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ヤンキー文化について

2001年1月頃に書いたヤンキー文化に関する発言です。 リンク先のURLの維持更新は行っていませんので、 古い発言ではリンク先が失われている場合もありますが、ご了承ください。 コメントは談話室へお願いします。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Mon Jan 29 23:36:53 2001

そう、Sat Jan 27 1:31:55 2001 に、 MISIA について、「しかし、『MISIA REMIX 2000 LITTLE TOKYO』のデザインが、 ヤンキー的要素がとても強いものだったのも、興味深かったです。」と書いたわけですが。 (なんせ、黒地に龍紋という伝統的ともいえるようなヤンキー的意匠がジャケットに使われています。) J-R&B とヤンキー文化の話といえば、 「J-R&Bを極めるコーナー」 へリンクを貼るのを忘れていました。ここで、 「現在J-POPといえば男はビジュアル系、女はR&B。どちらも低所得者層に支持されるネオ・ヤンキー文化だ。」 と冒頭で言い切っているんですが。 これを最初に読んだ当時は J-R&B はほとんど全く聴いたことが無かったのであまり印象に残ってなかったのですが、 こうして実際に聴いた後に読み返してみると、自分はほとんどサウンドしか聴いていなかったりしたので、 歌詞やライムの分析に多くを費やしているところにちょっと違和感もあったり。

ヤンキー文化といえば、その当時にこの談話室で触れましたが、去年10月末の 『BSマンガ夜話』 の第16弾の第一回で、 車田 正美 『聖戦士 星矢』 (週刊少年ジャンプ) が取り上げられたときの、 「『聖戦士 星矢』は「ヤンキ―マンガ」であり、その大ヒットはヤンキ―文化が一般化したという証だ」という主旨の いしかわじゅん の指摘を思い出してしまうわけですが。 時期的には『聖戦士 星矢』とずれますが、最近の、 第三次パラパラブーム なんかも、ヤンキー文化の一般化として見ることができるように思いますし。 かつての「不良」的なヤンキー像が残っている一方で、そのような極端な「不良」が目に見えて減っているように思います。 しかし、それはヤンキー的なものが無くなったというのではなく、 もはや、ヤンキー文化が担い手にもヤンキー的と意識されることなく一般に浸透しているように感じられます。

なんて、ヤンキー文化という言葉をろくに定義せずになんとなく雰囲気で使ってますが、 ある種の都市郊外の文化だとは思っているんですが、正直に言って自分でもよく判っていません。 というか、この手のヤンキー文化としてどんなものがあるのか (そもそも本当にそう言えるものはあるのか) といったことから、 それらの起源、変遷や、社会への浸透まで (例えば、ネオ・ヤンキーと言われることがあるわけですが、ネオ以前とネオ以降の違いは何で、分かれ目はどこにあるのか。)、 もっとちゃんと調べた本って無いんでしょうかね。って、検索したら、 佐藤 郁哉 の 『暴走族のエスノグラフィ』 (新曜社, 1984) と 『ヤンキー・暴走族・社会人』 (新曜社, 1985) というのがひっかかりました。 どっかで見たことある名前だなぁ、と思ったら、 去年の11月に大道芸関係の話題のときにこの談話室で紹介した、 『芸能を記述する』 というシラバスでだったようです。ふむ。 しかし、1980年代半ばというと、ヤンキー文化が一般に浸透する以前の話のような 気がしますね。ちょっと違うかしらん。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Wed Jan 31 0:18:27 2001

さて、ヤンキー文化についてどっと発言がありますが、 振って下さったそれぞれの話題について丁寧に議論を進めていくことは困難なので、 すみませんが、自分の興味に合った話題について優先的に話を進めさせてもらいます。

しかし、ヤンキー文化についての展覧会、やったら面白そうですよねー。 って、誰が企画するのかに依るし、そもそもちゃんと企画できる人がいるのか、という気もしますが…。 ヤンキー文化の担い手って、それを歴史化しようという意識に欠けるような気がするので、 あまり資料・文献とか残っていないのかなぁ、とも思ったり。

Dr. エクアドル 「J-R&Bを極めるコーナー」ですが、分析の粗さとかは否めないですけど、 彼のヤンキー文化に対するスタンスって、とっても興味深いと思っています。 もう一つ、興味深いと思っているのは、去年10月末の 『BSマンガ夜話』 の第16弾の第一回で 車田 正美 『聖戦士 星矢』 (週刊少年ジャンプ) が取り上げられたとき、「ヤンキーマンガ」だという指摘に、ファンの側から 少なからず反発が見られた、ということです。
検索していて、京都の Cafe OPAL店主の日記に、ヤンキー文化に対する が少なからずあることに気付きました。OPALの店長のヤンキー文化の分析が的を射ている、とは必ずしも思わないですし、 いちいち話題に取り上げてまで否定しようとするのはどうしてか、とか考えたくもなりますが。 その一方で、ここに、最近のヤンキー文化へ否定的な態度を取る人たちの二類型を見るようで、とても興味深いです。 その二類型の一方は、OPALの店長のように、ヤンキー的なものに対して意識的な層で、 Dr. エクアドル がサブカル系、サバービア系と言うときに想定しているような層だと思いますし、 Dr. エクアドル もこれにかなり近い立場にいるように思います。 そして、この層が自らと区別する際に想定しているヤンキー文化というのは、一般化した後のヤンキー文化です。 もう一方は、OPALの店長にヤンキ―と言われている店員のように、一般化したヤンキー文化を無自覚に受容している層で、 「ヤンキーマンガ」だという指摘に対して反発を表した 『聖戦士 星矢』 のファンもここにいるように思います。 そして、この層が想定しているヤンキー文化というのは、一般化する以前の「不良」的なものです。
こんな感じで、ヤンキー文化といってもその実際は重層的になってきていて、それを取り巻く人々を粗く見ても、 コアな層 / 無自覚な受容層 / 自覚的な反発層 といった階層ができているように思います。 自分の中でも整理が付いてないですが、自分がヤンキー的と感じていることを これに沿って整理するといいのかなぁ、と感じています。 どの層の間の差異をみるかによって、ヤンキー文化の特徴も変わって来るような気がしますし。

川似さんが挙げている、歌舞伎町や 三田 佳子 の子供の例に関しては、 僕自身、歌舞伎町なんて Liquid Room のライヴに行くときくらいしか行かない街で、 三田 佳子 の息子の件についてもよく知らないので、ほとんどコメントできませんが。 ま、芸能人の場合「低所得者層/高所得者層」「郊外/都心」というような属性から外れた位置にいると思うので、 「低所得者層」「郊外」ではない、というところから判るところは少ないように思いますが。

さて、一般化しつつあって必ずしもそう言えない点も増えてきていますが、 自分のヤンキー文化に対する基本的なイメージは、やはり都市郊外発の文化です。 それも、川似さんの指摘するような俗性や、江口さんの指摘するような極端さで特徴付けられるような。 僕がヤンキー文化を意識したのは、1980年前後 (小学校から中学校に進学する頃) の、原宿竹下通りと竹の子族でした。 この頃は、ヤンキー文化はまだコアの部分だけだったように思うのですが。 その当時は、中野、そして西馬込に住んでいたのですが、TVなどでの紹介を見ながら、 「あのような所で買物してあのように踊っているのは、うちの近所にはいるような人ではなく、 週末に遠くから集まってくるような人たちだ」と、なんとなく思っていたものでした。 確かに周囲に「不良」的なファッションはみかけましたが、それらに比べて極端でしたから。 こういうコアな部分のヤンキー文化の表現の極端さに、江口さんの指摘するような「周縁のバロッキズム」とでもいうものがあるのだろうなぁ、とも思います。 そう、川似さんが挙げるヤンキー文化というのも、多分にコアな部分を指しているように感じられます。 しかし、一般化したヤンキー文化ではその面はかなり変質してきているようにも思います。

ヤンキー文化の一般化について言えば、それが本格的に始まったのは、今から振り返るとバブル経済が進行した1980年代後半からじゃないかと思うのですが。 ここらが、ヤンキーとネオ・ヤンキーの分かれ目なのでしょうか。 『聖戦士 星矢』のTVアニメ放送も 1986/10/11-1989/4/1 のようですし。 ヤンキー文化から少しズレますが、自分の実感からしても、 渋谷に大規模輸入盤量販店が進出してきて渋谷系の音楽が生まれた1990年前後というあたりから、渋谷の「郊外化」を感じています。 もちろん、その頃からチーマーやコギャルが目に付くようになった、ということもありますが。 渋谷系に関していえば、大規模量販店というシステム自体が郊外的なものですし、 その量販店のフリーペーパーから発した「サバービア」 (サバービア系、『サバービア・スイート』) という言葉からして「郊外」です。 形式的で、記号的なアイテムの盛り込み方が過剰、という印象が渋谷系音楽にはあるのですが、そういう点も郊外的に感じています。 実際の渋谷系音楽の流行の担い手が東京郊外から出てきている人たちだったのかは、よく知らないのですが。 一般化したヤンキー文化と、渋谷系・「サバービア」系やそれ以降の一見洒落た文化というのは、 表裏一体の関係、同じものの二面のように僕には感じられるんですよ。 それらが何を意味しているのは明確に掴みきれていないんですが、 だからこそ、ヤンキー文化に対する、Dr. エクアドルの距離の置き方や、OPAL店長のコメントが気になるんですが。 それから、バブル期に都市中心部の古い街が地上げで破壊されてその代わりに都市郊外的なものが流入する一方、 地方都市でも古い中心市街地の壊滅的な空洞化があり、 大都市郊外だけでなく都市中心部から地方まであらゆる所が大都市の郊外のようになっていく過程が1990年前後にあって、 その過程でヤンキー文化や渋谷系文化のような都市郊外発の文化が一般化していったのではないか、という問題意識もあります。 実際のところ、ここらへんどはあまり自分自身詳しいことではなく、多分に印象に頼って話していますので、 異論や様々な事例をいろいろ挙げてもらえるとありがたいです。

勢いでもう少し勇み足な (あまり根拠のない推測レベルの) 話をすると、一般化されたヤンキー文化って、 TVや雑誌などのマスメディアを用いた文化伝達と関係あるようにも思っています。 郊外文化の俗性はこういうマスな文化伝達による面があるように思いますし、 江口さんの指摘するような「周縁のバロッキズム」における増幅のプロセスは、 現代においてはTVや雑誌によって実現されているように感じます。 もともと都市流入者を中心に形成された地縁の弱い郊外ではマスメディアを介した文化伝達が支配的だったけれども、 1990年前後の都市中心部の破壊によって都市中心部における地縁的な文化伝達が破壊され、 その結果として都市における文化伝達は全体的にマスメディアに取って代わられた、と。 ヤンキー文化の一般化にはそういう面もあるような気もします。 1980年代的な『シティロード』に代わって1990年代に一般化した 『Walker』系の情報誌って多分にヤンキーっぽいような気がするし、 マガジンハウス の隆盛というのもそういうことと関係あるような気がするし。
で、以前にここで紹介しましたが、理科教育ML発言で 紹介されているような 『科学』 2000年10月号の 苅谷 剛彦 「日本の教育はどこに向かおうとしているのか」 の記事や、 金原 克範 『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』 (洋泉社, 1995) の話 (もしくは、「個体名と情報受容性」 (第15回数理社会学会大会報告) や 「個体名と言語の流れ」 (第41回関東社会学会大会報告)) じゃないですが、 こういった文化伝達におけるマスメディアに対する依存度って、やっぱり、社会階層と関係があると思うんですよ。 ヤンキー文化がダイレクトに低所得者層の文化だとは思わないけれども、 文化伝達におけるマスメディアへの依存度を通して、低所得者層と強く相関付けられているようにも思うんですよね。

という感じで、僕のヤンキー文化に対する興味は、多分に、 そういう視点を持っていた方が把握しやすい事象が無視できないほど増えているように感じる、 という点に発しています。そういう点では、ヤンキーになりたいという願望は無いですが、 ヤンキー的なものと闘わなければいけないとも必ずしも思っていません。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Wed Jan 31 23:41:10 2001

さて、ヤンキー文化についてですが、確かに僕は「郊外」を第一に連想してしまうし、 とりあえず、その連想に素直に従って「郊外」を鍵に話を進めているところはあるんですが。 本当に郊外を鍵にする必要があるのかなぁ、と感じているところもあります。 特に、コミュニケーションの問題として「郊外」を捉えるなら。 例えば、金原 克範 「個体名と情報受容性」 (第15回数理社会学会大会報告) の議論を受けると、 1960年代後半生まれの「メディア二世」が大学進学するのが、ちょうど1980年代半ばですから。 メディア依存度の高い「メディア二世」の文化としてネオ・ヤンキーを説明できるのかもしれません。
あと、去年の4月頃、この談話室で AVレンタル (オーディオ・ビジュアル・レンタル) の話をしていたわけですが、 1980年代半ばのレンタルシステムの確立に伴う「文化のコンビニ化」だとか、 1980年代のCDやビデオの普及に見られる「家電製品のブラックボックス化」 (小林 信一 「ブラックボックス化の図像学」 (In 嶋田 厚、柏木 博、吉見 俊哉 (編) 『デザイン・テクノロジー・市場』, pp.103-132 (『情報社会の文化』第3巻, 東京大学出版会, ISBN4-13-055093-4, 1998)) を参照) といった話をしていたわけですが、そういう現象とは関係ないのか、とか。
佐藤 俊樹 『不平等社会日本』 (中公新書, ISBN4-12-101537-1, 2000) を端緒に、 この談話室で去年の夏にしていた階層分化・固定化と所得格差の話にしても、 共通する漠然とした問題意識に基づくものだったりするんですが。 とにかく、1980年代の半ばくらいから日本において社会、文化が急激に変化してしまった気がしているのだけれども、 自分でもいまいちうまく問題を整理できていないような気がします…。

ヤンキーと所得階層、社会階層については、僕も印象レベルの話しか出来ないですし、 特にこれといって参照できるものもないので、これについてはとりあえず保留しておきます。 ところで、読んだわけではないのですが、 佐藤 郁哉 の 博論 Bosozoku and Yankee: Anomy and Parody in the Affluent Society の "Affluent Society" って、 J. K. ガルブレイス 『ゆたかな社会』 (岩波書店, 鈴木 哲太郎=訳; John Kenneth Galbraith, The Affluent Society, 1958) を受けているように思うのですが。 って、この分野には疎いので、的を外してるかもしれないですが…。

レゲエとヤンキーの関係についても、興味深く思っていますが。 まだ自分でもよくまとまってないので、軽くコメントするに留めておきますが、 それほど素直に対応していないと思います。 周縁からの表現、という点では共通するところはあると思いますし、"wicked" とか近いような気もしますが。 その一方で、レゲエにおける "dread" や "conscious" なんて概念は、 パンクvsヘビメタの対立軸で見るならパンク側で、ヤンキー的なものとは違うように思いますし。