去年に続いて今年も ふじのくに⇄せかい演劇祭 へ。 今年も静岡県舞台芸術公園にある野外劇場「有度」で、宮城 聰 演出の作品を観てきた。 去年の 『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』 は ク・ナウカ 時代の作品の再演だったが、今年は新作。 Prosper Mérimée の戯曲 Le Carrosse du Saint Sacrement (1829) を原作とする Jean Renoir の映画 Le Carrosse d'Or (1952) を翻案したもの。 原作は18世紀のペルーを行く Commedia dell'Arte の一座を描いたものだが、 舞台を日本の中世、戦国時代が始まろうという15世紀末頃の土佐に置き換え、 一座も古事記に題材を取った演目を演じる田楽の一座となっていた。
まず意識させられたのは、 本来は舞台である奥側に客席を設置し、階段状の客席とその手前の空間を舞台として利用していたこと。 劇場に入ったときは奥の緑を借景しないなんてもったいないと思ったが、開演して納得。 一座が領主の館に招かれて上演するときは、領主たちを本来の客席に座らせ、観客に背を向けて上演するという。 これによって、田楽一座の人々から領主やその階級の人たちが、 そして、俳優から観客がどのように見えているのか、その距離感を含めて見せられたようにも感じた。 その一方で、村人を観客に上演するときは、舞台を回転させ観客との間に村人を置いて上演するという。 その時は、自分も劇中の地の部分に入り込んで劇中劇の舞台を直接観ているかのよう。 原作のメタ演劇の構造を、劇場を反転して使うことにより巧みに空間構造に落し込んでいた。
セリフを喋るトーカーと動きを演じるムーバーで2人1役で演じる言動分離は ク・ナウカ 時代からのものだけれども、 演じながらセリフをしゃべる言動一致の所もあり、その組み合わせ方も良かった。 主に劇中劇の場面を言動分離にしていたように思うが、 役者自身の声からトーカーの声に変わることにより、まるで役者に他の人格が立ち現れた、 というか、演ずる神が憑いたかよう。中世芸能には宗教儀礼的な面もあったなあと思い起こさせられた。
特に印象的だった場面は、最後近く、男性の神が三人の女性の神の中から一人を妻に選ぶという舞台を演じる場面。 (残念ながら、そのような話が古事記にあったか自分には覚えが無い。 むしろ、妻を一人選ぶという考え方自体が古事記っぽくないと感じられた。) 男性神を演じる一座の主演女優カミーラに対し、女性神3人がカミーラを愛した3人の男性に入れ替わる所。 劇中劇での性別と劇での性別の逆転し、 カミーラ演じる 美加理 とトーカーの 阿部 一徳 の声が入れ替わり立ち現れ、 劇中劇と劇の関係が符合してその現実感が曖昧となる瞬間を巧みに作り出していた。
この言動分離と言動一致を組み合わせて使うことについて、 終演後のトークで 宮城 聰 は 小津 安二郎 のサイレント映画 『浮草物語』 (1934) を観て着想したと言っていた。 『浮草物語』は旅芸人一座の世界を描いた映画だが、宮城 はこの映画を観て、 劇中劇の所では発話の動きと字幕のタイミングがズレていてもリアルに感じられたのに、 地の場面では嘘っぽく感じられたという。 自分がサイレント映画を観ているときを振り返ると、うまく映画の世界に没入できれば サイレント映画であっても音が聞こえるかのような感覚になる。 そういう感覚になれた時に、発話の動きと字幕のタイミングのズレによるリアルさの喪失が、 劇中劇か地の場面かで異なるとはあまり思えない。 また、自分が『黄金の馬車』を観ていたときも、 言動分離/言動一致の使い分けを、リアルさという観点から意識することは無かった。 といっても、どういう表現がリアルに感じられるかは、 受容の文脈で異なるというのは充分に違うというのはあり得るし、 そういう所に着想して言動一致と言動分離を使い分けて組み合わせるというのは、面白い試みだとも思う。
劇場における舞台/客席の配置や言動分離/言動一致の組合わせの面白さなど、 原作の持つメタ演劇な構造は、おおむねうまく機能していたと思う。 しかし、最後に役者/俳優の生き様の語みたいになってしまった所は、正直に言えば若干興醒め。 こういうメタな構造は一歩間違うと自分語り的になってしまう危うさがあるものだなあ、とも思った。
もちろん、カミーラを演じる 美加理 の美しい立ち振る舞いも、 西アフリカのパーカッションを中心としたアンサンブルによる舞台の盛り上げも、 山の中の野外劇場という雰囲気も、そんなメタ演劇という枠組みに損なわれることなく、 充分に楽しむことができた。