『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


『世界の支配者』

― ヴェルヌの小説を読む  4. ―

 【ものがたり】 20世紀初め、アメリカ合衆国で怪事件が相次ぐ。まずアパラチア山脈のクレーター状の山からとつぜん炎が立ち上った。ワシントン警察のストロック警部はこの怪現象の正体を確かめるために現地に向かうが、山が険しすぎて登ることができず、目的を達することができなかった。つづいて、合衆国の各都市の路上に高速で暴走する怪自動車が出現した。その自動車はウィスコンシン州での自動車レースにも出現して他のレース参加車を抜き去り、姿を消した。さらに、ニューイングランドの沖合では高速で移動する奇妙な船が目撃された。カンザスの湖には謎の高性能潜水艇が出現する。この自動車と船と潜水艇は同一のものではないかと考えたアメリカ合衆国政府は、この乗り物を買い取るために新聞広告を出した。この広告に対して寄せられた拒否の回答には「世界の支配者」の署名があった。ストロック警部は、この謎の「世界の支配者」とその乗り物「エプヴァント号」を捕らえるために、目撃情報を頼りにエリー湖に向かう。ストロックらはエプヴァント号に接近して「世界の支配者」一味を追いつめた。だが、このときエプヴァント号は急発進し、ストロック警部はエプヴァント号の錨にベルトを引っかけられて連れ去られてしまった。エプヴァント号は駆逐艦の追跡を振り切ってナイヤガラの滝へと向かう。エプヴァント号は、ナイヤガラの滝の直上に達したとき、翼を開いて飛行形態に変化し、空へと舞い上がった。




 ヴェルヌの最晩年に発表された作品である。この作品の発表後まもなくヴェルヌは亡くなっている。ヴェルヌが20世紀に書いた数少ない作品の一つでもある。なお、この物語は、ヴェルヌがこの物語を書いていた時代よりは少し先の近未来を舞台にしているようだ。

 この作品では、主人公がエプヴァント号に乗りこんでからの展開があまり長くなく、「結論」を急いでいるようにも読める。『海底二万里』でも『征服者ロビュール』(『空飛ぶ戦艦』)でも「謎の乗り物」に乗りこんでからのほうが話が長かったのに? あるいは、ヴェルヌはエプヴァント号に乗りこんでからの旅をもっと書きたかったのだが、健康状態がそれを許さなかったのかも知れない。何か、最後のほうの物語の進みぐあいが、藤沢周平の最後の作品『漆の実のみのる国』のやはり最後のほうを思わせるような感じもするのだ。

 しかし、『海底二万里』や『征服者ロビュール』と違って、この『世界の支配者』では乗り物に乗りこむのが一人だけで、乗員とのコミュニケーションもほとんどない。この時期のヴェルヌは「驚異の機械を使った旅」そのものを描くことにはもう興味がなかったのかも知れない。


 それにしても「変形メカ」である! さすがに巨大人型ロボットには変形しない。そのかわり飛行機形態では羽ばたき機である。タービンを動力にしてしかも乗り心地のいい羽ばたき機――う〜む、これは今日でもなかなか作れなさそうだ。姿勢を安定させるには高度な姿勢制御装置が必要なはずで、「世界の支配者」(だれかというのはヴェルヌ作品を読んできた読者にはすぐわかるだろうが、いちおう名を伏せておく)はそれも開発したのだろうか?

 ついでに動力がフリーエネルギーらしい。空気中の微小な電気を取りこみ、電池に蓄積して半永久的動力として利用しているらしいのだ。しかも、ヴェルヌは、この作品で、じつは『海底二万里』のノーチラス号も『征服者ロビュール』のアルバトロス号(「あほうどり号」という訳もあるが、やっぱり「アルバトロス」のほうがかっこいいよね)も同じフリーエネルギー電池を使っていたと書いている。

 ミクロのレベルで見れば、空間にはおそらくヴェルヌが考えていた以上に電気の偏りがある(ヴェルヌの晩年に電子は発見されていたけれども、原子核の構造はわかっていなかったし、ましてクォークの存在など想像もつかなかった)。しかし、それを取り出してプラスの電気とマイナスの電気に分けて蓄積できるかというと、非常に難しい。秩序ある状態はそのままにしておくと乱雑な状態に移行するのが自然だというのが熱力学の基本法則で、その基本法則に逆行することになるからだ。この法則に抗して乱雑な状態を秩序ある状態に移行させる装置を「マックスウェルの悪魔」と呼ぶ。この「世界の支配者」は「マックスウェルの悪魔」を実用化したのだとしたら、最終章の「老グラッドの最後の言葉」は老婆グラッドの意図とは別に真実を言い当てていたのかも知れない。

 「世界の支配者」が行ったことの可能性を考えてみれば、エプヴァント号には生命体を造る技術が応用されているのかも知れない。鳥のような脳を持っていれば、羽ばたきながら安定して飛ぶことは可能だろう。いや、むしろ昆虫のほうが適当だろうか。また、植物や藍色細菌が単純な構造しか持っていない二酸化炭素から光合成で栄養素を造り出すように、生物作用を介すれば乱雑な自然界から秩序ある状態を取り出すことができるかも知れない。プラスかマイナスか片方の電気を帯びたイオンだけを摂取するような生命現象を応用すれば、あるいは空中からのフリーエネルギーとしての電気の取り出しは可能かも知れない。ただし、生命には何かの栄養を与えなければならないから、何も与えずに動きつづける半永久機関とはいかないだろう。

 たとえば、エプヴァント号が虫とイオン摂取細菌のようなものの技術を集めて造られているならば、やはり「世界の支配者」は自然や「神」に挑戦する存在としての意識を持っていてもふしぎではない。

 ただ、ヴェルヌは、博物学的な関心はあり、珍しい動植物はいろいろと出てくるけれど、生命体をいじくるような技術はあまり作品のなかに登場させていないので、たぶんエプヴァント号が生命体として造られたという可能性は想定していないだろう。クローン動物とか臓器培養とかいう技術でなくても、精巧な機械を造ることですら、ヴェルヌにとっては自然への挑戦だったのである。そしてヴェルヌはその自然を通して「神」という存在を考えているようにも読める。精巧な機械を造ることが神を冒涜することにつながるという観点は、「驚異の旅」シリーズ開始前の無名時代の短編「ザカリウス師」から見られる。たぶん生涯のテーマだったのだろう。「神」を信じる信じないは別として、精巧な機械を造ることは自然の領域を侵すことなのかも知れないという意識は私たちは持っておいてもいいのかも知れないと思う。


 「世界の支配者」とはいうけれど、この「世界の支配者」は地球を侵略したり征服したりすることに関心を持ってはいないようだ。地上や海上を走り回ってもとくに危害を加えるわけではない。エプヴァント号を奪おうとしたり、「世界の支配者」に危害を加えようとしたら、それに報復を加えるというだけである。人間世界など相手にせず、空・陸上・海上・海中を自由に高速で移動できる乗り物を操ることで自然界を「支配」することに関心があるのだ。

 「世界の支配者」は、かつて、卓越した先端技術を持ちながら、人類が進歩してそれを悪用しなくなるまで公開しないと宣言して人びとの前から姿を消した人物である。それが、人類などもう相手にせず、自然を相手に戦いを挑む「世界の支配者」としてここに帰ってくる。

 卓越した先端技術を人類が倫理的に進歩するまで秘するというのは私たちにとって無縁の話ではない。ふたたび、クローン技術など、生命工学上の技術ではよくある話である。そして、それは、どう悪用されるかわからない技術を人類全体に公開するよりもよいことだとされている。

 だが、卓越した先端技術には何か「呪われた」部分があって、それを独占すれば、たとえそれが善意からであっても、その「呪い」を一身に受けなければならない――そういう感覚がこの作品には現れているように私は思う。

 また、もしかすると、この「世界の支配者」は、取るに足りないと軽蔑していた人間に自分の発明品を壊されたことがいまだに傷として残っているのかも知れない。壊される前から傲慢な人物ではあったけれど、そのころはまだ「遊び心」を持っていたように思う。自分の発明品を壊されてからその「遊び心」のような余裕が失われ、ついに自然や「神」に挑戦しなければ気がすまない――もしかするとそれでも心が満たされない人間になってしまったのだろうか? 自分がたいせつにしていたおもちゃが壊れたことをいつまでも心の傷として抱え、いつまでも意地になっている子どものような人物なのだろうか?

 だが、「先端技術の持ち主は子どものような無邪気で単純な部分をも持っているものだ」というありきたりな話にしてしまいたくはない。


 それにしても、この「世界の支配者」には、「支配者」(主人)であるゆえの孤独を超えて、何か寂しさやわびしさがつきまとう。

 「世界の支配者」というのならば酒池肉林な生活を送っていてもおかしくない(一般家庭の住宅の地下に役に立たなさそうな秘密基地を造ってガンプラ作ることこそ地球侵略の神髄であります! いや、そんなんじゃなくてもいいけど……)。ところが、この「世界の支配者」の身辺にいるのはごくわずかの部下だけである。食いものはというと、缶詰めの肉、干し魚、イカの甲、エール(ビール。「ジンジャーエール」というときの「エール」)という食事だ。主人公のストロックが「捕虜」だから粗末な食事を与えたというのではないらしい。乗組員はみんなこんなものを食っているのだろう。しがない、カネのない会社員がイカをあぶってビールを飲んでいるようなうらぶれた食事なのだ。「世界の支配者」はこんなわびしい、しかも偏った食生活を送っているのだろうか?

 一人でうろつき回って、ときどき片手で天を指している「世界の支配者」の姿は、異様でもあるし、何かこっけいでもあるが、やはり何かどうしようもない寂しさを感じさせる。エプヴァント号が飛び立つときに、「世界の支配者」は、おそらくこれまで乗っていた飛行機械の残骸に火をつけ、焼く。その炎は盛大に燃え上がったのだろうけれど、自分の過去に火をかけて飛び立っていく「世界の支配者」の姿はさびしい。自分を葬送するための道行きに旅立つようにさえ思える。

 『悪魔の発明』(『国旗に向かって』)のトマ・ロックは、この「世界の支配者」よりもはるかに突き放されていた。しかし、そのトマ・ロックも最後には自分のとらわれから解放されることになっている。だがこの「世界の支配者」は解放されない。道行きに旅立ち、そのまま行ったきりである。

 この作品のなかでは「世界の支配者」は悪役である。対するストロック警部は、ヴェルヌ作品によく出てくる不屈の正義漢である。物語はストロック警部の視点で語られる。だが、この作品を読んでいると、ヴェルヌはむしろ「世界の支配者」とともにいて、「世界の支配者」といっしょに最後の旅に旅立つつもりになっているのではないかという妄想にとらわれる。

 それは、これがヴェルヌ生前のほぼ最後の作品だということを知っているために生まれた邪推なのだろうか?


 でも、そういう不吉な運命論に私の思いを引っぱっていくような作品を、一編のエンターテインメントとして描いているところがやはりヴェルヌらしいところである。プロットが他の作品に似ていたり、展開が読めてしまったりするところはあるけれど、最後の作品だからといって落ち着いてしまうことなく、きっちりと冒険物語を描ききったヴェルヌの作家としての意気には感服するばかりである。

― おわり ―

榊原晃三 訳、集英社文庫「ジュール・ヴェルヌ・コレクション」、1994年(訳)

原書:1904年発表