中村 蓉 による、1970年代にテレビドラマのシナリオライターとして活躍した 向田 邦子 に着想した舞台作品ダブルビルです。 小説『花の名前』 (1980) に基づく作品のリプロダクションに続いて、 休憩を挟んでエッセーに着想した作品『禍福はあざなえる縄のごとし』という構成でした。 TVドラマを観る習慣が無く 向田 邦子 との接点はほとんど無かったのですが、 『ジゼル』 [関連する鑑賞メモ] が面白かったですし、 コンテンポラリーダンスではあまり取り上げられなさそうな題材をどう扱うのかという興味もあって、足を運んでみました。
『花の名前』は、福原 冠 が小説の一部を朗読しつつ、舞台が進みます。 マイムで場面を描写したり、ダンス的な動きで象徴的に心情を表現したり、と、 説明的というほどでは無いものの身体表現の使い方もストーリーに沿ったもの。 小説の朗読があるせいか、ナラティブなダンス作品というより、身体表現の要素の強い演劇という印象の強い作品でした。
後半の『禍福はあざなえる縄のごとし』はエッセーに基づく作品ということもあり、 明確な物語的な展開はなく、導入など「向田邦子」という文字の形に着想したところから入ります。 TVドラマのテーマも含めて具体的な音楽も使われますし、 前半で演じられた『花の名前』などもコラージュされるかのように舞台上に立ち現れますが、 エッセー中で着目したいくつかのエピソード (例えば、手袋を探す) をベースに、 それを字幕などで掲げつつも、エレクトリックな音楽や体操的にすら感じる強い動きでエピソードに付かず離れずダンスとして変奏していきます。 そういった舞台上での動きを通して、向田 邦子の創作の源泉を浮かび上がらせるようでした。
原作の言葉とダンスや音楽との距離感は『禍福はあざなえる縄のごとし』くらいあった方が好みですが、 題材が自分には縁遠過ぎて、腑に落ちたという程では無かったのも確か。 例えば終演後のトークで少し言及があった「戦後日本の家庭像」やその変遷のような、もう少し普遍性のあるものが作品の向こうに見えれば、と思うところもありました。
前日8日に日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生し「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」下での公演でしたが、 『花の名前』上演中に緊急地震速報を伴う地震が発生して、上演中断、すわ南海トラフ地震かと緊張しました。 安全を確認した上で途中から上演再開になりましたが、演ずる方もやりづらかったのではないでしょうか。 地震による公演中断というのを初めて体験しましたが、大事にならなくて良かった。