FESTIVAL/TOKYO 2017 のブログアムから、 まずはこれを観てきました。
Teatr Polski we Wrocławiu (ヴロツワフ・ポーランド劇場) 制作によるポーランドの演出家 Krystian Lupa の演劇作品。 舞台はウィーン。昔の友人だった女優 Juana がアル中の末に自殺したことをきっかけに、 劇場付きピアニストとクラシックの歌手という Auersberger 夫妻の家でのパーティ「芸術の夕べ」の様子を、 主に20年ぶりに顔を出した作家 Thomas の視点で描いていた。 この物語は元となった小説の作者 Thomas Bernhard の実体験に基づいたもので、登場人物にはモデルとなった人物が実際に存在するとのこと。 Lupa は Bernhard の戯曲を多く取り上げてきているとのことだが、今回の作品は作品を演劇に翻案している。
昼にあった Juana の葬式の様子や、生前の Juana とのエピソードなどが、回転して転換した舞台だけでなく映像も使って途中に差し込まれるが、 パーティの始まりから終わりまでほぼ時間どおり、だらだらと4時間 (途中休憩あり) 展開する。 演劇的な発声を使う時もあるが、ぼそぼそとした発声をマイクで拾うことが多く、そういう演技も映画的に感じられた。 映像を使ったり、回転する舞台装置を使ったり、スタイリッシュに感じる所もあったが、俳優の動きも少なめで、セリフ主導のオーソドックスな演出に感じられた。
国立劇場の俳優が登場してパーティの雰囲気が次第に悪くなっていくとその様も興味深くなったが、 パーティの会話も興味を引かれるものでもなく。 Thomas の視点は「芸術の夕べ」に集う芸術家たちの俗物性を批判するような内容だったが、 舞台は時事的なテーマを絡めることもなくだらだらと進行するので、 むしろ、深夜の酔っ払ってねむくなってグダグダな会話に巻き込まれた John (Juana の自殺時のパートナーで芸術家ではない) の居場所の無さを体感したような気分になった。 「芸術の夕べ」を俗物性を台詞で批判するというより、「芸術の夕べ」の空虚さを実際の4時間を使って観客に体感させるような作品だった。
後半から登場する国立劇場の俳優は、パーティに来る直前に Henrik Ibsen: Vildanden 『野鴨』に出演しており、 老 Ekdal の役作りの大変さを自慢げに話続け、パーティの座を白けさせる。 老 Ekdal って山籠りして作るような役だっかと思いながらその様子を観ていたのだが、 それは Deutsches Theater Berlin 制作 Michael Thalheimer 演出 [レビュー] の印象が強かったからなのか、 そのようなギャップを作家としても意図していたのだろうか。 パーティのホステス Auersberger 夫人は Henry Purcell の歌を得意としているとのことで、 “The Plaint” とか一曲くらい歌うかと期待したのだが、それは無し。 舞台転換の際に “The Cold Song” が (男声の録音で) 使われていた。 実は、あれは Auersberger が歌っていると暗示していたのだろうか。 そういった所が少々引っかかった。