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    波照間島あれこれ

    99年旧盆・波照間滞在記〜8月23日
    8月23日(旧暦7月13日)

    今日は「シキルピン」、盆の迎えの日である。仏壇を開けて飾り付けをするため、今日から仏間には泊まれなくなる。
    朝食時、たましろ主人のお兄さん(功一先生。八重山商工高校元教頭)が挨拶にきて、たましろ一行でムシャーマの仮装行列に参加しようというお誘い。衣装、仮面を3組6人ぶん、用意してあるとのことだ。

    浜田さん夫妻は今日帰り、もう1組の夫妻はいしの荘に移動ということで今日は7人となるのだが、康恵さんは前組で出るのだからちょうど人数分だ。

    食後、新聞を読んだり、部屋の移動の準備をしたりでのんびりと過ごした後、ニシハマへ向かう。さんぴん茶のペットボトルを買いに冨嘉売店に寄ると、八重泉に混じって泡波の1升瓶が。有難く購入する。店のおばさんに運がいいね、最後の1本だよ、と言われる。

    坂道を、ブレーキの悲鳴をあげながら下っていく。目の前に広がる海は昨日よりも断然に彩りを増している。

    ニシ浜旧盆に入り、各民宿が宿泊客を減らしたり、営業自体を停止したりしているせいか、浜にいる旅行者は少ない。
    海は、だいぶ台風の影響から立ち直っていた。水際に打ち寄せられていた大量の海草もきれいになくなっている。海中に入ると、濁りはほぼ解消されている。魚も多い。

    沖まで出て、リーフエッジ沿いにゆっくりと泳ぎ魚見物。リーフの先の海中はペイルブルーの水が視界いっぱいに広がる深い海。海の底には真っ白な砂が砂漠のように広がり、大きな魚が数匹、群れながらゆっくりと進んでいく。エッジの崖には沢山の魚が群れて餌を探している。ときおり、小魚の群れがきらきらと光りながら過ぎていく。

    海から上がり、木陰に座る。朝食時につくったおにぎりを食べ、海を眺めているとだんだん眠たくなってくる。西表の方にわきたつ雲が、気がつかないくらいゆっくりと、形を変えていく。
    ニシ浜
    眠気ざましに、潮がひいて浅くなった波打ち際に浸かる。体温に近くなった水温の中に、穏やかに打ち寄せる波に身を任せて浮かぶ。意識がとろけるようだ。さらさらという砂の音が聞こえる。やがて砂浜に打ち上げられた。

    木陰に戻るが、だんだん日陰がなくなり、日差しが直撃するようになってきた。あずまやに避難すると、先に引き上げてきた直子さんがぼおっとしている。ここでも何をするでもなくぼんやりと時が過ぎていく。海から剣太君と真治君が上がってくる。真治君は日焼けで体が赤い。かなり痛くなりそうだ。

    夕方たましろ荘に戻ると、庭先がずいぶんと片付いている。帰省してきた親戚の人達が大掃除をはじめたのだ。
    乱雑に置かれた自転車は整理され、玄関も下駄箱まわりがすっきりと。てきぱきと片付けられていく。伸び放題の木々にも鋏が入る。井戸の傍らでは功一先生がさとうきびの茎を短く切って供え物を作っている。
    仏間は襖が取り払われて仏壇が開かれ、位牌と遺影を回り灯篭や色とりどりのお供え物が取り囲む。パイナップルやマンゴー、スイカ。餅、砂糖菓子、缶詰。泡波。これでもかというくらいの量。

    おんぼろで悪いですねえ。もう築40年以上も過ぎているものだから。
    こりずにまた来て下さいね。
    寡黙な主人とは正反対に、親戚の人達は愛想よく話し掛けてきてくれる。埼玉から来ているまちこおばさんは4年前のムシャーマのときにもお会いしていた。あのとき一緒に来ていた小学生の娘さんはもう高校受験だという。甥っ子「ドクちゃん」の話題も出る。今回これなくなってしまったのを残念がっていた。

    みなが出先から帰ってきて、きれいになっていることに驚く。
    でもきっと3,4ヶ月すればもとに戻るんだろうねえ。
    おじさん一人ではねえ。と、口々に。

    日が暮れるころ、また雨が降ってくる。今日も夕食は室内となった。なんだか朝ご飯を食べているときのような気分で、みなおとなしい。襖が取り払われて食堂と仏間がひとつづきになったので、昨日よりは開放感があるが。

    ニシ浜よりあずまや献立には大盛のじゅーしー(炊きこみご飯)が含まれている。お馴染のメニューではあるが、盆の迎えに日にはじゅーしーを仏前に供えるのだということだ。仏前にも客の晩御飯と同じお膳が2つ、並べられる。量が一緒なのが笑える。あの世の玉城家先祖もこの大量のご飯には驚いているのではないだろうか。

    食事の横で、おばあちゃんを中心に親戚の人達が仏前に集まり、お祈りをはじめた。その後は話の流れで明日のムシャーマのレクチャーが始まる。
    ムシャーマの仮装行列、奉納芸能は年代に応じて様々な役割が割り当てられ、一生(特に成長過程)を通じて段階的に参加する行事であること。そのことは、ムシャーマが波照間に生きる人間にとって人生の一部分であり、通過儀礼であることを意味している、ということ。

    仮装行列は、もともとは豊年祭の行事だったのを、分離したこと。(他の島では仮装行列は豊年祭で行われる)
    組に分かれて競うのは、首里王府の政策で、競争原理を取り入れて就労意欲を向上させるという意図が含まれていたこと。それがエスカレートして綱引きなどで血を流すような喧嘩が絶えなかったため、「神行事」にふさわしくないと判断され、「遊び月」(休耕期)である旧盆の時期に行列を移し、綱引き、旗頭を廃止したこと。

    5集落を組に分けるため、前集落が、東組と西組に分けられた。そのため集落内の争いが絶えず、それを避けるため前組は独立して3組になったということ。この歴史があるため、前集落の人達は血の気が多いという説。
    また、前集落が分離したのは明治後期と最近のため、出し物の伝統が他の2組に比べて浅く、様式が安定していないということ。
    文献等である程度知ってはいたが、島の知識人から裏話的ことを含めてじかに生々しい話を聞くのはなお面白い。そして自分達の島の文化に誇りを持っていることが伝わってくる。

    これだけ話を聞いて明日のムシャーマに参加しないわけにはいかない。全員がその気になって仮装行列の打ち合わせ。仮装行列は行き(朝)と帰り(夕方)の2回あるが、帰りの方に参加することになった。

    お面は6つ。アンガマのおじいとおばあの面、四国のお面、韓国のお面、天狗と般若の面。三線の伴奏は「山崎のアブジャーマー」と「殿様節」。功一先生が演奏してみせる。これにあわせて、おどけながら踊ればよいという。特に振り付けなどはなし。
    おばあちゃんがアンガマの面をつけておどけてみせる。よく似合っていて可愛らしい。衣装合わせをして面を被った剣太君が、居眠りに部屋に戻っていた人達を脅しに行く。真治君と直子さんがびっくりした顔をして戻ってきた。

    雨が降ったりやんだりしている。明日の天候が気になるところだが、夜も更けてきたので寝ることにする。


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