年末年始の 小津 安二郎 サイレント映画特集 [レビュー] で、すっかり映画づいてしまっています。 今日の東京は大雪だったので、家でのんびり映画三昧で過ごしてしまいました。 家で (DVDプレーヤ & iPad mini もしくは MacBook の画面) で観る場合サイレントではなかなか映画に集中できずに没入できずイマイチなので、 最近は1930年代の日本のトーキー映画を観ています。 それも、小津からの流れということで、松竹蒲田・大船のいわゆる小市民映画を中心に。 というわけで、今日に限らず、ここ二週間ほどの間に観ている映画について。
まずは、小津 安二郎 の初トーキー作品を10年ぶりに再見。 郷里の母の期待を一身に受けて上京したものの思うようにならない生活を送る一人息子を、 母が上京して訪れた数日間を描いたもの。 挫折とその受容を淡々と描くのだけど、 『東京の宿』 (1935) もそうだけど、この頃の作品は重過ぎて、 観ていてせつないという感傷どころではありません。 くすっと笑わせるようなユーモアを感じる場面も無ありません。 特に一人息子の良助 (日守 新一) が他人事じゃなくて……(不甲斐なくてすみません)。 作風だけでなくテーマにもサイレント時代に通じるものがあって、 『東京の合唱』の主人公が英語教師になってからの生活、 もしくは、『青春の夢いまいづこ』のベーカリーの娘と結婚する斎木のその後の生活はこんな感じだったのかな……、と思うところも。
ところで、貧しくも上品さを失わない楚々とした良助の妻・杉子を 坪内 美子 が演じています。 主要な割に地味な役ということで以前観たときは強い印象を残さなかったのですが、 今回は『浮草物語』がツボにはまってしまった直後なだけに、ついそちらに目が行ってしまいました。
このトーキー第2作は初めて観ました。 恐妻家の大学教授ドクトル小宮 (斎藤 達雄) とその妻・時子 (栗島 すみ子) が、 その家に泊まりにきた大阪の姪 節子 (桑野 通子) の引き起こす騒動を経て、 かつての男女の情を取り戻すという、大人向けの洗練されたロマンティック・コメディ。 会話のテンポも軽妙だし、洗練されたモンタージュで心の動き浮かび上がらせる所など、さすが。 エンディングの小宮夫妻の二人だけのエロティックな夜を直接的ではなく台詞も少なめに浮かび上がらせる (妻が夫に軽くボディタッチしながら「コーヒーをいれましょうか」と誘う、下女を休ませ自らコーヒーを淹れに行く、順に落ちて行く廊下の照明、廊下の奥でそわそわと妻を待つ夫、コーヒーの乗った盆を持って戻ってくる妻、部屋に消える二人) など、巧いなあ、と。 こういう映画は映画館でじっくり味わいたいものです。
もちろん、奔放なモガ節子を演じる洋装の似合う 桑野 通子 も良いのですが、 キツい妻から可愛い妻へ変わる時子を演じる 栗島 すみ子 も良かったし、 時子と2人の友人 (飯田 蝶子, 吉川 満子) の有閑マダム三人組のおしゃべりもこの映画の楽しみどころ。 夫の前ではキツい時子も三人では楽しそうで、 今はいい歳したマダムだけど、かつては、仲良し女学生グループだったのだろうなあ、と。 島津 保次郎 『隣りの八重ちゃん』 (1934) の中に、 女学生の友達・悦子さん (高杉 早苗) と八重ちゃん (逢初 夢子) の間で隣家の帝大生 恵太郎 (大日方 伝) のことを 「フレデリック・マーチに似ているわね」「そうかしら、いつも見ているから気付かなかったわ」 と話題にする場面があります。 この『淑女は何を忘れたか』では、マダム三人組が、フレデリック・マーチみたいな家庭教師だの、 家庭教師になったドクトルの所の助手・岡田のことを軍艦マーチだとと話題にします。 これは『隣りの八重ちゃん』でのやり取りを連想させられるもので、 マダム三人組も女学生時代は八重ちゃん悦子さんのよう、 ドクトル夫妻も若かりし頃は八重ちゃんと恵太郎のようだったのかな、なんて、想像させられたり。
他の映画を連想させる台詞といえば、終わり近く、 岡田と一緒にカフェにいる節子がふっと席を立って言う「うち、明日の今時分、もう大阪や」。 これは、『浮草物語』 (1943) の線路脇逢引場面での「あたしたち来年の今頃どうしてると思う?」の変奏で、 いつの間にか節子は岡田の事を好きになっていたんだな、と、そんなことを気付かせる台詞でした。 あと、ドクトルが節子と飲むバーに掲げられている “I drink upon occasion, sometimes upon no occasion” Don Quihotte という言葉は、 その後の映画、『宗方姉妹』 (新東宝, 1950) で節子 (田中 絹代) の経営する Bar Acasia にも掲げられます。