黄金から作った指輪が全体のタイトルとなっている「ニーベルング(族)の指輪」である。

 愛を断念した者がこの指輪を持つと世界制覇の権力が得られる。ラインの川底でこの原材料の黄金を守っていた少女たち(「ラインの乙女」)にそのことをきき、ついでにこの少女たちに思いっきりイナカ者扱いされてバカにされたアルベリヒは、愛を断念して世界制覇に生きることを誓う。そして、指輪の力で黄金の巨万の富をかき集め始めるのだ。

 なんかオヤジの悲哀が伝わってくるような話ではあるが、だいたいこういう決意はその場かぎりで忘れてしまうのに対して、アルベリヒはその誓いを執念で実行に移すから、まあたいしたものではある。

 そのころ、天上界で拠点「ワルハラ城」(楽劇のことばに忠実に書けば「ヴァルハル」)を築いた神々の長ヴォータンは、作業を担当した巨人族への報酬の支払いができなくなっていた。ニーベルングの国ではあこぎな手段でアルベリヒが大蓄財中である。そこで、その黄金を奪ってそれを巨人たちへの報酬にあてようと計画する。アルベリヒの横暴に苦しんだ弟のミーメが神々に情報を教えたためにアルベリヒはとらわれの身となり、「ニーベルングの指輪」も含めたアルベリヒの財産は根こそぎヴォータンに奪われてしまう。神々に指輪を奪われたアルベリヒは、指輪に「この指輪を持つ者は死ぬ」という呪いをかけて去っていく。

 指輪を含む地下界からの没収財産で城の築造費を支払ったヴォータンたち神々はワルハラ城に入り、神々の栄光の時代を迎えることになる。けれども、この栄光の頂点で、すでに神々の没落は始まっていたのだ。


 ちなみに、このヴォータンというのは古代ゲルマン神話の最高神である。ゲームなどに出てくる「オーディーン」というのが、このヴォータンにあたる。


 第一夜(第二話)『ワルキューレ』は、そのヴォータンたち神々の覇権追求の野望を背景に物語が展開される。

 ワルキューレというのは神族に属する女戦士である。私は山口宏さんのゲーム『バウンティ・ソード』に出てきた「ワルキューレ」のルーネ姉さんが印象に残っている。山口さんがワーグナーをどれだけ知っているかは知らないけれど、『バウンティ・ソード』の物語や音楽には、テーマの根幹にかかわるものをふくめて、この「ニーベルングの指輪」を思わせるものが多い。

 あと、『マクロス』のバルキリー(ヴァルキリー)が「ワルキューレ」にあたる英語だ。また、映画『地獄の黙示録』で使われた「ワルキューレの騎行」は、この『ワルキューレ』の第三幕の冒頭で使われる音楽である。


 序夜でアルベリヒから「ニーベルングの指輪」をだまし取ったヴォータンは、アルベリヒがその奪回に立ち上がったばあいに備えて、地上で戦死した英雄をワルハラ城に連れてこさせている。英雄たちにニーベルングの軍勢と戦わせるつもりなのだ。その英雄たちを戦場から天上界へ連れてくる役割を担っているのが、ヴォータンの婚外子として九人も生まれた(なぁんかシスプリみたいである)ワルキューレたちだ。

 ヴォータンは、さらに、自分の覇権を完全にするために、人間界にもヴェルズング族(オオカミ族というような意味)の婚外子を作っている。

 なんかやたら婚外子が多いけれど、これはギリシア神話のゼウスなんかも同じで、「主神」の役得というか、まあそういうものなのであろう。


 『ワルキューレ』の劇は、まずこの人間界のヴェルズング族の双子の若い男(ジークムント)と女(ジークリンデ)が出会うところから始まる。名場面である。

 この二人は、幼いころに離ればなれになり、ジークムントもジークリンデもけっこう悲惨な生活を送っていた。で、再開したとたんに互いに愛し合うようになってしまう。ジークリンデはすでに結婚しているし、それに双子どうしの愛である。作曲当時の常識からいうと、社会的にけっして許されることのないとんでもない間柄ということになる。二人は逃亡する。

 父親のヴォータンはこの二人を助けようとするのだけれど、そこに乗りこんで来るのが正妻のフリッカである。フリッカは「結婚の女神」ということになっていて、家庭倫理を崩壊させるジークムントとジークリンデの行いが許せない。ついでに、婚外子に甘い夫にも相当に腹を立てている。ヴォータンは「これも神々共同体の明日のためだ!」などとカッコつけるんだけど、もちろん無効で、夫婦げんかは妻フリッカの大勝利に終わる。

 で、負けたはいいんだけど、ヤケ起こしたヴォータンが「こんな世界なんか滅んでしまえ」などと言ったものだから、ほんとに世界は終末に向かって動き始めてしまう。

 社会的地位のある人(この物語では神様も「神の世界に属する人間」である)が公私混同でへんな意地張ってくれると、まわりが迷惑する。このばあい、いちばん迷惑したのが、ワルキューレ九姉妹の上の姉のブリュンヒルデである。最初はジークムントとジークリンデを助けてやれといっていた親父のヴォータンが、夫婦げんかに負けて「二人を見捨てろ」と言い出したのだ。

 しかし、ジークムントとジークリンデの愛の強さに心を打たれたブリュンヒルデは、父親の言いつけにそむいて二人を助けることにする。ブリュンヒルデが言いつけを守らないのに気づいたヴォータンは自分でジークムントを殺し、言いつけにそむいたブリュンヒルデを追う。ブリュンヒルデはヴォータンの追跡を逃れて、ジークムントとのあいだの子を宿したジークリンデを生き延びさせることに成功した。

 けれども、ブリュンヒルデは、けっきょくヴォータンの追求から逃げ切ることはできず、言いつけにそむいた罰を受けることになる。神の娘としての魔力を奪われ、岩山の上で眠りにつかされるのである。このときのブリュンヒルデの懸命の抗弁で、最初は大激怒していたヴォータンが、しだいに娘が愛おしくなってきて、最後には心ならずも罰を与えるというふうに心変わりしていく。やっぱりなんか情けない父親である。が、ここも名場面である。


 第二夜(第三話)『ジークフリート』は、そのジークムントとジークリンデがこの世に遺した息子のジークフリートを主人公にした話である。

 ジークムントは『ワルキューレ』でヴォータンに殺されているし、ジークリンデもジークフリートを生んだ直後に亡くなったことになっているので、ジークフリートは孤児である(このへんの設定はワーグナーののちの作品『パルジファル』に通じるところもある)。それを育てているのは、ミーメである。あのニーベルング族の長アルベリヒの弟で、ヴォータンが財宝を奪いに来たときに情報を教えてアルベリヒ没落のきっかけを作った男だ。

 ちなみに、松本零士の『キャプテン・ハーロック』にミーメという女性キャラが出てくる。これはこのミーメがモデルなのだそうだ。あと、ミーメは「mime」とつづるんだけど、これってメールシステム「マイム」の名まえとなんか関係あるのかな?

 ミーメのほうには打算があって、ジークフリートをそそのかして巨人族を倒し、「ニーベルングの指輪」を手にして自分で世界制覇に乗り出したいのである。ところがジークフリートはぜんぜんミーメになつかない。だから、もしジークフリートが指輪を手にしてしまうと、ミーメの言うことをきかなくなってしまうのではないかと恐れてためらっている。

 ジークフリートは、父親ジークムントの遺した剣を自分で鍛え直し、その剣で巨人を倒して「ニーベルングの指輪」を手にしてしまう。ミーメがそれを手に入れてよからぬことをたくらんでいると森の小鳥の声に教えられたジークフリートは、ミーメを殺してしまう。そして、同じく森の小鳥の声に導かれて、岩山へと登っていく。このへんはけっこうメルヘンチックな話である。

 なお、小鳥さんの役は、唯一の日本人キャストで天羽明恵が担当していた。また、今回の演出では、この小鳥の場面でヴォータンが登場し、小鳥のことばはヴォータンが陰で教えているという設定になっていた。

 ジークフリートの向かった岩山には、前作の最後で眠りについたブリュンヒルデがずっと眠っている。眠りについたのがジークフリートが生まれる前だから、もう10年以上も眠っているのである。ジークフリートはブリュンヒルデの眠りを覚まし、二人は結ばれて新しい生活を始めることになる。

 あらすじとしては単純で、そのくせ長く、『ワルキューレ』のようにところどころにドラマチックな名場面が配置されているわけでもないので、いちばんダレやすいのがこのエピソードである。

 しかし、今回の上演では、このエピソードが緊張感を保って演じられていたように思う。起伏が少ないのが逆にプラスに働いて、緊張感を高めていったのかも知れない。


 第三夜(最終話)『神々の黄昏』の物語は、ブリュンヒルデとの幸せな新婚生活を送っていたジークフリートが、騎士としての道をきわめるために旅に出るところから始まる。ここの対話は、「家」を中心とした幸せな家庭生活を好む女と、「世界」を目指す男という社会的性差(ジェンダー)観をもとに作られている。この構図は、『ラインの黄金』や『ワルキューレ』でのヴォータンとフリッカの対話をも貫いている。ただ、ブリュンヒルデは、ジークフリートが「世界」へとその前途を切り開こうとすることを理解して、ジークフリートを旅に出してやる。ここからその悲劇が始まるのである。

 この場面も名場面の一つで、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」としてオーケストラのレパートリーとしてもよくとりあげられる。

 なお、この場面の前に、やはり神の娘である運命の管理者「ノルン」たちがこれまでの設定を語る場面が置かれている。ここではじめて明かされる設定もある。この「ノルン」たちの会話のなかで、ヴォータンが世界を支える大木の枝を切ったことが世界の滅亡の遠い原因だと語られる。今回の演出ではこの設定が重要な役割を担っていた。

 いっぽう、ライン川沿いの名家キービヒ家では、このジークフリートの到来を待ちわびていた。ブリュンヒルデとジークフリートが結婚してしまったことを知らない若殿のグンターがブリュンヒルデと結婚したいなどと言い出し、勇猛なことで知られるジークフリートにブリュンヒルデを連れてこさせようと考えていたのである。

 これには裏がある。この話を仕組んだのは、例のアルベリヒがグンターの母に生ませた男(婚外子)ハーゲンである。ハーゲンは、指輪にこめられた「指輪の持ち主は死ぬ」というアルベリヒの呪いを発動させ、ジークフリートとグンターを相討ちさせて、指輪をせしめようと考えているのだ。もちろんグンターはそのことをまるっきり知らないし、グンターの妹のグートルーネも知らない。

 ちなみに、このグンター役は、「ニーベルングの指輪」がショルティ指揮のウィーンフィルによってはじめてスタジオ録音されたとき(1965年完結)には、ドイツの名バリトンのディートリッヒ・フィッシャー‐ディスカウが歌っていた役である(ヴォータン役がハンス・ホッターだったと思う)。

 キービヒ家に到着したジークフリートは、ハーゲンの調合した薬酒を勧められ、飲み干したとたんに、ブリュンヒルデとのことをぜんぶ忘れてしまう。器用なことに、それ以外のことは覚えているのに、ブリュンヒルデとの出会いや結婚生活だけ忘れてしまうのである。で、その酒を勧めてくれたグートルーネに一目惚れしてしまう。ジークフリートは、自分はまだ独身だと思いこんで、グートルーネと結婚したいと言い出す。そして、そのための交換条件のようなかたちでブリュンヒルデをさらってくることを約束する。

 ジークフリートに裏切られ、キービヒ家まで連れてこられたブリュンヒルデは、裏切りに気づいて激怒する。そして、仕返しを手助けしてやろうなどと言い出したアルベリヒの息子ハーゲンに、無敵なはずのジークフリートの弱点を教えてしまう。ブリュンヒルデは、残された魔力でジークフリートの身体を無敵に仕立てたが、ジークフリートは敵に背を向けて逃げ出すはずがないので、背中は無敵にしていなかったのだ。ことわざでいう「セキュリティーホール」というやつである。逆上してセキュリティーホールの存在を教えてしまうという短慮なところは、あるいは、夫婦げんかに負けて世界を滅亡させてやるなどと言い出した父親のヴォータン譲りなのかも知れない。


 余談である。

 20世紀初めの第一次世界大戦でドイツが敗れ、降伏したとき、「ドイツは正面の敵に敗れたのではなく、ジークフリートのように国内の敵に背中を衝かれて降伏に追いこまれたのだ」という「伝説」が生まれた。「国内の敵」とは労働者たちの革命運動のことである。この「伝説」をも巧みに利用して権力への道を上っていったのがヒトラーである。そのヒトラーは、この「ニーベルングの指輪」シリーズを中心とするワーグナー作品に心酔していた。

 そのため、ヒトラーのプロパガンダにはワーグナーが最大限に利用された。そのことは、第二次世界大戦後のワーグナー作品の演奏・上演に大きな影響を与えつづけている。「ニーベルングの指輪」が、ワーグナーの台本そのままではなく、どこかを抽象化したり現代的な寓意をこめたりして、テーマ的に演出されることが多いのは、一つはその影響かも知れない。なお、今回の上演はまだ原作に忠実なほうで、現在、新国立劇場で進行中(2002年春で『ワルキューレ』まで行ったはず)の日本の「指輪」はもっと斬新な演出が行われているという。

 また、ヒトラーのプロパガンダで利用されたために、ユダヤ人国家イスラエルでは現在もワーグナー作品はほとんど演奏できない。今回の指揮者のバレンボイムはそのイスラエル人である。そして、歌劇・楽劇指揮者としてのバレンボイムは、今日、ワーグナーの作品の上演をもっとも熱心に推進している音楽家の一人である。イスラエルでもワーグナー作品を演奏して、政治問題化したこともあるらしい。

 このようなところに、私は、イスラエル国家の動向に現れているのとは別の、ユダヤ人が歴史的に培ってきた(培ってこざるを得なかった)「国際性」が宿っていることを感じる。


 あらすじをつづける。

 ジークフリートの弱点を知ったハーゲンは、狩りの途中にジークフリートの背中を槍で衝いて殺し、指輪を奪おうとする。ジークフリートはブリュンヒルデとのことをぜんぶ思い出し、ブリュンヒルデを思うことばを遺して息絶える。ジークフリートが亡くなったあとの場面の音楽は「ジークフリートの葬送行進曲」として、これまたオーケストラでよくとりあげられる。

 グンターはハーゲンと争って殺され、指輪がハーゲンの手に落ちようとしたとき、ブリュンヒルデがハーゲンの計略を見破って姿を現す。ブリュンヒルデは、ジークフリートのなきがらを火葬にするためにライン川の岸辺に薪を積み上げさせ、その前で神々の世界征服の野望がこんな結果を招いたと告発したあと、自分も指輪を持ってその火のなかに身を投じる。ハーゲンは指輪を奪い返そうとするが、そのとき、ライン川の水があふれてきて、「ラインの乙女」たちが指輪を取り戻す。ハーゲンは、「指輪から離れろ!」というこの劇の最後のセリフを残しておぼれてしまう。いっぽう、燃え上がった火は天上界のワルハラ城まで燃やし尽くす。神の世界も英雄の世界も、ニーベルングたちの世界も滅亡してしまうのだ。そのあとには、愛によって祝福された人間たちの世界が始まるという予感を残して、「ニーベルングの指輪」は終わる。

 なお、この最後の場面も、ほとんどブリュンヒルデが一人で歌うため、ブリュンヒルデ役の独唱者だけを立てて、「ブリュンヒルデの自己犠牲」というタイトルでオーケストラで単独でとりあげられることが多い。


 うーむ、やっぱりけっこう長かったね。しかも、あらすじ上、重要なところだけ追ったので、見せ場でも省いたところがけっこうある。


 こういう物語であるから、けっこう今日の日本には向いた話なのかも知れない。

 なんでこういう悲劇が起こったかというと、ヴォータンを中心とする神々が、財政的裏付けなしにワルハラ城を造ったところに根本原因があるわけである。要するに不良債権である。支払いを求められたヴォータンが、アルベリヒの財産を横取りして支払いにあてるという小細工をしたことで、話がますますややこしくなっていく。いわゆる「不良債権の処理先送り」というやつである。

 小泉首相はワーグナーが好きらしいから、この公演を見に来て「やっぱり、不良債権問題を先送りしているとこういうことになるんだね」とかコメントするのかと思っていたら、上演期間中に現実政治のほうがもっとどろどろしてきて、それどころではなくなってしまったようだ。ちなみに、この公演のパンフレットには田中外務大臣(当時)のコメントが載っていた。


 ま、そういう話はおいといて。

 今回の演出テーマは「環境破壊」なんだそうである。

 たしかに、私が最後まで見終わって最初に感じた感想は「映画の『もののけ姫』みたい」というものだった。

 この公演を行ったベルリン国立歌劇場の本拠地で『千と千尋の神隠し』が金熊賞を受賞したというのも、そういう素地があったのだろうか。よくわからないけど。


 『ラインの黄金』の幕が開くと、まず木の根が舞台いっぱいにうねっている。「ラインの乙女」たちもその木の根のあいだに住んでいて、アルベリヒとの追っかけっこもこの木の根のあいだを縫って行われる(なんかほんとに滑りそうであった)。また、アルベリヒたちのニーベルング族の世界のまんなかにもこの木の根がある。いっぽう、天上界でワルハラ城を築造する巨人たちは、土木機械を模した衣装をまとって現れる。

 第二話(第一夜)『ワルキューレ』では、その木は分断され、巨大なボルトで留めて家の一部に使われたり、枯れて舞台上に崩落してきたりする。この崩落するのは演出の一部なのだが、このときは舞台装置が壊れたのかと思った。この場面では、演技というよりほんとにびっくりしているようなヴォータンとブリュンヒルデの表情が印象的だった。また、背景には酸性雨で荒れ果てた湖の映像らしきものが映し出されたりする。

 第三話『ジークフリート』では、ジークフリートが住んでいるミーメの家が三階建ての巨大工場として舞台いっぱいに登場する。ジークフリートは、背後の巨大な工業用ファンを回して、父ジークムントの遺した剣を鍛える。ちなみにワーグナーの台本では「ふいご」である。ブリュンヒルデと出会う岩山も、酸性雨で森が全滅したらしく、枯れた樹木の破片が散らばっていて、痛々しい舞台だ。そこでブリュンヒルデとジークフリートは無邪気に愛を語らうのである。

 第四話『神々の黄昏』では、機械で切断された木の断片が痛々しく残っているだけだ。背後には現代都市の夜景が広がる。IT革命が起こったらしく、キービヒ家の屋敷には巨大パラボラアンテナが設置されている。ライン川の底は産廃に埋め尽くされ(トタン板みたいなものが敷き詰められているのだが、私は産廃の寓意だと思った)、ラインの乙女たちはその産廃のなかで生活している。ジークフリートもその産廃の山のなかで殺される。なんでもジークフリート役のフランツは足を痛めていたそうで、それでこのごつごつした舞台装置の上を行ったり来たりしていたのだ(というより、怪我したのもそのせいか?)。


 そういう演出の流れを受けて、『神々の黄昏』の終幕は、ワーグナーの書いたものとは大きく違ったものになっていた。火が燃え上がるところまでは同じなのだが、ワーグナーの台本ではその火がワルハラ城まで包んでしまい、そこにヴォータンたち神々の姿がちらっとだけ見えることになっている。しかし、その描写は今回はなかった。

 そのかわり、指輪は、ラインの乙女たちが確保するのではなく、どこからともなく現れたアルベリヒが取り返してしまうのである。それまでの他の登場人物は、指輪を確保して喜びに浸るアルベリヒ一人を残して去ってしまい、かわりに男女の子どもが苗木を持って登場する。子どもたちは苗木を産廃の山に植えて(このへんが『もののけ姫』みたいなのだ)、じっとアルベリヒを見ている。音楽がいちばん最後に「愛による救済」をうたう直前で、アルベリヒの手の中で指輪が砕け散ってしまい、アルベリヒは茫然自失する。それをずっと男女二人の子どもが見守っているというところで幕が下りるのである。


 ワーグナーの台本では、神々の世界が終わることが重要だったのだけれど、この演出では、神々の世界が滅亡することはもう既定の事実として問題にならないのだ。没落の原因を作ったのはヴォータンだけれど、没落していくのは神々の世界だけではない。

 むしろ、アルベリヒもヴォータンも、同じ世界に属する旧世界の人間なのである。ジークフリートもブリュンヒルデもそうなのかも知れない。その旧世界の人間が、一見、対立しながらも、じつはみんなでよってたかって「共同正犯」として自然破壊というかたちで世界を壊してきた。しかも、その崩壊を目にしながら、最後になってもそれが世界の崩壊であることに気づかないのである。世界がすでに崩壊しているのに、その崩壊のなかで自分の念願がかなったと大喜びしているアルベリヒは、べつにアルベリヒだけではない、ヴォータンやキービヒ家の人びとも含めた、旧世界の人たちを代表した姿なのだ。

 最後に登場した子どもたちは、未来のジークムントとジークリンデとも解釈できるし、ジークフリートとブリュンヒルデとも解釈できるし、もしかするとヴォータンとフリッカかも知れないし、そのどれでもないかも知れない。

 「環境破壊」という「テーマ」も、あるいはたんなる寓意と見ることもできるかも知れない。「異なる世代が理解し合うことができない」というテーマは、クプファーがバレンボイムとの「指輪」でつねに追いつづけているテーマのようだ。古い世代が新しい世代に残したものは、古い世代がどんな意義をそこに見いだしたとしても、それは新しい世代にとっては廃墟にすぎない。そのことのほうを言いたいのかも知れないという気もする。

 ともかく、その新世代は、そういう崩壊した世界に、自分の手で最初から木を植えて行かなければならない。それは、目の前には廃墟しか残っていないという呪いなのか? それとも、自分たちで最初から世界をつくっていくことができるという祝福なのか? 廃墟から新しく世界をつくったところで、またヴォータンやアルベリヒと同じことをしてしまうに違いないというあきらめなのか? そんなことを問いかける幕切れであった。

 そして、それは、本編への問いかけを開く鍵にもなるはずである。

 ジークムントとジークリンデは、最高神の子に生まれながら、なぜ放浪し労苦を重ねなければならなかったのか。ジークフリートは、どうして最高神の孫として生まれ、世界を征服できる指輪を手にしながら、世界を救うことも、世界を破滅させることすらもせず、わけのわからないグートルーネへの愛欲の虜になって死ななければならなかったのか。ブリュンヒルデが「自己犠牲」によって指輪を炎で焼き、もとの黄金に返したことは、ヴォータンの計画を止めたことになるのか、それともじつはそのことによってヴォータンの計画が完成したのか。

 それが、この楽劇の結末のあとに私たちに残された物語なのかも知れない。


 そのような演出意図とも関連して、今回の演出では、ワーグナーの描いた人物像が変えられている部分も多かった。

 主人公のジークフリートからして大きく違う。ワーグナーの考えたジークフリートは、やっぱり美男子で英雄なんだろうと思うのだけれど、このジークフリートは美男子というわけでもなく、ひたすら粗野な青年である。ジーパンみたいなズボンを穿いていて、パンクのにいちゃんみたいであった。

 『ジークフリート』の最初のほうで、ジークフリートがミーメと言い争う場面がある。この場面は、ワーグナーの台本では、ミーメがもともとよくない意図でジークフリートを育てているという設定があるので、ジークフリートのほうがなんか正しいようにもとれる。しかし、今回のジークフリートではもう家庭崩壊以外の何ものでもない。ジークフリートは「荒れる十代」そのものである。ミーメが用意してくれたメシを投げ捨てたりするし、「おれはこんなにおまえが嫌いなのに、家に帰ってきてしまうのはなぜだろう」とかミーメに向かって言ったりする。ミーメもうろたえて「おまえを育ててやったのは自分なのになんと恩知らずなんだ」と無効な説教を繰り返すばかりだ。

 もちろん、このようなジークフリートを、演出家が百パーセント肯定して「英雄」と位置づけているはずもない。


 ヴォータンも、しっぽ髪に髪をまとめ、サングラスをかけていて(もともと片目が見えないという設定なのだが)、なんかパンク少年が歳食って成り上がったようなカルーい最高神であった。ほんとに軽くて、ちっとも最高神らしくどっしりしていない。いっつもあちこち駆けずり回っているという演出もカルさの印象を助長している。ま、それで悪いというわけじゃなく、むしろ、そういう「重くどっしりした家父長制の父のようなヴォータン」という像に対する積極的な抵抗なのだろうと思う。ところが、妻のフリッカは原作に近くけっこう落ち着いている。これじゃヴォータンがフリッカに勝てるわきゃないわな。ヴォータンはブリュンヒルデとも「友だち親子」みたいで(これは演出意図なのだろう)、配役のせいもあって娘のブリュンヒルデのほうがよっぽど立派に見える。


 そういうヴォータンやジークフリートの周辺で存在感を発揮していたのが、『ラインの黄金』のローゲと『ジークフリート』のミーメである。これはどちらもグレアム・クラークが演じていた(従って『ラインの黄金』と『ジークフリート』ではミーメ役が違う)。ローゲは、ヴォータンたち「神々」には一段下に見られている「半神」で、蔑まれながらも、「神々」の足もとを見て「知恵袋」として行動するキャラである。ミーメは、ジークフリートを自分の野望のために利用するつもりなのに、気の小さいところがあり、まめまめしくジークフリートの世話をする。クラークは、この二つの役を、舞台の上いっぱいにちょこちょこと動き回り、めいっぱいコミカルに演じていた。もともと全体にカルく演出されている人物が多いなかで、その何倍も動き回って、とりわけカルさが際立っていた。『ジークフリート』のミーメなど、はしごを上がったり下りたり走り回ったりしながらずっと歌っているのだから、「ワーグナー歌手」の面目躍如というところだ。それが成功で、カーテンコールで大きな喝采を浴びていた。


 『音楽の友』2002年3月号の批評(高橋宣也氏による)では、エルダとハーゲンが「深みに欠ける」・「迫力不足」と不評であるが、あまり気にならなかった。

 ハーゲンが「迫力不足」とも感じられなかったのは、『神々の黄昏』のときの席がよく聞こえる席だったからかも知れない。ハーゲンについては、むしろ、ジークフリート殺害の場面で槍を持ったままジークフリートをちょろちょろつけ狙うのがやっぱりカルい感じがした。あれは、やっぱり、ジークフリートがブリュンヒルデとの思い出を思い出したところで一気に殺してしまうものではないだろうか?

 予言と智恵の女神エルダ(ブリュンヒルデたちの母親でもある)については、演技以前に、この劇のなかでのエルダの登場場面の意味づけがもう一つ不明確だったように思う。いつも表面的には主神として威厳を見せているヴォータンが、このエルダの前でだけは、威厳を保とうと葛藤しながらも不安をさらけ出す。しかし、今回のヴォータンはそういう深刻ぶった行動があんまり似合わない気がするのだ。


 それよりも、今回の演出で少し違和感を感じたのが、デボラ・ポラスキのブリュンヒルデであった。

 もちろん下手だというのではない。そんなことを言ったら(ばち)が当たる。ともかくこの歌手さんはブリュンヒルデが当たり役らしい。クプファー(演出)とバレンボイム(指揮)による1988年のバイロイトでの「指輪」からこの役を歌っており、他の演出家・指揮者でも歌っている。

 ただ、私は、同じクプファーとバレンボイムとベルリン国(州)立歌劇場の『ローエングリン』でポラスキがオルトルート役を歌っているディスクを持っていて、それを先に聴いてしまった。それで先入観があるのかも知れない。

 『ローエングリン』のオルトルートというのは、ヒロインを陥れる陰謀女で、いっしょに陰謀を進めていた男が挫折しそうになっても、それを励ましてさらに陰謀を推進するという役割である。物語上の位置づけとしては悪女であるが、同時に、男をリードしていく「自立した女」でもある。ポラスキは『パルジファル』のクンドリも演じたそうである。このクンドリも、男を頼りにすることなく(利用されたりはするが)、最後には一人で自分の救いを求めていく「自立した女」だ。

 そういう先入観で見てしまうからか、ポラスキのブリュンヒルデは「自立した女」でありすぎるような感じがしたのである。もちろん、現代のヒロインとしてはそのほうが似合っているのかも知れない。だいたい天界の女騎士ワルキューレだから普通の男よりもずっと強いのだ。けれども、ジークフリートに裏切られたと思って分別を失い、敵か味方か不明のハーゲンにそのジークフリートの弱点を教えてしまうようなところには、やはり、ロマン主義時代の、男に依存した生きかたの女という部分が残っている。少なくとも、ワーグナーが描いた段階では、ブリュンヒルデは、オルトルートやクンドリのように「自立」してはいなかったように思う。

 このへんは意図された演出かも知れない。もしかすると、ヴォータンに眠らされる前までは現代的な「自立した女」だったが、ジークフリートと出会って契りを結んでからはロマン主義時代的な女になってしまうという演出かも知れない。『ジークフリート』の終幕でのジークフリートとの出会いの表現からするとそういうことなのかもしれないし、ワーグナーの書いたセリフにもそれを思わせるようなところもある。このへんは正直に言うと私にはよくわからない。


 バレンボイム指揮のベルリン国(州)立歌劇場管弦楽団(ベルリン・シュターツカペレ、または、原語どおりだと「シュターツカペレ・ベルリン」)の演奏は、歌劇場の楽団だけあって、舞台上のドラマと合ったときの演奏の迫力はたいしたものだった。ただ、音楽の流れで「ここは少し音を長めに止めて緊張感を溜めるかな」と思っていると、すっと次に流れてしまって、なんか「肩すかし」を食ったような感じがする局面も多かったように思う。

 『ラインの黄金』で、ヴォータンがローゲの案内でニーベルングの国に下りていく場面で、闇のなかから金槌を打つ音だけが響いてくる場面がある。明るい天上界からいきなり暗い地下世界にやってきたという世界の突然の移り変わりを表現する描写である。とくにこれがなんか軽く流れてしまって、暗さや不気味さや、それにそこで「財宝が加工されている」という神秘的な感じがぜんぜん出ていなかったような気がした。もっとも、な〜んとなくカルそうな神様が、な〜んとなく安っぽい(むろんそういう演出意図なのだろう)透明プラスチックに囲われた階段を下りてくる場面の音楽としては、むしろそのほうがいいのかも知れない。


 私はこの作品を通しで見たのはこれが最初である。だから、「指輪」やワーグナー作品の上演史上でのこの演出の意義とか位置づけということはまったく語れない。ただ楽しませていただいたし、たしかにいい経験をさせていただいたと思う。

―― おわり ――




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演奏会評:バレンボイム指揮 ブラームス・チクルス



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