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エヴァはまだ・・・1



■アニメ、話題の真相          橘 公司     [e-free-p 19971202]ヴァージョン



●世界が観る『もののけ姫』


 10人に1人が観た『もののけ姫』。

 今も上映は続いていて、その売り上げは100億円を超えたという。制作費も20数億円以上かかっており、費用と
売り上げのどちらをとってもハリウッド映画と互角かそれ以上の作品だ。ディズニーを通して欧米に配給されるが、
どう評価される今から楽しみでもある。

 室町時代にシーンを設定し、自然保護や環境問題というコマーシャルなアプローチと登場人物をはじめテーマ
そのものに神話的要素を塗り込めたこのアニメ映画は、フォトグラフィック以上の美しいカットとともに、いくつ
もの感動を与えてくれる、子供もおとなも楽しめる大作だろう。

 この『もののけ姫』とさまざまな面で比較されたもう一つのアニメがある。

97年の春と夏の2回にわたって上映され、それがその1年も前に放映されていた同名TV番組の完結編だという
『エヴァンゲリオン』だ。



●ネットが生成した『エヴァ』人気


 エヴァの人気はパソコン通信とインターネットによって生成されたもので、TV放映終了後1年も経てから人気
と話題が盛り上がったという異色の展開を見せ、そのことそのものが話題でもある。一部での熱狂ぶりと経済波及
効果300億円という不況下での例外的な成功は一般のニュースやTVでも取り上げられ、「エヴァ現象」と呼ばれ
るほどのレアな話題になった。エヴァ関連の情報がネットでさかんに交換され、書店にはエヴァ関連本コーナーが
設けられた。関連本の種類は数十冊を超えるだろうし、論文並のコメントや言及した記事は数百を超えるのは確
かだ。そして、それらの内容や受け取られ方にも大きな特徴があった。

 エヴァに関する評価の多くは専門的であり、まるで社会や文芸に対する批評のように深い意味と大きな問題をと
もなっている。そもそもこれらの言説そのものが評論家をはじめフランス現代思想の研究家などなんらかのプロ
フェッショナルで、一般的に観れば相当偏ったジャンルや観点からの分析や主張だったのだ。そして、エヴァ現象
のもう一つの大きな特徴はそういったファンやディレッタント以外の一般的な人々には興味を持たれなかったこと
だろう。



●『エヴァ』を観たのは誰か


 エヴァのターゲットやファンのゾーンはTK(小室哲哉)のそれとほぼ同じで、当初、TKの熱心なファンだった
15万人のコアの多くはアニメファンでもあった。その後ブレイクしたTKはそのファミリーから一度に4名も紅
白に出場させ、国民的ヒットメーカーであることは誰もが認めるところ。今ではアジアでも人気があり、ロサンゼ
ルス辺りでもそのヒット曲は耳にできる。

 では、エヴァはどうか? 誰もが知っていて、国民的話題であり、なによりもオーディエンスを楽しませてくれ
る作品なのだろうか?

 エヴァ現象の特異点はここにあると言える。一般のニュースで取り上げられるほどでありながら実際のところ、
誰も何も知らない。知っているのはファンだけであり、話題にしているのはファンの一部であり、その作品は楽し
むというより衝撃を受ける類のものだ。エヴァは一般の話題になるほど大きな「オタク現象」だったと言える。
アニメファンはもとよりコギャルから評論家までがその虜になり、しかも部外者にはまったく関心を持た
れなかったという特異な現象であったのだ。

 それは何故か?

 これを解くには、オタク現象のみならず、特異な事件や物語を解読していくようなポイントがありそうだ。



 ここではそんなことを考えてみたい。




エヴァはまだ・・・2

■エヴァ現象の示すものは何か?          橘 公司     [e-free-p 19980108]ヴァージョン ●メディアの違いが示すものは? TKのヒットとエヴァの閉塞は、そのメディアの違いに起因する、と考えてみた。 具体的には、  TKは音楽であり、聴覚によって受容される商品(作品)で、  エヴァはアニメであり、視覚による受容を第一義としている、 という違いである。 この聴覚と視覚という感覚器とその受容の形態の違いこそが、TK現象とエヴァ現象の違いそのもののファクター なのではないか、と。 ●感覚の違いの特徴  聴覚の場合、どこかでふと楽音を耳にしたとき、それがアムロの新曲ならば「アムロの新曲だな」と理解(指示 決定)され、次に「やっぱりいいなあ」とか「いまいちだな」などと納得(自己確定)される。そこまでの認識の 過程に介在する要素はとても身体的だ。聴覚(空気振動による触覚)は、それまでの積み重ねてきた聴覚の体験や 記憶(経験値)に影響される。これは味覚や嗅覚(浸透・浸潤による触覚)でも同様だ。それらは生きていく上で 必要な身体への直接のTPO情報であり、TPOを生きる場とする(それ以外にはないが)生命の大前提からして、 生きてきた経験値に大きく影響されるという当たり前の特徴を持っている。  視覚は“生きる(生きた)場”に影響されないで情報を収集することができる感覚器で、ある種特権的な意味を 持っている。視覚が影響を受けるのは可視光線の有無だ。身体が直接に触覚しなくても情報を得ることができる感 覚器というのは視覚だけなのだ。人間の腕の長さではテーブルの向こうまでも手は届かないが(触覚は到達できな いが)、視覚はモニターを介在させメディアを通してアメリカの街角の眺めることができる。このことを逆手にとっ た発想こそがMITメディアラボのヴァーチャルに関する基本的な概念だったと思う。  視覚は感覚を統合する脳に直結し、各触覚をはじめとする情報の受容(≧解釈)をアシストするサブシステムと して機能する。視覚から得られる情報は理解されやすい(指示決定として受容される)が、納得されるとは限らな い(自己確定として了解される確度は高くはない)。納得(自己確定による了解)とは“生きる場”における受容 と確認であり、触覚とその経験値による照応と確認である。視覚によって受容される情報とは、まさしく抽象度の 高い“情報”であり、これは視覚が電磁波を媒介とした物質の空間的延長をデータとして受容している感覚構造そ のものに由来する。  触覚が受容する情報は具体的な情報であり、それらは迅速に自己確定される。味、香り、肌ざわり、温度、そし て音などのリアルな活き活きとした情報だ。それらの情報は直接的に“生きる場”を意味し、身体は即座にその情 報に対して判断=反射しなければならない。この連続が生きることそのもので、たとえば“痛い”という触覚に対 していちいち思考をめぐらせ、あらゆる情報と照らし合わせながら判断を下していく、などという優雅な対応をし ていれば、それは生命の危険をともなうことになるだろう。触覚による情報に対する自己確定は迅速であり、無意 識的であり、身体的なのだ。  他方、視覚の情報によって生命が即座に危険にさらされたりすることはない。物質から延長された抽象度の高い 情報を受容する視覚は、思考を通した後に知識として情報を集積(記憶)することが主で、そこでは危険さえも情 報や知識として指示決定され自己確定されていく。視覚は高度に頭脳的であり、逆に、視覚の身体性は低度だ。 ●『エヴァ』の成功と限界が示すものは? 話題になりながら知られず、ヒットしながら閉塞したエヴァ現象をメディアとその受容器官である感覚の違いから 考えてみたいが、それはそのまま世代文化の違いや社会の特徴、サブカルチャーそのものを考えていくポイントで もあるだろう。  TPOと絶えずシンクロしているのは“生”そのものであり、その感覚プラグは触覚である。触覚が生命と世界 を媒介している。世界のスピードは生命を走らせる。  延長された空間性を受容する視覚では、世界が身体までの距離を持ち、受容された情報は自己確定までの時間を 持つ。生命は世界に対してスタンスを持ち、構える。  本来サブシステムの修正情報である視覚情報が受容判断(≧思考判断)に中心的な影響を持つ時、何が、どうな るのか?  そこでは、判断そのものにズレとデフォルメと絶えずオーバーフローがつきまとい、不安定なものとなる。視覚 認識にともなうズレや距離といった外部からの介在を可能にする過程の多さは、現実社会の反映のしやすさとなり、 高度に頭脳的であることは言語による反応を触発し、身体性の低さは自己確定のなさと虚いやすさとなる。つまり、 ブームや熱気、言説や噂の多さ、飽きやすさと忘却など、典型的なレスポンスとオタク的情況を形づくる根拠がこ こにあるといえるのではないか?  視覚という高度に頭脳的な、つまり身体性の低い(生と場のシンクロ率の低い)感覚とその判断が決定 権を持つメディアこそ、エヴァだった、と。  視覚メディア商品(作品)としてエヴァは、視覚メディアとその表現その感覚のある極限を現象させたといえる。 もちろん、それは同時に視覚メディアの限界を現しもしたし、視覚メディアによる伝播が、どのように生命や場そ のものからの乖離を生じるかも表した。  エヴァの成功はその形態にあり、その限界もその形態にある。そして、それは別に時代や社会の必要でも要請で もなかった。ただ、視覚メディアの表現者であった庵野が、視覚メディア表現の頂点と限界を、現在のテクノロジー (庵野のノウハウ)において試みたということにすぎないだろう。指摘される物語性の崩壊も以前から他の表現で はあることであり特に意味はないとも考えられる。ただ、TKと同様にマーケティングによるつかみや引っ掛けと いった意味でのガジェット(死海文書からビールまで)と組立ての成功があり、何ら努力や才能の見られない近年 の小説やTVより価値があったということではないのか? ●エヴァを終わらせること  たとえば、エヴァに関して最良の批評をしてみせた東浩紀は、作品をつくるという素晴らしさに感動するととも に、エヴァを見たことによって「オタクへの共感は非常にあるのですが」「それはどうでもよくなりました」とあっ けらかんと述べている。団塊ジュニア世代最高のイデオローグである東浩紀の象徴するものの意味は大きい。エヴァ を見て、そのアニメ表現の素晴らしさと内容の凡庸さを指摘した彼は、オタクカルチャー最高峰の作品を知ること によって、オタクカルチャーを卒業したのかもしれない。  一時的な視覚情報ではなく、触覚とこれまで生きてきた時間を凝縮させた経験値による実感。自分が生 きているTPOへの回帰=シンクロこそが自分を起動させるという事実だけが、実感であり、すべてだ。  “まったり”であっても実感は視覚情報程度のものに代替されてしまうわけではない。熱しやすく醒めやすく自 閉しやすいオタク的レスポンスの終息とともにエヴァも、そしてエヴァが提議した問題も終わりつつあるだろう。 その一つが東浩紀のオタクへの別れでもある。  結論は、何の変哲もないが、エヴァはオタクが見ていた、ということだ。宮台真司らの調査では新人類文化崩壊 の後、オタクは無傷のまま団塊ジュニア文化に融合している。団塊ジュニア文化はオタクから生まれたと考えるこ ともできる。つまりエヴァは団塊ジュニアが見たということにもなるだろう。もちろん、その終わり方、終わら せ方も団塊ジュニア文化全般のそれとシンクロするはずだ。