ロシア出身の舞台演出家・映画監督 Кирилл Серебренников [Kirill Serebrennikov] による 悪妻として知られたチャイコフスキー [Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky] の妻アントニーナ [Антонина / Antonina] を、 彼女の視点から描いた映画です。 といっても、19世紀後半のバレエ音楽で有名なチャイコフスキーの関係者の伝記的な面への興味ではなく、 2022年に観た同監督による Петровы в гриппе [Petrov's Flu] 『インフル病みのペトロフ家』 [鑑賞メモ] の作風への興味で、足を運びました。
冒頭のチャイコフスキーの葬式の場面で、弔問に来た妻に対してチャイコフスキーが蘇って罵倒する演出で期待したものの、 以降しばらくは、結婚に至るまでは少々執着が強いとはいえアントニーナのチャイコフスキーへのアプローチを中心とした描写で、比較的普通の演出の伝記映画のよう。 プーシキン [Александр Пушкин / Alexander Pushkin] の小説を原作とする チャイコフスキーのオペラ Евгений Онегин『エウゲニ・オネーギン』 (1879) における タチアーナ [Татьяна] とエウゲニ・オネーギンの関係を踏まえているかなと思いつつ、期待したものとは違ったかもしれないと感じました。
アントニーナハ憧れの人チャイコフスキーと結婚できたものの彼は同性愛者で、結婚生活は形式的なものとなり、ついにチャイコフスキーはアントニーナを遠ざけます。 そうなってから、少しずつ長回しで現実と妄想を行き来するような表現の割合が増えて行きます。 映像の中のアントニーナは社会的な自立の選択肢がほとんどない当時の女性の立場の中で可能な選択をしているようでありつつ、 映像演出を通して彼女が精神的に壊れていく様を描くよう (実際、アントニーナは晩年を精神病院で過ごすこととなった)。 ラスト近くの狂気のコンテンポラリー・ダンス的な身体表現による演出など、舞台演出もする監督ならではでしょうか。
チャイコフスキーが同性愛者であったというタブーに触れているということが話題になりがちですが、 描写の中心はアントニーナで、同性愛者であることは形式的な結婚生活の前提として使われる程度。 むしろ、少々妄執的な面のあったアントニーナが当時の女性の置かれた立場と不幸な結婚の中で壊れていく様を主観的な映像を通して体験するようでした。