渋谷のシネマヴェーラで 『溝口健二ふたたび』という特集上映が行われていました。 その中の特別上映ということで、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵の 『ふるさとの歌』 (1925) と『藤原義江のふるさと』 (1930) が上映されたので、 『瀧の白糸』 (1933) も併せて、三本観てきました。
日活第一回トーキー映画。 といっても、セリフや歌、物音と映像が同期している部分は一部で、 サイレントの部分 (音楽は付いている) もあるパートトーキーです。 そんなこともあってか、演技も演出、編集にサイレントっぽさが強く残り、 その過渡期っぷりが興味深く観られました。
物語も単純。 不遇だった歌手 藤村 が、ふとしたきっかけで出会ったマネージャーや金持ちパトロンに会い、派手なセレブな生活へ。 しかし、自動車事故で一時的に歌えなくなることにより、不遇時代に知り合った妻の愛や友人との仲に再び目覚めるというもの。 貧富というか階級差の問題を意識しつつも、傾向映画程でもないメロドラマでした。
1年後に公開された初フルトーキー 『マダムと女房』 (松竹蒲田, 1931) [レビュー] と比べても、 遠近の音の配置や音楽使いは単純で、「我等のテナー」を聴かせるための映画でしょう。 といっても、音質も良くありませんでしたが、そんな低音質の中でも藤原の歌は聴けるもの。 戦前のSP盤音源を聴いていても思うのですが、 この時期の名歌手というのは、低音質に耐える歌声を持っているということだったのだろうなあ、と。
ちなみに、この映画には、皆川 芳造 によるミナ・トーキーという sound-on-film 方式 (Lee DeForest の Photofilm 方式を輸入したものという) が使われていたとのこと。 上映は東京国立近代美術館所蔵の復元版でしたが、 sound-on-film 方式らしきパターンが最後にチラと映るのが見えました。
東京の学校へ行って戻ってきた富農の子と、 秀才だったが貧しく東京へ学びに行くことが叶わなかった小作の子を対比させつつ、 都会への憧れを克服して自覚ある農民となることを決意する農村の若者を描いた映画。 心理描写が浅くて御都合主義的で、説教臭く感じましたが、これは文部省委託作品だからかもしれません。 むしろ、田舎の描き方が暗くウエットな所でなく、明るい田園風景の広がる所のように描いていて、 爽やかさすら感じるところも。 溝口 の映画ということでウェットな描き方を予想していたので、そんな所は意外でした。
柳下 美恵 の生演奏伴奏付きで観ましたが、 ビアノではなく Yamaha の電子ピアノ Klavinova でした。 しかし、映画の世界に入ってしまったら、その違いも気になりませんでした。 ピアノの方が良いとは思いますが、音無しで観るよりは遥かにましかもしれません。
泉 鏡花 の戯曲『義血侠血』を原作とする新派劇『瀧の白糸』のサイレント映画化で、 日活を離れた 溝口 が、当時のスター映画女優 入江 たか子 の独立プロダクションで撮った作品です。
貧しさのため勉学を諦め御者をしていた 村越 欣弥 と 欣弥 に好意を寄せ支援するも金策で破綻する水芸の太夫 瀧の白糸 の悲劇で、 情に厚いが上に破滅する女主人公というあたりも新派っぽいでしょうか。 ロケもありますがセットを多用した撮影で、 特に、瀧の白糸が 欣弥 と再会し彼女が欣弥を口説く場面など、セットも舞台風に感じられました。 そして、そういう所がダメというより、むしろハマっているようにも感じました。
情に厚くて気の強い姉御肌の 瀧の白糸 を演じる 入江 たか子 がとても色っぽく、 つい見入ってしまい、伴奏なしのサイレントでしたが、最後まで飽きずに観ることができました。 さすが当時のスター映画女優、自身のプロダクションでの制作だけあるな、と。
当時の水芸の様子というのも楽しみだったのですが、水芸が写ったのは最初の方だけでした。 舞台の前の端にろうそくがずらりと並んでいる所に、当時の舞台照明の様子が伺われます。 派手に水を吹き上げるのですが、ろうそくが消えないのか気になりましたが。 また、オープニング・ロールのクレジットに演技指導 として 当時人気のあった女性奇術師 松旭斎 天勝 の名がありました。 おそらく、映画で見せている 水芸 は 天勝 のものがベースとなっているのでしょう。 あまり長くは映りませんでしたが、様子が伺えたという意味でも、興味深く観ることができました。