りゅーとぴあ (新潟市民芸術文化会館) のレジデントカンパニーの Noism の新作ダブルビルが 本拠地に続き関東で公演されたので、観てきました。 新型コロナウイルス感染症流行直前、約1年前の『森 優貴/金森 穣 Double Bill』 [鑑賞メモ] に続いて、同じ2人の振付です。
舞台上の道具は木製の近代椅子のみ、20世紀前半頃を思わせる洋装の彩度の低いセピア色の衣装に、 ロマンチックに盛り上がるピアノ曲を多用した音楽で、 ダンスというより物語の断片を大振りのマイムで演じるかのような場面が展開していきます。 その物語はロマンチックの男女関係を思わせるものもありますし、苦悩や離別を想起させるようなものもありますし、 椅子に腰掛けて静かに見つめている場合もあります。 そんな場面の断片を、空間的に並置していくだけでなく、暗転で細かく場面を切って繋いでいきます。 ピアノ伴奏でセピア色の衣装のそんな無言の動きを観ていると、 ピアノ伴奏付きの1920s頃モノクロサイレント期のメロドラマ映画の断片コラージュを観ているよう。 人の動きで構成展開していくというより、活人画的にも感じる時もありましたが、 舞台上のレトロな雰囲気もあってむしろそれが合ってたようにも感じました。 森 優貴 の振付作品を観たのはこれで3作目ですが、この作品が最も好みです。
ロームシアター京都開館5周年の委嘱作品として、雅楽の楽団 怜楽舎 との共演を前提に作られた新作です。 雅楽との共演、といっても、古典的な太平楽とかではなく、 雅楽アンサンブルのための現代曲 武満 徹 『秋庭歌一具』 (1973/1979) が用いられています。 蝋燭が建てられた衝立に囲まれた舞台に、衣装も薄絹の羽織こそ和風ですが、 日本的な意匠をことさら強調せずにミニマリスティック。 摺足気味の上下の動きを抑えた足捌きや、能狂言を思わせる足を踏み鳴らすような動きに少々日本的な所作を感じる程度。 床に投影されたシルエットに重なるようん 井関 が踊る場面での、井関とシルエットの関係は、 『クロノスカイロス1』や『Fratres II』 [鑑賞メモ] も想起され、 『残影の庭』というタイトルにも映像と身体との関係への問題意識を感じさせるもの。 雅楽を用いつつも、和の意匠をキッチュに用いることなく、 むしろそれまでの創作で感じられるような問題意識と通底するミニマリステックなスタイルで纏めていた舞台でした。
新型コロナウイルス感染症流行で多くのカンパニーが公演できなくなり映像のストリーミングなどを行なっていますが、 Noism も映像舞踊と謳った作品をストリーミングで公開しています。これについても併せて。
2020年の半ば、新型コロナウイルス感染拡大で厳しい外出禁止令となった欧米を中心に、 ミュージシャンやダンサーによる自宅からウェブ会議システムを使ってのセッションがよく行われ、 その映像がSNSなどで流通することも多かったのですが、その映像スタイルを踏まえた作品です。 流石に日本の狭い個人宅での収録は難しいということで、 地元のヴィンテージ物も扱う家具店の協力を得てその店舗を収録場所に使い、 自宅風に見せた空間での各ダンサーのダンスを、ウェブ会議風のマルチウィンドウ画面に編集しています。 そしてラスト近く舞台上での集合パフォーマンスにつながり、再びバラバラの画面で皆が臥せて終わります。 音楽に Bolero が使われており、音楽の各パートに対応してダンサーが踊るのですが、 次第にパートが増えて盛り上がっていくという曲の展開もそんな演出にうってつけでした。 自宅ではないので生活感溢れている程ではないけれども日常に近い空間で、普段着に近く感じる服装もあり、 外出自粛での室内での一人での煩悶、舞台上に集合しての踊りへの希求、形式も含めユーモアを感じさせるダンスと映像で、 Noism の舞台作品と一味違う共感と親しみを感じるものでした。 新型コロナウイルス感染拡大による公演機会喪失を受けて始まった Instagram Live を使った金森 穣と井関 佐和子のトークにしてもそうですが、 新型コロナウイルス感染拡大の状況を受けての活動を通して、 Noism の意外な親しみやすい面を見ることが多くなったようにも思います。