edogawa's diary on 2002-2003 season #17.
| #16 | home | backnumber | fukagawa | mail |#18 |
■このページは

Microsoft Internet Explorer 5.2 for Macおよび、Netscape Communicator 4.7(共に、font : OSAKA/size : 14pt.)で表示確認をしています。極端に表示がおかしい(たとえば右の本文スペースがものすごく狭い等)ようでしたら、ご連絡ください。極端に文章がおかしい場合も、ブラウザーとは関係ないですが、ご連絡ください。極端に筆者の頭がおかしいと感じた場合は、アクセスを中止したまえ。






2003.01.11.Sat.
01:30 a.m.

 つまり、旧シリーズにはあってリメイク版の『PLANET OF THE APES』になかったものは、「寓話性」だったのではないかという気がしてきた。それがいいか悪いか別にして、むかしの猿の惑星は隅から隅まで教訓的だった。教訓は大事だ。ひょっとして私はサッカーにも寓話性を求めているのだろうか。ちがうかもしれないが、そうかもしれない。

 と、考えてるような考えてないようなことを考えながら、原稿はちっとも進まず、しかしトップページ改造工事はやけに捗るのだった。あー。こんなことしてるバヤイじゃないのに。だが、これで完成だ。なにしろ飽きっぽいのでデザインが安定せず、言ってみりゃこの4年半ずっと工事中だったようなものだが、これが最終形のような気がする。気のせいかもしれないけど。



2003.01.10.Fri.
11:40 a.m.

 昨年来の猿の惑星シリーズ鑑賞を締めくくるべく、ゆうべ、2001年にリメイクされた『PLANET OF THE APES』をビデオで観た。特殊メイクが売りなんだろうと思うのだが、さほど進歩していないように思うのは私だけだろうか。旧作だって、ちゃんと猿は猿に見えた。それを含めて、何か物足りない感じ。旧作とくらべて何が足りないのかよくわからないが、もしかしたらそれは、科学や文明といったものに対する生真面目な思い、かもしれない。旧作でジーラというチャーミングなメス猿がチャールトン・ヘストンを助けたのは、「言語を話すヒト」に対する科学者としての好奇心や使命感によるものだった。一方、新作でアリという人権(猿権ではなく人権)擁護主義者のメス猿が主人公のレオを助けたのは、そのポリシーによるものというよりも、単に「惚れた」からである。猿がヒトに惚れるものでしょうか。しかも、ひと目会ったその日から。そのあたりの仕分けが、このリメイク版では甘いのだ。旧作を貫いていた「猿は猿を殺さないが人間は人間を殺す」という青臭いけれど力強い「芯」のようなものが新作にはない。冷戦が終わったために「核一発で人類滅亡」という端的なテーマが成り立たなくなって、文明論的な視点が抜け落ちてしまったのだろうか。……などと茶の間で私がブツブツ言っていたら、旧シリーズのファンだった愚妻は、この新作をこのように評したのだった。

「猿が描けていない」

 なんて簡潔なんだろう。猿の惑星シリーズにとって、これは致命的ともいえる批評である。作家をコキおろすのにいちばん手っ取り早い言葉は「人間が描けていない」だが、猿の惑星は猿が描けてなきゃ話にならないのだった。ところで、デイナ(人間のヒロイン)役のエステラ・ウォーレンという女優は、ちょっとクレスポに似ていると思う。

 きのうのトップページへのアクセス総数は157、同一IPによる重複を除くと113とのことだった。たぶんそういう解釈でいいと思うのだが、113人の方々が計157回アクセスなさったということだ。思っていたより、ぜんぜん、多い。ようこそ皆の衆。数人の酒席でバカ話をしてるつもりでいたら実は周囲に観客のいる公開トークだったというような感じで、ちょっと腰が引けたりするのだが、まあ、インターネットってそういうものだ。リンク元を見ると、日誌ページからトップに戻ってカウントされた方が多いのだが、なかにはfb14.htmlという古いページにアクセスした方もいらっしゃって、いつの話だろうと思って見たらユナイテッドがバイエルンを下して優勝していたのでやけに懐かしかった。

 時間帯別に見ると、これはまあ予想通りなのだが、昼の12時台が圧倒的に多い。私がおおむね午前中に更新するのをご存じで、昼休みにアクセスしてくれているわけだ。そんなことが判ってしまうと、「昼までに書かなければ」などとまた余計な重圧がかかったりするから、いったい何のためのアクセス解析だか判らなくなってきたじゃないか。何とか間に合いそうだが。

 さっき日付を書いた瞬間にウッカリ思い出してしまったので仕方なく書くが、今日はヤマちゃんの誕生日だ。おめでとう。いつだったか何かの拍子に「110番」とインプットされてしまったために、忘却することができなくなってしまったのだった。そんなにムキになって忘れたがることもないが。そういえば1月末にバンドのライブをやるとかやらないとか言っていたような記憶があるが、どうなのだ。やるなら日程を教えなさい。



2003.01.09.Thu.
11:15 a.m.

 編集者H氏よりメール。「(年賀状の)宛名を深川峻太郎先生にしたところ、転居先不明と、本日戻ってきてしまいました」とのことだ。そういう表札を掲げていないのだから当たり前である。ダメだよ、そんな無茶なことしちゃ。しかし「転居先不明」とは、郵便局もすいぶん勝手な決めつけ方をしてくれるものだ。深川はまだ夜逃げなんかしてないぞ。どうせ不明と書くなら、「正体不明」とするべきだった。「意味不明」でもいいけど。

 きのう、無料でウェブページのアクセス解析をしてくれるサービスがあることを知ったので、やってみた。日毎・月毎・時間毎のアクセス数やらリンク元やら検索キーワードやら訪問者のリモートホストやらが判ってしまうという、ある意味キモチ悪いといえばキモチ悪いサービスである。本屋の店頭で売れ行きをこっそり観察しているような具合で、あんまり良い趣味とは言えない。が、「数を知りたい」というかねてからの欲求には抗えなかった。あくまでも「数」を知るのが主眼だから、いちいちリモートホストをチェックしたりはしないし、しばらくやってみて様子が判ったらやめるので、どうかご容赦を。

 で、昨夜11時から今朝11時までのトップページへのアクセス数は、(私のオウンアクセスを除いて)ちょうど50だった。12時間で延べ50人。世間的にはどうだか知らないが、私にとっては驚くべき数字だ。最初は5人くらいしか読んでなかったからね。午前9時台には9人、午前10時台には10人も来てくれている。「ちっ、まだ書いてねえじゃん」という例の舌打ちが、よりはっきりと聞こえるような気がした。アクセス解析は、あまり精神衛生によろしくない。



2003.01.08.Wed.
11:00 a.m.

 幼稚園がリスタート。久しぶりの自転車通園はとっても寒かった。なんか知らんが、学期はじめはやたらと荷物が多いし。しかし、この習慣もあと1年あまり。せいぜい頑張ってセガレ運びに精を出すことにしよう。

 新聞を読むかぎり、賛成派の意見も反対派の意見もひたすら意味不明な眠たいものとしか思えず、書いている記者も意味がわかっていないような気がするのだが、国語学会を日本語学会に改称するかどうかでモメているらしい。ほかにモメるネタ(たとえばウナギ文の解釈とか)はないのかとも思うが、きっと大事なことなんだろう。学会の名称なんか私にはどっちだっていいが、もしそれに伴って学校の教科名も「日本語」になるんだとしたら、ちょっとイヤかも。だって、来年の春、1年生になったセガレが「にほんご」と題された教科書を開いて「あさ あかるい あさ」などとたどたどしく音読している光景を想像してみたまえ。なんか、こう、自分の子がフィリピン人か何かになったような気分になるじゃないか。わけもなく「入国管理法」という単語が頭に浮かんだりもするじゃないか。それに、仮に100点満点のテストで15点を取ってきても、国語ならまだ許せる。しかし「日本語のテスト、15点だったよ〜」は日本人としてちょっとまずいと思うのだ。しばしば自らを卑下して(しかしどこか誇らしげな逆説的ニュアンスを込めながら)「国語は苦手」と公言する理系の人々だって、「いやぁ、私は子供の頃から日本語が苦手で」とは言いにくいのではないか。

 1ヶ月ほど前まで、私にとってウェブページとはもっぱら「作るもの(発信するもの)」だったが、暮れに敢行した私的IT革命以来、すっかり「使うもの(受信するもの)」になった。使う使う。ちょっとわからないことがあると、すぐ検索だ。何だってそこに書いてある。何だってそこに書いてあると、だったら雑誌も本も必要ないじゃないかといった恐ろしい考えが浮かんだりするわけだが、まあ、自然界を「編集」して提供する動物園や水族館が必要なら出版物も必要なんだろうと思ったりもするのだった。ちょっと違うか。アフリカや深海にはなかなか行けないが、ネットという大自然は誰でもどこでも行けるんだもんな。うー。今頃になって、21世紀におけるライターの役割について考えている。

 ただ、ADSLを導入すると調べ物が楽になって仕事がはかどると聞いていたのだが、ちょっとそれは疑問だ。あっちこっち行ってるうちに、やがて仕事のことを忘れてしまうのである。昨日も仕事上の必要に迫られてプラナリアという生き物のことを調べているうちに、ふと気づいたらなぜか甲陽学院中学校生物部に立ち寄っていた。前にもちょっと書いたような気がするが、プラナリアというのは切っても切っても切った数だけ再生することで知られたすばらしい生き物で、甲陽学院中学校生物部の諸君もそれを実験してみたらしい。その結果報告がこれだ。こんなふうにカジュアルな姿をしたウェブページを私はこれまで見たことがなかったのでとても新鮮だったが、しかしこういうことでいいのだろうか。絵はともかく字を手で書くことはなかったのではないかとも思うが、そんなことより気になるのは「成功」という表現である。それは「成功」なのか。「うまく双頭になった」という言い方もちょっとどうかと思う。もっと客観的な表現を覚えたほうがいいんじゃないか、そして、それを教えるのは日本語教育ではなくやはり国語教育なのではないかと思いつつ、その一方で「どうせならキングギドラにしてみようよ」などと考えていると、仕事はいっこうに進まないのだった。

 ゆうべは、レアル・マドリー×バレンシア(リーガ第16節)をビデオ観戦。4-1という結果は知っていたので、1-1に追いついたバレンシアが勢いづいて反撃を続ける姿を見て「なぜあんな結果に?」と訝しく思ったのだが、そうこうしているうちにアイマールが退場になってしまってなるほどってことである。ジダンすごい。ロナウドに決めさせた1点目、あのビチョビチョの芝生の上であの体勢からあんなスルーパスをあんなふうに通せるなんてすごい。「通らばリーチ!」の気合いを感じた。おいおいまた一発ツモかよヤマちゃん。しかもペンチャンのラス牌かよ。やってらんないよ。ちがう。ヤマちゃんじゃなくてジダンの話だ。さらに終了間際の4点目、ポルティージョに「おら、入れとけ」と出したラストパスは、お父さんみたいだった。あんなお父さんに私もなりたい。

 忘れていたが、『模倣犯』は年末に読み終えたのでネタバレ解禁です。バラすほどのネタもなかったけど。それにしても、じつに重い本だった。あんまり重いので試しに秤にのせてみたら、上下巻あわせて1.5キロ弱あった。いったい『模倣犯』は合計で何トン売れたのだろうか。そして私は夏までに『模倣犯』およそ6セット分の減量を実行しようとしているのだった。そんなふうに言われても、容易なのか困難なのか全然わからない。



2003.01.07.Tue.
12:35 p.m.

 Desert Island Recordsは、むかし一緒にバンドをやったことのあるKay'n君が去年設立したインディーレーベルだ。Kay'n君ったって実際はまるっきり日本人なのだが、本人がそう名乗っているのでそう呼ぶ。私が彼と出会ったのは大学の語学クラスでのことで、出会ったときから「凄い奴だなぁ」と思っていた。あれは中谷彰宏だったか浅羽通明だったかが以前「コイツにはかなわないと思える凄い奴に出会うことが大学に入る価値の一つだ」というような意味合いのことを言っていたが、そういう話を聞いて私が思い浮かべる幾人かの人間の一人がKay'n君だ。そんな彼が立ち上げたインディーレーベルだからすぐにCDを買いたかったのだが、なにしろ使っていたパソコンが貧弱で、ネットで買い物などすればたちどころにフリーズする仕組みになっていたので、先日ADSLを導入してからようやく「Kay'n Instrumentalism」と「Kay'n Vocalism」の2枚を注文した。まだその2枚しか売っていないのだ。これがどちらもなかなかイイので、キミも試しに買ってみなさい。おかしな先入観を持たせるようなことを書くと本人に叱られそうなので余計な感想は書かないが、とくに私が気に入っているのは「Vocalism」に収録された「Shirayuri(O Lirio)」という曲で、毎日3回は聴いている。音楽って、何度も味わってもらえるからいいよな。私の文章なんて、3回以上読むのは担当編集者と私ぐらいのものだ。昨日も、書き上げたコラムを送稿する前に10回ぐらい読み直していたら、だんだんキモチ悪くなってきた。てめえの文章に吐き気を催してどうする。でも「Shirayuri(O Lirio)」は聴けば聴くほどキモチ良くなるからすばらしい。

 2日前の晩、仕事を終えて帰宅すると、私が頼んだわけでもないのに愚妻がリーズ×マラガ(UEFAカップ3回戦第2戦)を録画してくれていた。こんな古い試合を録画して観ようだなんて、もしかしたら私より彼女のほうが熱心なサッカーファンなのかもしれない。「やさぐれたチーム同士だから面白そうだと思って」と意味のよく判らないことを言っていたが、しかしこれが実に炯眼だった。ほんとうに、やさぐれた試合。もっとも両チームのやさぐれ方は微妙に違うのであって、私の見たところ、マラガのやさぐれ方は大工さんやトラックの運ちゃん等に見られるプロフェッショナルなやさぐれ方だ。きわめて自覚的に、あえて言うなら「勝つために」やさぐれている感じ。何のことだかよく判らないが、むかし流行った言葉で言えば「ガテン系」の職人集団といったところか。一升瓶がよく似合う雰囲気、と言ってもよい。それでふと思ったのだが、盗んだ重機を駆ってATMを豪快に破壊した犯人グループって、マラガみたいな集団だったんじゃないだろうか。あんなに開けっぴろげで大ざっぱな計画を大胆かつ迅速に遂行できる集団は、サッカー界広しといえどもマラガ以外に考えられない。少なくとも、ヘアスタイルと体型がダリオ・シルバ似の若者が一人は含まれていたような気がする。犯行計画を練ったリーダーは、もちろんデリー・バルデスのようなタイプだ。で、一方のリーズは、「成績も性格も悪い高校生の集まり」(by 愚妻)が見せるような、無自覚なやさぐれ方。人は茶の間でサッカーを見ながら勝手なことを言うものだ。試合のほうは、1-1のドロー。第1戦は0-0だったのでagg.1-1、アウエーゴール差でマラガが勝ち上がりである。不良高校生は不良おやじを乗り越えられないのだった。そういう世の中であってほしいものだ。不良って死語ですか。

 そんなわけで、テレビ中継では倉敷さんや金子さんや戸塚さんが妙な(?)愛情をそそいでいらっしゃるせいもあり、このところ我が家ではマラガがほっとけない存在になりつつあるのだった。なので、ゆうべはマドリー×バレンシア戦を差し置いて、ソシエダ×マラガ(リーガ第16節)をビデオ観戦。双方が「だー」とか「うおー」とか唸りながら目をつぶったまま両腕をブンブン振り回しているようなゲームだった。ざっくりしたゴールの応酬で、2-2のドロー。マドリーとデポルが調子を上げてリーガ全体の潮目が変わりつつある昨今、コバチェビッチをはじめ数人の主力を欠くソシエダにとっては正念場の試合だったが、まだ神様がついている感じである。FKによるニハトの先制ゴールはマラガの大ざっぱな壁をするすると抜けていったものだし、2点目にいたっては、味方からバックパスを受けたGKコントレラスの何でもないキックが、邪魔しようとジャンプしたコクロフの右肘に当たってゴールマウスまで跳ね返ったものだ。オウンゴールではないが自滅点と呼べるゴールが存在するということがわかった。マラガのゴールは、ムサンパとダリオ・シルバのいずれも左足によるもの。たった二度の決定機をゴールに結びつけてしまうあたり、さすがの職人根性である。

 正月休みのあいだも、京都×鹿島、アーセナル×チェルシー、ニューカッスル×リバプール、マドリー×セビージャ、デポル×セルタ、リバプール×マンCなどを観たのだが、もう面倒なのでいちいち書くのはやめた。倫敦ダービーは、80分過ぎから4ゴール入る乱戦で面白かったが、チェルシーが負けてしまって残念。ゾラに危険きわまりないタックルを浴びせたローレンが私の中では急速に好感度ダウンしている。今季だけは彼に怪我をさせないでほしい。



2003.01.06.Mon.
18:10 p.m.

 やあやあ。どいつもこいつも寄ってたかって「6日が〆切」だというので、4日から働いていた江戸川です。賀正。今年もよろしくお願いだ。ほんと、お願いするよ。頭も下げるよ。何とかしてくれよ。頼むよ。

 というわけで、数名の読者諸氏より年賀メールを頂戴しまして恐縮です。お返事を出す代わりに愚妻がデザインした我が家の年賀状をここに掲載したかったのだが、どうすればいいのかわからないのでやめた。どんな絵かというと、CBの父さんヒツジがフィードしたボールを中盤の母さんヒツジが前線へ送り、トップのセガレヒツジがシュートしてる絵です。圧倒的な数的有利(3対0)なので、パス回しも楽だ。ちなみにゴールマウスはエッシャーもどきの騙し絵になっている。シュートが枠をとらえているように見えたあなたには、きっと幸運が訪れることでしょう。って字で説明しても意味ないわけですが。いずれにせよ、あけましておめでとうということだ。

 石川さゆりには驚いたのである。紅白歌合戦だ。あれほど意志強固なカメラ目線を私はいまだかつて見たことがない。どうしたんださゆり。いったい何を決意したというのだ。宮本にも驚いた。紅白&かくし芸大会を制覇して、もう立派な国民的審査員だ。あと、「ショットガンタッチ」には是が非でもオフェルマルスを出場させたいと思いました。以上、年末年始のテレビの話題はおしまい。

 今年の年賀状でいちばん驚いたのは、タネちゃんが子を産んだということだった。タネちゃんは、かつて同じ編集部で机を並べていた先輩女性編集者だ。高齢出産は私も身内で経験しているから驚かないが、問題は子の名前である。なにしろ漢字二文字の前に「ジャンルカ」とついている。知り合いがジャンルカ君を産んだのは初めての経験なので、ちょっと動揺した。ジャンルカと漢字二文字のあいだに「トト」が入っていたら、羽交い締めにしてでも止めたところだ。

 今年の目標。

1.ぐずぐずしないで、てきぱきする。
2.夏までにあと8キロ減量し、それを維持する。
3.ニョッキを上手に作れるようになる。

 いま考え始めたばかりなので、これぐらいしか思いつかない。

 つまり、2ヶ月で8キロ落としてもまだ8キロ落としたいと思うぐらいの体重だったということだ。脂肪おそるべし。私のところには「2ヶ月で8キロ減量する方法を教えろ」という声も届いているが、実験を再現するときは条件を揃えるのが科学的実証の基本なので、私と同じように減量したければ、まず、8キロ痩せてもまだ8キロ痩せたいと思う程度にまで体重を増やさなければいけない。それがイヤなら、ダイエットなど考えないことだ。

 そこまで体重を増やしたら、次に『痛快!みんなのスポーツ学』(辻秀一・集英社インターナショナル)という本を読んで、運動不足の罪深さと脂肪の禍々しさを身に沁みるまで学ぶとよい。さらに左にも掲げた『40歳からの元気食「何を食べないか」10分間体内革命』(幕内秀夫・講談社+α新書)を読んで、戦後の誤謬に満ちた栄養学が招いた食の欧米化への嫌悪感を抱き、ごはん・味噌汁・漬け物を中心とした和食の威力を信仰できるようになれば、減量の準備はほぼ完了したと考えていいだろう。

 これらの教養を身につけた上で私が打ち立てた減量における理念は、いたってシンプルである。「空腹を是とする。むしろ歓迎する」だ。

 よく言われることだが、ダイエットには近道もなければ楽な道のりもない。そこにあるのは、王道だけだ。そしてその王道とは、「摂取カロリーを減らして消費カロリーを増やす」に他ならない。簡単な理屈である。しかし消費カロリーを増やすのはなかなか厄介だ。私も夜間の徘徊によって消費カロリーを増やす努力をたまにするが、見なければならないサッカーの試合が多いため、そうは時間を作れない。これは多くの肥満成人(肥満星人ではないので注意)に共通する悩みであろう。だが、運動する時間が作れないからといって諦める必要はない。消費カロリーが現状維持であっても、要は摂取カロリーを思い切り減らせばよいのである。だから「空腹を歓迎する」のだ。そもそも私たちの体にまとわりついている脂肪は、飢餓に備えて蓄えられたものである。ならば、それを減らすのにもっとも手っ取り早い手段は「飢餓状態を作る」以外にないではないか。

 では、いかに飢餓状態を作るかというと、その具体的手法もいたってシンプルである。「昼飯を食わない」だ。実際には、平均で週に3日は昼飯を抜き、あとの4日は握り飯一つぐらいで済ます。こう言うと、「それは体に悪い」と批判する者がいるだろう。その通りだ。飯を抜くのが体にいいはずがない。しかし私に言わせれば、ノーリスクで減量しようなどというのはムシがよすぎる。そもそも私は40代以降の健康という中長期的な目的で減量をしているのだ。そのために短期的な健康が少しばかり損なわれたとしても、それは目的達成のために支払うべき当然のコストだと言える。

 また、「それでは腹が減って仕事に支障が出るのでは」と心配する向きもあるだろう。その通りである。昼飯を抜くと、午後3時ぐらいから頭に霞がかかったようになり、指先にあまり力が入らなくなるので、原稿はほとんど書けない。しかし、これも当然支払うべきコストの一部だ。仕事と減量を両立させたいなどという甘ったれた態度では、目標に近づくことはできない。人間、一度に2つのことができるほど器用にはできていないのである。威張ることはないが。

 ま、そんなところだ。もちろん、昼飯を抜いた分、晩飯をバカスカ食ったのでは話にならない。腹六分目にしましょう。あと、夜8時半以降は食わないようにしてます。念のため言っておくが、真似して体調を崩してもわしゃ知らんぞ。

 のっけから長くなったので、正月に見たサッカーの話はまた明日。



landscape photo in this page : あらたさんち

edogawa's diary on 2002-2003 season #17.
| #16 | home | backnumber | fukagawa | mail |#18 |