東京都写真美術館主催のアニュアルの映像芸術展です。 コロナ禍の下、コンパクトな開催が続いていましたが、 今年は東京日仏会館の展示や上映をはじめコロナ以前の規模に戻ったでしょうか。 今年は、上映プログラムを優先して観てきました。
2022年に亡なった日本の実験映画/ビデオアート作家、飯村 隆彦 の追悼的な回顧上映です。 前半は8 mmや16 mmで撮影された1960年代の実験映画、後半は1970年代以降のビデオ作品で、 いずれもアーカイヴのためにデジタル化されたものでの上映でした。 実験映画時代は、動く抽象表現主義絵画の様な《いろ》を典型とする戦間期の純粋映画に連なるような抽象的な映画や、 明確なストーリーは無いものの象徴的な場面でシュールに物語る《オナン》の様な作品など、 ダダ/シュールレアリズム〜抽象表現主義絵画の映画版のよう。 ビデオ作品の時期になると、構造の絵説きならぬビデオ説きの様になり、 ミニマル/コンセプチャル [関連する鑑賞メモ] も連想させられました。 時代的に少々ズレるので、美術作品の動向が反映されたというより、絵画が ダダ/シュールレアリズム〜抽象表現主義〜ミニマル/コンセプチャルと辿った理路を映像で辿った様にも感じられました。
リトアニア出身で第二次世界大戦後にアメリカ・ニューヨークへ移住し、 前衛映画作家として、また、 雑誌 Film Culture や Anthology Film Archives, The Film-Makers' Cooperative の設立・運営を通し 国際的なネットワークのキーマンとして活動した Jonas Mekas の、生誕百年を記念した特集上映です。 Reminiscences of a Journey to Lithuania 《リトアニアへの旅の追憶》 (1971-1972) のような有名な作品は含まれないものの、Mekas が注目される様になる1960年代の時代背景をとらえた作品、「旅」という彼の主要なテーマ、 そして彼に影響を与えたというリトアニア系アメリカ人作家 Marie Menken の作品の併映を通して、 Mekas 像を浮かび上がらせるような、約4時間 (トークを含めて5時間だった) の興味深い上映でした。
現代美術展のギャラリーでの上映で観る機会はそれなりにあったと思いますが、映画館の様な場所での上映を観たのは四半世紀ぶりでしょうか。 その当時は意識せずに観ていたのですが、こうしてまとめて観ていて、1960年代アメリカのカウンターカルチャー/アンダーグラウンドカルチャーの 強い影響下にあった表現だったことに気付かされました。 そういう意味で、興味深く観たのは、 Gideon Bachmann のドキュメンタリー Jonas (1968) でした。 Mekas らしい激しくブレて流れる画面がどう撮影されていたのか分かっただけでなく、 Bob Dylan の歌や “We Shall Overcome” が度々使われ、 雑誌 Film Culture をはじめとする彼の活動が、 アート的な文脈ということと同じくらいに、カウンターカルチャー的な背景を持つものだと浮かび上がるような内容でした。 その一方で、Award Presentation to Andy Warhol に使われていた音楽が The Supremes だったというのは違和感というほどではないものの少々意外でした。
影響源として第3部で特集された Marie Menken の作風と比較しても、速い画面の動きのような Mekas との類似よりも、 ブレやピンボケはほとんど使わず新即物主義写真の映画版のような Menken の作風は、 発表時期が1960年代半ばのものがあるとはいえ、前衛映画の作風としては戦間期の純粋映画にも連なるよう。 それに比べて、ブレやボケが主となる Jonas の作風はそこから断絶を感じるものがありました。 しかし、Mekas の様なブレやボケを多用したチラチラした絵の前衛映画というのも、最近はあまり見ない様にも思います。 そういう点でも現代的というより、20世紀後半の一つの時代を感じざるを得ませんでした。
飯村 隆彦 特集と Jonas Mekas 特集で、昼前から晩なで1日じゅう実験映画漬けで、流石にヘトヘトになりました。 上映の前後の時間で展示も観られるだろうと思っていたのですが、上映だけでなくトークもあったので、そんな余裕はなく、展示は3Fと2Fの半分程しか観られませんでした。
3F展示室は今回から始まったコミッション (委嘱) プロジェクトの展示。 4人の選出アーティストの中で最も印象に残ったのは、葉山 嶺 《Hollow-Hare-Wallaby》 (2023)。 オーストラリアの絶滅種動物 Hare-Wallaby (ウサギワラビー) の剥製をコンピュータグラフィックス化して、壁に大きく投影したもの。 剥製の様なものをあえてコンピュータグラフィックスにするという不自然さと、 実写ではほぼあり得ないコンピュータグラフィックスならではの視点の変化が興味深く感じられました。
2FとB1Fはテーマに沿った最近の作品や美術館コレクションで構成されるわけですが、 そんな中で興味を引かれたのは、ダンスビデオ作品とでもいうもの。 Trisha Brown: Homemade (1966) は、 まだコンパクトな映像投影装置などがなかった頃、 背中に大きな映像投影装置を背負って、映像を投影しながら踊るパフォーマスです。 踊るといっても手振り程度ですが、映像とのズレが会場からも笑いを誘っていました。
越田 乃梨子 の《破れのなかのできごと 〜壁・部屋・箱〜(三部作)》(2010) は、 1つのパフォーマンスを裏表固定2点から同時に撮影した上で合成したもの。 鏡像と違う組み合わせになり、空間が歪んだよう。 裏表固定2点ではなく移動する異なる2点からの映像を重ねた《幽霊たち》、 同じ空間で別々に撮影した2つの対称に近い構図の映像を並置した《机上の岸にて》なども、 そんな歪んだ空間の中での動きの面白さを観る様でした。