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波照間の地形
波照間島はだ円形の形をした隆起珊瑚礁の島で、石灰岩の3段の段丘で形成されたお盆を伏せたような形をしています。標高は最高地点(島中央やや東寄り)で約60m。島中央から南東にかけての大きな断層(高那バリと呼ばれる)が2本走り、それらに挟まれた地域は標高が高くなっています。高那崎から最南端の碑にかけての海岸線の高さ十数mにもなる断崖もこの断層によるものです。南集落と北集落の間には森になっている凹地があり、これは断層によるものとも石灰岩が侵食されてできたカルスト地形の一種ともいわれています。それ以外に目立った起伏のないこの島には川や自然に出来た池はありません。
島の水事情と地質の関係 沖縄県の年間降水量は2037mmで全国8位、全国平均は1618mmですから、雨は多い方だと言えます。亜熱帯の海洋性の気候ですから、台風が大量の雨をもたらしますし、急な通り雨を体験された方も多いでしょう。 しかし沖縄はしょっちゅう水不足に悩まされます。それは陸地面積が狭く、河川や湖沼が少ないため、降った雨がすぐに海に流れ出してしまうためです。そしてまた、かなりの島々が珊瑚礁の隆起でできた石灰岩質の土地であるため水はけがよく、水が地表に滞留しないで地中に染み込んでしまうという点も大きな理由です。このため降水量が少ないとすぐに水不足・干ばつとなってしまいます。 波照間島の場合も例外ではありません。断面図をみていただければわかるように、島は島尻層群、という水を通さない泥岩の地層の上に琉球層群という透水性の石灰岩の地層が重なってできています。泥岩層の凸みは、島の西北に偏っています(島の最高地点とは、ずれている)。泥岩層はもとの島の形で、その周りに珊瑚礁が形成され、それが石灰岩に変成して今の島の姿になったといえます。水が地上に滞留しにくいため、川や池は形成されません。降った雨は石灰岩層を通り抜け、泥岩層の境目まで降りてきて、泥岩層の地形に沿って地下水として流れ、海底に注ぎ込みます。ですから水を得るには井戸をつくりこの泥岩層まで掘り下げなければなりません。
集落立地と地質の深いかかわり ぶりぶち公園のあたりや島北岸では石灰岩層が薄く、(断面図参照)浅い井戸で水を得ることができます。また一部では泥岩層が露出しているところもあり、そこでは湧水を得ることができます。北岸には下田原貝塚、下田原城跡、「スムス(シムス)村」「タカツ(タカフク)村」「マシク村」といったかつて人々が居住した遺跡が残っています。考古学的には、島に最初に人が住み着いたのがこの辺りだとされますが、これは海岸に近く漁撈や海運に便利という以上に、まずこの水の利があったのでしょう。 ただし、この地域では泥岩層との境界が海面よりも低いため石灰岩層に海水が浸透しており、地下水の汲み上げが増えると地下水に塩分が混じってきてしまいます。これは、集落が沿岸部から島の中央部に移動する原因のひとつとなったのではないでしょうか。
島の伝説上では波照間の集落は冨嘉集落から始まったとされていますが、冨嘉一帯は泥岩層が一番浅く、井戸により容易に水が得られる場所であり、伝説とこの水の利とは密接な関連があると思われます。 一方島の南側になると、この泥岩層に達するまでに数十mも掘り下げねばならず、しかも一周道路より外側になるとやはり泥岩層が水面よりも低くなってしまうため、地下水は塩水混じりのものとなってしまいます。それゆえ、島の南半分には過去集落が形成されたことはありませんし、現在も全く住居はありません。 こうしてみると島の中ではもっとも良質の地下水を得やすいところに集落が形成されたといえます。見えない地下の地形・地質が地上に住む人々の暮す土地を決めたということになります。 ただし、現集落の辺りは地下の泥岩層のいわば山頂の部分であるため、水量は北岸に比べかなり少ないものと思われます。人口の増大につれ生活用水が不足していったことは想像に難くありません。
近年の水事情 近年では各家屋に貯水槽をつくって雨水をためて利用する、ということが行われてきました。そして70年代半ばからは簡易水道による給水がはじまりました。これは当初は島北岸、ぶりぶち公園から500mほど東の海岸沿いにある洞穴からの湧水をそのまま利用していました。島に人が生活し始めた頃と同じ水を再び利用し始めたのです。しかしさきほど述べたようにこの地域の湧水は塩水が混入しやすく飲用には使えないためひきつづき飲用には天水が使われ、井戸水も雑用水や上水として使用されました。また、製糖工場の用水としてぶりぶち公園の燐鉱山跡(別項参照)からの湧水が利用されました。 80年代後半には淡水化プラントが北集落の北側外れに建設され、水源地の塩分の混ざった水を真水にできるようになり、現在では海水の淡水化も行われています(後述)。
島中央〜西部には貯水池ができています。これは農業用水です。単なる溜め池ではなく四方をちょっと殺風景な護岸で囲われているのは、ひとえに石灰岩層に水を漏らさないためでしょう。深く掘り下げられた底面は泥岩層に達していると思われます。
土地改良事業の弊害〜失われる水
現在波照間では、土地改良事業が2000年度終了を目標に進められています。これは、農林水産省の補助事業として、政府からの高額の財政援助のもとに、県や沖縄開発庁が実施しているもので、農地を整備、拡大して、さとうきびの収穫量を上げ、また農作業の効率化や、品質の向上を図ろうというものです。
事業では、[1]あちこちに残されていた雑木林を切り開らいて農地にし、[2]また、石灰岩の土地に特有の、鍾乳洞の天井が落ちた窪地(ドリーネ)を埋め、土地を平らにならすことで、こまぎれだった農地を一つながりの広大な農地にする。[3]肥沃な泥岩層を掘り返して地表に露出させることで畑の養分を豊かにする。[4]貯水池をつくり、灌漑用水として利用する(前述)、といったことがなされています。
農作物の輸入自由化や円高、労働力不足などによる苦境を強いられているきび産業(⇒別項)が生き残るためには、こういった農地改良は確かに必要なのでしょう。実際、沖縄の他地域の黒糖が輸入製品に押されている中、波照間産の黒糖は高品質により、人気を持続させています。
森がなくなり、ドリーネからの水の地下浸透もなくなり、また透水性のない泥岩層が表土に混ぜられた結果、雨水が地面にしみ込みにくくなりました。その結果、地下水の量が減少、井戸の中には枯れるところも出てきました。
一方、海岸沿いの雑木林は防風林の役目を果たしていましたが、これがなくなることで、台風のときなどを中心に、海の水を含む潮風を被るようになり、土地の塩分が増えてしまいました。その結果、地下水の塩分濃度が増し、従来の淡水化プラントでは、飲用に差し障りが生じるようになりました。対策として95年から、海水の淡水化プラントが稼動することとなりました。
また、雨水が地面に浸透しにくくなった結果、土地が雨を一時的に吸収する力が失われ、大雨が降ると、それが地表を流れて直接海に注いでしまうという事態も引き起こしています。ここ数年ニシハマで起こっている鉄砲水は、単に記録的豪雨だということのみが原因なのではないでしょう。
この際、今までは石灰岩層に被われ、決して流出することのなかった暗灰青色の土砂が海に流出するという事態も起きており、沖縄本島や石垣島で以前より問題となっている、赤土流出による海洋汚染と同様の事態が予想されます。
農地改良の過程で島の風景は大きく変わりました。冨嘉集落から公民館に向う道沿いは、数年前とうって変わって、広大なキビ畑が地平線まで広がっています。その風景は一見豊かな自然を象徴するようですが、実際にはいままで述べてきたように、自然のバランスの犠牲の上に成り立っています。美しさを誇るニシハマの海も、度重なる土砂流出で、海岸線の形は変化してしまい、透明度も落ちています。浜の入口には、雨水を一時的に貯め、土砂を沈殿するためのものであろう設備が作られていますが、先ほどの海水の淡水化といい、対処療法をする前になぜ、こういった事態を予測できなかったのだろうかと思います。
地形・地質、それは自然をかたちづくるひとつの大きな要素であり、そこでの人間の営みは本来、長い年月の中で自然環境とのバランスの上に成立したものです。特に、沖縄のような亜熱帯の小さな島では、そのバランスは簡単に崩れてしまいます。
そういった土地特有の性質を無視し、本土と同じ基準を持ち込んだ土地改良事業は、短期的に見れば具体的な利益をもたらすものであっても、長期的に見たとき、自然環境の犠牲は巡りめぐって本来の目的であるはずの農業の振興、そしてひいては、そこに暮らす人々の生活にまでマイナスの影響をもたらし、潤うのは事業を請け負った土木建設業者だけということになりかねません。(しかもその潤いも工事の間だけで、その後にはさらなる開発を請け負わないと業務を継続していけないという「公共事業依存」の悪循環の構造がある。)
今後の波照間が「復帰」後の沖縄本島の自然環境と同じ道を辿らなけらばよいのですが・・・そうならないという確証は今の所あるとはいえないのが現実です。
参考文献:
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HONDA,So 1998-2000 | 御感想はこちらへ |