『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


『月世界へ行く』
(『月世界旅行』)

― ヴェルヌの小説を読む  2. ―

 【ものがたり】 186X年、アメリカ合衆国の「大砲クラブ」会長のバービケインと、そのライバルだったニコール大尉、それに空想的なフランス人の冒険家ミシェル・アルダンの三人を乗せた砲弾がフロリダ州ストーンズ・ヒルに設置された巨大コロンビヤード砲から発射された。砲弾は、途中で巨大隕石と衝突しかけたり、飛行途中に発射時の計算の初歩的ミスが発覚したりしたが、ひとまず順調に月へと接近する。乗員たちは、空気中の酸素濃度管理上のミスから過度の興奮状態に陥ったり、地球と月の重力均衡点の無重力状態を経験したりした後、月へと向かう。しかし砲弾は月への落下軌道から逸れており、月面に着陸することなく月を北極から南極へと回る軌道に入ってしまう。三人の乗員は、至近距離から月面を観察し、空気や水の存在、人類が月面に存在したかなどの問題を検討する。やがて砲弾は重力均衡点まで戻ってきた。三人の乗員は、砲弾を月へ着陸させるために最後の手段に訴えるのだが……。




 この小説は以前にも子ども向けのダイジェスト版を含めて何度か読んでいる。ただ、ヴェルヌの小説のなかでとりたてて好きな作品というわけでもなかった。私がこの『月世界旅行』(私にとっては、最初に読んだ子ども向けダイジェスト版の『月世界旅行』というタイトルのほうがしっくり来るので、ここではそちらを使う)を読んだとき、すでに人類は月着陸をなし遂げていた。よく覚えていないがアポロ計画自体が終わっていたのではないかと思う。その実際の人類による月探査の映像を見ていた私は、やはりこの小説は「古くてほのぼのした空想小説」だという印象を最初から持っていた。

 しかも、完全な空想でなく、当時の科学水準に基づいて書かれているため、かえってファンタジーという面では禁欲的な部分が多い。主人公たちを帰還させる方法がないのでヴェルヌは月着陸というあらすじを断念したという話も読んだことがある(よく覚えていないがたしか筒井康隆さんの文章だったと思う)。ところが、ヴェルヌと並んでSFの始祖とされるイギリスの穏健社会主義者H.G.ウェルズが反重力物質を使って月着陸するという物語を書いたので、ヴェルヌとウェルズとのあいだで論争になったという話も、たぶん同じ文章で読んだ。


 だから過去に読んだときにはどちらかというとアラのほうに目が行っていた。

 たとえば、この小説では無重力状態は地球と月の重力均衡点でだけ起こることになっている。もちろんそんなことはなく、宇宙の宇宙船内では常に無重力状態になるはずである。

 ただ、このことは、小学生のころにダイジェスト版を読んだときから「おかしい」とは思っていたけれど、ヴェルヌの説明のどこがおかしいのかは長いあいだわからなかった。ただたんに「宇宙に出れば無重力」と思いつづけていただけだ。わかったのは最近のことである。

 宇宙船内で感じる重力は、地球と月との重力のバランスは関係がなく、宇宙船の船体自体が受けている重力と宇宙船に乗っている人間が受けている重力との差である。宇宙では、地球からの重力であれ、月からの重力であれ、宇宙船の船体にも中に乗っている人間にも常に同じ重力がかかっている。だから重力に差は生まれず、宇宙船内では普通は無重力状態になるのだ。

 では、飛行機のなかではどうして重力を感じるかというと、人間の身体は地球の重力で引っぱられて落下しようとするのを、飛行機の機体に生じた浮力が下から支えているからで、その浮力の分が重力として感じられるわけだ。

 宇宙船の窓から投げ捨てたものが宇宙船といっしょに宇宙を飛んでいるというのは、「空気抵抗がないから落ちない」という理由づけがもっともらしくて感心したものだけれども、よく考えてみればおかしい。宇宙空間で宇宙船の窓を開けて空気がほとんど失われないということからしておかしいのだけれど、それとともに、投げ捨てたときに投げた力も失われないわけだから、投げ捨てたものは宇宙船からどんどん離れていくはずである。

 ほかにも、一年分の食糧と数か月分の飲料水が宇宙船のなかに入るかとか(カロリーメイト一週間分でも相当な分量ですよ?)、いくら塩素酸カリウムから酸素を供給しているといっても宇宙船内でガス灯を使ったら酸素がなくなるだろうとか、いきなり一秒あたり11キロの速度を与えたらアルミニウムの機体はひとたまりもなく燃えちゃうでしょうとか、いろんな「ツッコミどころ」はある。

 こういうことを考えたのは、この作品が「現実の月旅行を先取りしている」と評価されていたからでもある。発射場所がアメリカ合衆国のフロリダで帰還した場所が太平洋だったということや、行程がアポロ宇宙船と似ていることなどから、この『月世界旅行』は現実のアポロ計画を先取りしていると評価されたりした。

 それはそうなんだけれども、そう考えることで何か小説の値打ちがじっさいの宇宙計画に横取りされているような気がして、それを否定するために小説のほうの「科学的まちがい」を探していたのだ。すなおに喜べばいいものを……いやな読者である。


 ところが、今回、読んでみて、逆に、いま宇宙論のホットな部分と重なる点があって、ヴェルヌの感覚の鋭さに感服したところがある。


 まず、この砲弾宇宙船は、二度も宇宙空間で小天体に遭遇している。そのうちの一回は、小天体が発光しながらバラバラに分解していく場面である。宇宙空間にはぶつかると危険な小天体が無数に存在して、地球の近くの宇宙でも安全ではないのだというわけだ。

 これはいままさに「地球に接近する小天体」(NEONear Earth Object)の問題として大きく採り上げられている問題だ(NEOと略すると非政府組織(NGO)非営利組織(NPO)の親類みたいだなぁ、どうでもいいけど)

 地球への隕石・彗星の衝突によって地球は大災害に遭遇する――そのことがいままじめに危惧されている。

 その要因としては、まず、「隕石衝突によって恐竜が絶滅した」とする説が確からしくなってきたことが挙げられるだろう。この衝突事件を恐竜絶滅原因と見ることに否定的な研究者も多いが、ともかくも恐竜絶滅の時期=中生代/新生代境界に隕石が衝突したのは確かである。そんなころに、1994年、木星にばらばらに分解した彗星の破片がつぎつぎに衝突する事件が起こった(シューメーカー・レヴィー第九彗星。ちなみに発見者の一人ユージン・シューメーカー氏は後にオーストラリアで自動車事故で亡くなった)。「地球からは何も見えない」という天文学者の予想を裏切り、木星表面に巨大きのこ雲を作り、衝突の痕跡が木星に残りつづけた。巨大な木星でこれだけ目立つ「被害」が出るのなら地球はそれどころではないだろう。さらに、同じ時期、CCD(つまりデジカメ)を活用した観測技術の進歩でじっさいにNEOがたくさん見つかるようになったことで、地球にNEOが衝突して破滅的な大災害が起こるという問題が現実味を帯びてきた。一般社会には『ディープインパクト』とか『アルマゲドン』とかのアメリカ映画で広く知られることになった……んだろうなぁ。『ストラトス4』という話もあったりするんだけどね。

 ともかく、そのせいでNEO「早期発見、早期予防」のために世界じゅうで未発見の小天体探しが組織的に行われるようになり、おかげでアマチュア天文家が彗星や小惑星を発見する可能性が極端に減ってしまった。一般世間ではぜんぜん話題にならなかったけれども(まあ地上世界がこれだけ騒がしいとねぇ……)、5月に相次いで地球から望遠鏡・双眼鏡を使わないで見えるまでに明るくなったらしい(私は自分で見ていないのでよく知らないのだが)リニア彗星 C/2001Q4 とニート彗星 C/2002T7 はそういうNEO探しプロジェクトで見つかった彗星だ。

 「世界じゅうで」といっても、組織的なNEO探しをやっているのはほとんどアメリカである。つまり『月世界旅行』(この作品)で月へ宇宙船を送りこむ国であるわけで……。でも日本でも「美星スペースガード協会」というのがあって、同じようにNEO探しをやるようになっているはずである。ちなみに、この組織は「みほしスペースガード協会」とは読みません。

 ヴェルヌは隕石が分裂して崩壊していくところも描いている。この崩壊のありさまは、太陽に接近した彗星核が分裂・崩壊していくところを思わせる。空気もないのに自ら光を発しながらという現象は現実には確認されていないと思うけれども(でも完全にあり得ないわけではないだろう。たとえば何かの理由でその崩壊天体の電子が励起されていたりいたら……)、彗星核の崩壊は実際に観測されている。雪玉のようにつぎつぎに分裂していく隕石の描写は、その現実の彗星核崩壊を思わせる。直径2000メートルという大きさも現実の彗星核に近い。

 ヴェルヌは隕石と彗星とを区別していなかったようで、隕石が彗星核になっていると考えていたようにも読める。実際には、隕石は小惑星起源の「石」であり、「雪玉」である彗星核とは異なる。しかし、彗星核のなかにも岩石物質は含まれている。小惑星のなかには彗星核から変化したものもあるといわれていて、その小惑星の大きめの破片が隕石になる可能性もある。だから、このヴェルヌの想定もべつに完全にはずれとはいえない。彗星核の正体が突き止められたのは1950年のことなのだから、ヴェルヌがこういう誤解をしていてもやむを得ない。

 誤解といえば、ヴェルヌは月のクレーターを基本的に火山活動によって作られたと考えていたようだ。現在ではクレーターは隕石衝突の痕だとされている。しかし、これも私が小学生のころまではプラネタリウムの解説で「月のクレーターができた原因については、隕石の衝突という説と、火山活動によるという説の二つがあります」と言われていたぐらいだから、ヴェルヌが火山活動説を採ったとしても別に大まちがいではない。


 もうひとつ、この作品では、宇宙船の三人の探検家は、月はかつて人間の住める環境だったが、月は小さかったために冷却するのが速く、現在では人間の住めない環境になっているという結論に到達する。しかし、極地に近い部分のクレーターにはいまも氷が残っていて、それが光を反射しているという。また、月の一部では、液体の水があり、空気もある環境が保存されていることを示唆している。

 現在も液体の水の海があるというような話は別として、また、生命が住める環境を直ちに「人間が住める環境」と言ってしまうことの問題も別にして、「かつては生命の住める環境だったけれども、速く冷却したために現在は生命の住める環境ではなくなってしまった」という仮説は聞いたことありませんか? その説をもとに、これもバービケインやニコール大尉の国アメリカが「生命の痕跡探し」をしている星があることを……。

 ここでヴェルヌが言っている月の命運は、いままさに火星の命運としてまじめに議論され、それが現実であったかどうかがまじめに検討されているものなのだ。

 ただ、ヴェルヌの時代には、生命が人類にたどり着く以前に何十億年の長い歴史があったことがわかっていなかったので、「生命の可能性」を「人類が生存した可能性」に短絡しているというだけのことである。なお、ヴェルヌは『地底旅行』で恐竜たちの世界を描いているので、人類が生まれる前に恐竜の時代があったことは知っていた。

 また、原始地球に別の原始惑星が衝突して、地球から飛び出した地球の一部が月を作ったというジャイアントインパクト説が成り立つまでは、月の起源についていくつか説があった。ヴェルヌはこの作品では「月は最初から地球の衛星だったとはかぎらない」という「他人説」を示唆しているようである。これだって、ジャイアントインパクト説がほぼ定説になったのが1980年代、力学的に証明されたのが1990年代だから、大まちがいとはいえない。


 こういうところを読むと、重力や真空についてのまちがいを差し引いても、やっぱりヴェルヌの科学的想像力には感服しなければならないと思う。やはり「20世紀科学の予言者」と言われるだけの想像力と感性を持った作家だったのだ。

 私たちは、いま、豊富な科学情報と驚異的な計算速度を持つコンピューターが存在している環境で、どれだけヴェルヌの科学的想像力を超える想像力を持ち得ているだろう?

 逆に、このヴェルヌが、相対性理論と量子力学を知っていたらどんな小説を書いたかということも興味深い。


 なお、ヴェルヌが宇宙空間の真空について、理解がおかしい点があるのは、ヴェルヌがエーテル説を信じていたことと関係があるのかも知れない。宇宙空間はエーテルという質量のない物質の原子に満たされているので、空気が外に出てもそれほど急速には吸い出されないというイメージがあったのかも知れない。宇宙船の窓を開けると外の冷気が流れこんできたというような描写もある。

 エーテル説はいわゆるトンデモ本御用達の説になってしまったので現在では荒唐無稽な説とされているが、アインシュタインが相対性理論でひっくり返すまで基本的に信じられていた説だから、ヴェルヌが信じていたとしても当然である。まして、ヴェルヌがこの作品を書いたのは、エーテル説がひっくり返るきっかけになったマイケルソン・モーレーの実験が行われる前のことだし、マイケルソン・モーレーの実験が行われた後もエーテル説は信じられていた(特殊相対性理論で使うローレンス変換はもとはエーテルの存在を前提として考えられたもの)のだ。

 なお、『サハラ砂漠の秘密』で無線通信を説明するのにエーテル説を使っているのは、この作品が発表されたのが第一次大戦後だと言うことを考えれば、少し時代錯誤かも知れない。しかし、この作品は、息子のミシェル・ヴェルヌが父の遺稿ということにして発表したものだから(遺稿には違いないのだが未完成で、ミシェルがほとんど書き直したらしい)、ヴェルヌが亡くなった1905年時点以前の説明として書いたものかも知れない。


 当然、『パタパタ飛行船の冒険』の世界の科学も基本的にエーテル説なんだろうな。第2話ではアカデミーの学者が原子説を認めていないような会話も出てくるし。ということは、エーテルの存在を信じているどころか、この世界の標準理論はもしかすると例の「火、地、風、水」四元素説かも知れないわけで……。


 ところで、この作品には『地球から月へ』という前編があるのだけれども、どうやら、現在、この『地球から月へ』のほうは邦訳では入手困難になっているようである。私は小学生のころに『地球から月へ』と『月世界旅行』を一編にまとめたリライト版でこの『地球から月へ』の部分を読んだだけだ。

 『月世界旅行』が月や宇宙についての科学的な考察を科学的なテーマにしているのに対して、『地球から月へ』は月旅行の可能性についての議論が中心である。しかも、その月旅行の方法というのが、超巨大な大砲で砲弾を打ち上げるという実現性に乏しいものなので、あまりSFとしての興味を引かないということだろうか。

 しかし、一方で、『地球から月へ』には『月世界旅行』よりおもしろい点もある。不倶戴天の敵どうしだったバービケインとニコールが、決闘まで約束しながら、和解していっしょに月旅行計画を推進するなどといった場面もあり、月旅行という大事業をめぐる人間ドラマという点では『地球から月へ』のほうがおもしろいと思う。

 また、戦争が終わって仕事のなくなった砲術専門家が、その砲術の「平和利用」の方法として月旅行を思いつくという筋書きは、まさに宇宙開発と軍事との深い関係を予見している(しかもアメリカ人だし……)。もっとも現実の宇宙開発と軍事との関係に較べれば、この「大砲クラブ」の月旅行計画はかなり牧歌的なものに思えるのが、また困ったところだろう。


 ちなみに、この『地球から月へ』に出てくるような、宇宙飛行の実現をめぐるドラマや、宇宙開発と軍事との深い関係を、20世紀の宇宙開発の流れを踏まえて描いているのがガイナックスの出世作『王立宇宙軍』である。ガイナックス作品のファンのなかでは、『トップをねらえ!』以後の作品との傾向の違いがあまりに大きいためか、『王立宇宙軍』への評価はあまり高くない(「宮崎駿が褒めた」というだけでこの作品をけなす自称「オタク」文化支持者もいた)。しかし、小学生のころにヴェルヌの作品が好きで、その後、しばらくそのことを忘れていた(おかげで「海と空の大ロマン」シリーズはまるきり手に入れ損ねた)私は、この作品に出会ってすぐに好きになってしまった。『王立宇宙軍』は現在では私がいちばん好きなアニメ映画の一つになっている。

― おわり ―

江口清 訳、創元SF文庫、1964年(訳)

原書:1869年刊