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    波照間島あれこれ

    99年旧盆・波照間滞在記
    8月24日(旧暦7月14日)

    その2・ムシャーマ午後の部〜夜

    たましろに戻り、テラスで昼ご飯を食べる。まちこおばさんがお供えのじゅーしーの余りをわけてくれる。
    午後の部は1時半からだ。再び車で公民館前に向う。
    公民館の中庭には野外舞台が設営されている。作り付けのコンクリートの舞台の上に畳10畳が敷かれ、背後の垂れ幕の裏に控えのテントが張られている。舞台の四隅の柱は、今年はアダンの実や植物で装飾されていてなかなか南国っぽい。脇の公民館の中に、伴奏の三線、笛、太鼓の席が用意されている。

    舞台の前にはござが敷かれ、客席となっていた。木々の間に天幕が渡らされているので、日差しはさえぎられていて涼しい。その後ろの一段高くなったところが来賓席。食膳と泡波1本ずつ。年配の男性達が背広にネクタイの正装で。さらにまわりの木々の下に、人々が思い思いに席をとる。舞台の前に席をとることにした。時間が来ると、司会者の挨拶で午後の部が始まった。3組が順々に舞台芸能を演ずる。行列と同じくまずは東組からである。

    午後の舞台の演目は以下の通り。
    最初の東組は7演目。
    「かぎやで風」
    2人の女性。深紅の衣装に、造花や飾りのついた冠。扇子を持ち、重厚な演奏にあわせ優雅な踊り。座開きとしてよく演奏される曲だが、おもに沖縄本島でのことで、八重山では「赤馬節」や「鷲ぬ鳥」の方が一般的だ。
    「一番コンギ(狂言)」
    鍬を担いだ男が5人。これに袋を持った道化役の男が絡む。「したーぃしたぃ」(?)という掛け声が印象的。意味はよくわからないが、喜劇のようだということは仕種でわかる。
    「上り口説」これも沖縄本島の歌だ。
    「五月雨節」これは波照間の歌。青い着物を来た4人の女性がゆっくりと踊る。
    「ションカネ小〜殿様節」2人の少女。絣の、丈の短い着物。一人は赤の帯、もう一人は青の帯。軽快な、普段着の踊りだ。
    「黒島節〜しゅうらー節」
    「こてい節」衣装はかぎやで風と同じだが、ぐっと年輩の女性が2人。
     

    鬼の面黒島節
    左:鬼の面 右:黒島節
    東組は以上。途中、公民館長の挨拶と、竹富町長の挨拶が挟みこまれる。公民館長は就任したばかりとかで、異常に緊張している。町長は冨嘉集落出身である。3年前の夏に波照間に居たとき、ちょうど選挙で西表出身の候補者に勝ち、チャーター船で島に凱旋してきたのを港に見に行った記憶がある。

    次は前組の番だ。1集落だけなので、演目は少なく、4演目だった。
    「鳩間節」は、鳩間島の唄。「ションカネ小」と同じく軽快な踊り。「まるまぶんさん〜殿様節」は西表の祖内、船浮の唄。「安里屋節」は竹富の唄、そして「川平鶴亀節」と続く。いずれも女性2名ほどの踊り。三線の伴奏には午前中会った本庄森さんが加わっている。

    ここで在石垣郷友会からの出し物がはいる。最初に功一先生の挨拶。どうやら郷友会の会長かなにからしい。波照間の文化の継承を強く訴え、波照間民俗資料館の提案(旧診療所を利用)、マラリア犠牲者に対する追悼行事の提案(ムシャーマ行事への組み込み)、石垣で開いている波照間民謡教室への誘い(月1回、野原三味線店)をなさっていた。

    続いて郷友会の女性による、「さとうきび音頭」今風、内地風の音頭。何だか違和感がある。
    「〜ゆんぐとぅ(〜の部分は失念)」功一先生がアカペラで唄う。島の古謡を採取するなかで発見された歌だという。あとで聞いたところでは、恋の駆け引きをうたったものらしい。

    会場全景松竹梅
    左:会場の全景 右:松竹梅
    最後は西組。6演目が演じられた。
    「一番コンギ(狂言)」。東組のものと大体同じようだ。モンパの木の主人が出演していた。
    「鶴亀節」鶴と亀の模型のついた冠を冠った女性が二人、踊る。黄緑色の着物が鮮やかだ。見ての通りの、縁起物の唄。
    「高那節」別名「ざんざぶろう」、西表のうた。
    「桃里節〜しゅうらー節」少女が二人、片手にデイゴの花のような造花を持ち踊る。初々しい。
    「高平良万歳」女性が演じているのはおそらく男性の役なのだろう。
    そして最後に「松竹梅」
    まず鶴と亀、次に松と竹を演じる女性が入場しそれぞれ2人一組で踊る。それぞれが、役を表す冠をしている。最後に紅型衣装に花笠の梅が登場。艶やかで、優雅である。鶴亀、松竹のの4人は引き立て役にまわる。群舞し、曲の最後に扇子で山のかたちに型を決める。演目の最後を飾るにふさわしい美しさだった。
    3組の舞台の終了後、背後の垂れ幕が外され、東組による「コームッサー」の演技が行われる。4人の男が鍬を担いで歌い、耕すような所作をする。これに銅鑼と唄。三線は入らない。

    獅子の棒獅子舞
    左:獅子の棒 右:獅子舞
    これで舞台の出し物は全て終了だ。舞台前の客席が片付けられ、スペースがあけられる。まわりを取り囲むように人垣ができる。ここでまず、西組の獅子棒(シシンボー)の演技。棒術に参加していた若者がシンプルな格好で銅鑼と笛の演奏にあわせて棒を廻し型を決める。獅子を誘い出す動作なのだろうか。

    それに続いて獅子舞。3組6頭の獅子が一斉に登場し、勇壮に舞う。空間いっぱいを動き回る。大人2人が入り藁でできた大きな胴体は、有機的にうねり、迫力を増している。しかし、あまりに動き回るせいか、あるいは酔っ払っているのか、1頭の獅子は途中で崩壊しかかり、そそくさと退場してしまった。すっかり出来上がった竹富町長が、掛け声をかけている。

    獅子舞が終わるといよいよ祭りも終わり。再び、ミチザネーで、3組の仮装行列が、公民館前から各組の方向に戻っていく。いよいよたましろ組の出番だ。参加の準備に向かう。名石売店の裏に止めた車の脇で、衣装を着て面を被り、団扇を持つ。私は天狗の面を被った。覗き穴が小さく、視界が狭い。眼鏡を面の上からかける。おぼつかない足取りで公民館の裏手に向かい、出番を待つ。途中、いきなり「フサマラー(雨乞いの神様)」に、マニの葉で水をかけられる。

    珍しい面を被った面々に子供達が面白がって寄って来る。行列では「南洋の土人」の前にいれてもらうことになった。土人たちは行きよりも人数が倍くらいに増えている。テンションも異様に高い。大人達は酒に酔ってかなり出来上がっている。

    南洋の土人子供達
    左:"南洋の土人" 右:子供達
    やがて、行列が動き出した。足元を確かめながらゆっくりと進む。公民館の表側に出る。面のせいでまわりの状況がよくつかめない。とにかく功一先生の三線にあわせて手を動かし、踊る。前の女性陣の優雅な振り付けをまねしつつ、後ろの土人達のハイテンションに煽られ、みなだんだん動きがよくなってくる。落ち着いてくると、まわりの観客が目に入るようになってくる。すでに行列を終えたほかの組の人達が衣装をきたままながめていたり、おじいやおばあがにこにこしながら見ていたり。子供達を脅すが「天狗、かわいい〜」と、喜ばれてしまう。

    数百m練り歩いて名石の集会所のそばで無事行列は解散。西組が最後なので、これで祭りは終了だ。公民館前ではムシャーマの締めの行事をしているはずだ。時間にすればほんのちょっとの間だったはずなのだが、一仕事終えた充実感がある。面を外すと、皆もやはりそんな感じの顔をしている。やはり見ているのと参加してみるのはずいぶん違うものだ。写真を撮った後名石売店前の車のところに戻る。功一先生からジュースをご馳走される。ありがたくいただく。水分が体にいきわたる。

    たましろ一行一息ついた後、車で民宿に戻る。名石の集会所前では西組の人たちが再び獅子舞などをして余韻を楽しんでいた。たましろに戻り、夕暮れの庭で心地よい疲労感にひたる。みなの満足げな表情。

    夕食は3泊目にしてようやく、庭で食べられることとなった。中身汁とソーキの煮付け、じーまみ豆腐、刺身。動いたせいか、食が進む。泡波も美味い。やはり外のほうが気分がよい。

    遠くから、銅鑼と三線の音、そして弥勒節を歌う声が近づいてくる。家々を訪問し、仏壇でお祈りする集団である。一応アンガマの代用らしい。日本なら僧侶が仏壇を廻るところだが、沖縄は仏教は信仰されておらず、寺もほとんどないのでこのような形になるのだろう。たましろの手前で道を曲がり、声は遠ざかって行った。

    食後、みなにせがまれて三線を爪弾いていると、功一先生が三線を持ってきて宴に加わり、即席の三線教室が始まった。親戚で波照間出身の元先生のおじさんが来る。(偶然にも姓が私と同じ)
    功一先生が余談を挟みながら唄を歌い三線を弾く。「鷲の鳥」「つんだら節」「あがろーざ」など、八重山の唄が続けて唄われる。同時通訳のように、おじさんが唄の解説をする。
    八重山の島々は唄の宝庫だ。石垣島発祥の唄だけでも、八重山高校の郷土クラブの部員が島を一周して各集落発祥の民謡を調べていったら54曲あったとのこと。ほかの島々にもそれぞれ、その島発祥の歌がある。その他に、発祥地ははっきりせずに八重山全域で歌われている唄も多数ある。

    波照間の民謡も「波照間の島節」「祖平花節」「五月雨節」「世果報節」と、弾かれていく。「波照間のみんぴーが」という唄は、八重山全域で唄われている子守唄「月の美しゃ」の原曲だという。各島、集落で発生した歌が、人の移動、交流、役人の異動によって八重山全域に広まっていった。その過程で歌い方や歌詞が変わったりもしたそうだ。「崎山節」。これは西表の崎山村の歌であるが、崎山村は波照間から西表への強制移住によって建てられた村である。その際移住させられた女性が故郷を思って歌った名曲。彼女はこの唄を認められて島に戻され、その子孫が今でも冨嘉集落に住んでいるという。こういったところに唄のリアリティが息づいている。
    「月のまぴろーま(真昼間)」という、月夜の明るい晩の偲ぶ恋を唄った唄も唄ってくれた。ゆったりとした、美しい唄だ。なによりもそのタイトルが素晴らしい。

    銅鑼の音が再び近づいてきた。弥勒節の歌が家の前で止まり、訪問団が入ってきた。島の人に混じって、モンパのおやじに拾われたのか、キャンパーも2,3人混じっている。一行は正面の玄関から仏間に上がりこむ。おじさんが、もてなしの料理と酒で出迎える。
    私達も同席させてもらうことにした。酒がまわってくる。もちろん泡波だ。たましろさんが公民館の役員ということで、冨嘉集落の仏間まわりは玉城家が最後とのことだ。角軒さん(モンパの木のおやじ、もとい、兄さん)の三線が始まる。安里屋ユンタにのせた自己紹介の歌。順番に自己紹介をしていく。おじさんは照れて歌わないので、みなで代りに歌う。波照間酒造の親戚だという波照間さんが、口に咥えた箸で泡盛の瓶の蓋を廻す一発芸(?)
    を披露する。
    その後は改まって仏前に向かい、読経代わりの念仏歌。歌詞を書いた紙が廻される。無蔵念仏節のバリエーションのようだ。「親の情けは海より深く、山より高い。。。。」という歌詞は、Ike&Tina Terner、1966年のヒット曲"River Deep, Mountain High"を彷彿させる。延々と歌った後、最後に南無阿弥陀仏を唱えるのが特徴的だ。最後に軽くカチャーシーで踊って締めとなった。

    時刻はもう1時近く。長く充実した一日もこれでおひらきである。

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