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Review: 大庭 秀雄 (dir.) 『花は僞らず』 (映画); 大庭 秀雄 (dir.) 『むすめ』 (映画); 原 研吉 (dir.) 『ことぶき座』 (映画); 池田 忠雄, 中村 登 (dir.) 『お光の縁談』 (映画)
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2014/03/17

東京国立近代美術館フィルムセンター の 『よみがえる日本映画 vol.7 [松竹篇]』。 前半に観た4本 [レビュー] に続いて、 後半、3月9日と15, 16日に観た4本の鑑賞メモ。あらすじも簡単に。 後半に観たのは1941年以降ということで、計らずしも、戦前というより戦中〜終戦直後の映画。 今回は観た順ではなく、公開時期順としてみました。

1941 / 松竹大船 / 白黒 / 69min.
監督: 大庭 秀雄.
高峰 三枝子 (假名子), 佐分利 信 (城太郎), 徳大寺 伸 (舟木), 水戸 光子 (純子), 森川 まさみ (槇江), etc

あらすじ: 新橋の近くに勤めるサラリーマンの舟木は部下のタイピスト純子と互いに好意を持ち合う仲。 そんな舟木に大阪から東京にやってきたお嬢様 假名子との縁談話が社長から来る。 假名子は東京に来たついでに、彼女の実家の支援で大学で鉱物の研究をする幼馴染みの城太郎を訪れる。 社長の命で城太郎の家への道を純子が案内することになったため、純子は舟木の縁談相手を知ってしまい、自分は舟木から身を引こうとする。 舟木は純子を選ぶつもりでいたが、純子の舟木への態度がよそよそしくなって、どちらを選ぶべきか躊躇する。 城太郎は假名子に密かに好意を寄せていたが、舟木の友人ということが假名子とその母に知れて、舟木の気持ちを確かめる役を任される。 そのために舟木と会った晩、城太郎は舟木から純子の話を聞かされる。 その晩に二人で入った喫茶店が、偶然、以前に舟木が通帳の入った袋を拾ってあげた娘 槇江のやっている店で、城太郎も槇江とその父と知り合う。 槇江の父は仕事もせずに山登りして鉱物を探す趣味に没頭しており、その話で城太郎は意気投合する。 その後、舟木に音楽演奏会への誘いを断られ、代わりに城太郎を誘いに来た假名子は、 ふと手にとった机の上の本に假名子の写真を挟んでいるのを見て、 城太郎が假名子に密かに好意を寄せていることに気付いてしまう。 城太郎も假名子もそんな素振りも見せずに舟木との縁談の話をする中、舟木と純子の仲を城太郎は假名子に話してしまう。 そこで假名子は舟木を諦めて大阪へ帰り、舟木も純子を選ぶと決めて故郷に帰ってしまった純子を迎えに行く。 一方、城太郎の研究は槇江の父の見付けた鉱石のおかげで成功し、 その事を槇江の父と一緒に祝う中に持ち上がった槇江との縁談の話を城太郎は受けることにする。 一方、假名子も自分に好意を寄せてくれている城太郎を結婚相手にしようと思い、 城太郎の研究成功の知らせに合わせて再び東京に出て、城太郎を訪れる。 そして、城太郎の部屋で假名子は城太郎から槇江との結婚話を聞かされる。 假名子は城太郎の机の上の本に挟んであった自分の写真を取り出し破り捨て、寂しく城太郎の部屋を去って行った。

戦後に大ヒットしたメロドラマ『君の名は』で知られる 大庭 秀雄 によるメロドラマ。 確かに、舟木と純子、假名子と城太郎は身分違いの恋ではあるけれども、その越え難たさは強調されず、 むしろ身分違いの躊躇の生むタイミングのズレが織りなす2組の男女の思いと運命の綾を描くよう。 そんな4人の心情の揺れの丁寧な描写も良いし、 舟木や純子の働く新橋・日比谷界隈のオフィス街や城太郎の住む弥生・本郷界隈の坂の多い街並を巧みに使ったロケも良いし、 ロマンチックなピアノ曲 (耳に覚えがあるですが曲名等は思い出せませんFrédéric Chopin: Fantasie-impromptu, Op. 66) の効果的な利用による流麗な展開も良く、 情念的なメロドラマというより都会的な軽妙さもある恋愛映画を見るようでした。 高峰 三枝子 の美しさ、特にラストの寂しげな顔の美しさも、非常に印象に残る映画でした。

『花は僞らず』を観て、朴訥で鈍感な学究肌の青年とブルジョワお嬢様の成就しない恋というメロドラマ類型があることに、つくづく気付かされました。 苦学して大学で研究を続けている青年が、その経緯は別にして、 幼馴染みのブルジョワお嬢様を諦めて庶民的な女性を伴侶に選ぶという展開という点で、 『花は僞らず』での佐分利―高峰と 野村 浩将 (dir.) 『男の償ひ』 (1937) での佐分利―桑野の組合わせは被って見えます。 『男の償ひ』での手切れ金のことで喧嘩別れする逢引の場面までは、『金色夜叉』の貫一お宮を思わせる展開。 『金色夜叉』がそのパターンのルーツの1つで、新派悲劇のように世間に復讐するような方向に向かわず、 代わりに庶民的な女性を選ぶということになるのが、松竹メロドラマの新しさだったのかもしれません。 そして、そんな 佐分利 信 が間違ってお嬢様を選んでしまった場合の後日談が 小津 安二郎 (dir.) 『お茶漬けの味』 (1952) で、 対等な相手を選んだ場合の後日談が 小津 安二郎 (dir.) 『彼岸花』 (1958) なのかもしれないなあ、と。

お嬢様という役とはちょっと違いますが、 清水 宏 (dir.) 『按摩と女』 (1938) で佐分利が高峰へ「銀座なんかでばったり出会っても知らん顔でしょうね」と言う所など、 『花は僞らず』で佐分利が高峰に「僕にはこのくらいの女性がお似合いかと思って……」と喫茶店の娘との結婚話をする所と被るよう。 その後、佐分利に去られて呆然とする高峰の寂しげな美しさも、『花は僞らず』とエンディングと被るよう。 『按摩と女』の佐分利―高峰の部分は、とてもメロドラマ的だったのだなあ、とも気付かされました。 そして、女性に鈍感不器用で好意を寄せられているのにそれをうまく汲むことができず自分が好きな女性を諦めてしまう、 そんな朴訥実直な青年というのが 戦前松竹メロドラマにおける 佐分利 信 のはまり役だったのだなあ、と。 (そして、諦められてしまうお嬢様役が、高峰 三枝子。)

また、『花は僞らず』では、 女性の対比がブルジョワのお嬢様 (假名子) と地方出身の庶民の娘 (純子) という階級差的なものなのに対し、 男性の対比が階級差ではなく、職場恋愛もあり仕事帰りに銀座でデートもあり得る新橋界隈にオフィスのある華やかな文系のサラリーマン (舟木) と 弥生の下宿から (おそらく本郷の) 大学の先生をしているという女っ気のない地味な技術系の研究者 (城太郎) という対比になっています。 密かに思いを寄せていたお嬢様の縁談が自分に来ることはなく、 よりによって職場恋愛もありな華やかなサラリーマン生活を送る友人の所に行く、 ましてやその間を取り持つ役を頼まれることにより女性からの縁談や好意の対象として看做されていないことを思い知らされるという、 そんな城太郎の心情はいかばかりかと。 そして、最後にやっとの思いで言った自分が好意を持っていたことをお嬢さんに仄めかした言葉が 「(本当はお嬢さんの事が好きだったけれども、) 僕にはこのくらいの女性がお似合いかと思って……」だったというのが切なかったです。

『花は僞らず』では、城太郎が弥生に住んでいるという設定で、本郷、弥生や根津の坂がロケに使われていました。 自分も20代前半、大学から大学院にかけての4年間、根津から本郷へ坂を登って研究室へ通っていたこともあり、 ロケに使わていた風景や城太郎の役回りから、女性とほとんど縁の無かった当時の研究室での生活が思い出され、 佐分利 信 演じる 城太郎 への感情移入が不可避でした。

1943 / 松竹大船 / 白黒 / 77min.
監督: 大庭 秀雄.
高峰 三枝子 (文子), 河村 黎吉 (その父 新六), 葉山 正雄 (その弟 勇吉), 三浦 光子 (富江), 坂本 武 (その父 角平), 飯田 蝶子 (その母 おかつ), 上原 謙 (歯科医 向井), etc

あらすじ: 下町で洋装店を営む文子は、失業中の料理人の父と工員の弟の面倒を見ている。 ある日、電車の中で文子は座っている男性客に荷物の多い女性に席を譲るようにとやり合う。 それからしばらくして痛い虫歯の治療に近所の歯科医院へ行くと、その男向井が歯医者をやっていた。 最初は気不味くなったものの、お互い素直に謝り合い、通ううちに互いに好意を持つようになる。 その歯科医院には、近所の幼馴染み 富江 も通っており、彼女も向井に好意を持っていた。 そんな所に、富江の両親経由で近所のちりめん問屋の若旦那からの縁談が文子にあり、 父の強い勧めもあって、一旦は文子は向井を諦め、縁談を受けることにする。 しかし、富江が頼まれて文子が新調した白衣を向井に届けた時に、 富江は文子と向井が相愛である事に気付き、 仲人をしていた両親に文子とちりめん問屋の若旦那の縁談を止めるように説得する。 そして、ぎりぎりの所でその縁談は破談となり、文子と向井が結ばれることになる。

『花は僞らず』と同じく 大庭 秀雄 による 娘の縁談で巻き起こるドタバタを描いた人情喜劇です。 それも、小津 安二郎 の「喜八もの」でお馴染み 坂本 武 & 飯田 蝶子 の世話焼き夫婦に、 河村 黎吉 のダメ親父という、松竹おなじみの俳優がいかにも当て書きの役を演じているという、鉄壁の布陣。 高峰 三枝子 と 上原 謙 のやりとりも微笑ましくて、 最初の電車内での足を踏み合いも可笑しかったし、その後歯医者でばったり再会という都合主義も、こういう喜劇だと許せます。 同じく向井に好意を寄せていてちょっとしたライバル心も見せていた富江が、 それゆえに向井が文子に好意を持っていることにも気付いてしまい文子と向井の縁結び役に回る、 というのはちょっと切ない所ですが、 富江と文子の女性の友情を強調するところも松竹らしい。とても楽しい喜劇映画でした。

ガダルカナルからの「転進」の後で戦局も次第に怪しくなって統制が厳しさを増す時期の映画ですが、 働くことの重要性を強調するくらいで、戦時色をほとんど感じさせない喜劇というのも素晴らしいです。 1930年代の松竹であれば、富江にも素敵な相手が出来る (もしくはその兆しの) エピソードを強引に持って来て 大団円のハッピーエンドにしそうなところ、 文子の縁談を契機に父と弟が真面目に働くようになるという話を最後に持ってきた所が、 最も戦時色を感じさせた所でしょうか。

1945 / 松竹大船 / 白黒 / 65min.
監督: 原 研吉.
高田 浩吉 (梅中軒鶴丸), 小杉 勇 (鈴村), 高峰 三枝子 (その娘 千代), 桑野 通子 (千代のおば), 廣澤 虎造 (廣澤 虎造), etc

あらすじ: 浪曲師 梅中軒鶴丸 は釧路に居た頃、釧路ことぶき座の所有者 梅村の娘・千代に好意を抱いていたが 千代に縁談があることを知って生活は荒んでいた。 鈴村に才能をくすぶらせるなと諭され上京資金を渡された鶴丸は、東京で虎造の弟子となりやり直す。 8年後に成功した鶴丸が慰問巡業で釧路を訪れると、山っ気のあった千代の夫のために梅村と千代は落ちぶれ、千代の夫は失踪していた。 鶴丸は二人を東京に連れて行って養おうを申し出るが梅村は拒絶。 鶴丸は一旦は釧路を去るが、師の虎造と相談し、千代に結婚を申込に再び釧路へ戻ることにする。

戦前の浪曲というか寄席の公演の様子、戦中の慰問公演の様子が伺えるという意味では興味深く観ましたが、 芸道ものとしてもメロドラマとしても薄く感じました。 終わり近く、鶴丸が好きだったんじゃないのかと父に問われて、 千代(高峰三枝子)が「自分の気持ちに気付いたときは遅かった」と答えるわけですが、 これは、小津 安二郎 『宗方姉妹』 (1950) で 妹(高峰 秀子)が姉(田中 絹代)にどうして田代(上原 謙)と結婚しなかったのかと問うたときの答えと同じですね。 これも、メロドラマ的なお約束セリフなんでしょうか。

1946 / 松竹大船 / 白黒 / 62min.
監督: 池田 忠雄, 中村 登.
佐野 周二 (友吉), 水戸 光子 (お光), 川村 黎吉 (その父 三平), 坂本 武 (源七), etc.

あらすじ: お光は父 三平と銀座で食堂を経営している。 復員したばかりの板前 友吉 と お光 は互いに好意を持ち合っているが、互いに伝えておらず、つい意地を張っていつも口喧嘩ばかり。 父はそんな二人の気持ちに気付かず、喧嘩ばかりしている様子を見て二人を結婚させること諦め、それぞれ別に縁談を考えるようになる。 そんな折、お光に金持ちの若旦那のからの縁談が持ち込まれる。 一方で、外地から帰ってきた姉夫婦に事業を始める資金が入用になり、 友吉の気持ちが判らないお光は、姉のために金と引き換えに縁談を受けることにする。 しかし、金のために縁談を受けたことを友吉が知り、 金のために結婚したと思われないように金は返せと、友吉はお光へ蓄えを渡す。 その時に一緒に渡した戦地から届ける筈だった手紙からお光は友吉の気持ちを知り、 お光はその金を持って縁談を断りに行き、友吉と一緒になることを決める。

小津 安二郎 の映画をはじめ松竹で脚本を多く手掛けた 池田 忠雄 が 中村 登 と一緒に監督した人情喜劇。 母がおらず、娘の気持ちを読めずにに縁談を勧めてしまう父や、 一度は自己犠牲で縁談を受けることを決めてしまうあたり、『むすめ』と似ています。 頑固な父が 河村 黎吉 だったり、近所の馴染みが 坂本 武 だったり。 こういう内容で 飯田 蝶子 が出て来ないところが少々もの足く感じました。 一方、店の主の娘と目をかけられている奉公人の恋という 水戸 光子 と 佐野 周二 の関係は、 『むすめ』というより 野村 浩将 (dir.) 『お絹と番頭』 (1941) を連想されられる所も。 こういう勝気な娘役は、10年前であれば 田中 絹代 がやってたであろう役どころ。 水戸 光子 は 田中 絹代 の後釜的なポジションだったのだなあ、と。

『むすめ』や『お絹と番頭』では、二人が自分の好意を相手に自ら知らせることはなく、 周囲が察して持ち上がった縁談を無しにして二人を結ばせてやるという話。 当事者より周囲のドタバタがラブコメというより人情喜劇という印象を強くします。 しかし、『お光の縁談』は、最後に自ら好意を伝え、自ら縁談を断りに行きます。 このようなヒロインの能動的な所もあって、友吉とお光のやり取りにラブコメ的な面白さが加わったよう。 終戦直後の東京を舞台にしているのに、戦前戦中の人情喜劇とあまり変わらない雰囲気も凄いと思うのですが、 その一方、この能動的なヒロインによって加わったラブコメ的なテイストは戦後ならではなのかもしれません。

『よみがえる日本映画 vol.7 [松竹篇]』 の上映作品24本のうち観られたのは1/3の8本ですが、 それなりにまとめて観たことにより、メロドラマの類型や俳優のお約束のキャラクター設定などを 多少は掴むことができました。 散発的に2〜3本観ただけでは判らなかっただろうし、これだけ楽しめなかったと思います。 また、今まで小津調だと思っていたことのかなりの部分が実は松竹大船調だと判ったのも、収穫でした。 松竹大船調のようなスタジオの持つ特性を捉えるには、作家性の低いB級映画 (プログラム・ピクチャー) の方が適していたようにも思います。 小津 安二郎 の映画に厳格なカメラワークによるミニマリズムといった個性があるのも確かですが、 決して孤高だったわけではなく、 異なる映画で繰り返し使われる同じ俳優のキャラクター設定など同時代の松竹映画と世界観を共有していた部分も少なからずあったことに気付かされました。 小津の映画の見方もだいぶ変わったように思います。 そしてそれは、清水 宏 や 島津 保次郎 といった作家性の高い他の監督にしても同様。 そうった点で、今回のこの特集上映はとても勉強になりました。

スタジオ中心のスター・システムの下で作られた映画で、 似たような物語で同じような俳優が似たような役を演じる中に、それでも監督の個性を感じたのも確か。 特に、今回観た8本の映画の中では、大庭 秀雄 の監督した『花は僞らず』と『むすめ』での丁寧な心理描写が印象に残りました。 中でも音楽使いも東京ロケも良かった『花は僞らず』がベストでしょうか。

予習に 野村 浩将 (dir.) 『愛染かつら 総集編』 (1938-9) を家で (というか出張の移動中に) 観て、 最初に 蛭川 伊勢夫 (dir.) 『淚の責任 (前篇 紅ばらの巻・後篇 白ばらの巻)』 (1940) を観た頃までは、 この特集上映に、というか、戦前松竹メロドラマにここまでハマるとは我ながら予想しませんでした。 10年前であれば類型的な物語や保守的な価値観に変に反発したりして観ていられなかったのではないかな、と思ったりもします。 自分も好いたの惚れたの結婚だのそういう事とはすっかり無縁になって、 恋愛や結婚を主題とするメロドラマも他人事として距離を置いて形式的に観ていられるようになったということも大きいのかもしれません。

そんな中では、佐分利 信 のはまり役、『男の償い』での滋や『花は僞らず』での城太郎のような 朴訥で鈍感な学究肌の青年 (今で言う「不器用理系男子」 のようなキャラクター) には 距離を置いて観ていることがなかなか出来ず、その点はまだまだ修行が足りないな、と。 それにしても、こういうキャラクターが、既に戦前のメロドラマにおいて主要な登場人物の一つとしてあった、 というのも感慨深いものがありました。