edogawa's diary on 2002-2003 season #18.
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2003.01.17.Fri. 19:50 p.m.
BGM :
http://www.smoothjazz.com

 11時から15時まで、九段下のホテルグランドパレスで、4月に執筆する本の口述取材。これから書く5冊のうち、すでに4冊が同時進行している。4人分のテープ速記原稿が仕事場のあちこちに積まれていて、うっかり混ざってしまわないか心配だ。生物学者と精神科医と国文学者と芸能プロ関係者の口述をアトランダムにミックスしたら、どんな本になるだろうか。書けるかそんなもん。しかし実のところ私の頭の中では混ざっていたりするので、案外これは冗談とばかりも言えないわけだけどね。著者Aから聞いた話を著者Bの本で使ったことが一度もないと言ったら、そら、あんた、ウソになりまんがな。まあまあ、幽霊のやることだから大目に見てくれ。

 ってゆうか、それやっても何の支障もないぐらい、いろんな人が同じようなことを語ってるってことです。ま、口述取材ってのは対話であるから、話の流れは聞き手のパーソナリティによっても変わるわけで、私が同じ方向に誘導している可能性もないわけではない。私が「それは、つまり、こういうことですよね」と言って、著者が「はい」とか「そうそう」とか答えれば、その「こういうこと」はその著者が言ったことになるのであり、したがって私が言う「こういうこと」が同じなら書かれる内容も同じになるのだった。実際、テープ速記原稿を読んでいると、「おれってば、また同じこと言ってんじゃん」と呟くことが珍しくないのである。いいのかそういうことで。でも、そういう仕事。出来上がった本はもちろん私の人格とまったく無縁で、そうでないと私だって困るのだが、しかし私が原稿を作成しているからにはそこに「私」がまったく無いほうが不自然なのであって、わりとそのへんは微妙なところだ。

 ところで、いま、「書いている」の代わりに「原稿を作成している」と書いた瞬間にふと思いついたのだが、「ゴーストライター」というオドロな職業名はもうやめて、「テキストメーカー」はどうか。どうかって誰に向かって言ってんのかわからんが、なんかこう、パソコンのエディターソフトか何かになったような気分で、悪くない。編集者からの電話で「ゴーストの仕事があるんだけど……」と言われるより、「ちょっとテキストメークしてくんない?」と言われたほうが明朗な感じだし。日本語で言うと……作文師? よけい怪しいか。

 取材を終えて仕事場に戻ると、元某チ−ム主戦投手からメールが来ていた。文中に「皆様」という文言があるので純粋な私信ではないようにも思えるのだが、投稿規定には則っていないので、前に「私信でも気分次第で……」と明言した経緯に鑑み、載せるか否かは私の気分(判断)に委ねられたものと解釈したのだが、それでどうするかというと、「これはそのまま載せるべきではない」という直観警報機が私の中でジャンジャン鳴っているのだった。なので、ものすごおおおおおおおおく悩んだ挙げ句、今日は長時間の取材で脳が疲弊していることもあって、態度保留じゃ。本人に「そのまま載せんかい」と言われれば、もちろん載せるけど。とりあえず、心配してる向きもあろうかと推察されるので、彼が「全然怒ってない」らしいことだけ伝えておきます。




2003.01.16.Thu. 12:20 p.m.
BGM :
http://www.salsastream.com/

 きのうは午後から、赤坂プリンスホテル旧館で対談取材。某自民党大物代議士と某大物作家の対談である。仕事で政治家に会うといつも思うのだが、彼らの存在感は独特だ。登場すると同時にひと声発しただけで、その場の空気を鷲掴みにして自分のものにしてしまうような迫力がある。こういうのは、ほかの分野の著名人にはほとんどない。「食ってる物が違う」と感じさせる人は多いが、「吸ってきた空気が違う」と思わせるのは政治家ぐらいだ。私が会った中で、政治家以外でそれを持っていたのは、故・三波春夫先生ぐらいでしょうかね。

 で、昨日もそうだった。マスメディアでは極悪人扱いされることの多い人だが、同じ空間にいると、とてもとても魅力的。すごい吸引力。あんな人に「お願いします」なんて握手でも求められた日にゃ、そら1票でも2票でも投じるわなぁと思わされた。2票も投じちゃいけませんが。人間的魅力と政策は別、と頭ではわかっちゃいるが、そんなふうに峻別できるものでもないような気がしなくもなかった。

 それにしても悔しかったのは、久しぶりに会った編集者ゴンザレスが「江戸川さん、痩せた?」と言わなかったことだ。彼と最後に会ったのは、いちばん体重が多かった時期なのに。やはり人の目は「痩せた」という事実ではなく、「もっと痩せるべき」という現実のほうに向きやすいようだ。ちっくしょお。いまに見てろよ。こうなったら、グウの音も出ないほど痩せてやる。

 どうでもいいっちゃどうでもいいのだが、なーんか気になるニュースというのがあって、昨日は姫島村の成人式の話がなんとも気になって仕方がなかったのである。振り袖で成人式に行った女性が、「村の約束事で、着物はいけない」と言われて出席できなかったという、本当にどうでもいいっちゃどうでもいい話だ。

 しかし。私たちは、「高価な着物を買えない家庭のことを考えた」という村の教育委員会の説明に「トホホだよなぁ」と呆れてみせ、「何を着るかは自由。自分には新たにスーツを買う方が負担になる」という女性のコメントに「そりゃそうだ」と頷くだけでいいのだろうか、と思ったのだ私は。

 私が見たところ、このニュースの行間に込められているのは、「ほらほら、まだムラ社会のあほくさい横並び主義がこんなところに残ってまっせぇ」というメッセージであり、だからこそニュースとして取り上げられている。もし記者が村の教育委員会を支持しているなら、単にひとりの新成人がルールを守らなかったってだけの話で、そんなものにニュースバリューはなかろう。「成人式のルール破り」なら、もっと派手なニュースが山ほどあるからだ。つまりこの記事は、読む者が、「ハレの日にせっかく用意した振り袖を着られなかった女性」を気の毒がり、頑迷な教育委員会の姿勢を憤るように出来ているのである。

 でも、もし教育委員会が事前に「着物はダメ」というルールを出席者に伝えていたのであれば、やっぱり、この女性はルールを守らなかったイケナイ人なのである。悪法もまた法だ。レッドカードを出したのがモレノだろうとニエトだろうと、退場は退場である。「着物はダメ」というルールを知ってたのなら、守らなきゃいけない。どうしても納得いかないのなら、ルールを変更するよう行動を起こす道もあるだろう。成人すると参政権が与えられるわけで、それはつまり世の中のルール作りへの関与を許されるということだ。「そんなルール、ヤだ」とゴネたりスネたりするのはコドモのやることである。死刑廃止論者であっても、法務大臣になったら死刑執行の書類に判を押さなきゃいけないのと同じことだ。

 まあ、短いニュース記事からは詳細な経緯や事情がわからないから、どちらに正義があるか私には判断できないけれど、いずれにしろ、このニュースを女性だけに肩入れして読んでしまってはいけないような気がしたのだった。だいたい、高価な着物を買えない家庭のことを慮るのは、そんなにあほらしいことだろうか。あほらしいかもしれない。あほらしいかもしれないが、しかし、運動会で手をつないでゴールさせるのと同列に語れるほどあほらしくはないのではないか。そんなふうな心持ちを新成人に求めるのは、そんなに悪いことじゃないような気もする。だって、高価な着物を買えない家庭のことを考えるところから、権利と義務とか自由と責任とか富の再分配とかそういうオトナの問題が生じるんでしょ? ちがうの?

 いとうやまねさん(の、いとうさんのほう)からメールを拝受。ワイドショーで宮中の歌会始を眺めているうちに、彼女は江戸川が誰に似ているか気づいてしまったらしい。そうなのだ。私は畏れ多くも「弟さんのほう」に似ているのだった。これはもう、ちょっと否定しがたいほど似ている。昔はよく指摘されたのだが、ここ数年、それを話題にする人はいなかった。ものすごく久しぶりに言われて、ちょっと動揺している。そういえば、プリングルスというポテトチップスのシンボルマークに似ていると言われたこともあったっけ。それは、こんな顔である。




 堀内孝雄なのかそれは。でも、堀内孝雄に似ていると言われたことはないです。つまり、似てる人に三段論法は通用しないということだ。さらにもう一つ、重なる無礼を承知で言わせてもらうなら、あと15キロぐらい減量して髪の毛を伸ばすと、『ヨコハマBJブルース』における松田優作を遠くから薄目で見た顔にもかすかに似ることになっているのだが、いまだかつて同意してくれた者はいない。

 広島県出身の元サックス吹きからまた抗議のメールが届いた。<どうせ無断転載するならば、「元某チ−ム主戦投手」とか、「元本格派右腕投手」とか、「元魔球づかい」とかにして欲しかった・・・(元「ホラ吹き」みてえじゃねえか!)>とのこと。あー、わかったわかったわかりました。いちいちうるさいなぁ、もう。でも、好投手だったことは認めるが「本格派」には同意しかねるし、「魔球」もまだ見たことがないので、「元某チ−ム主戦投手」に決定します。ちなみに本誌では「わし信」でも気分次第で無断転載することがあるんじゃけぇ、メールはよう覚悟して送らんといけんよ。いや、「いかんよ」か? どっちじゃ。

 というわけで、きのうの元某チ−ム主戦投手からの「巻頭の文章を何とかされたし」云々は江戸川が私信を勝手に公開したものなので、ご本人にしてみればそれがこの場で議論されることはまったく本意ではないはずだし、もしかしたら本気で削除・修正等を求めたわけではなく、彼一流の(広島人流の、といったら偏見か)ちょっとした挨拶だったのかもしれないのだが、私自身は文面からそういうニュアンスを感じられず、「読者からの不快感の表明」としてけっこう深刻に受け止めたのだった。まがりなりにも書くことを商売にしている者に対して、表現物に関する苦言を(仮に半ば冗談であるにせよ)呈するというのは、ある種、爆弾を投げつけるのと同じようなことなのです。わかって下さい。

 ともあれ、公開するにはそれなりの理由があったのであって、私としては、そこに表現活動一般に関わる重大なテーマが孕まれていると感じたのである。だからこそ、広島人であり業界の先達でもあるゴタ先輩にもご意見を求めたわけだが、さっそく「広島弁問題に関する私見」と題された下記の文章を頂戴した。元某チ−ム主戦投手は私の友人であり、長いつきあいの中で積み重ねてきたものもあるので、ゴタ先輩が想定していらっしゃる「元某チ−ム主戦投手像」と私の「元某チ−ム主戦投手像」のあいだには少なからずギャップがあるが、そうなったのはひとえに私の紹介の仕方に原因がある。ゴタ先輩は慎重な方なので、「見知ったヒトにケンカ売りかねないので、掲載するなら適当に要約してくださいな」とのご配慮もいただいた。しかしそれでは私が恣意的に議論をコントロールすることになりかねないので、そのまま掲載させていただく。そんなわけなので、以下の文章は元某チ−ム主戦投手個人に向けられたものというより、「表現活動における冒涜と偏見」にまつわる一般論として読まれるのが妥当だと私は思っている、ということをあらかじめ申し添えておきます。


◇広島弁問題に関する私見

 どうなんでしょうか。と問われると、わしは大概の場合「ほっとけ」と答えとるんじゃが、今回も「ほっとけ」が結論じゃ。ネイティブじゃないもんが面白がって使うたけえゆうて、“尊厳の冒涜”になるかいや。“人種的偏見の助長”たぁ、どうゆうことなら。以下暴論。

“尊厳の冒涜”“人種的偏見の助長”で思い出したんは『ちびくろサンボ』じゃ。あと、トルコ風呂をソープランドと改称させたトルコ人青年。それと同じようなもんなんかのう。

 広島の出身じゃゆうことを隠そうとしとるんじゃが、言葉の端からバレてしもうて、マネされて腹が立ったんかいの? 韓国籍や同和地区やら、知られたら不都合じゃゆうもんがおるのは知っとる。その人らぁのことを考えてもみいや、とゆうことなんじゃろか? ほいで母国の片鱗をのこした言葉遣いを揶揄するのと一緒か? たとえばこんなふうに。

「本誌はキホ的に1日1回、平日のコゼチュウに更新されるコト多いハセヨ。でも、保証はできんスミダ」

 こうゆうことは江戸川氏はせんわな。少なくともウェブ上では。

 意図しとらんでも、他人の尊厳に触れてしまうことはある。こりゃぁ書いたもんの責任じゃ。ほいじゃが、キモチのええ、悪いは個人的な趣味の範疇で、そがあなことを言い出したら、「デザインがキモチ悪い」だの「写真が好かん」だの、ナンボでも言えるで。ウェブページにありがちなのは英語表記じゃが、「定冠詞の使い方がまちがっとる」だの「だいたいなんで一部だけ英語になっとるんなら。欧米崇拝に天誅下しちゃる」ゆうて、ケチつけてまわるんかいの。

 ウェブ上での異論反論は妙にエキサイトしやすいし、感情的に読まれがちじゃ。広島弁で書きよると、ますますネジを巻いとるように見えるけぇ困るのう。「はいはい、あんたの気にいらんですまなんだのう。ほいじゃが、おもしろいゆうてくれる人もちいたぁおるし、気にならんゆう人もえっとおってじゃぇ、こらえてぇや」ゆうことじゃろうの。

 わしゃ、面白がって使うてくれたほうがエエ、使うてくれるうちが花じゃ思うとる。ほいじゃ、の。


 そうなのだ。「意図しとらんでも、他人の尊厳に触れてしまうことはある」ことが問題なのだ。巻頭の広島弁(もどき?)も、私の意に反して、昔からお国ことばを隠すことなく使ってきた元某チ−ム主戦投手のプライドと故郷への愛着を踏みにじるものだったのかもしれない。しかし、他人の本を80冊、自分の本を1冊書いてきた私の経験に照らして言うと、(とくに他人の本を書いていると「いいのかこんなコト書いちゃって」と腰が引けることが多いのだが)何らかの「冒涜や偏見」とまったく無縁でいられる文章というのが少ないのも事実である。というか、冒涜や偏見のないまっさらな文章なんかつまらない。とりわけ「笑い」は、いつだって冒涜や偏見と隣り合わせだ。とはいえ、だからといって他人の尊厳に触れることが「表現の自由」の美名のもとに必ず許されるということではもちろんない。『石に泳ぐ魚』を私は読んでいないが、たぶん、柳美里が裁判で負けたのにはそれなりの理由があったのだろう。とても難しい問題で、ここで私ごときが結論を出せるような話では毛頭ないけれど、これはこの商売を続けていく上で絶対に避けて通れないテーマの一つなのであって、それを改めて思い知らせてくれた元某チ−ム主戦投手と、しっかり受け止めて重要な示唆を与えてくださったゴタ先輩には感謝しなければいけない。

 それにしても、もっと気になるのは英語表記の問題なのだった。て、定冠詞の使い方……。まずい。自信がない。英語なんかちっともできないクセに気取って使っているので、実はいつもヒヤヒヤしているのだ。間違ってたら教えてくれぇ。




2003.01.15.Wed. 10:55 a.m.
BGM : Chick Corea "Friends"

 広島県出身の「見知らぬ人」と名乗る見知った元サックス吹きから抗議のメールが届いた。<ホンマに気持ち悪い、広島人の尊厳の冒涜、人種的偏見の助長とも受けとめられる巻頭の文章を何とかされたし>とのこと。ふーん。誤訳があるなら文句はバーチャル達川くんに言ってもらいたいが、これを面白がること自体が冒涜や偏見なのかもしれないですね。わし自身は広島弁への愛情表現やと思うとったんじゃがのう(火に油)。あの自動翻訳機、広島県出身者のサイトで「見てみんさい」って紹介されてたんだし。どうなんでしょうか、ゴタ先輩。こんなところで広島弁論争を繰り広げてもしょうがないか。しかし、それを含めて広島弁なのだ。そんなことはないです。

 きのうは、バレンシア×ソシエダ(リーガ第17節)をビデオ観戦。今季のベスト5に入るであろう好ゲームだった。前半17分、右からの強いクロスをファビオ・アウレリオがヘッドで直角にゴールへ跳ね返してバレンシア先制。T定規や三角定規を使って図面を描いているような、くっきり鮮やかなゴールだった。それでも1失点ぐらいでおたおたするソシエダではないので、そのうち追いつくだろうと思っていたのだが、後半15分、とうとう神様に見放されたかのような2点目が入る。バレンシアのフォアチェックを受けて自陣左サイドに追い込まれたDFアランサバルが、ゴールにバックパス。GKに、ではない。ゴールに、である。インサイドで丁寧に蹴られたボールは完璧に枠をとらえたが、嗚呼、そこにGKベスタフェルトはいなかった。「こっちに寄越せ」と枠を外したところに立っていたのである。ものすごく珍しいタイプの自滅点。あれほどハラホレヒレハレなオウンゴールを私はいまだかつて見たことがない。2-0。ソシエダ、ついに初黒星か。しかもあんなゴールで。この試合だけでなく、シーズンそのものが台無しになりかねない雰囲気だった。

 だが。ソシエダにはあの男がいたのである。(元ラツィオの)コバチェビッチだ。後方からゴール前に送り込まれたボールを胸で落とし、振り向きざまに長い脚を豪快にフルスイング。破壊的としか言いようがない。ビエリのようなゴールだった。いや、いまのコバチェビッチはビエリよりもビエリらしい。あんがい壊れやすい、見た目ほど肝っ玉が大きくない、したがって大舞台に弱いなど、ビエリは意外にビエリらしくないところの多い人間だが、いまのコバチェビッチは、サッカー関係者が共有している普遍的な「ビエリらしさ」のようなものを体現している唯一のストライカーなのだった。

 さらにその10分後、ソシエダの時間の問題的波状攻撃が実を結んだ。中央に人がぐしゃぐしゃと集まったところで、右サイドでフリーになっていたニハトにボールが渡る。絶妙なファーストタッチ。ドリブル。渾身のシュート。揺れるネット。感動的としか言いようのない、ヒロイズムに満ちたゴールだった。その後、些細なファウルでカリュウのゴールが取り消されるなどバレンシアには気の毒な判定もあって、2-2のドロー。ソシエダすごい。いささか気分が滅入りがちな今日この頃だったが、こういうゲームを見るとなんだか元気になれる。サッカーはすばらしい。

 引き続き、マラガ×バルセロナ(リーガ第17節)をビデオ観戦。久しぶりに聞く反町さんの声が懐かしかった。バルサはなんだか妙なメンバー構成。なにしろガブリ、コクー、ジェラールの3バックだ。たぶん、アミダくじか何かでポジションを決めたんだと思う。イニエスタという若者は、やけに顔色が悪かった。ああいう顔なのか。マラガのほうは、例によってアバウトな戦いぶり。このあいだはガテン系と書いたが、この試合ではなぜか「商店街」という言葉が頭に浮かんできた。商店街のおっちゃん達の草野球チームみたいなサッカーチーム。バルデスは八百屋でダリオ・シルバは魚屋、コントレラスは文房具屋だ。何だそりゃ。冒涜と偏見だ。マラガの特徴は「ゆるいクロス」だと思った。あの人たちには「ピンポイント」という概念がない。あるのは「このへん」とか「そのへん」とかだ。「おーい、コレやっといて〜」とばかりにゆる〜く上げて、そのあいだにダリオ・シルバを落下点に間に合わせるシステムである。実に合理的だ。どうしてもそう呼びたければ、「コレやっといてクロス」と呼んでもよい。試合のほうは、途中で寝てしまったのでよくわからないが、スコアレスドローだった模様。



2003.01.14.Tue. 14:25 p.m.
BGM :
http://www.cowboyculturalsociety.com

 きのうは明け方まで仕事場にいたので、サッカーは見ていない。高校選手権の決勝も録画を忘れた。しかし、ふと気づいたら「サッカー日誌」ではなく「江戸川春太郎日誌」になっていたので、サッカーと関係のない文章を書くことに対する罪悪感がなくなった今日この頃である。みんな今まで勘違いしていたようだが(私もさっき気づいた)、この日誌は「ワールドフットボール」のレポートではなく、「ワールド」と「フットボール」の両方に関するレポートなのだった。「世界の蹴球」ではなく、「世界と蹴球」だ。そういうことだ。

 で、明け方まで仕事場にいたにもかかわらず、原稿は絶望的に進まない。ただひたすらモニターを睨んで座っているだけ。気持ちが焦るばかりで、指が動かない。時間だけが虚しく過ぎてゆく。なぜ書けないのか。よくわからない。よくわからないが、まだその本の「世界」にちゃんと入り込めていないような、そんな感じ。ゴーストライターの場合、「世界」は自分の頭の中ではなく外にあるので、ある種のトランス状態にならないと原稿は捗らないのである。そうでないゴーストライターもいるだろうが、私はそうだ。

 そういえば10年ほど前、一度だけ、引き受けた仕事を「書けませーん」と途中で放り出してしまったことがある。人生の中でも五本の指に入る暗い過去だ。当時はメールという便利なものがなかったので、「なぜ書けないか」を綴ったファックスを編集者に送りつけてひたすら謝った。どこの馬の骨かわからない私に初めてゴーストの仕事を回してくれた恩人だったのに、それを裏切るなんてとんでもない話だと思った。借りていた資料を段ボールに詰めて送り返したときほど、自分がだめな人間だと感じたことはない。しかし、あのときは、ちょっと精神状態がふつうじゃなかったのである。ワープロ(ワープロ!)の前に座ると、体のあちこちからヘンな汗がじっとりと出てくるような状態だった。たまに「えへへ」などと笑ったりしてもいたから、そばで誰か家族でも見ていたら、きっと心配して医者に連れて行ったことだろう。もっとも、家族といっしょに暮らしていたら、そんな状態にはならなかったと思う。職住一致の独り暮らしで、3日間のアリバイを誰も証明できないような孤独きわまりない生活をしていたから、おかしくなったのである。

 いまは家族がいるからヘンな汗は出ないし、あのとき「こんなことは最初で最後だ。二度としない」と天に誓ったので、もうあんなことはしない。そのうち書けるようになるだろうと思っている。だけど、「そのうち」っていつだ? なにしろ五月までに五冊だ。「そのうち」を待っている余裕などない。余裕がないから気持ちが焦るわけだが。やばいなぁ。カレンダーを見るのが怖い。

 早くも気が済んだので、アクセス解析はもうやめる。気が済んだというより、なんか鬱陶しい感じといったほうがいいか。いや、もちろん、たくさんの人がアクセスしてくれるのはとても嬉しい。でも、何時台に何人アクセスしたかが判ってしまうことが、なんとなく邪魔くさいのだ。気になってしょっちゅうチェックしちゃうし。いまもチェックしてみたら、昨夜0時から13時半までのあいだに60人がアクセスしていた。平日はだいたいそんなペースだが、いまごろ「江戸川虎視郎」で検索したらしい人もいたりして、こうなるとなんだか意味がわからない。そういうあれやこれやをつい詮索して考えてしまうのが鬱陶しいのだ。考えたって、10分間に同じ人が5回もアクセスしてる理由なんてわかるわけないし。やっぱり、読者の行動をのぞき見るのは愉快なことじゃないですね。こういうものは、お互いにコッソリ書いてコッソリ見るのがよろしい。なので、カウンターの無料レンタルなどもあってちょっと心が動いたのだが、やめておく。数なんか気にしても、さして得るものはない。数が増えることより、見知らぬ方から頂戴する一通のメールのほうがよほど価値がある。ということがわかっただけでも、アクセス解析をやってみてよかった。こまめに返事が書けなくて申し訳ないですが、ちょっとした感想でもたいへん励みになるので、どしどしお送りくださいませ。

 それにしても「私信」を「わし信」はないんじゃないかバーチャル達川くん。でも、そんなお茶目なところが好きよ。




 

2003.01.13.Mon. 13:25 p.m.
BGM :
http://www.smoothjazz.com

 いま売っているWSG2月号から、いとうやまねさんの新連載が始まっている。選手の「名前」に関する考察で、第1回は「デヴィッド」だ。Beckhamの「ham」の意味などがわかって勉強になりました。ヨーロッパ人の名前の意味や由来って、サッカーを見ていると気になることがとても多いので、今後も楽しみである。それとは関係ないのだが、このWSG2月号に付録でついてるルイ・コスタとカーンのポスターって、そんなにデカく引き延ばしたいほど素敵な写真かなぁ、と思いました。

 きのうは、ブレシア×ラツィオ(セリエ第16節)をビデオ観戦。勝つとアウエー8連勝となり、カペッロ時代のミランの記録に並ぶとのことだったが、新年一発目のアウエー戦ってあんまり過去にイイコトなかったような印象があるので心配していたら、案の定スコアレスドローでやんの。いやんばかんうふん。どっちも活発で悪いゲームでは決してなかったと思いますが、シュートシーン少なすぎじゃ。しかしまあ、とりあえず9月分まで選手に給料払って大量脱退は免れたようなことが新聞に書かれていたので、それだけでも良しとすんべえ。

 引き続き、ユベントス×レッジーナ(セリエ第16節)をライブ観戦。セットプレイから、コンテのゴールでユーベが先制した。コンテのゴールって、すごく久しぶりに見たような気がする。いつの間に髪切ったんですか。短いほうが格好いいじゃん。目立たなくて。何がじゃ。さらに復活トレセゲのゴールで前半は2-0。

 勝負がついたので、後半はチャンネルを英国に切り替えてトッテナム×エバートン(プレミア第20週)を観た。前半は1-1。セリエの場合はそのまま双方がドローに逃げ込むケースが多いものだが、プレミアの場合は前半がこれだと後半にも期待が持てる。で、期待どおりの展開。まるでハンドボールのように両軍が順番に点を取り合って、終わってみれば4-3だ。ロビー・キーンがハットトリックの大暴れ。すばらしい活躍だったのだが、しかし彼、ゴール後のパフォーマンスがワンパターンになっていないか。前転+ダチョウ倶楽部(やあ!)+グリコ(両手を挙げて仁王立ち)はオリジナリティがあって悪くないのだが、1試合に3度もやっちゃダメだ。




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