国立映画アーカイブの 『返還映画コレクション (3) ――第二次・劇映画篇』で、 先日観た3本 [鑑賞メモ] に続いて、この3本を観てきました。 戦後に「非民主的映画の排除」によって上映を禁止された戦中期の劇映画です。
あらすじ: 丸の内で優秀な課長として働く八田 啓一は、同郷ということもあり父 進介と親交のある 政治家 金沢の娘の信江と婚約している。 金沢は死にあたり与太者 (不良) に被れてしまった学生の息子 喜郎 の面倒を同郷の 八田 進介 に託し、 啓一 は 喜郎 を八田の家に引き取り聞く耳を持つようになるまで待つという方針で更生させるのを父に任せてもらう。 啓一の妹 弘美が自宅に連れてきた女学校の友人から10円を 喜郎 すくねて使ってしまうが、啓一や弘美がそのことについて 喜郎 を父から庇うのを見て、 喜郎 は改心し、10円を返すために与太者の牧から10円を借りる。 しかし、そのことを恩に着せられ、牧に80円を工面するように求められてしまう。 困った牧は八田家が留守中に届いた100円の商品券を受け取り啓一に黙って牧への金に使ってしまう。 しかし、その100円は 啓一 を陥れるための賄賂であり、賄賂を受け取ったとされた 啓一 は会社に辞表を出す。 そのことを知った 善郎 は、自暴自棄となって牧へ復讐に行くが、大怪我を負ってしまう。 善郎への輸血が必要となり、啓一が自分から輸血するように申し出る。 その後、事情を知った会社の上司から辞表は不受理だと連絡を受ける。
三井 秀男 演じる与太者の更生譚という点では、1930年代前半に松竹蒲田で 野村 浩将 監督が撮った 「與太者シリーズ」 [鑑賞メモ] と共通点も多い作品です。 しかし、「與太者シリーズ」がヒロインとの出会いを通して与太物トリオが自ら更生するという話 (後に行くほど根はいいやつという話になる) なのに対し、 この映画は八田家の人々が思いやりを持って接することを通して与太者を更生させる、という色が強い内容です。 体罰を使って高圧的に更生させるというより聞く耳を持つまで待って善導させるとはいえ、 今から見るとパターナリスティックな家族観や親孝行、義理人情の感覚の古さは否めないでしょうか。 とはいえ、このレベルでも戦後の「非民主的映画の排除」の対象となったのかと感慨深いものがありました。
といっても、八田家でのやりとりといい、都会の中間階級の良質なホームドラマとして仕上げていました。 「與太者シリーズ」でのヒロイン相当は、八田家のハイカラな女学生の妹 弘美 役の 木暮 実千代 です。 清水 宏 『暁の合唱』 (1941) [鑑賞メモ] でもそうでしたが、こういう男性に物怖じしないくらいの役が似合います。 現代的な美人の 槇 芙佐子、メガネっ子の 東山 光子 など、カフェーの女給のレベルでも印象に残るよい女優が揃ってるところが、さすが松竹大船でしょうか。 冒頭クレジットが欠落していましたが、車載のカメラから捉えたモダンな東京の風景のモンタージュに スリリングなジャズの音楽が付けられたオープニングは、 戦中でもこんなモダン表現があったのかと驚きでした。その後のホームドラマ的な展開には、浮いているようにも感じましたが。
あらすじ: 戦争で夫を亡した くに子 は、男の子を育てつつ、下町で夫と始めたクリーニング店を2人の職人を雇い続けつつタイピストの仕事をする妹 かず枝 に助けられつつ続けている。 かず枝 の女学校時代の同級生で医師に嫁いだが 朝子 も、夫を戦争で亡くしている。 ある日、くに子 の遠縁にあたるという男 信造 が現れ、男性を雇わずにできる店に変えるべきだと言い出し、かず枝の反対にもかかわらず、文房具店を買い取る資金という口実にくに子の亡夫の弔慰金を持ち出し、クリーニング店を売る話も進めてしまう。 一方、朝子は亡夫の仕事を継ごうと女子医専への進学を考え、そのことを かず枝 に相談する。 義母 貞子は若い かず枝 が再婚できるよう実家に帰す話を進めてしまうが、それに勘づいた 朝子 は自分の意思を義母に伝えて認めてもらう。 一方、信造 の言う文房具店を買う話は無いと かず枝 が気付き、信造 を問いただすが、信造 は弔慰金を帰すことなく姿をくらましてしまう。 さらに、信造 はクリーニングの機械の売却話を決めてしまっており、その相手から機械を渡すか代金を返すか求められる。 金策のため かず枝 は 朝子 を訪れるが、実家へは帰らず女子医専へ行く意思が認められたという話を かず枝 から聞き、言い出せずに帰ることになる。 金策尽きて店を引き払う準備を終えた段階で、かず枝 の働きで愛国婦人会に援助してもらえることになり、店を続けることができることになった。 信造 からも株に失敗して金を失ってしまったがいずれ返すという手紙が届いた。
下町で小さなクリーニング店を営む下層階級の くに子 と、実家も裕福で嫁ぎ先も医者という上流階級の 朝子 という、 2人の戦争未亡人のそれぞれの悲哀と希望を対比的に描いた映画です かず枝 を接点としてはしているものの、エピソードとしてはほぼ並行したまま交わらずに終わってしまいます。 どちらかといえば、クリーニング店を営む くに子 と かず枝 の話がメインで、 遠縁の者がもたらしたトラブルを巡る下町の一家 (雇われの職人を含む) の人情の機微を描いたホームドラマの味わいでした。 最後の最後になって、愛国婦人会の融資が出てきて、店をうまく続けられたことを暗示するような店から親子で小学校の入学式に向かう様子に、 「今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです」という歌『兵隊さんよありがとう』を被せて終わるという、 楽観的というよりプロパガンダ的なエンディングが、取って付けたかのようでした。
一方の上流階級の戦争未亡人を演じたのは 槇 芙佐子 (この映画では 槙 芙左子 とクレジット)。 吉村 公三郎 『暖流』 (松竹大船, 1939) [鑑賞メモ] や 大庭 秀雄 『花は僞らず』 (松竹大船, 1941) [鑑賞メモ] など今まで観たものでは 物語の要所にはなるものの脇役ばかりだったので、 スキーへ行く場面もあったりしましたし、寡婦ながらモダンな洋装もエレガントな 槇 芙佐子 を堪能できました。 特に、亡夫の書斎で独り物思いにふける場面 (2回ある) での、 静かに視線をやったり机上のものを弄ったりする様を、シンメトリーな画面の固定カメラで捉えて、控え目な音楽を少し遅れて添える (一回目は置き時計の鳴る音) という心理描写の演出が、 実にメロドラマチックでした。 しかし、女子医専に通い出すことろまで描かなかったので、途中でフェードアウトした感もあり、その点は惜しいです。
あらすじ: 東京・丸の内でタイピストで働く邦子は、兄の出征で独りになった母の面倒をみるため、郷里の長野の山村へ帰る。 郷里の村で再開した幼馴染の恋人 清 は村の仲間と開拓団に志願して満州へ行くことを考えており、春になったら一緒に満州へ行こうと邦子は誘われた。 やがて、東京で同じ職場だった 津村 がスキーで偶然 邦子 の郷里近くの別荘にやって来て、妹の怪我をきっかけに偶然邦子と再開する。 都会のブルジョワ風の津村と親しげにする一方、母を置いて満州へ行くことはできないと言う邦子の態度が、清は気に入らなかった。 ある夜、兄が負傷したという知らせが、それから暫くして、東京の病院に移ってきたという知らせが届いた。 旅費が工面できず東京へ見舞いに行けずにいると、津村が迎えに来て、津村の手配で母と一緒に東京へ向かった。 そして、邦子たちが東京へ行っている間に、急に清たちの満州出発が決まってしまう。 邦子たちが東京から戻った時に遠目に見えた見送りの行列は清たちのもので、邦子がそれに気づいて駅に駆けつけた時には、列車は走り去っていた。 清の邦子宛の置き手紙には、邦子のことを忘れると書かれていた。 それから暫く経ち、傷が癒えた兄が家に戻った頃、満州の清から邦子へ手紙が届き、そこには満州へ来て欲しいと書かれていた。邦子は清を追って満州へ行くと決心するのだった。
物語の軸は東京帰りの女性と郷里の恋人で満州へ行く男性を巡るメロドラマです。 東京の職場で一緒だったブルジョワの男性の存在が二人の気持ちにすれ違いを生じさせ、 さらに兄の見舞いという理由で一時的であれと東京に行くことで、物理的にもすれ違ってしまいます。 といっても、舞台が信州の山村なので、都会的なメロドラマというよりも、人情物の味わいの方が強いでしょうか。 主人公の邦子を演じるのは 水戸 光子 ですが、東京のブルジョワのお嬢様ではないけれども、田舎の人々から見ると都会的な女性という、微妙なポジションの女性がはまり役です。 特に、田舎から東京に出てきたタイピストという役は、同監督が翌年に撮った 『花は僞らず』 (松竹大船, 1941) [鑑賞メモ] での役と被ります。 『美しき隣人』の邦子が『花は僞らず』の純子の原型になったのかもしれません。
この映画には農林省馬政局 指導のクレジットがあり、 農耕馬の軍馬としての徴発の向けての準備としての 農耕馬に対する飼育費用支援や軍事教練の様子も描かれていましたが、 物語の流れと関係が無く、単なる時代背景的なエピソードとなっていました。 むしろ、満蒙開拓団への志願や出発の場面の方が、プロパガンダ色を強く感じました。
先日観た3本、渡邊 邦男 『召集令』、佐々木 康 『進軍の歌』、佐々木 啓祐 『愛國の花』 [鑑賞メモ] と合わせ、 この上映企画で計6作品を観ましたが、うち松竹大船の5本は、プロパガンダの要素はさておき、 実にホームドラマ & メロドラマとしてさすがによくできていると感心しました。 その一方で、映画でその機微が美しく描かれた善意、人情や相手を思う気持ちが、こうも「お国のために」という形で回収されていくのかと、少々空恐ろしくも感じました。
ちなみに、ホールでは上映回の幕間に上映作品の主題歌や劇中歌を控え目の音量で流していました。 その映画を観たということもあるかと思いますが、かかっていた曲の中では『愛國の花』が耳に残りました。