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PC処世術 - 雑感:計算機は万能か


 “電子計算機(コンピュータ)”の登場・普及によって、我々の生活は実に便利になってきた。身の回りで言えば、4bit マイコンによるいわゆる“電卓”から始まって,殆どの家電製品に組み込まれている8bit の“マイコン制御”の恩恵も受けているし、昨今急速に浸透した“パソコン”もまた生活を便利にしてくれる電子計算機の一つである。
 当サイトの随所で考察して来たように、PCはここに至るまでに進化を遂げながら種々の機能を獲得し,我々の生活に役立つようになってきた歴史がある。そして32bit 時代が終焉を向かえつつある現在は、次なる 64bit時代に実現されるパソコンの機能がはたして何なのか、想像をめぐらしながら待つ時期にある。
 来るべき64bit時代については、巷でも色々と語られている。もちろん機器・ソフトベンダ等産業界からの情報操作もあるのだが、総じて言われていることは“64bit時代には演算速度が向上し、メモリもHDDも容量が増大する”ということだ。このことについて筆者は否定しない。だが筆者にとって気になるのは、演算速度の向上と容量の拡大が何をもたらすのかについて世間で充分に語られてるわけではないように思われる点だ。
 例えば 64bit時代に常識化されていくPCの機能としては“ハイビジョンTVの録画再生”あたりが挙げられるかもしれない。確かにそれは間違いではないだろう。しかしながら、それは現在既にあるTVの録画再生という機能が高精細化するというだけのことであって、そのスキームはなんら変化していない。これから2010年以降にやってくるであろう真の64bit時代のPCにとってそんな機能だけではいささか役不足のような気がしてならないのである。
 そう思う理由は,「“もう計算機にできないことなど、そうは無くなり、あとは演算能力と容量さえ向上すれば良い”というほどに果たして計算機は万能になっているのだろうか?」という疑問を、筆者が漠然と持ちつづけているところにある。

 こちらでも似たことを書いたのだが、筆者はそもそも演算速度や容量と言った物量だけでは解決し難い問題が世の中には山積されていると考えている。勿論、多くの場合で問題解決のためには“物量”が必要となるのだろうが、物量さえ用意すれば問題解決,とはならない場面の方が多いように思うのである。
 分かりにくいかもしれないので、(必ずしも適切かどうか分からないが)単純なケースとして「電卓」の例を考えてみることにしたい。電卓というのはかなり原始的な機能からなる電子計算機ではあるが、こと数値の“計算”にかけては充分に正確・精密であり,我々人間の能力の及ぶところではない。また、その計算速度も通常の使用の範囲では充分と言って良いし、やはり人間がこれに勝つのは難しい。
 ではその電卓を持って小学生が受けるような算数の試験に臨んだら、我々は満点を取れる保証があるだろうか。筆者には無理かもしれない。確かに計算問題は電卓が神通力を発揮するところとなるのだろうが、いわゆる文章問題では電卓が役立つかどうか怪しいのだ。ここばかりは電卓だけではどうしようもなく、人間の思考が入る必要がある。
 さて、ではここで、この電卓の速度が数十倍にも高速化されたとしよう。凄い進歩には違いないのだろうが、きっとそれは問題の解決には繋がらない。計算が苦手な筆者にとって電卓は心強い味方ではあるのだが、それだけでは全ての問題を解決できるわけではない。問題の解決には、異なる次元の機能が提供されることが要求されるのである。

 とはいえ、電子計算機は演算の高速化と容量といった物量の拡大で進歩して来たことは間違いない。しかしながら、その過程を振り返ってみると“4bit の電卓が速くなったものが 8bit マイコン”だったわけではなく、また “16bit パソコンが高速・大容量になったものが 32bit パソコン”だったわけでもない。物量がもたらす単純な効果だけではなく,それぞれの時代で新機軸を打ち出し,少しずつ“万能”に近づいて行ったことこそが“○○bit時代”を築いてきたように思う。現在の 32bit PCもとても“万能”というには程遠いはずであり、そしてきっと 64bit コンピュータにしても、それはただの速い電卓ではないはずだ。この辺りの新機軸が見え始めれば、真の64bit 時代の足音を感じることになるのではないかと思う。(13. Nov, 2005)

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