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Review: 『風にそよぐ草』 (Alain Resnais (dir.), Les Herbes Folles) (映画); 『メロ』 (Alain Resnais (dir.), Mélo) (映画); 『巴里の恋愛協奏曲』 (Alain Resnais (dir.), Pas Sur La Bouche) (映画); 『スモーキング/ノースモーキング』 (Alain Resnais (dir.), Smoking / No smoking) (映画)
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2010/03/28
Les Herbes Folles
『風にそよぐ草』
2008 / France/Italy / 104min. / colour / 35mm.
Réalisation : Alain Resnais; Scénario: Alex Reval, Laurent Herbiet; d'après le roman: Christian Gailly: L'Incident.
André Dussollier (Georges Palet), Sabine Azéma (Marguerite Muir), Emmanuelle Devos (Josepha), etc

ヌーヴェル・ヴァーグ (Nouvelle Vague) の左岸派として知られた フランス (France) の映画監督 Alain Resnais の現時点の最新作である2008年の作品は、 Christian Gailly の1996年の小説 L'Incident の映画化だ。 その物語は、ひったくりにあった中年女性歯科医 Marguerite Muir と その財布を拾った無職の初老の男性 Georges Palet の2人の、 少々サスペンス風な所もあるシュールな恋愛物だ。 原作はもちろん他の小説も未読だが、同じく Éditions de Minuit 刊の Jean Echenoz, Jean-Philippe Toussaint に近い作風とみなされているようだ。 1980年代半ばから多用している俳優、Sabine Azéma と André Dussollier が主演しており、 最近の Resnais らしい作風が楽しめる映画だ。

この映画でまず意識させられるのは、登場人物の内面を描写する独白が、 ナレーションとして実際の声で語られるということだ。 それだけではなく、その独白の内容を映像化したものが、 場面によっては画面の一部に映し出されたりさえする。 例えば、Muir の財布を拾った Palet が車を運転しながら Muir にどう電話しようか考えるシーンでは、 その逡巡する気持ちを語る言葉がナレーションとして添えられ、 運転する車のフロントガラス越しの風景の右手に境界をぼやかしたウィンドウが画面内に開き、 Palet が電話をかけるのを逡巡する様子の映像がそこに映し出される。

この映画は小説の映画化だが、小説のプロットを元に映画的な脚本・演出で作り直したようなものではない。 原作を読み比べたわけではなく状況証拠に基づく推論なので、外れている所もあるかもしれないが、 小説をそこに書かれている言葉通りに映像化したらどれだけ不条理でシュールなものになるか、 試みているかのような映画だ。 例えば、登場人物の心理の動きを表現するために小説では独白がよく用いられるわけだが、 それを象徴的な風景のモンタージュや映像エフェクトといった台詞を用いない映画的な映像表現で置き換えるのではなく、 その独白をそのまま映画でのナレーションや台詞とし、 場合によってはそれを演じた映像まで添えてしまう、といった具合だ。

他にも小説を言葉通り映像化していると思われる所は多い。 登場人物の外見や性格を描写するため、 日常の会話では口にしないような描写的なセリフを小説では登場人物に語らせたりもするが、 そういった不自然な会話 —— 例えば警察での Palet や Muir の会話 —— が この映画ではそのまま使われている。 また、文字を追うだけでは判り辛い登場人物のキャラクタを明確にするために添えられていると思われる 小説ならではのちょっとしたエピソードが、そのまま省略されずに挿入されたり。 その結果、普通そんなこと言うかよ、とツッコミ入れたくなるような台詞が映画の随所に現れ、 思わず笑ってしまうようなことも多かった。

このようなマクロな小説の技法だけでなく、もっとミクロな技法である 比喩的な表現をそのまま言葉通りに映像化したと思われるシーンも多かった。 例えば、Palet が表からカフェにいる Muir に視線を向けると Muir が殴られたかのような動きをするシーンがあるのだが、 これは「Muir は Palet の視線に打たれた」のような表現をそのまま表したものだろう。 もしくは、映画の終わり近く、飛行場の事務棟で Palet と Muir がキスをするシーンでは、 これで終わりでもないのに映画のエンディングの (それも Fox Film お約束の) テーマが流れ Fin の文字が画面に出るのだが、 これもおそらく「映画のエンディングのように」のような表現をそのまま映像化したものだろう。

そういう意味で、Les Herbes Folles は メロドラマ劇をそのまま映画化した Mélo (『メロ』, 1986) や オペレッタをそのまま映画化した Pas Sur La Bouche (『巴里の恋愛協奏曲』, 2003) の小説版とも言えるだろう。 映画以外のジャンルでの物語り描写するための技法をそのまま使い、 その技法の違いが生み出す不自然さを生かした表現 ——単なる異化だけでなく、 観客の想像力を引き出す契機に使うような表現 —— を試行するような映画という意味で。 そして、僕がこの Les Herbes Folles を最も面白く感じたのは、この点だ。

その一方で、その仕上がりが MéloPas Sur La Bouche とかなり異なる印象を受けたのも確かだ。 メロドラマ劇やオペレッタの約束事は、 基本的に時間は順に進行し回想場面等が使えない、モンタージュ技法が使えない、ロケ撮影できない、 といった表現上の制約という面が強い。 そのため、映画ではその制約の中でのやりくりの妙を楽しむような所がある。 しかし、Les Herbes Folles における小説の約束事は、 あえて課した表現の制約条件というより、 シュールで不条理でユーモラスな映画表現を作り出すアイデアの源泉という感じだ。 Les Herbes Folles ではロケ撮影が多用されているし、 モンタージュどころかスローモーション、マルチウィンドウ画面など使う技法は自在だ。 そして、そのイメージの飛躍を楽しんだのも確かだが、 ミニマリスト的に強い制約下で作ったパズルのような映画 —— 例えば、精巧に計算されたロングショットを駆使した Mélo とか —— の方が Resnais らしいかもしれないとも思ってしまった。

Mélo
『メロ』
1986 / France / 112min. / colour / 35mm.
Director: Alain Resnais; Script: Alain Resnais, Henri Bernstein.
Sabine Azéma (Romaine Belcroix), Pierre Arditi (Pierre Belcroix), André Dussollier (Marcel Blanc), etc.

Sabine Azéma や Pierre Arditi を起用するようになってから2作目で、 最近の作風の Resnais の映画の中では最初期のものといえる作品だ。 1929年のメロドラマ戯曲 (Henri Bernstein 作) に基づく映画で、 その物語はピアニスト夫婦と夫の音楽院時代の友人である有名男性ヴァイオリニストの三角関係だ。

映画が始ってまず意識させられるのは、その不自然な風景だ。 夫婦の家の庭での友人のヴァイオリニストを招いてのパーティの場面なのだが、 ロケでの撮影でも可能であろうこの場面を、スタジオ内のセットで撮影しているのだ。 光りの加減もそうなのだが、星空が明らかに描いたものと判るもの。 そんな庭で、ヴァイオリニストが過去の恋人の不実について友人夫婦に語るのだが、 それを説明するような映像がカットインされるようなことは全く無い。 ロングショットで会話する様子を捉えているといった具合だ。 カメラの動きも少なめで、ゆっくりズームしたりパンしたりすることがある程度。 そして、この場面が終わり、次の場面との間には赤いビロードの緞帳が映し出される。

この映画は、ある意味で演劇の映画化だ。 もちろん、上演の様子をそのまま収録したものでもないが、 戯曲のプロットを頂いて映画的な脚本・演出で作り直したものではない。 映画的な表現に取って代わられてしまった多分に観客の想像力に任せるような演劇的な演出を 映画の中で積極的に生かして、どれだけ観客を引き込めるが挑戦したかのような映画だ。 舞台で上演するという制約のため、演劇では観客の想像に任せる演出をせざるを得ない。 むしろ、現代演劇では、そこを逆手に取って (そして映画との差別化を狙って)、 あえてリアルではない抽象的な舞台を作る方が一般的だろう。 映画 Dogville (Lars von Trier (dir.), 2003) のセットなど、舞台美術を抽象化して観客の想像に任せる演劇の手法に倣ったとも言えるだろう。 Mélo の場合は、 心理描写や状況説明・回想などの際に用いられる映画的なモンタージュ技法を排して、 もとの戯曲の直線的な展開の中での演劇的な表現に従っているという感じだ。 モンタージュではなく、セリフと音楽で工夫するという。 あと、セリフが長く続くとそれに従いその人物にゆっくりズームしたりと、 舞台を観る際の観客の視線に倣ったかのようなカメラワークが、 その演出を助けていたように感じられた。

このような手法で撮られた映画なので、画面は室内を映し出すばかり。 妻が一人で夫の友人の家を初めて訪れた場面で、 彼女が「眺めがいいわね」と窓の外を眺めても、その眺めが挿入されるようなことはない。 耐えられなくなって妻が家を飛び出すシーンでも、その様子を映像として映し出すことなく、 扉を閉める音のみで表現される。 そんな中、妻の自殺のシーンだけロケで撮影されている。 カフェで手紙をしたため、石畳の夜道を歩き、川に下りて行くという。 映画中でここだけ明らかに異質な映像となっており、現実に引き戻されるようにも感じた。

このような映画なので手法に意識が行きがちになるかと思いきや、 観ていて思いのほかストーリーに引き込まれてしまった。 モンタージュを抑えた Resnais の演劇的な演出は成功していたようにも思う。 自分の場合、ここ十年近く映画よりも舞台作品を観る機会の方が多くなっているので、 こういう表現の仕方に慣れていたということもあるかもしれないが。 また、基になったのが1929年の戯曲ということで、戦間期モダンを感じさせる所が随所にあった。 ヴァイオリニストの部屋はいかにも Art Deco だし、 Romaine を演じる Sabine Azéma のボブにウエストをマークしないワンピースドレス姿も いかにも1920s風、というのも観ていてハマった一因かもしれない。

[2010/03/21記]

Pas Sur La Bouche
『巴里の恋愛協奏曲』
2003 / France / 115min. / colour / 35mm.
Réalisation: Alain Resnais; Scénario : André Barde
Sabine Azéma (Gilberte Valandray), Pierre Arditi (Georges Valandray) Audrey Tautou (Huguette Verberie), Isabelle Nanty (Arlette Poumaillac), Lambert Wilson (Eric Thomson), Jalil Lespert (Charley), et al.

On Connaît La Chanson (『恋するシャンソン』, 1997) [レビュー] に続く (といっても6年空いているが)、 同じく Sabine Azéma と Pierre Arditi が主要な役を演じている作品だ。 邦題には協奏曲 (コンチェルト) とあるが、 André Barde と Maurice Yvain による1925年のオペレッタに基づく映画で、 その物語は Gilberte と Georges の Valandray 夫妻とその周囲の人々が繰り広げる ハッピーエンドの恋愛コメディだ。 ちなみに、原題は「唇には (キスは) ダメ」という意味だ。 Mélo (『メロ』, 1986) や On Connaît La Chanson など、 先行する作品と比較したくなるような点が多く、そういう所を意識しながら楽しんだ映画だった。

この映画からまず思い出させられるのは Mélo だ。 Mélo においてメロドラマ劇をそのまま映画化したように、 この映画はオペレッタをほぼそのまま映画化している (何曲かは省略しているようだが)。 歌詞や台詞もそのまま、回想シーンの映像の挿入や心理描写のモンタージュは使わず、 舞台作品さながらに直線的に話が展開する。もちろん、ロケ無しで、全てスタジオ撮影だ。 Mélo と同様の舞台作品の映画化だ。 といっても、Mélo ほどストイックな演出ではなく、 随所でカメラは切り替えられるし、カメラアングルも上から垂直に見下ろすようなものもあったりと、 自由度は高い。そんな自由なカメラの動きも、 音楽伴奏ではなく登場人物自身が歌い、悲劇ではなくハッピーエンドの喜劇、という オペレッタの陽気さに合っていた。 (ちなみに、悲劇はメロドラマ劇のお約束、 ハッピーエンドの喜劇はオペレッタのお約束と言っていいだろう。)

歌劇的な映画という意味で思い出させられるのは、 On Connaît La Chanson だ。 しかし、On Connaît La Chanson では口パクであったのに対し、 Pas Sur La Bouche では俳優自身が歌っている。 (演技しながら歌ったものを収録したのか、別に収録したのかは判断しかねるが。) 歌の持つ異化作用という点では On Connaît La Chanson が優れていたが、 かならずしも上手いわけではない俳優の歌をそのまま使うことにより、 舞台らしさが良く出ていたようにも感じた。

Pas Sur La Bouche の元の作品のジャンル、 オペレッタというのは19世紀後半に流行ったものだ。 それも、serious art であるオペラとは異なる popular art とみなされるものだ。 また、Mélo で採られているメロドラマ劇というジャンルも同様だ。 いずれも、19世紀に登場した中流階級向けのエンタテインメントであり、 第一次大戦後、映画にその座を譲った。 また、MéloPas Sur La Bouche も、 そのジャンルの最盛期である19世紀後半の典型的な作品ではなく、 映画に取って代わられる直前の1920年代の作品を原作として採用している。 MéloPas Sur La Bouche では登場人物のファッションやフラッパーな女性像など戦間期モダンの流行がふんだんに盛り込まれているが、 原作においては時代遅れになりつつあるジャンルが映画に対抗して最新流行を取入れたという面もあっただろう。 そのような作品を原作に選び、それを忠実に映画化しているのだ。 それによって、メロドラマ劇やオペレッタが映画に取って代わられたというのはどういうことなのか、 映画という形で示されたようにも感じた。

そんなことを考えさせられるのも、 恋愛観や登場人物が多分にステロタイプなオペレッタが原作ということもあるとは思う。 しかし、戦間期モダンの雰囲気も充分に楽しんだし、 当時はステロタイプだったり他愛のないものだったろうものが 時代が変わることにより自然とひと捻り入ってしまったような所が妙に可笑しく感じる時もあった。 そして、そんな部分も充分に楽しめた映画だった。

[2010/03/28記]

Smoking / No smoking
『スモーキング/ノースモーキング』
1993 / France / 140+145min. / colour / 35mm.
Réalisation : Alain Resnais. Scénario et dialogues: Agnès Jaoui, Jean-Pierre Bacri; d'après Intimate Exchanges de Alan Ayckbourn.
Sabine Azéma (Celia Teasdale, Rowena Coombes, Sylvie Bell, Irene Pridworthy, Josephine Hamilton), Pierre Arditi (Toby Teasdale, Miles Coombes, Lionel Hepplewick, Joe Hepplewick).

Azéma と Arditi が出演する映画としては Mélo (『メロ』, 1986) に続く2作目、 次作 On Connaît La Chanson (『恋するシャンソン』, 1997) でも脚本を手がけることになる Agnès Jaoui と Jean-Pierre Bacri が脚本を手がけている。 原作はイギリスの劇作家 Alan Ayckbourn の Intimate Exchanges (1982) だ。 SmokingNo Smoking の 2本の独立した映画として作られているが、実質2本で一作品の映画だ。 MéloPas Sur La Bouche (『巴里の恋愛協奏曲』, 2003) と同様、舞台作品をそのまま映画化したかのような作品だ。

残念ながら未読だが、 The New York Times のレビュー (1998-05-10) 等によると、原作の Intimate Exchanges は 同じ登場人物と同じ始まりを持つ一連の8つの脚本からなっている。 また、1つの脚本につき2つのエンディングを持っており、 第二幕と第三幕の間に “or” のサインが示され、 第二幕で示したエンディングと異なるエンディングに至る物語が、 その分かれ目の場面から第三幕以降で演じられるという。 全16のエンディングに至る物語を全て観るためには32時間を要するという作品だ。 また、全ての登場人物を女性、男性の2人の俳優だけで演じる二人芝居でもある。

登場人物は Teasdale 夫妻、Coombes 夫妻、そして Lionel と Sylvie という3組のカップルに関する物語だ。 その3組の心情の変化等を繊細に丁寧に描くというよりも、 あるきっかけで異なる男女関係が生まれ、もしくは元の鞘におさまり、もしくは死別が待っている、 という感じの様々な物語の展開の可能性を尽くすかのような感じだ。 ステロタイプなものが多かったように思うが、そう持っていくかと思うような意外なオチもあった。

そんな舞台作品を、Resnais は忠実に映画化している。 この作品には女性5人、男性4人の登場人物がいるのだが、 女性登場人物は全て Azéma が、男性登場人物は全て Arditi が演じている。 それも、特殊メイクの類は全く用いず、衣装や髪型、そして口調や動作の演技によって演じ分けている。 映画でも、一つの結末の後に “Ou bien” という字幕を出し、 分かれ目となる場面から物語は再開される。 異なる点は、原作では2つのエンディングを持つ8つの戯曲だったものが、 8つのエンディングを持つ2つの映画という構成に変えられていることだ。 一つの作品の中に3段7回の物語の分かれ目を持つことになり、構造は複雑になっている。 もう一つ大きな違いは、舞台のイギリスがそのままにもかかわらず、 台詞が全てフランス語となっている点だ。

ある意味で、 MéloPas Sur La Bouche と同様、二人芝居といった舞台作品ならではの表現手法を、そのまま映画に生かしたような作品だ。 そして、映画におけるリアリズムに反する手法で撮っている —— 屋外の場面が多いにもかかわらず全てスタジオ・セットで撮影され、 回想シーン等のモンタージュは一切無し、長回しで俳優の演技を捉え続けている —— ことも、 映画的というより演劇的に誇張された俳優の演技も、巧くはまっている。 1980年代以降の Resnais の一連の映画では、出演する俳優も固定的で、 表現手法だけでなく制作の仕方まで映画的というより演劇的、 まるで Resnais が演出家で Azéma や Arditi が専属俳優のカンパニーのようだ。

もちろん、この映画の面白い所はそれだけはない。 コメディ的な要素が強い作品で、笑える所も多くあった。 特にパニックになった女性を演じる Azéma の演技が大いにツボにはまった。 台詞がフランス語で字幕も英語ということで会話はおおよそしか理解できなかったが、 それでもこれだけ笑えたということは、台詞がよく判る人であればなおさらだったのではないだろうか。 そして、このようなコメディ的な面は、Resnais の寄与というよりも、 原作、そして映画脚本を手がけた Agnès Jaoui と Jean-Pierre Bacri —— 次作 On Connaît La Chanson でも大いに笑わせてくれる —— の寄与なのかもしれない。

ちなみに、Resnais は、その後再び、 Ayckbourn の Private Fears In Public Spaces (2004) を Cœurs (『六つの心』, 2006) として映画化している。 残念ながら今回の特集上映でも見逃し、未見だが。

[2010/04/12記]