2016年に Festival d'Aix-en-Provence で初演されたプロダクションによる、 Claude Debussey 唯一のオペラ Pelléas et Mélisande です。 初演時の Mélisande 役は現代音楽を得意とする歌って踊れる歌手 Barbara Hanning でしたし、 名を目にしたことはあれど観たことがなかったイギリスの演劇・オペラの演出家 Katie Mitchell の現代演出を観る良い機会かと、足を運びました。
舞台は現代 (と言っても家電の存在感が無いので戦後の20世紀半ばくらい) のかなり裕福な一家。 序曲前に無音で演じられる冒頭の場面、パーティ中に気分が悪くなったかで、 花嫁姿の女性が一人部屋に入って来てベッドに倒れ込みます。 そこで見た現代の女性のマリッジブルーと言うには深刻な悪夢として描かれていました。 オリジナルは5幕構成ですが、第3幕と第4幕の間に休憩を入れる2部構成でした。
舞台装置は二階建てで、上下と左右 (1:2くらいの比) で4分割し、 暗幕と照明で区分した演じられている部分だけ浮かび上がせ、 幕が閉じている間に区分内のセットを入れ替えていくと言う、 マルチスクリーンの映像のように場面を切り替えていく演出でした。 それぞれのセットは象徴的ながら細部はリアルに作りこまれたもの、 ベッドルーム、家族が集うダイニング、着替えなどに使うクローゼットのような小部屋、はもちろん、 泉の場面に用いられる使われなくなって久しい屋内プールとか、 建物裏で薄暗い螺旋状の金属製非常階段が、 スリラー的というかシュールな悪夢の雰囲気を作り出していました。
Mélisande の分身に、メイド2人と、黙役を3人使っているというのも演出上の特徴です。 Mélisande の分身の役割は固定的ではなく入れ替わっていくのですが、 家族の中で演じている役割と彼女自身の意思や欲望との分裂を象徴しているよう。 歌詞と舞台上の演技を矛盾させることも多く、 歌詞では Pelléas との関係はプラトニックなものなのに対し、 舞台の上ではそれに反してエロティックに描かれる場面が多くありました。 これも、現実としてそれが起きているというより、夢の中での彼女自身の欲望を見るようで、この分裂を感じさせるものでした。 舞台装置や照明効果に加え、この現実と悪夢、役割を演ずることと意思や欲望の間をシームレスに行き来する感は、 演出家自身もその影響を語っていますが David Lynch を連想させられるところがありました。
Mélisande の悪夢ということで、展開は Mélisande の視点から。 Golaud は彼女を抑圧する DV (domestic violent) 夫で、 Pelléas も、DV夫からの逃げ先というか相談相手のような存在。 また、黙役で侍女2名が Mélisande を人形のように着替えさせる役として度々登場します。 オリジナルでは第5幕で登場する Mélisande の赤子の娘が、 第3幕で Golaud が Pelléas へ Mélisande の妊娠を告げる場面から登場するのですが、 Mélisande と娘の関係の描写が薄く、 第5幕で Mélisande の死後に Arkel が今度はこの子が生きる番だと歌う場面も、 Mélisande の人格よりも子供を産んだことの方が大事と歌っているよう。 Mélisande の自身は侍女の役ではなかったものの、 侍女を伴い人形のような着替え、最初に着替えさせられるのか赤い服 (侍女の服ではなくスリップドレスですが) など、 Margaret Atwood: The Handmaid's Tale 『侍女の物語』 も連想させられました。
演出意図が掴めたとは言い難いものの様々な深読みを誘う演出で、 とても興味深く観ることは出来たのですが、 見立ての妙とかのある抽象的なものが自分の演出の好みということもあると思いますが、 舞台作品としては演出が細か過ぎにも感じました。 1階中央やや前方という良席で観たのでそれなりに舞台上の世界に没入できましたが、 2階席以上だったら厳しかったかもしれません。 Royal Opera House cinema や Met Opera live in HD のような 映像化しての上映向きかもしれないと、観ながら思ってしまいました。
Pelléas et Mélisande は Robert Wilson 演出を NHKオンデマンドで観たことがあり [鑑賞メモ]、 その違いに関する興味もありましたが、 同じオペラ作品のとはいえ全く違う舞台作品を見たかのようで、なんとも比較し難いものが……。