1950sから free jazz/improv の文脈で活動する Cecil Taylor が第29回京都賞を思想・芸術部門で受賞したことを承けて来日した。 京都コンサートホールでの京都賞記念ワークショップで 田中 泯 とのコンサートを行ったが、 東京でも草月ホールで記念コンサートを開催した。 高齢で体調不良の噂を耳にしており、 昨年予定されていた東京ブルーノートのソロは直前キャンセル、 今回の公演も本当に出来るのかと直前まで思っていた。 そんなこともあり、せいぜい1時間程度であっさり終るだろうと思いきや、 途中休憩入れて前半後半約一時間ずつ。 それほど凄いパフォーマンスを観たという感でも無かったが、予想以上に聴けたコンサートだった。
初めて聴いたのは1980年代初頭とはいえ、自分が Cecil Taylor をよく聴いていたのは1990年代。 free jazz 全盛期の1960年代のアメリカでの録音より、 1970年代から1990年代にかけての Hat Hut、Black Saint や FMP といった 欧州のレーベルに残した録音を好んで聴いていた。 しかし、これまで Cecil Taylor の演奏を生で観たことは無く、このコンサートが初めて。 2000年代に入ると Cecil Taylor はほとんど録音をリリースしておらず、 どんな演奏をするようになっているのかは追えていなかった。
抽象的な詩の詠唱からパーカッシブな piano 演奏に入る所など録音で聴いていた演奏を思わせたが、 1980sのソロの録音に聴かれるような力強くビート刻むような抽象的なフレーズは穏やかになり、 緊張感はあるもののメロディアスに聴き易く感じられた。 そんな Cecil Taylor の piano の演奏に合わせるでもなく、 色彩感の乏しい少し暗めの舞台に 田中 泯 が引き攣ったような動きで蠢くのだが、 舞台から遠い席だったせいか生身の人の動きというより映像的。 表現主義の白黒サイレント映画を piano 生伴奏で観ているよう。 Cecil Taylor の piano にこんな印象を受けるとは予想していなかった。