edogawa's diary 02-03 #30. 『〆切解放戦線』 |
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2003.06.09.Mon. 18: 30 p.m.
![]() GUEST BOOKのほうに、きのうの日誌への反響(23&24)が寄せられている。おお、Kay'n君。来てくれましたか。キミが来てくれたときのために、職業欄に「音楽家」を用意しといたんだけどね。ちょっと違ったか。私は彼のことを音楽家だと思っているけれど、まあ、職業名というのは本人にしかわからない微妙なニュアンスというものがあって、他人が分類するのはなかなか難しいものだ。これは前にも書いたが、私も自著を出すに当たって編集部から「肩書きはサッカー評論家でいいですか」と打診されてお断り申し上げたことがあるし、読んでくれた知り合いのメールで「作家」扱いされて腰を抜かしそうになったこともあった。作家の仕事じゃないでしょ、あれは。「writer」を日本語にしたら「作家」になるのかもしれんが、日本人が平板なイントネーションで発音する「ライター」には明らかに「作家」と異なるニュアンスがあり、私は自分がライターだとしか思えない。しかし、じゃあ作家って何かと問われると答えに窮するし、「ライター」と「作家」の境界線は私の中で感覚的に引かれているものにすぎなかったりする。さらに「フリーライター」と「ゴーストライター」も微妙に違うのではないかという感覚が私にはあるから、話はますますややこしい。自著を出す以前も、職業を問われれば「フリーライター」と答えてはいたものの、なんかこう、誤解を招くような気がして仕方がなかった。なので、自著を出してようやく堂々と「フリーライター」を名乗れるようになった気がしたのだが、この感覚はどうにも説明しがたいものだし、べつに説明する必要もないことである。 ただ、だからといってゴーストライターという職業を卑下していたわけではないし、それは今も変わらない。そもそも自ら望んで始めた仕事だ。実際、自分の能力と性格とライフスタイルに適した仕事だと思っている。とくに立派な仕事ではないけれど、人から後ろ指をさされるような仕事でもない。しかし世間にゴーストライターに対する偏見があるのは事実で、たとえば私はある著者と初めて対面したとき、こんなふうに言われた経験があるのだった。 「ゴーストライターっていうから、作家崩れのヘンな人が来たら厭だなぁと思ってたんですけど、ちゃんとした若い人で良かった。安心しました」安心したならいいが、そんなことを言われてもちっとも嬉しくない。たぶん彼は、「作家を目指していたが40歳ぐらいで自らの才能のなさを悟って断念し、不本意ながらゴーストで食いつないでいる厭世的な小汚いおっさん」をイメージしていたのであろう。私もそんな人と一緒に仕事をするのは厭だなぁと思うが、そんな人だと思われているのがゴーストライターという職業だ。これはその著者の独創的な偏見ではなく、世間に広く共有されているイメージだと私は思う。で、このイメージは何よりもまず「ゴーストライター」というおどろおどろしい職業名に起因するものだと感じているので、「テキストメーカー」「作文芸人」などといった愚にもつかない代替案を本誌で示したりもしてきたわけだ。 そんなわけだから、「(翻訳者よりも)ゴーストの方がよりクリエイティビティーに溢れているように見える」なんて思ったこともないし、たぶん世間的にもそんなことはないだろう。翻訳がクリエイティブな仕事だと思われていなかったら、村上春樹の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がこんなに話題になるはずがない。そして私は、ゴーストがクリエイティブな仕事だともあんまり思っておらず、したがって「翻訳者と同じじゃ」というのも本気で言っているわけではないのであって、これはゴーストライターにつきまとう薄汚いイメージを払拭したいがゆえの方便である。 で、著作をクリエイトしているのは著者と編集者であって私ではないと思っているから、「ほんとはオレが作ってるのに奴らおいしいところだけ持って行きやがって」と酒の席でクダを巻いたことは一度もない。たぶん、ないと思う。ないんじゃないかな。ま、一度くらいあるかもしれないが、だとしたらそれは本意ではないです。そんなこと、ぜんぜん思っていない。しかし愚痴はいろいろとこぼすのでありまして、これも前に書いたことだが、たとえばあとがきに私の名を挙げて謝意を示したくせに何の挨拶も支払いもなくその本を文庫化しくさる著者がいたりすると、これはもう自己愛憤怒のカタマリである。つまり、「オレが仕事しなければこの作品はできなかった」ということをわかっていない著者も少なからずいるということだ。実際、本当にゴーストを使ったことを忘れて、自分で書いたつもりになっているとしか思えない人もいた。私のゴーストで処女作を出した後、二作目を自分で書き始めたのである。実に稚拙な筆致で上っ面だけ私の文体を模倣したその原稿は編集者からおもいっきり×を食らい、結局はまた私がゴーストしたのであった。 そういうこともあるから、自伝などにライター名をクレジットする英米の習慣を羨ましく思うことがないわけではない。しかしこれも一筋縄ではいかず、最終的には著者や編集者の赤がどっさり入って私の原稿がそのまま印刷されるわけではない(そのまま印刷されたら困る)ことを考えると、まあ、「あとがきの謝辞」や「編集協力」ぐらいで丁度いいよなぁというのが正直なところだ。べつに、名前が出ないことが不満なのではない。もしも、世のゴーストライターが名前が出ないことに不満を抱いていると思われているとしたら、それもゴーストライターに対する偏見の現れであろう。いや、そうとも言えないのかな。どうなんだろう。自分のキモチがよくわからない。でも、もし編集部から文章作成者としてのクレジットを入れてもいいかと打診されたら、お断りすることのほうが多いと思うな。それこそ立木さんの本のように、著者と「年来の友」だったりすれば話は別だけど。以前、ドラマのノベライズを手がけたとき、自分が書いたと思われるのが厭な原作者のリクエストで表紙に私の名前が併記されたことがあったが、うれしいと思う反面、その本はこれも著者からのリクエストで「カギカッコ内の台詞は一字一句シナリオのまま」という制約があり、私は私でそれが私の書いたものだと思われるのは納得がいかず、フクザツな思いをしたものだ。音読されるシナリオと黙読される小説では、台詞の書き方が変わって当然だと思うんですけどねぇ。 なんだかまたダラダラと長くなってしまったが、まあ、こんな具合にゴーストライターの自意識は込み入っているのである。わかったようなわからんような話で申し訳ないが、仕事があるのでとりあえずここまで。
2003.06.08.Sun. 13: 45 p.m. いままで私は内心、「誰が書いていようが書かれている内容は著者が語ったことなんだから、ライターを使ったからって悪く言われる筋合いはないわい。翻訳書と同じじゃ」と自分の仕事を正当化してきた。しかしその一方で、自分が読者になった場合、明らかにライターが書いていそうな本は無意識のうちに敬遠してきたような気もする。そして実際、編集者が口述を文章化した本を手にしたら、とてもシラケた気分になった。アクション映画を観るときにスタントマンの存在を知りたくないのと同じで、読者はライターの存在なんか知りたくないのである。この『バカの壁』も、まえがきにあんなことが書かれていなければ養老先生が書いたように思えただろう。もちろん著者本人が手を入れた結果だろうが、それぐらいよく書けている。さすが新潮社。私がこれをこんなふうに書けるかと考えると、ちょっと自信がない。それぐらいよく書けているから、読者としては語り下ろしであることを知りたくなかった。でも著者にしてみれば、たぶん自分で書いていない本を自分で書いたような顔をして出すのは我慢ならなかったのだろうし、それはたいへん誠実な態度だと思う。誠実さを取るか、顧客満足を追求するか、難しいところだ。 ……なんてことを思いながら、版元から送られてきた立木義浩『コミュニケーション』(集英社インターナショナル)のまえがきを見たら、やはり自分で書いていないことを告白していた。もしかしたら、誠実さを選択する著者が増えているのかもしれない。しかもそのまえがきには「年来の友である菊谷匡祐さんに文章をまとめてもらうことにしました。幸い快諾してくれたのが何よりです(すでにここまでの文章も小生である−−菊谷)」などと書かれており、これはこれでなかなか微笑ましい。菊谷さんぐらい文筆家として実績のある人なら、ある種のコラボレーションとしてこういうのもアリになるということか。いつか私も、あとがきに「本書が読者諸兄を満足させられたとしたら、それは深川峻太郎氏の筆力に負うところが大きい(この文章も小生である−−深川)」なんて書いても笑って許されるようなゴーストライターになりたい。
2003.06.07.Sat. 21: 20 p.m. そんなわけで、いっちょ気分転換を図ってみようと思い、今朝、ヒゲを剃ったのだった。本当はそんな動機ではなく、ハサミで切り揃えていたら左右のバランスが崩れて収拾がつかなくなり、「えーい、めんどくせえ」という話だ。自分の結婚式の前に剃って以来だから、およそ9年ぶりの無毛フェイスである。愚妻には「どどど、どーしたの!?」と驚かれ、セガレには「ぐ…………」と絶句された。まあ、セガレはヒゲのない父親を見たことなかったからね。いくらかショックはあったかもしれない。われながら、最初は鏡を見て戸惑った。ヒゲを消したプリングルスマークを想像してもらえばわかると思うが、けっこうな間抜け面である。自分に弟がいたらこんな感じかなぁ、とも思った。さる高貴な筋の弟さんには、もう似てません。
![]() 季刊『本とコンピュータ』夏号が届いた。印税に関するアンケート調査に協力したので、編集者Nさんが送ってくれたのである。前にインタビューを受ける予定だと書いたが、結局その必要がなくなったとのことで、アンケートだけの参加になった。「取材を受けたときに詳しく喋ればいいや」と思っていたので、アンケートにはいい加減なコメントしか書かなかったのだが、それがそのまま掲載されていて赤面。匿名だからいいけど。 それはともかく、「著者印税10パー」という業界の常識が揺らいでいるがそれはどうしたものか、というような特集である。ゴーストライターの場合、著者と分け合うわけだから10パーなんか貰えるはずはなく、そもそも印税を受け取る資格がオマエにあんのかと言われたら、曖昧に笑うしかなかったりする。もっとも、こっちが「買い切りでいいから、こんだけ頂戴」って希望額を言ったら、版元は「印税にしてくれ」って言うと思うけどね。そのへんの案配は、なかなか難しいですな。「印税10パー」という数字にはとりたてて根拠があるわけではなく、「初版5000部で10パーも払ってられっか」という版元の言い分も理解できるので、それぞれ話し合って決めればいいことだと思うが、とりあえず私の立場で言っておきたいのは、「印税総枠を10パーにできない(あるいは躊躇われる)ような部数の本をライター使って作るのはやめませんか」ってことかな。著者と山分けするその山が小さすぎて、哀しみしか残らない。 話はちがうが、この夏号には『富士日記』でも言及されていた宮沢章夫さんとなだいなださんの対談も掲載されており、まだ読んではいないけれど顔写真だけは見た。宮沢さんは、ちょっと明神に似ているような気がした。
2003.06.06.Fri. 10: 20 a.m.
![]() しかし健康面で心配なのは頸椎だけではないのであって、このごろ、突如として甘い物が食いたくて食いたくてたまらなくなることがある。なんだこれは。甘食依存症だったらどうしよう。そんな依存症があるのかどうか知らないけど。最近、ストレス溜まってるからなぁ。きのうも夕刻、ふらふらとコンビニに足を運び、フジパンのチョコチップロール(120円)を買い食いしてしまったのだが、ものすごく不味くて参った。21世紀の菓子パンとしては明らかに失格である。ヤバいんじゃないのかフジパン。そういう問題ではないのだった。ヤバいのはフジパンではなく、そんなものを買い食いしている私だ。21世紀の39歳としてどうなんだそれは。というか、ダイエッターにはあるまじき食行動である。減量者とは、こうしてリバウンドの坂道を転がり落ちて行くものなのか。ぼよよ〜ん、ぼよよ〜んとバウンドするのか。いかん。いかんぞ。ここが正念場だ。フジパンごときに半年間の苦労を台無しにされてたまるか。初心を忘れず、気を引き締めてかからねば。だのに、なぜ、いま私の机の上には、松永製菓のココアサンドビス(99円)があるのか。バニラクリームをココア味のビスケットでサンドしました、だってさ。うへえ。糖衣つきのデブ薬みたいなものじゃないかっ。しかも、ものすごく普通の味じゃないかっ。食うなっ。
![]() ストレスといえば、先日、電話セールスによるストレスを軽減する手法を一つ発見した。どういう手法かというと、「元気よく豪快に喋る」だ。これが有効であることに気づいたのは、午後2時〆切の雑誌原稿を執筆中の午後1時40分に電話を受けたときだった。ふだんはヘナヘナした声でぼそぼそと電話に出る私だが、全力疾走で原稿を書いているときは妙に勢いがついているので、ものすごく元気だ。
プルルル、プルルル。 いやー、豪快豪快。結局いっぱい話しているので時間のロスはあるが、こうすると向こうも話を引っ張りにくいようだし、こっちも腹が立たず、電話を切った後もそのままの勢いで仕事に復帰できるのだった。相手をバカにするようなことを口走っても、こっちがバカだと思ってもらえるから、険悪なムードにもならない。ただし問題は、いつセールスの電話がかかってくるかわからないので、常にこのテンションで受話器を取らなければならないということだ。元気がいいのは悪いことではないとはいえ、編集者からの催促電話に対してこの豪快さはいかがなものか。「江戸川どぇーす!」の後に、「いや、実はちょっと体調崩しちゃって」って言い訳はできないじゃないか。いや、寝違えたのは本当ですが。
2003.06.05.Thu. 10: 30 a.m.
![]() 例によってゴンザレスとの電話はなんだかんだと長くなり、カシオペアやら松岡直也グループやらパラシュートやらが出演したフュージョン大会を聴きに行った話などを聞いた。これって、ヤマちゃんも行くって言ってたような気がする。トップバッターがカシオペアでその1曲目が『ASAYAKE』だったという話は微笑ましかったが、松岡グループは『ワン・ラスト・フェアウエル』がうまく終われないなどズタボロだったらしい。うまく終われないってどういうことだ。さらに、松岡直也は勝手にキーボードのスイッチをいじって音が出なくなるたびにスタッフを呼んで直してもらっていたというが大丈夫なのか。それにしても、これは前にヤマちゃんからも聞いたことがあるが、最近この手のコンサートは、聴衆の平均年齢が高いため座ったまま聴けて楽であるらしい。シルバーな感じ。今の20代に、カシオペアはどのように認知されているのだろう。ひょっとして、われわれにとっての寺内タケシみたいな感じ? あなたは、カシオペアのメンバーの名前を何人言えますか。それ以前に、カシオペアが何人編成なのかも知らないのかも。課題作文「カシオペアとわたし」募集中。
![]() イタリアと北アイルランドの親善試合で、オッドのクロスをコラーディが決めたとか。おお。いつまでラツィオにいるのか知らないが、2人ともえらい。ゴール・パフォーマンスはやったのだろうか。例の「闘牛」はスタンコビッチがいないとできないのかな。ところでラツィオといえば、シニョーリの復帰はほんとうなんでしょうか。なにしろ私は98-99シーズンからセリエを見始めたので、彼がラツィオでプレイしていた時代を知らないのだが、愛されていた選手が帰ってくるというのは悪くない。あのチーム、ちょっと「オトナ」が足りない感じだったしね。ジジイはいるけど。
2003.06.04.Wed. 11: 10 a.m.
![]() 東京都教育委員会が、都立高校の生徒に、教師の採点をさせようとしているんだそうだ。ガキに媚びるのもたいがいにしたほうがいい。そういうことを考える人たちには、オトナのプライドってもんがないんだろうか。教育ってのは、ガキをオトナにするためにやるもんでしょう。だとすれば、まずは前提としてガキに「オトナになりたい」と思わせなければ、教育なんか成り立たない。だけど、ガキに採点されちゃうようなオトナに「なりたい」とガキが思うかね。そんなことなら、ガキのままでいたほうがいいじゃないですか。もし私のセガレが10年後に都立高に入り、そのときそんな採点システムがあったら、白紙で提出させよう。おまえにはオトナの仕事を評価する資格も力量もないから丁重にお断りしなさい、と。そりゃあダメな教師はいくらでもいるだろうし、都立出身の私はそれをよく知っているが、だからこそ自分の子には都立高の教師に何かを期待するような人間になってほしくないのである。
2003.06.03.Tue. 10: 45 a.m.
![]() SD社S氏より仕事の依頼。「10月上旬刊行」とのこと。その本が出る頃まで手が空かないので、申し訳ないがお断り申し上げた。カネないから断ってる場合じゃないんだが、この過密日程にもう一冊ネジ込むのは自殺行為である。世の中には年間20冊も30冊も書く豪腕ライターがいるらしく、そういう人は片っ端から引き受けるんだろうけど、私には無理。できません。でも、その本、売れたら悔しいよぉ。
![]() ゆうべは、ソシエダ×バレンシア(リーガ第36節)をビデオ観戦。CKからシャビ・アロンソのヘッドでソシエダが先制するも、2分後にカルピンが何もしてないように見えたのにファウルを取られ、そのセットプレイからオウンゴール(公式記録はどうだか知らない)で同点。そのまま1-1のドロー。前節のマラガ戦に続いて相手が不可解なレッドを食らい、ソシエダ優勝に向けて草木がなびいているのかと思われたが、さすがに精神的な重圧がかかり始めたか。カニサレスの好守もあったけれど、全体的にシュートの思い切りが悪かった印象。残り2試合、デ・ペドロがいまひとつ切れ味を欠いているのが心配だ。それにしてもスペインの審判はダメだなぁ。カードの重みを理解していないのは、ロペス・ニエト(ドイツ×カメルーン戦のイエロー16枚男)だけじゃない。あの程度のハンドでアジャラに2枚目出すなよなー。好カードが台無しだ。彼ら、自分たちのジャッジが全世界に注視されているという意識が希薄なんじゃないだろうか。しょせんローカルな娯楽だから、そんな意識が必要なのかどうか知らないけど。それも含めてリーガエスパニョーラ、か。
2003.06.02.Mon. 11: 00 a.m.
![]() おもしろいと思ったのは、「AはBだったんですね」という構文である。「春太郎さんてB型だったんですね…」「3109日はデータ集だったんですね…」と「…」付きで言われると、もちろん文句をつけてらっしゃるわけではないのでしょうが、何か悪いことをしたような気分になるから不思議だ。その「…」に込められたニュアンスが謎である。うう。B型だからって責めないでくれ。私がB型なのも3109日がデータ集なのも、私のせいじゃないんだ。許してください。しかしまあ、私も以前メールをいただいた方の書き込みを見て、「盗っ人ピッポさんって26歳だったのか」「烏龍茶さんって大分の人だったのか」などと思ったりするわけで、べつに期待や想像と違う事実に遭遇したわけではなくても、何か未知の事実を知ったときに人は「AはBだったのか…」と呟くのだった。ただし「いとうさんって17歳だったのか」とは微塵も思っていないので念のため。
![]() 憂鬱とはいえ仕事が入るのはありがたいことで、先日はこれまで縁もゆかりもなかったSC社の編集者から業務依頼のメールをいただいた。このあいだ別の出版社で一緒に仕事をした著者からの紹介だそうで、つまりそのときの原稿が気に入ってもらえたということだから、こういうのはライターやってて一番うれしい。依頼されたのは来春刊行予定の本とのことで、今のところ執筆時期は未定だが、いちおう11月に仮予約。10月以降のスケジュールは不確定なので、さらなるご注文をお待ちしております。
![]() それにしても日本×韓国(国際親善試合)には茫然とするしかなかった。あんなにルーズボールの多い試合でカネ取っていいんでしょうか。代表のゲームを見て「頼むからもっと練習してくれ」と思ったのは久しぶりだ。何の練習って、トラップの練習ですね。そんなもん、高井戸西SCだって練習してるぞ。
2003.05.30.Fri. 10: 30 a.m.
![]() なんとか結果を知らぬまま無事に帰宅し、ユベントス×ミラン(CL決勝)をビデオ観戦。やはり、このカードで発煙筒がないのは物足りない。おまけにリッピが葉巻をくゆらせるシーンもなかった。オールドトラフォードって、あらゆる意味で禁煙なんでしょうか。行きたくねえ。ケムリのないカルチョなんて、ニンニクの入ってないペペロンチーノみたいなものだ。 試合のほうも、いささかニンニク不足。ハーフタイムに流れた両監督の記者会見を見ても、なんかこう、決勝がイタリア対決になったことでホッとしてしまったようなところが感じられた。こだわるべき「結果」をすでに得てしまったような感じ。準決勝のミラノダービーにあった、あの泣きそうな切迫感があんまりないのである。で、「1分でも長くCLを放送していたい」というWOWOWのご要望に応えたわけでもなかろうが、120分フルに戦って、まるでスコアレスドローの模範演技のようなスコアレスドロー。キミたち、それ、わざとやってませんか。イタリア批判への意趣返しというか、サッカー界に対する嫌がらせかと思ったよ。よう見とけ、これがわしらのカルチョじゃ。これで決勝まで残ったんじゃ。うへへへへへへ、ざまあみやがれ。……と、クライフにケンカを売ってるわけですね。そんな欧州サッカーが私は好きだ。 ともあれ、PK戦でミラン優勝。実況ではブッフォンのことばかり言っていたが、ヂーダも昔からPKは得意だったよね。あんなにクールにPKを止めるGKがいるだろうか。それにしても凄かったよなぁ、シェフチェンコの顔。「目を三角にする」というのは、ああいうのを言うんだろうと思った。先制ゴールを味方のオフサイドで取り消されてたから最後に報われてよかったじゃないの、とは愚妻の弁。なるほど、そうですね。あと、ネスタがPK巧者だったとは知らなかった。ほんとうに惜しい人材を手放したものだ。 さらに惜しまれるのは、ピッポのPKが見られなかったこと。「5人目がピッポだったらどうしよう」とソワソワしたのは私だけではあるまい。彼、優勝が決まってから表彰式まで一度も映らなかったけど、どこで何してたんでしょうか。みんなの輪から離れて、遠くで発狂してたのかなぁ。あくまでも孤独だ。表彰式では、風呂入ってきたみたいにサッパリした顔してたけど。へらへら笑いながらビッグイヤーをお持ち帰りしそうだったので、ちょっと心配だった。カップ盗んでどうする。とにかく、おめでとうございました。
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