羊通信 2000.10.1〜12.31

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TYO & SKYDOMO羊通信羊通信パラパラ版ネタちょー(ネタ募集中)


ラーメン三代目・・・   2000/12/31


数日前、三代目の人がやってるとかゆー「揚州商人」とゆーお店でラーメンを食べました。
「商人」って、ラーメンの商人とゆーことらしいです。
ちょっと前に「中国に修行に行って来まーす」とか貼り紙してお休みしてたお店で。
中国から帰って来たらグッーンと味がコクが増して、スゴク美味しくなりました。
しめしめ。
そーいえば大晦日も元旦もやってるとゆー貼り紙があったよーな。
JR中央線下りで立川駅の直前右手に見えます。道の角の赤い色のお店。
立川の南口の方はラーメン横丁とかがあって割と評判だとゆー噂を聞きましたが。
「揚州商人」は北口でーす。



「一人称の不在」?・・・   2000/12/31




     自閉症児はしばしば欲求を二人称の疑問文で表現するという。
     ジュースが飲みたいときに、
     「お前ジュース飲む?」というように。
     この一人称の不在はどのように解釈されるべきか。
     そもそもひとはどのようにして「わたし」を修得するのだろうか。



臨床の現場で実例をいっぱい観てる斎藤さんの『文脈病』にでてくる、説得力ある指摘ですね。
そして、
この「一人称の不在」を「主体化への恐れ」であると考察するのが斎藤さんのオリジナルで重要な主張です。
自閉症だったドナさんが自ら書いた『自閉症だったわたしへ』などを手掛りに斎藤さんは緻密な検討をしてます。
以下のよーな興味深い指摘もあります。



     彼女は自らのもっとも好ましい写真として
     「誰でもない顔のドナ」を挙げている。
     この「主体化への恐れ」は、さまざまな形で
     彼女の手記のいたるところに見いだされるように思う。



ドナはドナらしくない顔が好きらしくて、自ら「誰でもない顔のドナ」を好ましく思ってるんですね。
なんかカワイソーな感じがしちゃいますね、コレ。
自分らしくない自分が好き?
自分で自分を肯定できないのは確かみたいです。

ここで一つだけ疑問とゆーか新しい問題を示しちゃいましょーか。
自分で自分を肯定できないのは確かだとして、
それがダイレクトに「主体化への恐れ」になるんだろーか?
....とゆーことですね
以前に指摘したコトと関係あるんですが、
「主体化への恐れ」があるとしても、その「恐れ」ている主体は何なのか? 誰なのか? とゆーことですね。
はたして「恐れ」の主人は誰なのか....。
まあ、「主体化」を「恐れ」ているんだから「主体」より以前からあるものなんですねえ、きっと。

....主体に先立つもの、かなあ。

これは例えば『構造と力』の浅田さんのテキストなんかを参考にすれば....



     象徴界がつねに―すでに主体に先行しており、
     生きた主体の織りなす相互関係の平面をいわば過去から包摂している



....でしょー。
するってーと「A」くんかあ。
あの大文字の「A」くん。
問題はその先なんだけどさ。

わははは



■人混みでオシャベリできるワケは?・・・   2000/12/26


騒音の中で意識した音だけが聴こえることをカクテル効果とかゆーよね。
街の雑踏中で友だちや彼女とオシャベリできたりするのもこのおかげ。
景色でもそーなんだよね。
視覚のすごい情報量の中から探してるものを見つけだせちゃう。
森林の中で鳥を見つけたり、道路に落したコンタクトレンズを探したりさ。

これは意識が感覚に志向性を与えてるコトを示してるワケでしょ。
単なるフィルター効果とはチョット違う、もっと積極的なもの。
対象だけに対して鋭敏になるということ。
感覚が鋭敏になるんじゃなくて、対象(だけ)への志向性を持つコト

まあポイントは志向性だね。
問題は、この志向性を生み出しているものは何か? とゆーこと。

感覚が鋭敏になるんだったら、その感覚が対象としてる属性の情報すべてが増大するでしょー。
視力がよくなればすべての視覚情報がよく見えるよーになるでしょ。
そーじゃなくて、探してるものが見つかるとゆー時の感覚の敏感さのこと。
特定の対象に対する感覚の鋭敏さ。
なぜ探してるものに対してだけ敏感になるかってゆーことだね。
対象への志向性が感覚を鋭敏にしてる、そのこと、だーね。
静態的なクオリアじゃなくてね。

そして対象への志向性が強過ぎて感覚レベルでの時空認識構造のグレードを超えるとか変成させちゃうと、
幻覚や幻視が生じちゃうんだね。

幻覚された感覚の指示決定によって通常の自己確定ができなくなる、つーとこれは分裂症。

幻視であっても脳の視覚野に視認を示すパルスが出てれば正常なんで異常と正常の区別はつかない...
とかゆーいい加減な主張があって、この延長線上には異常と正常の差異はないなんてゆーアホな反差別主義みたいな、
サブカルバンザイにも通じるよーなオマヌケな主張もあるんだよなあ。
行きつくとこは<好き・嫌い>のジャッジこそは不可侵だってな感じのグチャグチャのポストモダン。
ボクちゃんだって肯定されるんだあ風の自己正当化なんだよなあ。
これがポストモダンとか言われちゃうと、もー、サイテーなんだけどさ。
で、サイテーにケリつけるのもここポリシーなんで書いてます、こんなのを、っと。


「幻視であっても脳の視覚野に視認を示すパルスが出てれば正常」とゆーのは大きな間違いだね。
唯脳主義的なイデオロギッシュな間違いだ。
どんな生命も人間も、個体は外部とのエネルギー&情報のフィードバックで生きてるワケで、
外部と直接に接している感覚器と脳との間に情報のやり取りがない認識は一般的に正常ではないでしょー。


身体に異常を起してヒスタミンが増加して痒みどころか幻覚しちゃうのは分子レベルでの反応ではあっても、
正常に外部からの情報を受容しての認識とは全然違うからねえ。脳がヒスタミンに反応して幻覚を起こしたって、
それは情報への認識じゃないからさ。

お坊さんが修行して血液中のヒスタミン濃度を上げつつ、
それを抑制するメチオニン濃度なんかを下げて、
あえて異常な状態に身体と精神を置くのは、
その状態でも正常な認識を維持できるためのシステムを構築鍛練するためであってさあ。
これを単にヒスタミン生成だけじゃなくレセプターの異常増加を招く覚醒剤なんかまで使って、
それが修行の替わりだと思ってるニューエイジバカはオウムだけじゃないけどね。
まあ浅田さんが言うとおりで単なる馬鹿なのは確かだなあ。そいつら。

感覚器が関与しない外部認識はあり得ない。
もちろん内部認識=観念≧思考は感覚器が関与しない。
それでも外部認識用の外胚細胞から脳や神経や眼球が形成されるのは、
全ての認識は外部との関連によっていることの発生的な証しだよね。

外部への認識は感覚を通じた構造を経由してのやり取り(だけ)で、
感覚構造の変数や係数をバイアスにしたマテリアルつーこと。
もちろん<物自体>にアクセスできないのなんて当り前。
自分の感覚構造を経由した情報を認識するシステムは生物全般にわたって共通なワケで。



そんで何だっけか?
だから意識が感覚に志向性と鋭敏さを与えてるんだ、と。
そーか、そーか、そーだった。

ところで幻覚じゃなくても何らかの像を想像することができるのも人間の特徴なんだけど。
これは外部認識とは関係しない、内部認識=観念≧思考だけによる、その分だけ観念性が高まった認識で、
斎藤さんが『戦闘美少女の精神分析』でコアな論拠としてる「直観像資質」とか
ヤスパースや吉本さんが言及してる「主観的視覚的直観像」と呼ばれる認識作用が代表かな。


そして斎藤さんが鋭く「直観像は、むしろイメージを超えるものとして表象の外部に存在する」と指摘してるよーに、
「イメージを超え」「表象の外部」のものなんだよね。つまり視覚情報てな類のものではなくて、もっと動態的なもの。
ターム的には誤解されやすいけどさ。これは意識が運動の観念の志向性を取りながら想像へと表出したもので、
像と認識されるけど、その実態は内部認識としての運動の観念の志向性そのもの、かな。
だから想像行為が現実的な運動行為へと発展?(変成?)するにしたがって消失していく傾向がある能力(認識力)なんだろーね。
まあ、こりゃムズカシイので、もーちょい考えてみるですだよん。

まーね、たとえば...


     個体にとって<そこに在ること>が
     <そこに居ること>として認識された瞬間から
     関係の空間性とその了解の時間性が生じる。
     これを原関係と原了解とする。


...てなことで<そこに在ること>止まりの現存在了解なんてどーでもいいんだよ。
そのレベルで止まってる生き物なんて人間からゾウリムシまでいやしないからなあ。
それは単に観念の自由度を示してるんであって、それ以外に現存在了解の意味なんてないからねえ。
あるのはぜい弱なボクちゃんの無制限な肯定ぐらいなもんだろー。
まあ、この認識の次元(≧時点)から「根源的脱自態」(メルロ=ポンティ)の概念を導入しちゃう浅田さんのワケもわかるけどさ。
それじゃ認識にとって最大のポイントになってくる「志向性」の概念による展開ができないんだよねえ。
<原関係>と<原了解>(セットで現存在了解も可!?)から<志向性>による遠隔対象化で認識が高度化・複雑化していく過程のね。
TPO=場所的限定から空間認識と時間認識の錯合した認識構造が展開していくパースぺクティヴだね。


「志向性」によるペースぺクティヴを捨象して認識論を展開しようとすると
「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」(ラカン)なんてゆーいい加減ないいワケになっちゃうんだ。
それを全部資本主義のマテリアル(経済=モノゴトを媒介にした関係)による構造物=構成態=機械だとするのは
共産主義者であったドゥルーズ=ガタリのレベルでは有効でも、それじゃアメーバの認識だって解明できないもんね。

だから『逃走論』以降は理論が書けないとすれば残念なんだよなあ。
「倫理的判断と美的判断は別だと思う」という浅田さんの主張は、ボードリヤールやジジェク以前かもよ。
「倫理的判断」と「美的判断」についてのラジカルな考察だったらマルクスの『経済学批判大綱』にも書いてあるでしょ。
どんなにマルクスがラジカルな問題を提議してきたかは浅田さんは知ってるハズなのになあ、と。



ああ、グーッグーいいだしたなあ。
ところで、今日はフレンチトーストの予定ですが。



■もうける・・・   2000/12/25


つーことで、こんなチャンスはないんだねえ。
ネットトレードの増加でレスポンスが速くなった分だけ
レギュレーションも速いしなあ。
原資があるヤツはボロもうけだい。



■731だってか?・・・   2000/12/21


731つーてもキョーフの731部隊じゃなくて、
今日の東証日経平均の最大下落の値ですね。



   ¥731下落でーす。



まああ、あらためてアメリカはバカだあと思うのは、
グリーンスパンに勝手に利下げを期待して、
利下げ決定がなかったんで、ボーラク、てな甘ちゃんねえ。
利下げして、資金融通して、バブルって、どーすんだよ、こいつら。
アメ公、っよ。

以前のバブルで
「人はバブルをスグ忘れちゃう」と批判した
あのシュンぺータの影響を受けマルクスを語れるガルブレイスを
「テメーがもうけられないからって、やっかむなあ」と罵倒した
アメ公の根性はそのまんまなんでしょかあ?

ドウルーズ=ガタリだってホントはモロに影響されてる
ドイツのポストモダン?てな感じのゾンバルトなんかを考えると
やっぱバブルって必然だけどさ。

共産党独裁を解消した後で、
自由化に浮かれる大衆を前に
「国民は苦しまなければいけない」と
正直に演説したマゾビエツキ首相みたいな人って、
いないんだねえ、つーか、人気ないのかあ?

まー、そんなもんだね、世の中は、と。

さて、年初来安値を更新し続ける今日この頃。
やけにクールなのがネットトレーダーやデイトレの皆さん。

某建設や某食品や某自動車でガッポリな人たちをはじめ、
次のリアルフィールドへ向かって虎視眈眈てな感じかな。
羊君はキャッシュの余裕がないので、
こんなスゴイ買い場なのに動けませーん。
まあ長期スパンで3〜4倍てなのを仕込んでるんで、
社会見学でもしてよーかな、な雰囲気です。
それともミニ株でもやろーかなあ。

早いと1ヶ月後にハジケルねえ、こりゃ、さ。



■面白いなあ・・・   2000/12/20


『神戸から長野へ 新・憂国呆談』(浅田彰・田中康夫/小学館)


...面白いでーす。
以前の『憂国呆談』もよかったけど、今回のはなんか全然面白いよん。
時事問答にかこつけてこれだけ原理を語れるのもすごいしね。
もちろん長野で田中さんを支持したよーな一般?読者向けなワケでしょー。
専門用語で専門分野語るのはどこのバカでも出来るけどさあ。
こーゆー風にわかりやすく解説してくれるのはありがたやあ、です。


そんでえ、
浅田さんの主張は以前からもそーだけど、
実にオーソドックスな左翼です。
もちろん原則主義者は柔軟ですってないいスタンスですが、
なによりマルクス的に原理を踏まえてるんで、なんかオーソドキシーながらポストモダンでやんす。

浅田オタクには浅田さんのテキストをコレクションしながら浅田さんが左翼であることを認めないとゆーか、
そーゆー認識が絶対にできない不思議電波系な単バカガイキチがいますが。
まあダメなのは何をやってもダメかもしれないけどサンプルとしては面白いかもね、てな程度かなあ。


『神戸から長野へ 新・憂国呆談』には哲学から批評、サブカル論議まで貫くこんなにラジカルなコメントなんかもあります。


   ぼくは、倫理的判断と美的判断は別だと思うんで、
   美的判断については福田和也を相対的に評価するって言ってきたんだけど、
   あれでは福田の美的判断も全然ダメだって言わざるを得ない。


...というのは石原慎太郎さんの作品に最高点をつけた批評家としての福田さんへのキビシイ批判です。
これは浅田さんの言い分は当たってるでしょー。
福田さんは価値判断がモロに日本人なんで栗本さんの自民党研究で得られた結論のよーなジャッジしかしないもんね。
しない、つーかできないのか。まあ、いいや。このデブちゃんを見切るのはカンタン過ぎるので、パスってなとこかな。



で、問題は浅田さんの「倫理的判断と美的判断は別だ」とゆー考え方。
ホントに哲学や思想をやったり批評をやるんだったらこれをジャッジしてみなけりゃだわん、とゆーのが羊的スタンスだよん。
<倫理的判断>と<美的判断>は『構造と力』以来ずーっと浅田さんの最高?にして最もラジカルな論拠なんだけど、
これはそもそも<倫理的判断>と<美的判断>の根拠がわからなきゃわかんない問題でしょー。
<倫理>に関しては個と共同体の関係や共同性のレベルで語るのが哲学からサブカル?論議までフラットなザマで、
それにコードとコード無視のバランスを自己主張(保身)のスタンスやレベルに対応させながらオシャベリするのが
審<美>論や芸術論。うんで、ちょっと電波ったりヒッキーな味つけしてんのが流行のサブカル論程度でしょが。

<美的判断>は<倫理的判断>に対して指示決定と自己確定の錯合が優位になって、
特に指示決定性の空間性が大きく遠隔対象化した場合いが顕著なワケでさ。
...とゆー物言いはヤメて、と。

まあとにかく、倫理が生成する原初のポイントから考えてみないとわかんないワケ。
原初のポイントを別の方向からも触れる必要性を説いてるのは東さんとか極少数なんだもんなあ。文系じゃ。
浅田さんが個体発生も系統発生も峻別しないで
「根源的脱自態」(メルロ=ポンティ)とかを論拠に持出しちゃうのは
フロイト以前への知的退行なんじゃないの、とゆー疑問は禁じ得ませんねえ。
出生以後の個体の成長発達段階にも
「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」(ラカン)とゆー認識を持ち出して正当化しよーと思っても、
ダメだよん。

個体発生段階で、つまり受精卵から胎細胞の構成体へと発達して行くプロセスで分子生物学的な代謝や反応(認識)
が複雑化・高度化するでしょ。そのマテリアルな反応に照応した意識の位相が形成されていくのは今や常識じゃん。
粘菌やアメーバの運動が単に物質的な反応なワケがないでしょ。
単に物質的だったら化学反応そのもののように同一条件下で全く同一な再現性があるワケでしょ。
生命活動がまったく完璧に再現するかあ?
複数の同じ大きさのアメーバが、
ある距離にあるエサに向かって全く同じようにいっせいに行進するみたいに移動するかなあ?

ちょっと離れるよーだけど『不過視なものの世界』で東さんが触れてるよーに「系統発生を考えないと」いけないし、
それが同じ対談で斎藤さんが指摘してるように「系統発生的なものはちょっと出てこない」「そこがラカン理論の限界」
てな状況を突破しないとダメなんだよなあ。

もちろん浅田さんは『構造と力』の時点でそれをドゥルーズに求めたワケだし、
斎藤さんはベイトソンやベルクソンに求めてるんだけど。
吉本さんとゆー強力な手掛りがありながら、それを有効利用してないのは、まあ、マヌケだなあ。
それにあえて無視してるなら、どーして無視してるかも解っちゃうしね。
それをここで明らかにするんだって面白いワケだしさあ。

アメーバやゾウリムシやボルボックスがどんなに見事に個体として生きて行くか、
そしてTPOに応じた共同性を構成するか、てな事実は生物観察のイロハじゃん。
その辺もクリアできなきゃ、ソーカルさんが登場しなくたって文系?や社会科学的な認識なんてのは無用だしい。
あとは自己満足的にサブカル論議並みのヨタ話でもしてりゃいいワケでしょーがあねえ。
モロにダーウインからでたアフォーダンスの方がイケてるのは、まーイイコトですわねえ。

てなワメキの後で何ですが。
だから<倫理>が発生する位相や段階をマテリアルに考えてみな、てなことかな。
もちろんマテリアルな個体発生のもとでの系統発生との位相を前提としたパースペクティブでね。


あああ、バタフライ効果だなあ。



■センチな日本人は18音階なのお?・・・   2000/12/17


世界的に有名なN響の指揮者だった人にクラシックと日本人の関係について取材したことがあって。
彼は戦後日本で初めて世界に通用した指揮者でもあるんで、
典型的な西欧論理の芸術表現であるクラシックと日本人がどんな相性なのだか、
その現場にいる人にたずねてみたワケですね。


   チャイコフスキーを演奏させたら日本人は世界一です。


と彼は強調しました。
さらに・・・


   センチメンタルな音楽を演奏するのに
   日本人は適している。


とのこと。
理由をたずねると


   日本人の演奏はメリハリが効かない。
   ♯がちゃんと半音上がらないし、
   ♭がちゃんと半音下がらない。


そのハッキリしない表現が、
全体の印象としては逆にセンチメンタルな表現に絶妙な雰囲気を発揮するらしく、
全体がちまちまとまとまった印象をもつからだろうという。



ところでそのメリハリのない半音の上げ下げとは具体的に2/3程度のベンドだという。
つまり半音上げる(下げる)べきところで半音の3分の2しか上げ(下げ)ないワケだ。
西欧人にとっての半音程を、その2/3音程で表現していることになる。
ボクはこのコトを「西欧音楽をちゃんと再現できない日本人」と否定的に理解してしまったが、
同時にチャイコフスキーには最適というところに興味を持った。
他民族の文化や表現を上手にフォローできないことを否定的にとらえる見解は取り消して、
ただ単に比較してみると面白い事実が分かると思う。


1オクターブは半音12音で構成されている。
ここで、西欧人にとっての半音程をその2/3音程で表現している日本的な半音をJ半音とする。
1オクターブを半音で分周すると周波数どおりで12音だけど、
これをJ半音で分周すると1オクターブは18音になる。

つまり、
日本的な感性で解析される1オクターブは18音階だ、ということになる。


マテリアルにテクニカルなアプローチをすると答えが簡単にでちゃうワケね。
1オクターブの構成音が多いほど公約数が多くなるんで、
インドの音階なんかを頂点に構成音が多いエスノなスケールが共感しやすさを持ってるのも
当り前ってなコトかなあ。



耳が良い人は半音の1/50のピッチに気がつくらしいけど、これもマテリアルな理由は簡単。
1/2000秒の音の変化が解る、と考えてアプローチしても答えOKてなワケだしさ。

芸術批評つーか音楽批評でも文芸的な自己満足な物言いじゃなくて、
マテリアルな批評があまりないのが残念てなトコ。
まあ小沼さんなんかはいいけどさ。
吉本さんのケージ論は最高だしね。
あれは精神分析からのもんだけど。



■ねこぢるな気分だなあ・・・   2000/12/15


ぎょえー、いそがしい。
毎日軽〜く10,000歩以上だあ。
健康にゃあ、いいかもしれないけどさあ。
ねこぢる最終作品の本買いたい気分んんん。



■雑書きだよでも重要・・・   2000/12/8


証券ネットトレードの4分の1は松井証券の取り扱い。
まあ、大きくなったねえ。
1年前は30位代だったよね、証券界での順位が。
おまけに預かり資産は10億円まで保障だ。
ペイオフで1千万円以上は法律的にも保障されなくなるトレンドなのに。
これはアメリカの金融関係の保険に松井証券が加入してるからだけど、
そもそも加入審査がキビシクて日本では松井証券しか認められなかったらしい。
自社売買する会社はそもそも審査に通らないワケでしょー。
アメリカの金融はホントに自由市場が形成されてる代わりに恣意的な組織的な動きはスポイルされるよーな
規制やシステムが発達してるね。デイトレーダーで知合いと申し合わせてトレードして逮捕された人間もいるらしいし。
証券関係の調査官が何千人もいるという国だけあるですなあ。
野村や日興、その系列がどんどん影響力を失って行く中で中小弱小の証券会社やベンチャー系がグアンバッテます。
でもまあ無事なのは上位5社くらいだろーなあ。


まあ、こんな話しも300,000,000円スってる知合いにゃ関係ないだろーし、
14億円借金してる知合いにも全然関係ないよーでしたん。

上がりそーな銘柄を1000株だけ買って1万とか2万とか上がるの見てるのも楽しいけどなあ。
焼そばやホットケーキだって食べられるしね。(^o^)

4%のトレーダーにはこの3日間で今度は何が上がるかわかっちゃうワケだしさ。
もちろん96%にはわからないのかもしれないけど。
これも構成同一性の認識力の欠如だね。
日常的には否定形の認識振り回してるから数秒かそこらで見破れるタイプだけどさ。
まあルサンチマンとトラウマを感じさせる言辞を吐く人ね。

放送衛星の姿勢制御とか管制の仕事をやってる知合いにあって話してたら、
なんで株式投資で損する人がいるのかワカラナイ」とゆー。
そーなんだよなあ、下がったら売らなければいいんで、売らない限りは損しないんだけどねえ。
信用売買も半年期限あるけど、
3ヶ月なら2回、2ヶ月なら3回てな具合にリターンマッチも敗者復活戦あるわけでじゃんよ。
結局、自分自身が自分独りで描く破綻にビビッてクールな思考が出来なくなっちゃうワケで、
自作自演の自爆劇はシロートゆえに面白くもなく、ヘンに笑える単なる日常の1コマとして、
理解も同情も援助も得ることなく、しかし確実にクタバッテいくんだよね、そーゆーのってさ。

まあ、この自縛する自己幻想性こそが吉本さんの幻想論宮台さんの権力論のベースだけどさ。


心身の健康は自己認識による自己コントロールにあるんで、
否定形の認識しか持てない人が健康を維持したり、
サイテー限のルールとして他者に迷惑をかけないとかってゆーのは、無理な話かもね。
他者との関係性以外の何ものでもない「公」を振り回すヤツに限って、
自己コントロールどころか笑えない無様な独り芝居しかできないのは、よくあるコトでさ。

ベルギーだかデンマークだかの貴族で日本の皇室とも親しかった心理学者。
この人はアメリカの大学の心理学を7コースも卒業しててバイオフィードバックの第一人者。
日本語で「気づきの効用」と本人は言ってたけど、自分自身を認識してコントロールするコト。
その成果を聞いてやっぱり驚いちまいやす。
アメリカで癌の最終療法として精神療法が取り入れられてるのもこの人の影響。
この前NHKでも放送してたけど免疫活性があるレベル以下に低下すると癌が発生するのにしても、
基本にあるのは自己と他者を見分ける認識力≧免疫力なんで、
そこで「気づきの効用」としてバイオフィードバックが大きな効果を持つのもあたり前でしょー。
貴族ドクターさんの療法?で知能指数80程度の少年が国立大学に合格するようになった例なんか、
もー、感動もんでしたん。もちろん癌の治療とかいろいろあるんでしょーが。


実をゆーと「ネタちょー」だのレスポンスでいろんな感想とか意見なんかもらいます。
で、ケッコー感心つーか関心?したのが、
「興味あるのは健康」とゆーレスポンスが来たコト。

健康って正常な認識とホメオスタシスだもんね。
つまり自己認識と自己コントロール。
その前提でありその保障が構成同一性だしい。

ところで、
「TKと同じよーに松ちゃん取り上げてえ」とゆーのは対応できなくてゴメンナサイ。
「トロツキー」云々とゆーレスもありましたが、この類?は自然に触れてきますよん。OK
「いろんな人がいるので見るだけで楽しい」とゆーレスには激しく同感。

エヴァ批評、TK批評は評判が良くってよかったデス。

TKが絶頂の頃からTK自身が言っていた「そのうち人気もなくなるし」とゆー関係では、
どーしてTK人気がなくなったか、どーしてもともと批判されてきたかとゆー大きな問題・・・
・・・つまり否定形の認識に関する問題としても、それに対するカウンターインテリジェンスとしても、
ここでの大きな基本的なテーマなんで、やっていきます。

ちなみにTKの人気消滅の原因はTKが「世界視線」的なアプローチをしたからですよん。
つまりハイブローな指示表出を目指したからつーことかな。
これはイデオロギーが嫌われるのと同じ問題なんだけどね。
逆に何が好かれるかを追究しても解はすぐに見つかります。
宇多田ヒカルがヒットした訳みたいなもんで。
問題はその先で宇多田とTKの構成同一性的な認識の答えの方でしょー。
これにはあのユーミンだってモロに関係するんだからなあ、と。



■さいこーですかあ?・・・   2000/12/6


さいこーですかあ?・・・つーよりサイコな感じの今日この頃。
500円も上げた東証の日経平均でしゅが、出来高は午前中で3億程度かな。
ふっははは、またまた値がさ株の復活てな感じでゾンビも真っ青。
まーねえ、すぐ壊れるのに保障は3ヶ月で新進気鋭のライターから批判されたSONYのパソコンも
新しいラインナップでは結構いいからなんつー話しが寄与したワケでもないけどさあ。
しかしアレ、Windows2000を用意してるのは意外だけどSONYを再認識させてくれますですよん。


で、10月5日と11月30日のある数字の変化で、
寝て暮らせる明日をゲットできたネットトレーダーがどんだけいるのか知らないが。
昨日と今日のリアルフィールドのバトルで年収分稼いじゃった人って多くないけど少なくないよねえ。

寝て暮らすのと寝たきりとあんまり違わないのもさいこーかもしんないけどなあ。
2週間ほど毎日1万歩以上歩いて体重が3〜4s減ってくれても、
やっぱいそがし過ぎるのは辛いですう。



■ろんぱあの行き先・・・   2000/11/24


ドナみたいなろんぱあミッフィーが、トコッ、トコッと歩いて行くんだけど、
行き先がわからない。

黒いツーリングバックを肩にかけて、
大小2つの紙袋でバランスをとるみたいに歩いてる。

クリーニングからおろしたばかりでも、お尻をまあるく光らせそうな茶色のコートが、
微妙に左右に揺れながらお昼の光に照らされてる。

トキおばがラーメン屋の路地から声をかけても、
気がつかないろんぱあは、白い光に押されるみたいに歩いてく。

丸っこくて袋とバッグを手いっぱいにさげてるのに、
なんだか早い。

行き先がわからないろんぱあの姿は、すぐにトキばあから見えなくなった。
高いところから見下ろしてた羊にも、もう見えない。

わかってるけど、見えなくなるコト。

誰でもない、ひとりの世界。
どこかにある、ろんぱあのうち。

ひとりのセカイでろんぱあが探してるもの。
そして、羊の探しもの。



■酉の市か・・・   2000/11/23


カーゴパンツを買う。
お店のオリジナルでオールナイロン製のカーゴパンツをゲット。

よく知ってるよその街の、酉の市。
なんだかにぎわってる参道のMUJIで、ご機嫌なろんぱあが何かに夢中になってる。
食べ物、食べ物、食材、食材… キャンディー、 キャンディー………
MUJIにまで進出したサプリメントを見つけて感心。
ふーん、健康ってブームやトレンドじゃなくて、もー日常つーか、そーか、てな感じ。



■たとえば戒名とか・・・   2000/11/21




     迷羊騒走口明居士




一応バラモンを立てて居士にしとこかな。



■クールの涙・・・   2000/11/18


他人に迷惑をかける!

...と一喝され、取材を断念。

戦前の記憶というものが薄れて行くけど、
もしかすると何か記録をとってもしょうがないかな、という気持ちもしちゃう。


10年以上続いた戦場で身につけたクールさに、
もともと帝王学ゆえのクールさも併せ持つ人もいます。


で、スターリンとその息子なんかも、スゴイ。

息子をナチスに囚われたスターリンは「息子はいない」と言い、
息子は「オレはスターリンの息子じゃない」と自ら銃殺になる....。

他人に迷惑をかけまいとするソリッドに沈黙を守るクールな人物も、
このスターリンの息子のエピソードに涙をみせました。

ボクがここで感じたのは『羊をめぐる冒険』の「僕」のこと。
「僕」がはじめて泣くシーンは、
スターリンの話に涙した人物の何とリンクするんでしょうか。

静かだけど、大きな深いもの。
そんなものを探そうと思います。
今までも、探して来たんだし。



■ソース焼そば・・・   2000/11/15



しばらく前に中華のFF「東秀」で見つけたのぼりが....


     懐かしいソース焼そば


つーことで、ここも最初は「おいしい焼そば」情報なんかを載せる予定だったんですが、
どーしてこーなちゃったんだあ〜。

それでだ、東秀の焼そばなんだが甘いね。
焼そばとゆーと夜店のアレを思い出すんだけど、東秀のはちと甘い。
みりんとオイスターソースの甘味がします。
やっぱりなあ、紅しょうが合う味がいいです。
最近肉入とか野菜入とかアイテム増やしたみたいなんで、
「辛口紅しょうが」とか作ってよん。



■日経平均サイテー?・・・   2000/11/14


つーことで、またも繰り返すサイテーのザマでござる。
昨日は日経平均がサイテーとか。
500円の下落? フーン

リストアップした銘柄でも真っ赤かで大幅下落の真最中てか。
でもなあ、やっぱり、そんな中でも7〜8の銘柄は上昇中。
うーん、しかも2〜3の銘柄は爆発てな感じだね。

ネットトレーダーの皆さんはここぞとばかり激しく買いに走ったりして、
イスラエル占領下のパレスチナ・ゲリラ以上のヒットエンドランを狙ってたりします。やっほー

とーゆーことで騒ぐ心に忠実に、優良銘柄を売ッ飛ばして、
乗り換えてみました世界企業。

しかしなあ、不人気ジャンルにちゃんと、ここ最近では唯一ってなのがゴロリといくつかあるのは感動もん。
某政治銘柄は2日間だけ高騰したしね。前回は儲けさせてもらったな、と。
この2日、加藤派の資金調達だったのかな。



■文字は5%?・・・   2000/11/13




   全人類が言葉を話し、
   膨大な種類の言語があります。
   でも書き文字があるのはその5%だけ。



言語学ってそもそも場所を捨象しての考察が普通みたいですねえ。
場所的限定を無視して何がわかるのかな?
言語で構築される哲学はどーなのかな?
だから環境条件で何でもぶち込む社会学とかが注目されるんでしょか?



■デリダのダメさ?・・・   2000/11/6


『不過視なものの世界』で大事なコトを知りました。



     デリダは場所の隠喩を嫌う哲学者なんですね。



と東さんが斎藤さんに対して説明してますが。
何でも「場所と場所の関係で考えるんじゃなくて、繋がっていることを基本にして考える」んだと。
フーン。
場所を捨象することによってハイデガーの呪縛から逃れたいんだろーか?
純粋概念だけで思考するコトを目指してだとしても....


     デリダがヨーロッパの伝統的テクストばかり読むのは何故なのか、
     とあえて素朴に問うたサイードが完全に正しいと考える。


....という『存在論的、郵便的』のいちばんラジカルな見解の方が正しいでしょー。


デリダも<場所>からフリーハンドになることを目指したとすれば、
そりゃラカンと同じじゃんねえ、と。

系統発生的にも個体発生的にも具体的な場所にしか生じない生命とそこに宿る観念を考える時に、
<場所>を捨象した認識に何ができるんでしょーか。


やっぱデリダより坊主の方がエラいなあ。(笑)



■カメが5匹・・・   2000/11/3


某寺心字池で5匹のカメと遭遇。
けっこう寒いのに元気なカメが5匹。
池の底をずーっと歩き回っている1匹はどーも日本産のアイテムではないよーなカメです。
灰色でスマートなシルエットはどこの御出身でしょーか。
蓮の葉の間を泳いでるカメはアカミミとクサガメとイシガメくん。
それからクサガメのチビが一匹。ゼニガメくんですね。
丘を歩いてる人間の足音で寄って来ます。低周波に敏感だな、カメって。

まあ今のところはカミツキガメの類は見たことはないですが。
東京都はカミツキガメを条例で規制するとか、ホントかな。

唐招提寺の庭で大きなカメにつまづきそーになったりしたことがありますが。
10年計画の再建工事の間、あのカメたちはどーしてるんだろーなとチョット心配です。

先日またもスッポン屋を発見。
カエル合戦で有名な寺にカエルがいないくせに、街にはスッポン屋があったりすると
なんだか複雑な気分。スッポン屋は何軒か見かけたけどカメ屋とゆーのはないですね。
香港じゃ、ちと前まで、随分あったハズだけど。
日本にゃカメ屋はないんだろか。
ちなみにカメ一匹でカメゼリーが一人分できます。
黒蜜かけて食べるとコーヒーゼリー風で、おいしいよ。



■ひよわなテクノ・エイジとか・・・   2000/11/2


   メディアは意地悪く身をかわし続けたりはしない親切な鏡であって、
   テクノ・ナルシシズム・エージのひよわなナルシスたちは、
   それを相手に幸福な鏡像段階を生き続けるのである。


                        (『逃走論』「スキゾ・カルチャーの到来」)



『逃走論』でわかりやすくスキゾ・カルチャーを説明してるテキストが「スキゾ・カルチャーの到来」。
上の引用は「マザー・コンピューター」という表現が目立つSFにフォーカスして批判されるべき
テクノ・エイジを描いた部分。
「ラジオの深夜放送がひとつの文化を生みだした」その次に、今後は「エレクトロニック・メディア」が
「スキゾ・キッズのメディア・スペースを飛躍的に拡大する」ことを示しながら、
マザーの代替である「マザー・コンピューター」によるエディプス的呪縛を予め批判した部分ですね。
1983年の文章なのでデジタル・メディアという言葉ではなくエレクトロニック・メディアと表現されてるトコには、
さすがに時代を感じますが。しかしインターネットの使用開放の約10年前、PC通信の商用化の何年も前で
あることを考えると、やっぱ浅田さんはスルドイ。電話が普及したとかケータイがどーのこーので事後的に
分析するのはありふれてますが、事前に批判されるべき可能性まで見通しちゃうトコがさすがですね。
現状の巷に溢れるメディア論もこの範囲内でしかないでしょー。

それに、たとえば、「メディアは意地悪く身をかわし続けたりはしない親切な鏡」だから
「ひよわなナルシスたちは、それを相手に幸福な鏡像段階を生き続ける」というのは、
以前からこのWEBでもフォーカスしてる
「精神病がゲームの中では精神病でないのはナゼ?」という問題の
一つのヒントにもなるかもしれません。
デジタル・メディアの結界の中にひきこもってれば<外部>との摩擦や対立がなくて、
ストレスを受けないで済むし、壊れなくていいでしょー。

これはこれでいいんだけど。

ヒッキー&オタクの生き方として、
「幸福な鏡像段階を生き続ける」というのはどうかな。
これってちょっと考えてみたい気がしますね。
(用語として「鏡像界」の方が「想像界」より適切という指摘が『構造と力』にあります)

東さんならそこでは「象徴界が機能してない」と考えてるワケでしょ。
そして“象徴界を視覚情報やイメージ操作が代替してる”と。

斎藤さんなら「メディアと想像界(鏡像界)の相互作用」を指摘するワケですね。
しかも「象徴界と現実界についてはいかなる変質・変容も想定しない」そうです。

浅田さんと東さんの認識は連続しつつ整合性があるでしょう。
ヒッキー&オタクは象徴界を視覚情報やイメージ操作が代替しながら鏡像段階を生き続けるわけで。
斎藤さんは違いますね。


ここでは、ペットの動物と野生の動物の違いが、ある面ではヒントになるかもしれないですね。
ペットの動物と野生の動物の違いは空間(性)の認識の違いでしょう。
野生の動物の空間認識の基本は対象との距離(感)で、
認識上の空間性と物理的な空間とが比例?するような空間認識ですね。
簡単にいうと対象との距離が遠ざかれば認識上も遠ざかるようなものです。
便宜的に3段階の距離(感)が想定できます。
内(空間)・中(空間)・外(空間)の3段階ですね。


  内空間は即自的空間。自分の身体であり、いつも触れ合ってる子供やパートナーも含む空間。
  中空間はナワバリの空間。自分たちの活動の範囲であり、いつも把握できている空間。
  外空間はナワバリの外の空間。敵も獲物も存在する、アプローチするまで把握できていない空間。


野生の動物だとこの空間認識がほぼ物理的な空間性によって規定されるワケです。
ペットだと外空間がなく中空間と内空間の差もあるかないか程度で、認識は変容してます。

野生の場合、外空間に何かが現われれば情報としてキャッチし、
それが中空間に侵入してくれば敵として闘争するでしょう。
ペットはこの空間性(距離感)が変容して物理的な空間性としては内・中・外の区別がない状態です。

飼主は認識上は内空間の存在なのでペットを触ってもいいワケです。
また本来飼主以外の人間は外空間の存在ですが、ペットは飼主以外の人間に対しても闘争的では
ないです。理想的なペットというのはすべてを内空間として捉えてるような状態の存在でしょう。

ここで大切なのはペットが内空間としてしか捉えていないように見えても、
実際には物理的な3段階の差異をすべて内化してしまっただけで、
認識上は3段階の差異があり、各段階に基づいた反応もあるということですね。
つまり物理的な3段階の差異をすべて内化して内空間性だけになっているように見えますが、
現実には3段階のレスポンスを示すということです。
たとえばすべてが内空間性だけに見えるペットですが、近づいたり触れたりしたら突然鳴いたり、
噛みついてきたりしたことがあるでしょう。
この場合、通常ならば人間に対して内空間認識しかないハズのペットが外空間の対象として人間を認識し、
近づいたり触ったりしたコトで警戒や闘争の反応を示したワケです。

あんまり上手く説明できてないけど、そんな風に考えてみましたん。


鏡像界・象徴界・現実界というラカン的な認識の3界の相互の関係はヒエラルカルでもなく
特定の順序があるワケでもないですが、大切な認識の位相を示してはいます。
この鏡像界・象徴界・現実界の相互の関係も
錯合の仕方によってある位相が消失しているようにみえることはあっても
常に既に3界が揃っていると考える方がいいんじゃないでしょかね。



三和銀行のスルドサ・・・   2000/11/2


三和銀行がネット上で展開する銀行の構想を取消。
多くのシンクタンクの中で三和総研だけが経済と景気の下降を予測。
ソリッドでいいなあ。
クールだね。
バブル崩壊も三和総研は事前に指摘してたしなあ。



東証安値更新とかあ・・・   2000/10/30


先週から東証が連続して安値を更新中だとか。
そーなの、ふーん。
その中でずっと上がってる銘柄があるよっていってんじゃんかよお。

今週になってから上がりだしたものもあるしね。
10月5日前後でどーゆー数値上の変化があったかつかめると、
この冬とか来春とか、アッタカアッタカで過ごせるんだけどなあ。

わかるもんだけがわかりゃいいさ。
そーゆーモードだね、これからますます。



サイードの投石・・・   2000/10/27


レバノンの国境からイスラエルに投石したサイードがコロンビア大学の一部から批判されたとか。

パリのデリダを簡単に見切ったサイードは、
中東のパリのベイルートでシリアスな力の場を実感しつつ
石つぶてに何を込めたんでしょうかあ?

1975年のレバノン内戦以来25年ぶりにイスラエルをレバノン領から撤退させて元気なレバノンとパレスチナ。
だけどご存知の通りイスラエルのガイキチ右翼のせいで情勢は再び悪化。パレスチナ人は100数十名が死亡。
主流派ファタハも再び武装闘争に立ち上がるみたいですね。

1970年にレバノン南部に逃げ込んだパレスチナ解放戦線がファタハランドを形成して以来、
パレスチナの影響力とそれへの反発から50以上の党派がモザイクを彩りつつ戦ったレバノン内戦は
再びイスラエル対パレスチナという基本構図に収斂しつつ闘争の場と化してます。

ベイルートの賊を石油資金でかき集めたムラビトーンや、
十字軍の末裔たちもシンパにしつつ古都トリポリでPLOを最期まで支えたタウヒードのイスラム教徒。
イエスさえも崇拝するイスラム密教指導者の名門閥ジュンブラッド家が率いるドルーズ派のPLO支援。

多数の宗派と民族が参加したレバノン内戦を説明できるインテリはいないでしょう。
実際ベイルートに行ったあの栗本さんだって説明は出来なかったんじゃないかな。
ユーゴへ行った上野さんはどーだったかな。

政治的にイスラエルを批判するのは簡単だけど、
イスラム・シーア派の一部が夜間に敵であるキリスト教民兵へ武器を売り、
昼になったらそれで自分たちを攻撃するようにオペレーションするのなんかは、
ちょっと解り辛いでしょーね。
しかも共産党など左翼民兵が味方だったハズのPLOを攻撃しだすと、
キリスト教勢力の一部はスンニ派イスラムのPLOに味方する、てな展開。

極論すればベイルート港の第5埠頭の使用を巡る主導権争いでもあったし、
大シリア主義に対する反発だったり、それに対する大トルコ主義への脅威だったり
といろいろあるでしょう。
もちろんレバノン政府の支配地域が国土の1%というなかでレバノン民族主義?的な国家意識が
芽生えたのも確かだろうし。

このテッテー的なコンフリクトを常在の地とするパレスチナ。
そのパレスチナ評議会の有名議員であるサイードには、
ごく普通の認識をもってして考えられるのが民族や国家の問題なんでしょう。
ベイルートのタクシーなんて4ヶ国語ぐらい話せるワケだし。
イスラエルの爆撃で水柱が上がるのを眺めながらベイルートの海岸で遊んでる人たちの感覚には、
欧米思想なんて何でもないんじゃないでしょか。
まあ、それは真空爆弾やスマート爆弾が炸裂し、水に触れると発火する黄リン弾を浴びながら、
1人で20倍の戦力と闘い、15名で1台のメルカバ戦車を阻止し、1万5千人の犠牲者を出しつつ
数時間で陥落するベイルートを1ヶ月間にわたり守りとおし名誉ある撤退をしたパレスチナにとっては強度かも。

サイードのリアルオリエンタリズムをはるかに超えるコンフリクトと力の場として認識されてるでしょうね。



欲望の分子革命だかなんだか・・・   2000/10/26


昨日NHKでやってたのが1929年のウオール街の株価暴落の物語。
ニューヨーク証券取引所でバブルが崩壊するアレですね。
もちろんコレが第2次世界大戦や太平洋戦争のキッカケ。

経済問題以外に戦争のキッカケなんてないんだもんね。
いろいろ例外があるよーに見えますが、まあ、すべて“利益”に還元できるコトばかりだしい。
もちろん“利益”とゆーのはその時代ごとに形態が全然違うしね。
それが世界空間共通の価値を持つよーになっていくのが資本主義。
価値の均質空間化ですが、これが地域的な価値と衝突する時にいろんな物語が生まれたりします。

村に市場が立って、定期的に市場が開催されるよーになると、
その市場に資源や客や名誉や人気をとられちゃうことにビビった他の共同体からヘンな物語が登場します。
市場への道筋にある峠や山や谷でお化けや怪物や幽霊がでる話しですね。
つまり市場へ行かせないための妨害工作なワケ。
まあ、コレは市場と共同体だったり共同体と共同体との“闘争”なワケですが。
コレが都市内部だとお店とお店の“闘争”だったり、ブランドとブランドの“闘争”だったりします。
どこかのバーガーがミミズの肉だとかさ。(^^;)
いずれにせよ空間性の対立や闘争なんで、
戦国時代の楽市楽座だろーが、吉祥寺のバーガー店だろーが、
ケミカル会社のフェイクファーと人工飼育のミンクだろーが、本質は同じですねえ。

歴史学も社会学も文化人類学も、まあそんなもんでしょー。
ある空間世界での微分と分類。
コマゴマ&ゴチャゴチャで整理整頓が必須の家政学的なワールドです。

うんで、マルクス君はちと違ったみたいですね。
時間的な分類をメジャーにして価値の空間性を連立方程式にかけちゃいます。
しかも時間性と空間性の相互変換を前提にしてるから変幻自在つーか、
どこまでも認識分類するとともにそれに応じた積分=現状認識と
その現状を構成する力の場を自在に設定しちゃいます。
非感性的認識の自由度を実態に応じて遊べるワケでございます。
うーん、浅田さんや吉本さんがマルクスを遊ぶのはトーゼン過ぎるなあ、と。

まあいいや。
そいでもって“価値”は“欲望”するから生じるんで、
それを捨象してはどんなに価値分析やってもダメじゃん、とゆーのがアレだ。
そーポストモダンをパースペクティブに据えたポスト構造主義的な認識だったよなあ、と。

アタマの固いデリダくんは論理的に差延という発想に行きつきましたが、
まあ即金じゃ買えない10万円のPCが10回払いだったら買えるよ、てなコトで、
今ココでの10万円持ってないとゆーマイナス10万円という負債のザマも、
10回払いとゆー負債の差延でもってクリア。めでたくPCはオレのもの的世界ですね。
しかもPCとゆーマテリアルはゲットできるんだが、負債とゆーマイナスの権利は
10回払いとゆー差延テクノロジーによってそーいったシステムを構築している社会のなかへ
解消していきます。社会システムは負債の差延を冗長性として内包してます。
共同体の抽象化された概念である社会ですが、それが負債の差延の蔓延したシステムである
とゆーコトは重要。この一点だけが、個別的現存としての人間、現存在としての人間、ガイキチ人間でも
なんでも、社会と結節を作るトコなんですねえ。
ただし、今的には、かな。

個別的現存が背負った負債は社会が預かってくれるんで、個別的現存クンは社会にアタマが上がりません。
ところが、自分が負債をかかえてるコトなんか誰も認めたくないんで、認めないっ、と。
でえ、楽しいコトは好きなんで、楽しいコトの結節点として社会を認めるよっと。
資本主義は楽しいコトをバンバン生産してくれるからね。
これがオタキングの主張ですね。
楽しいとゆープラスの価値観の共有。
しかし楽しいコトはみんなそれぞれ違うんだよね、現実には。
好きな対象はバラバラなワケです。そんなワケでオタキングはある種象徴的でしたが、ほぼ同時に無効でもありましたね。

このバラバラになっていく状況に一瞬の賭けをするのがスキゾキッズでしたん。
状況や環境世界としてはそれでいいでしょー。
マテリアルにバラバラの末端で生起するのが分子革命。
だから立派な分子革命になるFMラジオの運動なんかをコケにする浅田さんは山谷でガタリに叱られたりしたんですね。

マテリアルな状況や欲望の対象をめぐる力の生成はそれでいいですが、
そもそも欲望の契機や生成の理由は問われていません。

マテリアルに世界は革命できますが、
人間そのもの、欲望そのものへの革命はおろか考察さえちゃんとされてないですね。
個別科学である心理学などのように人間や欲望を考察している立場はありますが、
そこでは逆にマテリアルな世界が捨象されてます。
まあ最初から理念内構築しか意図してないラカンなんかズルイけどさ。

そんなワケで欲望がダイレクトに、しかも主体の自己言及性だけを係数に社会に関与していくフィールドが、
最安値更新とかいわれてる東京証券取引市場だったりニューヨーク証券取引市場だったりします。
全体を示す数値が最低値を更新しつつ、個別具体的な数値には高値更新があるワケで、
サブカルやオタク論議がどーだろーと個別的現存を把握なんかできてないことと同じですね。
まあ論議って論者の自己満足が原則だろーけどさ。

個人には「関係ねーよ」てなことが多すぎるんだよな。
....てなこのテキストもあんまりボクには関係ない気もします。うふ



クラインの壷・・・   2000/10/23


メビウスの輪とかクラインの壷は科学にアコガレた少年や、
3次元とか4次元とかゆー談義に盛り上がったケンゼンな青少年たちには、
うんもーイロハの世界であり、同時に極めつけのSFでもありました。

誰でも作れるのが「メビウスの輪」。
まあ、紙テープの裏と表を繋ぐだけなんですが、
それでも表をたどっていくと裏になっちゃうのにはケッコー感動できます。
紙の<裏>と<表>という位相が無くなっちゃうんですね。
簡単に2次元での位相操作ができちゃうワケですが、
そこには“位相は上位の位相からしか把握できない”といった定理があります。
だから2次元の平面のデキゴトである「メビウスの輪」は
3次元に生きている人間には観察できるし操作できるということで。
2次元に対して、なんだか神様みたいな気持ちになっちゃうのが、人間です。

「クラインの壷」はメビウスの3次元版。
実に単純明快な定義ですね。
2次元で起る位相の差異の消滅が3次元で起るのが「クラインの壷」です。
もちろん実際にこの壷を作ることはできません。
だって、上位の位相に立たないとそのその操作はできないんだから。
でも考えるのは自由思考の中で「クラインの壷」を描いてみせるのは簡単です。

これがユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何科学への飛翔でもあり、
現実から観念へのジャンプでもあることを理解するのはムズカクシクはないでしょー。



浅田さんの「クラインの壷」が間違っているという話があるらしいですが、
あの『構造と力』の近代のメタファーで壷がでてくるところを読んでみましたが、
図がダサイのはともかく、言説的にはどこも変じゃないですねえ。
3次元空間である立体容器の外面と内面の位相の差異が無い状態を説明できればOKなワケでしょ。
近代という空間を例えるのに。
“外面と内面の位相の差異が無い”ことを表現できればいいんですよね。
それをクリアできれば形態はどんなデザインだってかまわないワケで。
逆に「クラインの壷」が実現できないことは、
具体的な形態が決定不能であることをも傍証してるでしょー。
だから図表がダサイのも許されるんですよね。
浅田さんがこのレベルで失敗してるとは思えないですね。
そもそも『構造と力』をプロデュースした今村仁司さんのキビシイチェックもあるワケだし。
クラインの壷で浅田批判が可能だと考えた人は
今村さんをはじめとする面々にも挑戦するつもりなんでしょーか。

そーとーのバカだなあ、ソレ。
バカになれる勇気はエライけどさあ。

浅田さんをはじめとする『構造と力』にノックアウトされた人や、
『逃走論』が駄目押しになってるコトを看過できない人がいるのは確かでしゅが、
そもそも『構造と力』や『逃走論』も含めた功績や影響や時代への応答可能性は、
まだ誰にも超えられてないでしょー。

背伸びしたって、ガキはガキだからね。



自閉症児ドナのこと、2・・・   2000/10/21


ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけて怒り、
悲しくなって泣いたのは、それから16年後のある日のことでした。

ドナは、
お祖父さんが死んだコト(情報=指示決定)を「自分をおいてきぼりにした」と判断して怒り(自己確定)、
そして16年間経ってから死の意味がわかって悲しむ(自己確定)んですね。

ここで注意したいのは....
当初の自己確定と16年後の自己確定が大きく違うコトです。

当初お祖父さんの死を悲しまなかったのは単に悲しむような理解の仕方をしなかったというコトで、
“死を悲しむ”という“世間の常識”からは判断すれば“おかしなこと”かもしれませんが、
ドナの判断そのものがおかしいとはいえません。
この場合はドナの認識構造はどこもおかしくないでしょう。
ただ“世間の常識”からズレているだけで。
そして16年後ドナはお祖父さんの死を悲しく感じて泣きます。
16年間の間にドナの認識の基準にはだんだんといろいろな常識的なモノゴトが加わって、
やがてお祖父さんの死の意味に対しても“悲しむ”という認識が生じたワケです。
ここでの問題は16年間もドナの認識は変化=成長?し続けたということではないでしょうか。
指示決定に対する自己確定が常に変化し得るということがこの場合に確認できる最大の事実です。
斎藤さんは「祖父の死の意味」の「理解」が「器質的排除」によって「欠如もしくは遅延」したとして、
「器質的排除」を自閉症の原因として定義したいようですが、それには説得力に欠ける感じがします。


ここでの問題は指示決定から自己確定までの時間です。
もちろんこれはカイロス時間で、それがクロノス時間と錯合されることによって
「退屈な長〜い一日」や「楽しくてあっという間の一日」なんて感じられたりするワケですね。
これはデジャヴ・既視現象も同じで、瞬間を長〜く・遠〜く感じちゃうワケです。
基本的に16年間という時間の経過も、普通の人が何かをパッと見てサッと理解するのも、
認識構造は同じなんです。

ただ認識構造の空間性と時間性の錯合の仕方に変化や差異が生じているということですね。
空間性の度合や時間性の度合に変容が生じているというワケです。

視覚情報を指示決定として受容する仕方や、そこから情報を判断し自己確定していく過程は、
普通の人間でも自閉症児でも全く同じ。
逆に、視覚情報が認識構造に影響や変化をあたえることはないんですね。
視覚情報が認識に変化をあたえるなら、もっと多様な精神疾患や心身障害がありそうですが、
そういったものはありません。


 この点では『構造と力』で浅田さんが高く評価したラカンの主張はラジカルに間違っています。
 「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」と
 ラカンの『エクリ』から『構造と力』に引用されてる部分です。
 これが『構造と力』の最大の間違いであり、浅田さんの限界でもあるんでしょう。
 また、結局はその影響下でしかない“象徴界を視覚情報が代理する”という認識も同じです。
 サブカル論議の多くが視覚情報についての論議なのですが、その貧弱さはこういうところにもありますね。
 審美論や芸術談義のオタクさ加減も同じでしょう。審美眼や悟性が特別なワケではないからです。
 その点斎藤さんの仕事はソリッドでリアルな分だけ説得力がありますね。


また多くの場合に視覚情報と関係があると考えられているイメージが認識に影響をあたえることもないです。
現実には認識の変化や差異がイメージや視覚に影響するのであって逆ではないんですね。

情報=指示決定の受容というものが個人によって大きく違うことはないというコトです。
人間にとっての景色がハエから見た景色や犬が感じる状況認識のようになることはないワケです。

問題はその後にあります。
指示決定として受容した情報をどのように判断=自己確定するかというコトです。



自閉症児ドナのこと、1・・・   2000/10/20


『文脈病』や『不過視なものの世界』で斎藤さんがサンプルにしてるドナという自閉症児の例があります。
ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけました。
でも、お祖父さんの死がわかったのはそれから16年後のある日のこと。
21才になってからお祖父さんの死を自己確定したドナは泣きました。

お祖父さんの死という事実を視覚情報として受容=指示決定してから、
それを判断情報として自己確定するまで16年間の時間がかかってます。
指示決定から自己確定まで16年間。

斎藤さんはこれを
「祖父の死の意味」の「理解」が「器質的排除」によって「欠如もしくは遅延」されたと説明し、
自閉症の定義をこころみてます。

ところで、当時、お祖父さんが死んでるのを発見したドナは
「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てたそうです。
そこには死への理解や悲しみはありません。

つまり、正確には....
お祖父さんの死を知ってから悲しむまで16年かかっていますが、
死を知った瞬間にも「自分をおいてきぼりにした」と怒っているので、
....ちゃんとドナなりの感情や判断があったワケです。

また、ドナが当初は「自分をおいてきぼりにした」と怒り、そして16年後には悲しんだにしろ、
そこには怒ったり泣いたりするハッキリとした主体(性)が確認できます。
むしろ当初自閉症が重かったハズの時期である頃の怒りは、
斎藤さんがドナに見い出している「主体化への恐れ」の反証になってしまう可能性があるでしょう。
自閉症児に「一人称の不在」が顕著だとしても、それは主体化への恐れや主体性の不在ではなく、
主体という象徴(性)を内在化させていく上での普通の人と比した場合の遅延や冗長性ではないか、
と思います。
一見無表情無感動に思える自閉症児の表情やレスポンスは確かに
感情が「欠如もしくは遅延」したり「主体化への恐れ」を感じさせ、
「一人称の不在」を見い出すことができるものだと思います。
しかし、たとえば、無表情をよそおうコトが激しい内面を隠すためであるのは
子供から大人までが身をもって経験することです。無反応性は野生動物から昆虫にまで確認できる
表出行為でもあり、ラジカルな防衛機制として神経レスポンスのひとつです。

心的現象論では『分裂病の少女の日記』のルネの破瓜状態を引用しながら....



   もっとも重要なことは、
   このような外部観察からの無為状態とみえるものが、
   けっして心的領域の内的な構造において無為ではなく、
   意味で充たされていることをしめしている点である。



....と主張し、無表情や無感動に示される内面の心的構造を分析してます。
そして感情から何らかの志向(性)に転換していく状態である中性感情の構造こそが
「人間の観念作用の必然的な特性」だと分析し、感情の対象が遠隔化されていく構造を
見い出しています。そこには対幻想が共同幻想へ転化する認識構造の基本もあるワケです。



   <異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働きは、
   一見すると外からは<感情>の喪失とみなされやすい<中性>の<感情>のなかに、
   もっともあらわれると申すべきである。



不安や怒りのような原始的な感情から高度?な認識に見える悟性や理性といったものまで、
その対象への志向性を遠隔化させた関係意識なのですが、それを遠隔化させる力動的なものは
人間が自らの心身に内化させた本源的蓄積によるものです。
外界とのプラグである感覚器そのものを含めて
TPOへのアプローチとTPOからのアフォードから積分形成されてきたワケですね。



『不過視なものの世界』イケてるよー・・・   2000/10/18


つーことで日曜日に発見次第ゲット目録上位にランキングされている『不過視なものの世界』を発見。
東浩紀さんと注目されるべき人たちとの対談集で、朝日新聞社発行ですね。
賛否はともかく全く新しい観点を示してくれたオタキングのデビューも朝日新聞社だったけど、
朝日新聞て意外とこーゆー方面は積極的なんかな。まいいや。

そんで読んでます。1日10ページくらいづつ。
時間の合間に読むんで一度に読破できないのもありますが、
同じトコを3回くらい読むんで遅いとゆーのもあります。(^^;)
しかし、面白いよ、コレ。
ソルジェニーツイン論やデリダ論みたいなものを期待してる人には興味ないかもしれないけど、
この対談の内容は濃いと思うな。

基本的に対談の面白さは包括的なスタンスが確認できたり、
それゆえに論者のテキストではわからないものが露呈したりするんで、そこが面白いトコでしょー。
もちろん、この『不過視なものの世界』もそーですねえ。

『文脈病』の斎藤環さんと東さんの相異が繰り返し問われてて最高です。
この対談は『戦闘美少女の精神分析』より前のよーですが。
2人の結構執拗なやり取りがウケますね。(笑)
おまけに2人揃ってのなんか弱点が割とハッキリと分かりました。
ふーん、てな感じかなあ。
意外とアカデミンちゃんなんだねご両人とも。
表層や俗説でもエグザンプルが少ないのが印象的でもあります。
知能が形態化したのが昆虫のデザインだろ、とか水差したくなるトコも目立つし、
また、それが重要なポイントでなんだよね。
まあ、いいや。

どの著作よりも東さんの考えが出てるし、斎藤さんの主張もすごく出てます。
『不過視なものの世界』と『文脈病』や『戦闘美少女の精神分析』は
一緒に読むと効果倍増ですね。
もっとラジカルな効果をお求めの方にはもちろん心的現象論ですが、ハイ。



田中康夫知事は何をするか?・・・   2000/10/16


県内の市町村長や団体の大部分を無理矢理参加させたファシズム選挙で自己崩壊しちゃった県官僚知事候補。
おまけに某宗教の知事夫人に命令されるまま改名して僧籍まででっち上げてるタリンちゃん。
まあなあ、改名しないと出世できないちゅーカルト支配状態が20年間も続いたんじゃ、
そんな状態を許し続けたのはカッペどころか真性バカだね。
改名してる20数名だかの皆さん、名は体を表すですから、さらし続けてください、そのザマを。
まあ、たいがいバカやカッペがファシズムを形成するんだどさあ。


「村八分」とゆー言葉はあっても「街八分」とゆー言葉はないからな。

田中さんへの選挙妨害目的でまかれた嫌がらせビラ・謀略ビラは約100万枚。


石原さんの時の妨害でもそーだけど、保守やカッペ自民党がやることっていつも同じだね。
「田中康夫を応援したら仕事を干す」とか「会社を辞めさせる」とゆー圧力もすごかったらしいし。

でも人生よ〜くわかっちゃってる田中さんは報復をしないんだろーね。
首長が交替すると保守vs革新てな場合は必ず報復人事とかがあったんだが、
康夫ちゃんはそんなことはしないよね。
そんな優しさ?もあるんでしょー。
「勝ち過ぎない」とゆー日本的戦勝後管理のノウハウでもあるだろーけどさ。
ぜい弱な現在強過ぎる主張が嫌われるよーなもんでしょね。
まあそれじゃ力には抗えないんだけど。

康夫ちゃん的ホーフクとゆーのはあってもいいと思うよ。
カッペ性高くてオヤジヤローにはぴったりのホーフク罰ゲームだね。
田中さん支援を妨害した連中には適用したいね、コレ。

それは....



     ペログリ禁止



....さ。

自分の罪を認めたら許してやる、つーな感じで、どう?
自業自得自問自答でいいと思う。ウン
それこそ宗教的だしい。



ヒフ感覚のリアルで当選か?・・・   2000/10/15


開票1%で当確つーのはもースゴイことでした、長野県の知事選。

古ーい話しかもしれないけど田中康夫さんは「戦争を知らない子供たち」の代表だったんですね。

田中さんが初めて朝日新聞に登場した時に


   “戦争を知らない僕らの世代には、反戦とか平和とかいうものがわからない”

   “そういう世代がたくさん生まれてきつつある”


とゆー主張をしてて、
そーゆー世代の小説として書かれたのが
『なんとなく、クリスタル』でした。
それが時代のリアルであるコトを、その後も、田中さんはズッ−と主張してます。
リアルな時代感覚=皮膚感覚はスローガンやテキストオンリーのイデオロギーとは全然別の価値観ですね。

それは、もちろん、時代のマテリアルな変化から生じるんだけど、
コンピュータとインターネットの時代になったから時代はバーチャル・・・・ってな
企業講演会やマスメディアで自信がない分だけまくしたてられてるよーな主張?とはもちろん違います。

ちょうど東さんが現在の若い世代を捉えるよーな感覚。
あるいはそれを肯定する宮台さんのよーな観点。
「メディアと想像界の相互作用」と斎藤さんがスルドク指摘する問題。
田中さんはそーいったものを、当時、文学の表現で訴求した作家なんですね。

そーゆースタンスから描かれた小説が賛否両論を巻き起こしたのも当然。
重要なプロットであるブランドの註釈をズラズラと並べて解説した内容は
当時急成長しつつあったカタログ雑誌とともにカタログ文化の象徴とも評されてきました。

そのカタログ雑誌が1年ほどの間にハウツーものを内容とするマニュアル雑誌に変化していったのは
重要なポイントです。

同じよーな軽い文体でありながら、
田中康夫的なものから村上春樹的なものへ変遷したのもラジカルなテーマになるでしょー。

切手コレクターや鉄道マニアといったオタクの原形タイプから、
カタログに象徴される各アイテムごとのオタクの生成といったオタクの増殖、普遍化。
しかも、そのカタログからマニュアルへの変遷は、
個人的な趣味の世界から他人との関係を志向したグループ形成への動きで(も)あり、
メディアによる単なる情報の提供からプラグマティックな需要という
メディアと読者の関係の変質も含んだものであり、
さらに実際に読者との関係では参加型メディアも登場しました。

経済的に、マテリアルに、いちばん街のカタチが変わり、日常生活的な必需品やツールやメディアが発展し、
ビートルズやミニスカートなどファッションや文化が急変し、日々多様化しつつあったなか、価値観そのものが
決定的に変わったコトを知らせた作家が田中康夫さんだったんですね。

んで、田中さんの当選は何が決定的に変わったコトの証しなんだろーか、などと思いましたん。
「トレンドペーパー」の時からPG日記を読んでるんで、もー、続けてほしいですね。
PG日記。

ちなみに公共投資も談合も教条的に反対とゆーコトはないでしょー、田中さんは。



ひやしあめ1000円、カメ800円・・・   2000/10/12


1本1000円の「ひやしあめ」の原液を仕入れて飲んでます。
浄瑠璃寺で飲んだときゃろんぱあに全部とられちまうし、
当麻寺じゃあ雨が気になって買い忘れちまったい。
紅茶や麦茶に生姜と砂糖をおとした代物と違って、
麦芽糖と生姜を煮詰めながら老舗の麹屋さんが作ったやつは
やっぱ美味しいもんね。
ところでジンジャーエールは誰が作ったんだろーなどと思いながら
ペット屋でゼニ亀の値段を聞くと800円から1200円でしたん。
カメの刺青をしたデラウエア族の酋長はジンジャーエールを飲んだりするんだろーか
などと考えながら片づけられない作業場のことでアタマはバクハツ寸前だなあ。



『文脈病』のハレホロヒレ・・・   2000/10/12


トレードと仕事と昼メシの間に『文脈病』を読んでて、あらためて感激しちゃう本日でした。
感激のコーフンでせっかく飲んだお気に入りの「バナナ・ショコ・ココナツ」のマグネシウムやカリウムも
あっとゆーまに消費されちゃったよーな気がします。

柄谷さんの文体からクールさを取り除くと斎藤さん風かな、とか思ったりしながら読書。
ホントに柄谷さんと東さんにはカウンターを打ってるんでそこが面白いですが、
浅田さんへのスタンスが微妙なのかな? 
まあ参考文献読むとズラーっと豪華総覧元気にそうろうってな感じですが。
吉田戦車からジジェクまであるねえ。
しっかし、吉本隆明が一冊もないのが不思議。
ふーん、そーなのか。
斎藤さんほどの人が『心的現象論序説』とかちゃんと読んでたら、
『文脈病』の上がり方も全然違うだろーな、などと思う次第なんですん。

最近の吉本さんが逆にラカンなんかを援用して心理的な問題なんかに触れてますが。
あのオリジナルにしてフロイトからハイデガーまで見切ったよーな、ゲシュタルト超越風な、
電波解説びんびんの『心的現象論序説』はどこ行っちゃったんでしょー。



■感覚の位相つーかなあ・・・   2000/10/11



  代謝レベル          体内感覚     内臓性    ↓    体内感覚

  分子レベル          味覚、嗅覚    浸潤性    ↓    味覚
                                 ↓    嗅覚
  物理レベル(ロー)      触覚と運動    接触性    ↓    触覚
  物理レベル(ハイ)      聴覚       共振性    ↓    聴覚
  物理レベル(超)       視覚       化学性    ↓    視覚
  
  情報レベル          脳、神経     情報性    ↓    頭脳感覚





人間の認識を言語のレベルでだけ考えてもねえ...
それぞれのレベル間での情報の交換や照応の中で特定レベルからの認識の志向性が
どーゆー具合に遠隔化されたり近隔化されたりすんだか考えないとね。
下層レベルの鍛練をすると上層レベルの認識力が強化されるのなんかアメリカをはじめとして
乳幼児教育から健康増進まで常識的になってきてるしさ。

もちろん原意識・原志向性が生成する“場”を把握理解できなきゃ
どんな認識論もソーカルごっこの相手しなきゃいけないかもよん。



■最安値がどーしたんだあ?・・・   2000/10/11


日経平均が年初来最安値だとか?

しかし日本的バカもんたちに罵倒されながらビクともしない自動車関連株もあるしね。
おかげで先週は初任給の1年分くらいゲッ〜ト。

羊様御所有のバケモノ銘柄や店先弱小銘柄は上がってるぞ。

ネットトレードの有志たちは果敢に仕手筋と激闘中だしい。
健闘を祈るア〜メン。

金融雑誌に載った松井証券の松井社長のコメントが最高でんねん。
お客が証券会社選びでまずチェックするだろうというポイントの第一が
「お客をだましてないか」だとか。
さすが巨大証券会社でアシストする業務を経験してるだけあって本場の現場からの声はスゴイなあ。

せっかくの休日に、知合いが銀行で買った投信で10%近くの損失だとか嘆いてた。
フーン。
まず自業自得だね。カワイソーでもなんでもないよ。
だって銀行の提供する情報に乗ったんだろ。
その情報に乗りゃー、その結果に凖ずるわな。

情報社会とかいって、どんどん情報に乗せられるんだろ?
「しらけつつノリ、ノリつつしらける」とか言ってた浅田さん程度の遊び心はクリアしてほしいでしゅね〜。

流行や、話題や、渋谷に興味が無い羊くんには関係ないんだも〜ん。
情報なんて。特に視覚情報ね。(笑)



■もっとラジカルな問題・・・   2000/10/10


でもなあ、東さんが望んでるよーにもっとみんなに届いて頭がバージョンアップするよーなアプローチがないとねえ。
その点、ひきこもりをテーマにしてる斎藤さんの言説は届きやすいかも。まあ多くの人に関心があるでしょね。

つーことでちょっと物語について。
えー斎藤さんの「ハイ・コンテキスト」という概念みたいに有効射程距離がビヨーンとしてるのってイケてますが。
そのバックボーンはやはり物語へのアプローチですよね。
共同体と外部の差異が無くなった今は



     「物語を析出させる落差や辺境はどこにもない。」



....という斎藤さん。
じゃー、物語はどこに生じるのか?



     「現代の物語は、例えば「人格」の周囲に形成されている。」



....てなワケです。
これは東さんの



     最近の若い子は、すごく近いこととすごく遠いことしか分からない。
     それは小室哲哉の曲の歌詞からも分かることで、恋愛か世界の終わりか、
     いまの10代はそのどちらかにしか興味がない。



....と対比すると面白いですね。
ここで東さんが「小室哲哉の曲」や「歌詞」を題材にして、
CS止まりで頭打ちのJ−POP批評を軽々と超えるテキストでも書いてくれりゃいいんだけど。
それをしないと多くの人から浅田さんたちと見分けがつかないでしょー?
まあ福田のデブちゃんなんかに見切られちゃうでしょね、“哲学者一般”みたいな感じで。

だから斎藤さんのオタク定義を「瞹昧」だと批判する前に、
もっと広範囲でより瞹昧な「サブカル一般」に論拠しようとする自らのその理由を明白にしないと
説得力ないだろな。

でなけりゃ正統アカデミシャンや鋭利な思想家らしく
『構造と力』で評価されてるメルロ=ポンティの「根源的脱自態」概念なんて
『初期心的現象の世界』(村瀬学)じゃ超えちゃってるよ、てな分析するとかさ。
この一点だって浅田さん超えるポイントになるよーん。
まあ浅田さんも気がついてるハズだから以後二度と触れてないけどね。(笑)


ところで、羊書的には....
「近い」とか「遠い」とかいうのは遠隔対象化されるレベルのことで
ラカンにこじつければ現実界・象徴界・想像界それぞれが相互に対象化しあう度合みたなもんですかいね。
う〜ん、説明に自信がないなあ。

まあマテリアルな根拠は生命の存在でその原生的疎外から遠隔化されるある志向性のことだから。
この「志向性」概念の前提となる機構は脳神経学方面でマテリアルな実験とテクノロジカルな分析で把握されつつあるんで、
ソーカル君が登場しなくてもアヤフヤな言説が処分される日はそー遠くはないでしょーねー。
ちなみに原生的疎外レベルからの志向性のベクトルは相反する2方向
この相互に反作用をもった志向性のからまりが物語の原形ですかね。
そこでは大文字「A」くんなんつー修飾概念はいりません。つーか通用しないんだな、コレが。
言葉遊びの世界じゃないからね、ソコは。


ああお腹減ってアタマがトンマ。
昼飯食べないとなー。



■戦闘美少女のラジカルな問題・・・   2000/10/8


前回書いたように、『戦闘美少女の精神分析』のコアになる認識は、
ダーガーがほぼ一生涯をヒッキーで過ごし、
「永遠の思春期を病んでいた」のは「直観像資質であった」から、というもの。
この「直観像資質」というのは斎藤理論の重要概念の一つでしょー。



     直観像資質は比較的多くの子供たちに備わっているが、
     加齢とともに衰弱する。



そーみたいですね。『心的現象論序説』で引用されてるヤスパースの『精神病理学総論』では....


     主観的視覚的直観像は
     青少年の半数と少数の成人(いわゆる直観像所持者)に
     確かめられる感覚現象である。


....だそーです。
ダーガーはこの直観像所持者だとゆーのが斎藤さんの分析。
そして「直観像」の定義に関しては....



     直観像は通常のイメージとは異なる。
     それはあたかも目の前に展開する風景のように、
     じっくりと眺めその細部を検討することができるという。



     この意味で直観像は、
     むしろイメージを超えるものとして
     表象の外部に存在すると言いうるのだ。



「直観像は、むしろイメージを超えるものとして表象の外部に存在する」という指摘(の可能性)はスンゴイです。
どースゴイかってってゆーと、ここにはあの浅田さんや東さんを超える可能性があるんですね。

直観像が表象の外部ならば、それは何を意味してるのか?
視覚(情報)像ではないです。

これは大問題ですが、あっさり解答を探しちゃうと....

それは「運動」です。

斎藤さんのコンテキストでいえば、
それこそ『文脈病』で「宮崎アニメ」を擁護するために持ち出した「運動」概念ですね。

これは大きな意味ある解答ですが、まだ正答だとは限りません。

「直観像」といわゆる「イメージ」との差や心的現象論でのそれらの定義づけ、
「細部を検討することができる」ほどの像そのものの意味や「運動」との関係などなど、
羊書的問題がいっぱいですよん。



■戦闘美少女の斎藤vs東な問題・・・   2000/10/6


ダーガーがヒッキーとしての状態を長期間にわたり持続することができたのは、
つまり「永遠の思春期を病んでいた」のは「直観像資質であった」からだ、
というのが『戦闘美少女の精神分析』のコアになる認識。
それは「文脈病」や「ひきこもり」をメディアと主体との関係から精神分析する
斎藤さんの基本的なスタンスなんでしょー。

斎藤さんの対象は具体的な人間の存在(個体、個別的現存)で、
今回はそれをオタクに求め、ひきこもりの問題も含めてダーガーに集約させてます。
あくまで具体的な個人、固有な存在を基本にしていて、いかにも臨床医風? それを分析して、
そこからオタク、サブカルそして神経症者たる人間一般へと認識を拡張していこうという企図ですね。

それに対して東さんは、
サブカルチャーやポストモダン文化一般の特性は
「象徴界が機能していない」から「象徴界の欠如をイメージの操作によって何とか補おうとしたもの」
として捉え、「斎藤さんの問題は、オタクの病理というより、日本のサブカルチャー一般の、
あるいは国際的なポストモダン文化一般の特性として問われるべきだった」と指摘してます。
東さんはサブカルチャー等の文化一般への分析から演繹しようとしているんでしょー。

ここが東さんと斎藤さんの最も根本的に違うところみたいです。

斎藤さんの原点には個体としての人間存在があります。
いかにも精神分析の臨床医的なスタンスですね。
その問題意識は個体としての人間の認識そのものにフォーカスされてます。

東さんの原点には象徴界的なものが前提としてあります。
別の言い方をすれば言語で構築されたり把握されたりするのものが自明のものとして前提されてます。
しかも問題意識はその前提に対する危機感そのもので「象徴界が機能していない」という認識であり、
それそのものが象徴界的にしか表出され得ないし、象徴界的にしかアプローチし得ない、
さらにはメッセージが届くかどうかわからない....
という緊張感と自己認識の葛藤によって、この問題意識そのものがパラノドライブされている感じがします。
それはどこまで行っても東さん自身の実存の問題でもあることの証明であり、
同時に、同じ問題意識を持つ者へのシンクロ率の高さの理由でもあるでしょー。

実をいうと斎藤さんも「精神分析は、自己分析の不可能性を前提としている」(『戦闘美少女の精神分析』)
「僕は僕自身を「診断」できない」(『文脈病』)というクリアできない問題を自己確認しつつ持論を展開してる
ワケです。超暴力的ラカン流にいえばクリアできない問題を認めるということは大文字Aの肯定であり、
それは自己肯定へと回帰?されるでしょー。つまり斎藤さんは自分を肯定できる大人なんですね。


・・・なんて書いていくと収拾がつかないので、ここで止め。



駄目押しを一つ....
ところで東さんの方法論の志向(あるいは無自覚・無意識な問題意識)は
実をいうとラカンと反対のベクトルなんですね。(つまり浅田さんの延長線上と同じ)
ラカン自身が認めているのはやはりフロイト理論(だけ)であるという(ラカンの身振り)ことは
意味深な注目すべきポイントなんですが....
東さんはそちらではなく人間にとって生きていく環境世界のマテリアルな状況のバラバラさの方へ
フォーカスしています。その冗長性ゆえに社会学的なアプローチに親近感をもつのは当然でしょー。
しかし同時にそれは斎藤さんが指摘するような「ラカンの誤読」の原因たりうるかもしれません。
(マテリアルな状況のバラバラさとゆーのはドウルーズたちにとってのフィールド認識により近い?)

「ラカンの誤読は、至るところにある。」というのが
“東さん的スタンスが至るところにある”ことの証しだとしたらどーなんでしょー。
さらには宮台さんの「これからの若者のモデルは東浩紀ではないか」とゆー主張によっても裏付けされちゃう
よーだったらどーなんでしょー。“これからのラカンの誤読はモデルとして至るところにある”、とかさ。

でもね、そーゆースリルがないとね。
ボードリヤールやジジェク、あるいは中沢さんのよーに、
主張の厳正さや的確性より元気さや触発性に期待?できる....
羊書はそーゆーテキストに価値を見い出していくんですね。



■ひとつの成功したネット革命・・・   2000/10/4


あのデイトレーダーご用達の松井証券が、
ぬあんと信用取引で日本一になったとか。
すげー

松井証券のユーザーって、
利益獲得の率が平均より3〜4割も高いし。

革命だね、こりゃ。



■戦闘美少女の基本とゆーと・・・   2000/10/3


仕事の合間に『戦闘美少女の精神分析』を読んでて、やっぱり感じるのは、
もったいなーいとゆーことですねえ。

こんなにぎゅうぎゅう詰めで、もったいない、とゆー感じがします。

テーマはオタク論者やサブカル論者が喜びそうな「戦闘美少女」ですが、
現代社会すべてに通底する問題の解を示そーとする内容だし、
それゆえにポストモダン批評としても現代思想批評としても価値がある問題提起が
バンバンされちゃってるワケです。
スンゴイなあ。

いわく....
日本語表記とアニメ表現に共通する文脈依存的である読解。
そのテクノロジカルな特徴としてのカイロス時間やユニゾン的同期空間という概念の設定や、
それによって可能となるハイ・コンテクスト性。
そしてハイ・コンテクスト性が実現せしめるリアリティ....
(まあ実態としては無時間かつ論理的に逆順序なんだけど。)



     それらはむしろ、
     想像的な対象物を象徴的な作動形式で処理するための、
     洗練された技術を提供しているのだ。



....それが

     「象徴界が機能していない」という誤解が生ずるほどに変質し、
     希薄化した共同体の論理のもと、
     いかにして「神経症者の生」を生き抜くか。



....という斎藤さんが自ら見い出した、そして、もっとも現在をラジカルに貫く問題に対する
解のヒントとして提示されてるのが本書の内容なんですね。

つーことで、
カイロス時間を志向することの意味やユニゾン的に同期させられる理由を考えちゃいたくなりますね。

たとえば「想像的な対象物を象徴的な作動形式で処理する」とゆーのは、
羊書的(心的現象論ベース)には....



     イメージを概念形成的に処理する



....こと。
問題はその前提として「イメージ」や「概念(形成)」「処理」に関する心的現象をちゃんと定義することですね。
「概念」という指示表出が「処理」される、つまり自己決定されていく過程や理由への理解と、
「イメージ」というどこでもアヤフヤに都合よく使われてる概念用語の確定が必要でしょー。
「視覚情報」なんてゆーのもいい加減なタームの代表だしい。



■感覚の基本とゆーと・・・   2000/10/1





     視覚が無い生き物はいるが、
     触覚が無い生き物はいない。


                    (『羊書』テーゼ?)





     視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ


                    (『エクリ』から『構造と力』に引用)





ホントかなあ