SPAC-静岡県舞台芸術センターのSHIZUOKAせかい演劇祭 2026の前半の3本を舞台を観てきました。
戦中日本の映画『マライの虎』 (大映, 1943) をシンガポール・日本共同制作の演劇としてリメイクする、その過程を描いた、 シンガポールの劇場 Teater Ekamatra 製作のメタ演劇です。 『マライの虎』は、1930年代にマレーで盗賊として活動し、太平洋戦争最初期のマレー作戦の際に日本軍に協力した 谷 豊 を主人公とした伝記的なアクション映画です。 マレー作戦を描いた国策戦争映画『シンガポール總攻撃』 (大映, 1943) と合わせて現地ロケで撮影され、『シンガポール總攻撃』よりも人気を博し、 戦後『怪傑ハリマオ』 (日本テレビ, 1960-1961) としてテレビドラマ化されています。 国際共同制作で起きがちと思われるミスコミュニケーションもユーモラスに交えつつ、 戦中のプロパガンダ映画『マライの虎』を演劇として演じ直すことを通して、現在の俳優が演じる際の違和感としてツッコミを入れることで、そのイデオロギー性を暴きずらしていきます。
映画中の歴史的事実もテーマとしてあったように思いますが、『マライの虎』は実在の人物を主人公とした伝記的な面はあれど、フィクショナルな活劇という面もあり、その点については少々弱く感じました。 『マライの虎』は未見ですが、戦中日本の非民主的映画 (いわゆる返還映画) はそれなりに観ているので、 そういう映画を観ながら (心の中で) ツッコミを入れる際の観点の相違が興味深くありました。 ステロタイプな敵役、アジア解放なども含む戦意高揚に関わる場面についてはわかりやすいと思う一方、 マレー人のオリエンタリズム的表象は今まで観た映画の中で馴染みが無く、新鮮に感じた一方で、慣れないと気付き辛いものだとも実感しました。 そんな中では特に、看板に描かれたデタラメなジャウィ文字へのツッコミが、ツボにハマりました。
フィリピン出身の Eisa Jocson とスリランカ出身の Venuri Perera という2人の国際的に活動する女性パフォーマーによる、 移民家事労働者 (メイド) として海外へ働きに出ているフィリピン、スリランカ、インドネシアの女性に関するリサーチに基づくダンス、というより、コンセプチュアルなパフォーマンスです。 製作は現代的な舞台芸術を扱うドイツ・フランクフルト市の劇場 Künstler*innenhaus Mousonturm。
中盤にケア労働やメイドを雇うことについて観客に問いかける場面もあり、 後半にアジア系の家事労働者へ取材した人身売買や奴隷に近い扱いに関するエピソードも語られます。 しかし、1782年にスイスで魔女とされ処刑された Anna Göldi がメイドであったというエピソードが引かれ、 舞台での美術や動きは、むしろ、近世に異端尋問の対象となった魔女のイメージ ─といっても現代的なものですが─ に着想した部分が多いように感じられました。 魔女と家事労働の共通点でもある箒を象徴的に使い、様々な形の箒を持ち替え、並べ替えつつ、 箒に跨った状態のまま、時に静かに歩き、時に魔女というかシャーマンのように身悶え、時に客に語りかけつつ。 女性と家事労働やケア労働、移民労働者の問題をパフォーマーを交えた動的かつ象徴的に扱ったインスタレーションを観るようでした。
「SPAC秋のシーズン2025-2026」よりSPAC-静岡県芸術舞台センターのアーティスティック・ディレクターとなった 石神 夏希 の台本・演出による作品です。 浜松市にブラジル総領事館が置かれるほど県西部に多く住んでいる日系ブラジル人に一年以上取材し、 SPACの俳優だけでなく、4名の素人の県民が出演して、取材したエピソードを演じる、ドキュメンタリー演劇です。 それに重ねられるのは、やはり県西部の主要な水産品ウナギで、こちらも研究者や養殖業者に取材したエピソードが採られていました。 日系ブラジル人の私的なエピソードは生活史を垣間見るような興味深さがありましたが、 ウナギのエピソード、イメージが結びついておらず、連想による詩的なイメージを喚起される所に欠けました。 「思い出せないけれども体に残っているルーツ」というテーマがあるようでしたが、 ウナギに関するエピソードが、ウナギ自身ではなく、研究者や養殖業者に関するものということで、ズレてしまったでしょうか。
SPACの俳優も出演していましたが、その演技というか語りのスタイルは一市民の細やかなエピソードを演じるのには似合わないと感じてしまいました。 神話や古典的な物語に着想した祝祭的な演劇で観・聴き慣れているから、また、日本語だから、特に気になってしまったということもあるかもしれません。 その一方で、野外劇場「有度」はこのような作品には広すぎるのではないかと危惧していましたが、花道や前にせり出した段々など、空間使いはさすが慣れたものでしょうか。 SPACらしく俳優たち自身が演奏する打楽器をメインとした音楽も、祝祭的とは違いますが、意外にドキュメンタリー演劇にも合っていました。