edogawa's diary 02-03 #29. 『懸念される概念』
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2003.05.24.Sat. 13: 40 p.m.
BGM : かしおぺあ等

 きのう、『キャプテン翼3109日全記録』(集英社)が編集部から送られてきた。過去の試合データなど満載で、これが1年半前にあれば私にとって最高の資料だったのになぁ、などと思いつつ後ろのほうを見ると…………うげ。コメントって、10人しか寄せてないんじゃん。10分の1の重荷に、怒濤の冷や汗。何の根拠もない思い込みなのだが、私としては30分の1ぐらいだろうという感覚でお気楽に引き受けたのだった。「その他大勢」のつもりでパーティに平服で出かけたら、じつは出席者がたった10人で、しかも自分以外は全員タキシード着てました、という感じだ。いたたまれないっす。10分の1でヤンバルクイナはマズかった。TPOをわきまえた原稿を書くのはむずかしい。

 いつの試合だか知らないのだが、ゆうべは、フェイエノールト×アヤックス(オランダカップ準決勝)を前半途中から観戦。スカイ・Aで欧州サッカーをやっているとは知らなかった。実況はテレ朝のアナウンサーで、どうやらBS朝日で放送したやつの使い回しらしい。やけに七五調が耳につく若いが古風な喋りのアナウンサーは、ほんの1時間のあいだに「伝統の一戦、クラシケル!」というフレーズを30回は口にしていたと思う。日テレ式トヨタカップを持ち出すまでもなく、どうも地上波民放アナというのは、決まり文句やキャッチフレーズを連発することで喋りのリズムを整えようとする傾向がありますね。うるさいなぁ。『戦争広告代理店』という本で、PR業界に「バズワード」というターム(強調したい言葉をメディアにわさわさ流して世論を誘導するようなやつ)があることを知ったが、無自覚に垂れ流されるバズワードは余計にタチが悪い。こうやって視聴者に一面的な見方を押しつけるのは、あんまりサッカー的ではないように思うのである。フジの青嶋アナがたまにスカパー!で実況するといくらか地上波色が薄れたりするのを聞くにつけ、サッカー中継業界はもう少し人的交流に積極的になってもいいのではないかと思うのだがどうだろうか。地上波アナがCSで喋ったり、倉敷さんや八塚さんや西岡さんが地上波で喋ったりすることで、お互いに刺激を受け、幅が広がるような気がする。もちろん、実況スタイルは多様であってよいし、視聴者のニーズにも差異があるから地上波らしさやCSらしさというものはあって当然であり、したがって平準化せよと言っているわけでは決してないのだが、いまの地上波はあまりにも旧態依然としすぎており、聞いていて痛々しくさえ感じるのである。

 ところで試合のほうは、ボスフェルトのゴールでフェイエノールトの1-0。剛が柔を、あるいは弁慶が牛若丸を抑え込んだようなゲームだった。決勝に進んだのはフェイエノールトだが、未来を感じさせるのはやっぱりアヤックスだよなぁ。CLのミラン戦もそうだったが、負けてなお爽快な読後感を残してくれるチームは少ない。そういえば、この試合の後で見た番組(FOR FOOTBALL?)でインタビューを受けたマンチーニが、「敗北もカルチョの一部」という印象的な言葉を吐いていたっけ。負けっぷりの良さは大事だ。




2003.05.23.Fri. 11: 00 a.m.
BGM : J-WAVE

 あれは一体、いつ誰が発明したものなのだろうか。納豆のカラシなどに代表される、「こちら側ならどこからでも開けられる小袋」のことだ。世間で評価する声を聞いたことがないが、すばらしい発明である。今のところ、21世紀で最大の発明じゃないかと言いたくなるぐらいだ。20世紀からあったのかもしれないけれど、あれはずいぶん21世紀的だと思う。自分で言ってて意味がよくわからないが、なにしろあの小袋ときたら、切り込みがないのに切り込みがあるかのようにスムースに開く。とても不思議だ。魔術的とさえ言える。あれほど偉大な発明をカセットテープやCDのパッケージに使わないのはどうしてなのかと疑問に思うのは私だけではないだろう。あと、ワインもコルクをやめてあれにすればいいんじゃないかと思う。

 しかし、だ。もっとわからないのは、なぜ「こちら側」からしか開かないのかということである。四辺をすべてあれにしたら何か不都合でもあるのか。一つ考えられるのは、「端から端まで切れて袋が真っ二つになり、中身が噴出して手がカラシでべちゃべちゃ」だが、それぐらいの手加減はふつう誰にでもできるし、ほどよい位置まで開けても指がいつもカラシでべちゃべちゃになる私のような人間も少なくない。どうせべちゃべちゃになるなら、「どこからでも開く小袋」にしてくれないものか。そうすれば、「こちら側」の矢印がどちらを指しているのか判然としなくて困ることもなくなるであろう。

 それにしても、だ。「どこからでも」と言われてもなお、「かつて切り込みがあったあたりの場所」から開けがちな私たちの頭の固さはどうにかならないものか。せっかく手に入れた自由が台無しだ。そんなことでは、いつまでたっても20世紀から解放されない。そう思って、このあいだ初めて、ど真ん中からカラシの小袋を裂いてみた。なんて21世紀的なんだろう。だが、いつになく大胆不敵な行動を取った自分にある種の爽快さを感じたのも束の間、こうすると二つに分かれた双方に内容物が大量に残ってしまい、ぜんぶ絞り出すのが大変だということに気づいた。自由なんて難儀なものだ。やはり、しかるべき位置に切り込みが入っていたほうが親切なのかもしれない。

 きのうはセガレの誕生日。6歳になった。いつまでも子供だと思っていたが、早いもので五捨六入すればもう10歳である。五捨六入してもしょうがないが、なんかこう、新たなステージに入った感じ。プレゼントに玩具ではなく顕微鏡を要求するあたり、「もうチビッコじゃないもんね」というプライドを感じる。もっとも祖父母には相変わらずアバレンオーやらベイブレードやらを要求しているのだが。ところで買い与えた顕微鏡には、付録として「エビの卵」がついていた。孵化させて成長具合を観察できるらしい。エサもある。最終的に、エビフライにできる程度まで育ってくれれば言うことはない。

 サッカーズ7月号が届いた。いつものポジションにコラムが一本もなかったので4人まとめて打ち切られたのかと慌てたが、今月から番組表が後ろになり、コラムは真ん中へんに移動したのだった。番組表内の埋め草次号予告に連載陣の名前があったから、来月もまだ書いていいということだろう。本文に関しては漠然としたアイデアがあるが、例によって似てる人が見つからない。誰か「セリエのゴリさん」を知っていたら、こっそり教えてほしい。

 ゆうべは、ポルト×セルティック(UEFAカップ決勝)をビデオ観戦。UEFAカップらしいと言えばUEFAカップらしいが、中途半端と言えば中途半端な組み合わせである。どちらに対してもさしたる思い入れはなく、あえて言うなら中日と近鉄の日本シリーズを見ているような気分。あらためてラツィオの敗退が悔やまれた。準決勝で勝つと負けるでは天地の差だ。

 そんなわけで、私としてはサットンとジョルジュ・コスタに同程度の(つまり、かなり低いレベルの)の愛着を持っているのでどっちが勝ってもよかったのだが、バイアーとカプーショが好きな愚妻につきあって、ポルトにいくらか肩入れしながら観た。どこの家庭でも、お茶の間世論はこんな具合に形成されるに違いない。どっちでもいいことをどっちかに決めるときに作用する力学というのは、一考に値する。サッカーの応援なんかどうだっていいが、もしかしたら国政選挙における投票行動さえ、そんなことで左右されているかもしれないのである。ま、どっちでもいいならどっちでもいいんですが。

 試合はデコ対ラーションの様相を呈し、90分を終えて2-2。UEFAカップのファイナルはよく点が入る。延長戦にシルバーゴールという新制度が存在することを初めて知った。延長も同スコアで終わった場合、より年老いた選手のゴールを倍付けにして計算するという、社会の高齢化に対応したルールだ。嘘である。基本は旧来の前後半15分ハーフで、前半終了時点でスコアに差がつけばそこで打ち切り、というのがシルバーゴールであるようだ。いや、基本は15分の延長で、決着がつかなければさらに15分の再延長、と言えばいいのか。どっちでもいいや。何がどう「シルバー」なのかよくわからないが、とにかく延長後半のシルバーゴールでポルトの優勝。レッドカードで味方の人数が減った途端、サットンのポジションが下がるのが懐かしかった。彼、チェルシー時代にCBまで下がったことがあるからね。下がるから「すっとん」と呼んでたわけじゃないけど。




2003.05.22.Thu. 10: 50 a.m.
BGM : 日野皓正『DETOUR』

 そういえば、一昨日の読書会で知り合ったC新社の若手編集者Tさんに、いきなり「どうしてラツィオが好きなんですか?」と訊かれたのには虚を突かれた。な、なぜ知っておるのじゃ。初対面の相手から、しかもサッカーとは何の関わりもない場で最初に受ける質問としては、わりかし恐るべき内容だといえよう。どうやら事前にNさんからこのサイトの存在を教えられていたようだが、この質問一発でTさんもサッカー愛好者であることが判明するわけで、つまり質問が同時に自己紹介になっているというのは大変すばらしい。「あ、サッカーお好きなんですか」「ええ」という短い会話だけで何か共犯意識みたいなものが芽生えるのが不思議だ。これがサッカーではなく川柳だったらどうだろうか。「川柳、お好きなんですか」「……しっ。声が大きい」ってこたぁないよな。

 校長先生のドレミの歌で気になるのは、「ファは墓場のファ」「ラはドラキュラのラ」を子供たちがどう受け止めたかということだ。一般に、無理メな駄洒落や語呂合わせが通用するかどうかは話者の芸にかかっている。達者な人間が口にすれば「それもアリだよね」になるが、芸のない人間の場合は「ファじゃなくてハじゃん」「ラっていうか、むしろドじゃん」「その替え歌ダメじゃん」と冷淡に切り捨てられるであろう。とくに子供はそのあたり容赦がない。しかし今回は、おそらく教わった替え歌を気に入った生徒が家庭で口ずさんだことが事件発覚(事件なのか)のきっかけだと思われ、だとしたらファとラを子供に納得させるだけの芸が校長先生に備わっていたことになり、したがって、あんがいこの教師は人から愛されやすい人間ではないのかというのが私の推理なのだがどうだろうか。どうでもいいです。

 しかしまあ、こういうことは第三者だから言えるのであって、なにも新聞ネタになるほど騒がなくてもよかろうとは思うものの、自分のセガレが「校長先生に教わった」と言って「シは死人のシ」と歌い始めたら、やっぱり眉ぐらいは顰めるわなぁ。私も小学生のとき、「灯りをつけましょ爆弾に」で始まり「今日は悲しいお葬式」で終わる替え歌を口ずさみ、「こっちのほうが曲の感じに合ってるじゃん。泣けるよ」と思った記憶があるし、残酷な替え歌が生命の尊重に反するものだなんてさらさら思わない(むしろ残酷な替え歌を面白がれない奴に生命を尊重することなんかできないと思う)けれど、それを学校の教師から教わるというその有り様がイヤだ。そういう替え歌は、オトナに聞かれないようにコソコソ歌ってこそ意味があるのではないか。あと、どうせなら、難しい言葉を覚えさせるために「シは屍のシ」「さあ屠りましょう」にしたほうが、教育的かつお上品だったと思う。「死人」は下品だ。

 ゆうべは、ようやくラツィオ×ブレシア(セリエ第33節)をビデオ観戦。とっくに結果を知っている……つもりで見ていたのだが、記憶違いで2-1だと思い込んでいたので、クラウディオが3点目を決めたときはとても嬉しかった。ミハイロのヤケクソなPK(ど真ん中に渾身のストレート)で同点、セーザルのごっつぁんゴールで2-1になって以降、私が本を開いて「ながら観戦」を始めたため、結果を知らなかった愚妻もそれ以上は点が入らないものと見切っていたようだが、ともかく3-1でCL予備予選進出決定である。めでたいめでたい。時間が経つと調子が落ちるどころかメンバーも大幅に入れ替わってしまいそうなので、できれば再来週あたりにやってもらえないでしょうか。予備予選。それにしてもバッジョのゴールにはウットリした。後ろからの浮き球をダイレクトでふんわりとループ。ラツィオ戦じゃなければ見なかっただろうから、ここで決めてくれてありがとうという感じである。

 日本×ニュージーランド(U-22)は4-0で日本の勝ち。この頃、地上波民放のサッカー中継はむしろ面白いんじゃないかと思うようになってきた。だって、「美白のロベカル」に「早稲田のカフー」だよ。どう突っ込んだって、突っ込んだほうの負けだ。これを、数百万人だか数千万人だかが見ているゴールデンタイムに公共の電波を使って堂々と言い放てる度胸って、すごいよ。いまの世の中って、「バカにされたくない」「イタイって言われたくない」というメンタリティが蔓延してるからね。世間体を気にしないで、自分がおもしろいと信じる冗談を口にできる勇気と鈍感さはいっそ羨ましいです。……ええっ、冗談じゃないの?




2003.05.21.Wed. 16: 10 p.m.
BGM : 小比類巻かほる『SO REAL』

 ゆうべは三軒茶屋のレストランで、詩人Wさんの主宰する読書会に出席。知り合いにプロの詩人がいるというのはわりかし珍しいことだと思うが、彼女は大学時代の同級生なのだった。私は、詩人を輩出するような種類の学科に所属していたのである。知り合いといっても、会うのは卒業以来17年ぶり。編集者で書評家でもある知り合いのNさんが仕事で彼女と知り合い、私も彼女と知り合いであることが発覚して、私にも声がかかったという次第である。私から見れば、知り合いと知り合いが知り合いになったということで、Wさんから見れば知り合いの知り合いが知り合いだったということであり、Nさんから見れば知り合いの知り合いと知り合ったということだ。ちょっと違うような気もするが、まあ、そういうことである。よくある話だ。人間は知り合う生き物なのだった。

 詩人と編集者とライターが集った総勢6名の読書会であったが、読書会といっても読書してくるのは発表者1人だけで、ほかの参加者はそのレポートを拝聴しつつ質問やら意見やら雑談やらを口にするというスタイルである。本を読まなくていい読書会は楽でよろしい。たぶん、運動をしなくていい運動会と同じくらい楽だと思う。で、発表者Sさんが取り上げたのは、復本一郎『俳句と川柳』(講談社現代新書)だった。この読書会は、新書を対象としているのである。いまは各社が続々と参入して、新書だけでも売るほど書店に積まれてるからね。ネタは尽きないわけだ。ほんとうに売れれば私も生活苦から脱却できるんだけど。

 そんなことはともかく、俳句と川柳である。その本には俳句と川柳は何が違うかといったことが書かれているらしく、季語がありゃ俳句かというとそんな簡単なモンダイではないのだが、そういう話をここでいちいち書いているとキリがないので書かない。重要なのは、川柳をどうするかということだ。どうするもこうするもないといえばどうするもこうするもないのだが、川柳雑誌を作っていたこともあるSさんの話を聞いていると、川柳を何とかしなければという危機感が募る。川柳界にはびこる俳句コンプレックスを克服しつつ、確固たる文芸ジャンルとして社会的なリスペクトを得るにはどうしたらよいか。まさか自分がそんなことを考えるハメになるなんて想像したこともなかったが、成り行き上しょうがない。人間は知り合う生き物だから、そういうことも引き受けなきゃいけないんである。印象的だったのは、「川柳は主義を強調しすぎると標語になってしまう」という川上三太郎(えらい川柳作家)の言葉だ。なるほど、ここが川柳の辛いところであろう。俳句と戦いつつ、一方で標語との差別化を図らなければいけないのだ。料理屋でいうなら、懐石料理と吉野家を同時にライバル視しているようなものではないか。また、俳句がサッカーなら川柳はフットサルのようなものかとも思ったが、そう言うと、川柳界からもフットサル界からも攻撃されるような気がしなくもない。辛いところだ。

 同級生で思い出したのだが、先日なんだか妙に嬉しくなったのは、ハイロウズというバンドのドラマーが中学校時代の同級生だとわかったことである。べつに、ドラマーを輩出するような種類の中学に所属していたわけではない。ハイロウズのことはよく知らないが、前にテレビか何かでちらりと見たとき「似てるな」と思い、このあいだ調べてみたらやはりそうだった。おお。出世しとるなぁ。彼は中学時代から仲間とバンドを組んでおり、そのライブを聴きに行ったこともある。ギター&ボーカル、ベース、ドラムの3人だけという渋いバンドだ。3人とも中学生とは思えないテクニックの持ち主で、オリジナルナンバーに加え、『宿無し』とかそういう曲のカバーも演奏していた。1978年頃の話だ。おいおい、ツイストって、もう四半世紀前の人たちなのかよ。中学卒業後はまったく没交渉で、風の噂にテレビの勝ち抜き番組でチャンピオンになったとか「ザ・ブドウカン」というバンドを結成してレコードデビューしたとか聞いていたが、そんなこんなでいろいろあって今日に至っているらしい。まともに聴いたことがなかったが、こんどハイロウズのCDを買ってみよう。あと、Wさんの詩集も。




2003.05.20.Tue. 11: 40 a.m.
BGM : ムッシュかまやつ『THE SPIDERS COVER'S』

 私はまだ見ていないのだが、『キャプテン翼』の愛蔵版コミックス『3109日全記録』(集英社)がすでに店頭に並んでいるらしい。きのう、旧サッカーズYさんがメールで教えてくれた。私のコメント文は、名波の下に並んでいるんだとか。おお。べつにその配置に何か意味があるわけではないが、なんか光栄な感じ。ということは、掲載誌を受け取った名波が、私の名前と顔(写真入りなのだ)を目にする可能性が高いってことだな。彼はそれを読むだろうか。コーラ飲みながら「つまんねぇ」とか吐き捨てないでほしい。そんなことより、この本の隣に拙著を平積みにしてくれる気の利いた書店員はいないものか。平積みできるほど在庫がないという説もあるが。

 それにしてもカーンである。ユナイテッドとアーセナルで奪い合いって凄い話になっているらしいが、どっちかっていうとキーンのチームメイトになったところを見てみたい気がする。失点するたびに、キーンとカーンの罵り合い。熱いぜ。レッドカードって、味方をブン殴っても出ないの? どっちにしろ気の毒なのは、「高原 vs カーン」の黄金カードを失いそうな勢いのWOWOWなのだった。まさに飛ぶ鳥が落ちる勢いだ。まさか裏でスカパー!が糸を引いているとは思わないけど。

 ゆうべは、レアル・ソシエダ×レクレアティボ・ウエルバ(リーガ第34節)をビデオ観戦。早い時間帯に、遠目からニハトが放った三段ドロップ・シュートがGKの手をすり抜けてソシエダが先制。すごい変化球だったとはいえ、GKはちょっとカッコ悪かった。しかし数分後、同じニハトがどフリーで叩きつけたヘディングシュートを好セーブしてミスを帳消しにしたのはえらい。そんなGKも含めて、レクレアティボはどこかほっとけない感じ。小柄な選手たちがちょこまか走り回り、ムダな力を目一杯に込めてぶんぶんシュートを撃つ様は、やけにケナゲだ。セガレを公園で遊ばせているとき、ひとりベンチに腰掛け、地面を這いずり回る蟻たちの姿を見下ろしてふと涙ぐむ瞬間が私にはあるが、そんな感じ。蟻かよ。ちょっと言い過ぎた。ごめん。前半、何度か怒濤の攻めを見せたレクレアティボだったが、クロスバーやヴェスタフェルトの美技に阻まれて1-0。とうとう首位に返り咲いたソシエダは、前半途中に見せた「2分間ボール回し」が圧巻だった。ひたすら相手に触らせないことを目的としたパス交換。見ていて、どういうわけか運動会の「おたまリレー」を思い出しました。おたまにボールを乗せて走っているとき、人はゴールのことなんか考えていないのである。さんざんパスをつないだ後、結局は長いクロスをコバチェの頭に合わせるという雑駁さもよかった。

 引き続き、バルセロナ×マジョルカ(リーガ第34節)の録画中継をハーフタイムのハイライトシーンから観戦。前半は0-1。マジョルカの先制点は、クライファートの踵に当たって方向が変わったものだった。守っていてもフクザツな決め方をする男だ。簡単なことを難しそうにやる彼のプレイを見ていると、どこかで何かの拍子に見つけたホンダ・アコードの宣伝FLASHを思い出したりする。一部で「バカシステム」(正式には「Rube Goldberg Machine」というらしい)と呼ばれているやつで、小さいお子さんのいるご家庭では「ピタゴラスイッチ」という番組でお馴染みのアレですね。さて後半、そんなサッカー界のバカシステム男がガブリのラストパスをシンプルに決めて同点。シンプルとはいえ、なんであれをゴールの天井に突き刺さなきゃいけないのかはよくわからなかった。その後、すったもんだといろいろあったが、実況アナが「おもしろいゲーム」を連発するほどおもしろくはなく、終盤にマジョルカのカウンターがあっさり決まって1-2。もはやカンプノウの人々は、白いハンカチを振る情熱もなくしてしまったようだった。




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