edogawa's diary 02-03 #31. 『理由なき停滞』
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2003.07.01.Tue. 12: 00 p.m.
BGM : "Fusion" U-sen B-33ch.

 ウニは食ったがカニは食ってないのである。なにしろ北海道滞在中6回の食事のうち、4回は弁当だったのだ。そもそも行き先は札幌ではなく栗山という田舎町。宿泊先は、取材相手の地元住宅メーカーが作っているモデルハウス。睡眠時間以外は、千歳空港を出てから千歳空港に戻るまで、ずうっと会社関係者と一緒。自由時間ゼロ。当然、夜遊びもなし。遊びに出かけたところで周囲はカエルがゲコゲコ合唱する水田なのだが、ともあれ、出張というより合宿でした。しかしそのモデルハウスというのは高級木造住宅で、とっても豪華。木の風呂には徹夜仕事のストレスをすっかり癒された。風呂は木にかぎるよ。うんうん。あと、浜益という漁村で食ったウニ丼は「たまらん」の一言に尽きる。もっとも正しいウニを、もっとも正しい食い方で食ったという感じ。

 それにしても久しぶりの北海道だった。8年ほど前に祖母の葬儀で行って以来だ。道産子とはいえ旭川で2歳まで過ごして以降は東京育ちの私だが、地元の人々の言葉を聞いていると、親戚のおじさんたちと話しているようで心が和む。「弁」というほど際立った特徴はないものの、北海道弁というのはたしかにあって、子供の頃、家族で親戚の集まりに顔を出すと、7歳まで北海道にいた兄は地元言葉に合わせられるが私だけはそれを使うことができず、少し寂しい思いをしたものだ。とはいえ、北海道弁はまったく排他的なものではなく、よそ者に対してウエルカムな雰囲気がある。日本各地から人々が集まって作った場所だからだろうか。地元の見知らぬ者同士が喋っているのを聞いていると、その言葉によって、適度な仲間意識と適度な距離感が絶妙にバランスしているように感じられた。もしかして、北海道訛りの日本語とアメリカ訛りの英語には何か共通点があったりしないのだろうか。どうやって比較すんのか知らないけど。

 そんなこんなで、きのうは午後2時頃に帰宅。土曜の朝に送りっぱなしにしていた対談原稿の件でゴンザレスに電話すると、とくに問題はなかったようなのでヨカッタ。テープが聞き取りにくく、聞こえるところだけで無理やり構成したので、対談の当事者からクレームがついてやしないかと心配だったのだ。しかし思えばこの十数年、材料の足りないところをいかに誤魔化すかというテクニックばかり磨いてきたような気がしなくもない。こういう人間に家を建てさせると、欠陥住宅ができあがるのかも。これから2ヶ月で3冊、突貫工事とはいえ、せめて床ぐらいは傾かないように原稿を書かなければいけません。

 愚妻が録画しておいてくれたフランス×カメルーン(コンフェデ決勝)を観戦。亡くなったフォエの追悼マッチである。「プロ意識」と簡単に言うけれど、あの哀しみとショックを克服してボールを蹴るのは並大抵のことではなかったに違いない。しかし笛が鳴ればボールが動き、ボールが動けば彼らは走る。全力で走る。味方が呼べばパスを出す。ゴールが見えればシュートを撃つ。私は、仲間を失った数日後に原稿を書けるだろうか。そんなことを考えた。対談原稿なんか放り出すだろう。しかし追悼文なら書けるかもしれない。いや、それを書くことでしか自分を保てないような気がする。サンドニのフィールドに彼らを立たせたのも、きっと、「プロ意識」というようなものではなかったのだろう。全力で走り、ボールを蹴ることでしか克服できないものが、フットボーラーにはあるのではないか。そういう人たちのことを、フットボーラーと呼ぶのではないか。だとすれば、フォエの死が決勝ではなく準決勝だったことが、せめてもの救いだったとも言えるような気がする。淡々と行われた試合後の表彰式は、とても雄弁だった。デサイーやソングをはじめとする両国の選手ひとりひとりの表情から、人が仕事を愛するとはどういうことか、人が人を尊敬するとはどういうことか、といったことを考えさせられた。




2003.06.15.Sun. 13: 40 p.m.
BGM : Miles Davis "Kind of Blue"

 木曜の晩にKay'n君から聞いた話で一つ思い出したのは、「編曲家の自意識」のことだ。表向きには存在しないことになっているゴーストライターに比べれば、誰が聴いてもその仕事なしにその楽曲が成立しないことが明らかで、どこからどこまでが自分の守備範囲かということもわかってもらえるアレンジャーのほうが自己愛を満たしやすいだろうと私なんかは思うわけだが、それはそれでフクザツな心理を抱えながら仕事をしているらしい。まあ、私も著者の喋ったことをいわば「アレンジ」するのが仕事であり、著者の作ったオリジナルの「旋律」がなければ何も書けないわけで、編曲家もソングライター(日本語では同じ「作曲家」でも、英語ではスコアを書ける「コンポーザー」と区別されるんだとか)がいなければ仕事にならないという点で似た部分はあるのだろう。

 ともあれ、ゴーストライター、翻訳家、編曲家、編集者、プロデューサー、ディレクター、大工さんなどなど、分業の一端を担っているがゆえに「これはオレが作った……のか?」的な形で自意識がフクザツになりやすい職業はいろいろあるわけだが、要は「オレたちが作った」と思えればいいわけだし、いずれも職業名を口にすれば(多少の誤解は避けられないにせよ)何をしているかをおおむね理解してもらえるだけいいのかなぁと思うのは、以前、久しぶりに会った大学の同級生(女性)に「旦那は何の仕事してんの?」と訊いた際、「ふつうのサラリーマンよ」と答えられたことを思い出したからである。私はそのとき、口には出さなかったが、とても悲しい気持ちになった。そんなふうにしか紹介してもらえない旦那さんが気の毒になったのだ。

 どんな会社に勤めているにせよ、その旦那さんの仕事には何らかの専門性があるはずである。「サラリーマン」という仕事はない。だから私も本当はGUEST BOOKの職業欄に「会社員」とあるのが厭で、なるべく具体的な選択肢を用意したいと思ってリクエストを募ったりしたものの、あそこでやれることには限界があるので納得のいかない人は本文の中で自己紹介してもらいたいと思っているのだが、ともあれ同じサラリーマンでも、人の心をつかむことに腐心している営業マンもいればロケットを飛ばすことに命を賭けている技術者もいるのだし、同じ営業マンでも自動車会社と出版社では違うだろう。ギタリストとピアニスト程度には似たところがあるかもしれないが、違う。そしてどの仕事にも必ず、ここで私がしのごの書いてきたような、「その仕事と無縁な人にもわかってもらいたいフクザツな自意識」みたいなものがあるに違いない。それは自尊だったり自虐だったり愚痴だったりするわけだが、いずれにしろ「ふつうのサラリーマン」という枠組みでは語れないものだ。そういう自分の仕事を、自分の妻が「ふつうのサラリーマン」と面倒臭そうに紹介していることを知ったら、彼はどう思うだろうか。私なら、がっかりする。せめて自分の家族には、その自尊や自虐や愚痴を理解してほしいと思う。

 もちろん、その同級生も本心では旦那のことを「ふつうのサラリーマン」とは思っていないだろう。質問したのが私だったがゆえに、「(江戸川君みたいなフリーの仕事じゃなくて)ふつうのサラリーマンよ」と言ったのかもしれない。私がフリーライターではなく、たとえば食品会社の営業マンだったら、「(江戸川君みたいな食品会社じゃなくて)銀行員よ」「(江戸川君みたいな営業マンじゃなくて)電機メーカーの技術者よ」などと答えたのかもしれない。

 しかし、仮にそうだとしても、やっぱり「ふつうのサラリーマンよ」はないんじゃないかと思うのである。たとえば、目の端に鈍い光を浮かべながらヘビーな口調で「うちの旦那? プロのサラリーマンよ。ふっ。おっさん、背中が煤けてるぜ」などと言い放つなら、むしろ「おそれいりました」と平伏したいぐらい格好いいが、「ふつう」って何だよ「ふつう」って。まるで、ネクタイ締めてスーツ着て通勤電車に乗るのが仕事みたいじゃないか。そういう「ふつうのサラリーマン像」を作り上げたメディアも悪いし、私もそれに加担していないわけではないので内心忸怩たるものはあるが、そういう言い方はないだろう。その仕事によって家庭が支えられている以上、家族だってダンナさんのフクザツな自意識を共有すべきではないのか。

 そう思ったから悲しかったのだが、しかし考えてみると、私の妻が私の仕事のことを私のいないところでどう他人に紹介しているか私は知らないのだった。夫がこういう仕事をしていると、妻は妻で難儀な思いをするのかもしれない。下手に「ゴーストライター」なんて言ったら、相手の奥さんが興味津々になっちゃって面倒臭かったりするしね。何それ何それ、えー、あの人も自分で書いてないのぉ、やあねぇ。この「やあねぇ」に含まれた誤解を解くのはめちゃめちゃ厄介だ。しかしまあ、それも含めて結婚だからしょうがない。それより、「旦那は何してんの?」と訊かれて、「なんか毎日、日記ばっかり書いてる」とか言われてたらヤだな。間違っていないだけに。




2003.06.14.Sat. 12: 50 p.m.(21:20に一部加筆)
BGM : John Coltrane "MEDITATIONS"

 トッティのゴースト……。かなわんなぁ。ベッカムはんみたいに売れると思うてはるんやろけど、それ、初版八千部がええとこやで。6パーくれる言うんやったら、まあまあ、考えんでもないけどな。というのはウソですが、その場合は私情うんぬん以前に「王子様の文体」をこなすほどの力量が私にあるかという問題があるのだった。仮にトッティ王子が日本語を喋るとして、まず一人称をどうしていいかわからない。口述時の一人称と文章の一人称は必ずしも同じじゃないからね。相手がトッティとなると、「私」は論外、「僕」じゃ好青年すぎ、「俺」はハーレクイン・ロマンスでも御法度というぐらいだから女性客をつかめない、かといって「朕」で書けるわけねぇしそもそもそりゃ王子じゃないだろオイオイ……と考えていくと、最終的には「ミー」がお似合いかな、なんて思ったりするのだが、ミー連発で数百枚分の原稿を書くのはゾッとするザンス。シェーッ。……イヤミにしちゃっていいなら、絶対に引き受けます。それなら楽しそうだ。

 真面目な話、プロとしては「私情なんか関係ないよ、仕事だからね」とクールに言い放ちたいところではあるのだが、正直、関係ないわけがない。世のゴーストライターが皆そうかどうかは知らないが、私は私情を排して文章なんか書けない。今のところ「著者が嫌い」という理由で断ったことはないけれど、それは会って話を聞くまでどんな人だかよくわからないことが大半だからだと思う。もっとも、たとえメディアを通じてヤなイメージを持っていても、人間、会って何時間も話をしたらそんなに嫌いにはならないものだけどね。ゴーストライターの取材は、ジャーナリストの取材と違って、相手の面白いところ、いいところ、使えるところを引き出そうとするわけだし。そう考えると、著者を好きになるのも仕事の一部なのかもなぁ。

 とはいえ原稿を書く段階になれば、どうしたって自分の価値観やら好き嫌いやらが顔を出すわけで、無意識のうちに(つまり編集上の価値判断とは無縁なところで)気に入らない話を削って気に入った部分をふくらますということは、きっとあるに違いない。逆に、これは前にも書いたような気がするが、最初はディベートでもやっているようなつもりで著者の論理を補強しているうちに、その価値観が伝染してしまい、その仕事が終わってからもつい自分の意見であるかのように受け売りで喋っていることもある。そうやって人に感化されやすい素直な(!)性格だからやってられるのかもしれん。この場合、「素直」には「おばかさん」とルビを振ります。ただ、自分と価値観やフィーリングの合う著者のほうが書きやすいのは当然で、取材中にこっちが喋ったことを「そうそう」と何でも受け容れてくれると、これはもう、勝ったも同然。私の思うところを書き連ねればそれでオッケー、ってことになる。そうすると著者も「このライターさんには理解力がある」と喜んでくれたりしてね。そういうことじゃないんですけども。まあ、人間のやることだからして、「相性」というのは必ずあるわけだ。関係ないけど、「フィーリング」って死語だった?

 しかし、ここまで書きながら、「著者が誰なら断るだろう」と考えていたのだが、ものすごく嫌いな文化人の名前はいくつか思い浮かぶものの、そういう人の本でも、いや、そういう人の本だからこそ、やってみたいと思うような気もしてきた。「実際に会ってもあんなにヤな奴なんだろうか」という下世話な好奇心もあるが、それだけではない。原稿を書くという作業を通じて嫌いな奴を屈服させられるような、ある種サディスティックな快感があるような気がするのだ。今までそんなふうに考えたことはなかったが、もしかしたら私は、原稿を書いているときだけは、著者を支配しているような錯覚を味わっているのかもしれない。著者が私に乗り移るのではなく、こっちが著者に乗り移ってコントロールしているような感覚。……なーんだ、やっぱり「ゴースト」なんじゃないか、この仕事は。トッティの自伝を書いたら、私は史上最強の悪霊になれるかもしれない。ザンス。

 どうでもいいのだが、さっきコンサイスのカタカナ語辞典で「ゴーストライター」を引いてみたら、「代作者。身代わり作家」と書いてあった。身代わり作家。そんな日本語が(「代作者」を含めて)あるのかどうか知らないが、なんだか犠牲者っぽくて、とっても気の毒な感じ。私のギャラは身代金か。名刺に「身代わり作家」って刷ったら、みんなからすごくいたわってもらえそうな気がする。「弱者」としか言いようがない。でも実態は悪霊だけどね。ぶへへへへ、おまえのそのカラダを俺に寄越せぇ。ツイン・ピークスのボブなのかそれは。

 ところで、本日の日誌冒頭部分を見て「そりゃBGMにならんだろ」と突っ込んだアナタ。アナタは正しい。悪霊という言葉を思いついたのは、もしかするとコルトレーンのせいかもしれない。ぶへへ。じゃあなんで昨日からコルトレーンを聴いているかというと、K君から、彼が去年編集した入魂の一冊を頂戴したからなのだった。そんなわけで、J.C.トーマス『コルトレーンの生涯 モダン・ジャズ・伝説の巨人』(武市好古・訳/学研M文庫)は絶賛発売中である。私がゴーストしたわけじゃないので勘違いしないように。




2003.06.13.Fri. 13: 30 p.m.
BGM : John Coltrane "BLUE TRAIN"

 担当編集者に知られたらぶっ殺されかねない話だが、たぶん読んでないと思うので書いてしまうと、ゆうべは飲めや歌えの大騒ぎをしてしまいました。まあ、読んでいても殺されることはないだろう。殺したら余計に原稿書けないからね。夕刻、Kay'n君と私の共通の友人であるG研のK君(べつに巨人軍の研究をしているわけではない)からメールが来て、Kay'n君の書き込みを見て久しぶりに酒を飲むことを思い立ったのだが来週あたり時間は取れないかというので、ストレスのカタマリであるところの私は渡りに舟とばかりに大喜びし、どうせ原稿は書けないから来週だろうと今夜だろうと私はかまわんと返信を出したら、Kay'n君にも連絡をつけてくれたK君から速攻で電話が来て「じゃあ、7時に渋谷で」という話になったのだった。2軒目からは、Y売新聞のI君(べつに巨人軍の研究をしているわけではない、と思う)も合流。いきなりの思いつきで4人も集まれるというのは驚いたが、こういうことは、その気になればやれるということだろう。大事なのは、心の底から「飲みたい」という強烈な意志を持った者がいるかどうかだ。その意志があれば、無理目なシュートもゴールマウスをこじ開けるのである。その気迫を仕事に向けられないことが残念でならない。

 愉快だった。何をくっちゃべっていたのかもはや記憶が曖昧だが、辛うじて覚えているのはK君に「おれは江戸川にひとつ言いたいことがある。忠鉢信一を許すな」と妙に真剣な面持ちで言われたことだ。いきなり何を言い出すんでしょうか。どういう脈絡でそういう話になったのか不明だが、K君によれば忠鉢信一は顔が俊輔に似ているらしく、それを聞いたKay'n君は「じつは俊輔だったりして」と「忠鉢信一=中村俊輔説」を唱え始め、だとすれば中田代表引退を願うキモチもわからんではないという話だ。ジョークとしてはよくできている。ともあれ私にもあの虚報記者を許すつもりは毛頭ないので、「わかった」と答えた。たしかにあの一件は(少なくとも私の知るかぎり)まだ落とし前がついていない。上司名義の謝罪記事(本当に謝罪してるようには読めなかったけどね)は見たが、本人がどう責任を取ったのか私は知らない。物を書く人間は誰しもウソや間違いと無縁ではいられないけれど、ウソや間違いを避ける努力もさることながら、なぜウソや間違いを書いてしまったかを事後に検証・説明することが何より大事だ。言葉を尽くして説明すること以外に、書き手と読み手の信頼関係を深める術はない。そこで手を抜けば、物書きとしての死が待っている。もって他山の石とすべし。

 というのは一夜明けてから考えたことであって、話を酒の席に戻すと、Kay'n君にこの日誌の感想をいろいろ言ってもらって嬉しかった。これは以前、K君に自著の感想を編集者の視点から聞かせてもらったときにも感じたことだが、私が自覚的に心がけていること、無意識のうちにやっていたことなどを過不足なく理解し、それをきちんと言語化して伝えてくれる読み手の存在は、書き手にとってかけがえのない財産だ。書いた物の価値って、読み手の力量によって半減することもあれば倍増することもあるんだろうなぁ、ということを再認識。とはいえ、具体的に何を言ってもらったのかうろ覚えだというのがダメなところである。

 3軒目は歌。例によって例のごとく、「哀愁のシンフォニー」「カサブランカ・ダンディ」「あなた」「イミテーション・ゴールド」「あの唄はもう唄わないのですか」「ナオミの夢」「タイムマシンにお願い」などを通して昭和を歌い上げる。「かもめはかもめ」を忘れていたのが悔やまれるところだ。矢野真紀が3曲しか入っておらず、「タイムカプセルの丘」しか歌えなかったのも無念。ところでカラオケの機械にひとつ不満があるとすれば、リモコンから転送した曲名がモニターに表示されることである。歌っている最中に、次の人が入れた曲名が左上にポチッと出るのだが、あれは歌の世界を破壊しますね。TVドラマの最中に臨時ニュースが出ると気分がシラケてしまうのと同じ理屈だ。だいたいKay'n君もKay'n君である。人が「あの素晴らしい愛をもう一度」をしっとり歌っているときに、なにも「宇宙のファンタジー」を入れるこたぁないじゃないか。いきなりファルセットで歌わなきゃいけないような気分になって困ったじゃないか。

 集英社から、また『キャプテン翼3109日全記録』が届いた。すでに受け取っているので何かの手違いかと思ったのだがさにあらず、こんどのは高橋陽一先生のサイン本である。おお。うれしい。自筆のイラスト(もちろん翼くんの顔)付きだ。粋な計らいだなぁ。ちゃんと「深川俊太郎さんへ」とも書いてある。もう一度書くが、「深川俊太郎さんへ」だ。いえ、あの、文句なんか全然ないです。うれしいです。ほんとに。物を書く人間は誰しもウソや間違いと無縁ではいられないが、許されるかどうかは人によるのかもしれない。




 

2003.06.12.Thu. 11: 35 a.m.
BGM : Bill Evans & Jim Hall "UNDERCURRENT"

 その可能性なきにしもあらずと噂には聞いていたが、中田のラツィオ移籍話が日本のメディアでも取り沙汰されるようになったようだ。私が複雑な心境になっていると思っている人もいるだろうが、もう、そんなことはない。彼のような、ハードボイルド風味のクールかつアダルトな選手がラツィオには必要だ。ポジションは前線でも、存在感的にはネスタの穴を埋めるっていうか。それに、中田がいれば、もうリベラーニ見なくて済むしね。どうも私はリベラーニの顔が苦手なのだ顔が。どんなに技術が向上しても、顔じゃしょうがない。

 ああ、それにしても。ロマニスタの強烈なブーイングを柳に風で受け流しながら、トッティにほえづらかかせる中田。うー。頼もしいぞ、おい。「なんでラツィオファン?」って訊かれなくなるのはちょっと寂しい気もするし、数年たって中田が去った後に「なんでまだラツィオファン?」と訊かれるのも辛いが、全試合(当然CL予備予選も含む)完全生中継が約束されている上に、オフにはラツィオ来日!河口湖で合宿!パンカロにマゲヅラ!となれば、こんなに愉快なことはない。ラツィオを「なっとう」と聞き間違えられることもなくなるだろう(※意味のわからない人は発売中の月刊『サッカーズ』7月号を参照せよ)。さらにパンカロにとっても、日本人の国民的オモチャとして第二の人生を切り開く千載一遇のチャンスである。アルシンドの再来だ。

 しかし問題は、中田がコラーディのゴール・パフォーマンスにつきあってくれるかどうかなのだった。それも含めて仕事だからね。契約書の業務内容欄に明記してほしいぐらいである。とくに、万が一スタンコビッチがいなくなった場合、中田の役割は重大だ。頭に人差し指を立てて「牛」になり、得意満面のコラーディに向かって突進する中田。見たい。見たいぞ。ものすごーく見たい。トモダチナラアタリマエーということで、中田にはぜひ了承してもらいたいものである。中田がラツィオを変えるのではない。ラツィオが中田を変えることが、この移籍の眼目なのだ。中田ラツィオ化計画だ。クールかつアダルトはどうするんだ。

 ……念のため言っておきますが、あくまでも「ラツィオ入りの可能性が出てきた」ってレベルの話ですので、早とちりしないように。

 ゆうべは、日本×パラグアイ(キリンカップ)を11時ぐらいからビデオ観戦。あの何とかいうアナウンサーの実況を聞いていると、いったいフィールド上に俊輔が何人いるのかわからずクラクラしてくるが、今更そんなことに文句をつけても始まらないのであって、それにしてもクエバスって稲川淳二に似てるよね。あと、あのイングランド人の主審は以前から我が家ではパキケファロサウルスに似ていると評判だが、そういう失礼なことはあんまり言わないほうがいい。

 そんなことはともかく、DFラインだ。アレックス、坪井、宮本、山田。この日誌って、なんて予言的なんだろう。何を隠そう、これが「ダイナミック4」の正体である。まだ誰もそれがダイナミック4だと気づいてないけどね。命名こそしていないものの、あの監督ちゃんが「総取っ替え」という豪快な投げ技によってDFラインに世間の視線を誘導し、それによって選手の自己愛を満たそうとしたのだとしたら、私でさえ代表監督になれるかもしれないということだ。何を言ってるのかよくわかりません。宮本を久しぶりに見たが、やはりあの無駄に闘志が漲った立ち居振る舞いには捨てがたいものがあると思いました。ダイナミックだ。

 大久保がいいぞ。何がいいって顔がいいよ顔が。似てるわけじゃないけど、ある種、カズっぽい面構え。やっぱりフォワードは顔が大事だ。でも、ゆうべの『すぽると』とかいう番組で、前回コンフェデのカメルーン戦を振り返る映像を見て、あのときも2ゴールを決めた鈴木のことを「顔がいいよ顔が。やっぱりフォワードは顔だよなぁ」と言っていたことを思い出した。観戦者なんて無責任なものだ。いや、私が無責任なのか。しかし、あの鈴木が今はこうなっていることを思うと、ストライカーの輝きって長持ちしないもんだなぁと思う。私も含めて今や世間では大久保大久保と期待高まりまくってますが、2年ぐらいたつと、「あんなもん、大久保やのうて小久保やないか。どっちかいうたら久保のほうが大久保じゃ」というわけのわからない話になっているかもしれない。

 なんで珍しく『すぽると』なんか見たかというと、なぜか録画に失敗してHDVに後半が映っていなかったからである。前半がいい感じだったので、とてもがっかりした。しかも『すぽると』にチャンネルを合わせると、CM前に大久保のゴールシーン。うわあ、いいゴールだなぁ、ちゃんと見たかったなぁと録画失敗を猛烈に悔やんだ。でもオフサイドだったんですね。パキケファロサウルスめ。それにしても、たまに地上波民放のスポーツニュースなんか見ると、あらためてその番組作りのあざとさにウンザリさせられる。そんなにチャンネル替えられるのが怖いか。人を騙してでも見続けさせたいのか。どうでもいいが、平松さんの顔も物凄く久しぶりに見た。むかしカミソリシュートを投げていた人とは思えなかった。

 そんなわけで後半は見ていないのだが、ダイナミック4が失点ゼロで抑えたとはいえ、あのパラグアイ相手にスコアレスは寂しいのう。でも、俊輔がいると中盤でボールがちゃんと収まるので、見ていてキモチがいい。キープできる選手は頼もしいのである。キープできるだけで頼もしく感じてしまうことが問題なのだが。




2003.06.11.Wed. 10: 30 a.m.
BGM : Stevie Wonder "TALKING BOOK"

 きのうGT舎ゴンザレスから連絡があり、当初「27日アップ」と命令されていた25日取材の対談原稿はもう少し時間がもらえるとのこと。やれやれ……と安堵していたら、たちどころにKD社のMさんから電話が来て、7月に執筆する本の取材のため、28日から二泊三日で北海道に出張することになった。あぁ、わが故郷は梅雨もないし一番いい季節だよねぇ。などと遠い目で旅情に浸っている場合ではないのである。滅多にない出張がこんなときにあるとは、なんともツイてない。結局、対談原稿は自己都合によって27日に上げないとダメかも。午前中の便らしいから、徹夜明けで羽田直行になるのは目に見えている。はあ〜。間違えて成田に行っちゃおっかなー。ふと気づけばそこは南の島だ。「うっかりしてた〜」と頭を抱えてみせながら、ポケットにはパスポート。いえ〜い。

 それにしても、ノートパソコンを持っていない自分を恨むのはこういうときである。取材があるとはいえ夜は暇だろうから、それさえあれば原稿書けるのになぁ。欲しいぞ。i-BookとかPowerBookとかそういうやつ。だって、ほら、「札幌のホテルで深夜に対談原稿の執筆」って、なんかいかにもライターっぽくて格好いいじゃないか。やっぱ「ホテルで執筆」がないと一人前のライターとは言えんだろう。そういえば25日の対談は福岡で行われるとのことで、ゴンザレスに「一緒に行く?」と誘われたものの、忙しいので同行せずにテープだけ貰うことにしたのだが、こうなったらヤケクソで行っちまうって手もあるか。九州、行ったことないし。いちおう、南の島だし。水曜日に九州、土曜日に北海道。列島縦断だ。なんてダイナミックなんだろう。世界を駆けるスーパードライなライフスタイルっていうのかな。国内だけど。世のビジネスマン諸氏にとっては、それぐらいの移動はフツーなんですか。しかし、ふだん杉並区西端にジミジミ引きこもっていると、そーゆー派手な仕事っぷりに強く憧れるのである。だけど私にはノートパソコンがない。どっかに余ってないのか。あと、ハードな移動をこなす体力も。無い物ねだりばっかりだ。

 なーんて書いていたら、「最大50,000円のプライスオフ。PowerBook G4がお求めやすくなりました」などというメールがアップルから届くんだから、なんだか知らないが世の中うまくできている。でも「12インチモデルが20万円を切る、リーズナブルプライス」って言われてもなぁ。ちっともお求めやすくない。それ一発で対談原稿のギャラが吹っ飛びますがな。…………うー。たまには吹っ飛ばしてもいいような気分になっている自分が怖い。まだeMacの借金も返していないのに。

 某社より、ゴーストした新刊の見本が届いた。きのう書いたような次第で、本が出来上がるまで自分の原稿がどうなったかわからないので、わりかしスリリングな瞬間だ。とりわけ今回は名文家の著者がどんなふうに直してくるか楽しみにしていたので、かなり真剣にチェック。ゴースト(というか私)の場合、通常はあまり文体を意識せず、プレーンというかニュートラルというか、要はフツーの文章(だと私が思っているような文章)を心がけているのだが、今回は編集者の要求もあってかなりユニークな喋り口調にトライし、著者の胸を借りるつもりでぶつかっていったような面があるので、おおむね受け容れてくれたのを見てホッとした。「ここは通せ!」と気合いを込めた比喩などがそのまま生きていたりすると、けっこうな達成感がある。もちろん加筆・修正・削除された部分も多々あるが、全体のトーンというかリズムみたいなものはオッケーだった模様。著者とリズム感が一致したときほど心地よいものはない。たまに見たことも聞いたこともない難しい四文字熟語なんか書き加えられていると、「ちくしょー」と苦笑しますが。尊敬する師匠に添削してもらってるような感覚。滅多にない仕事だが、文筆家のゴーストは刺激的で面白いと思った。じゃあ、どんな人のゴーストがつまらないかというと、つまらないことしか言わない人だ。つまらない話はどう書いても面白くなりませーん。そこまで「クリエイト」するほどのギャラは貰っていない、と言ったら傲慢かしら。村上春樹が翻訳すると、たとえばハーレクイン・ロマンスでさえ珠玉の純文学作品になったりするのかなぁ。

 私は見に行っていないし、愚妻の報告を聞いてもとくに目覚ましい活躍も進歩もないようなのでしばらく書いていなかったが、セガレはまだ毎週サッカー教室に通っている。半月ほど前に、初めて味方に「パス」を通したというメモリアルプレイはあったみたいだけど、ゴールはまだ。試合自体は3-2とか5-3とか派手なゴール合戦になってるようなのに、なかなか取れんもんだなぁ。きのうはGK時に1失点、チームも1-2で逆転負けしたらしい。両チームのエース・ストライカーが強烈なライバル関係にあり、試合後は勝ったほうが何か嫌味を言ったらしく、負けたほうが「もう○○(ライバルの名前)なんかいらない!」と泣いていたとか。なにしろ泣かせたほうの子供は、前に私が観戦したときも、ライバルのゴールで自軍が失点した後に「ちくしょー、アッタマ来た〜!」と吠えながら猛然とドリブルを開始し、見事に同点ゴールを決めたほどの男だ。5歳にしてこの勝負根性。日向小次郎かと思ったよ。まあ、彼もライバルが泣くのを見て泣き始めたらしいから、まだまだ子供ですけども。で、セガレはといえば、それを見てただただオロオロしていたようだ。親に似て、勝負師にはなれそうもない。

 しかし溜め息をついてばかりはいられないのであって、次の公式戦(9月中旬)はなんと味の素スタジアムで挙行されるそうだ。おお。味スタ。芝生だ。親もフィールドに入れるのだろうか。入りたい。入って、ハーフタイムにこっそりシュート撃ちたい。CKでもいい。ボールに触れないなら、せめてスライディングの一つもかましてこよう。燃えてきた。




2003.06.10.Tue. 11: 20 a.m.
BGM : J.S.BACH"THE BRANDENBURG CONCERT NO.4〜5"

 きのう書き忘れていたが、日本×アルゼンチン(キリンカップ)は当日の夜にビデオで観た。1-4。久しぶりにボコボコにされたよなー。3点差以上の敗戦ってのは、ごおぜろのフランス戦(2001年3月)以来だったっけね。いや、W杯前のノルウェー戦が0-3だったか。うう。あれさえなけりゃヨシカツだったのに。先日、ハポテル君と会ったときに、「フセインの次に引き倒される指導者の銅像はこれかもね」なんて冗談を言ってたんだけど、大丈夫なのか監督ちゃん。これは愚妻に言われてなるほどと思ったのだが、トルシエ時代はフラット3が機能した結果というよりも、「フラット3、フラット3」とメディアが呪文のように唱えていたせいでDFラインに世間の視線が集中し、だからこそ守備陣に緊張感があったのではないか。軽薄なメディアを動かす目新しい用語は意外に大事だということかもしれん。たぶん今の代表守備陣は、ジーコになった途端「黄金の中盤」ばっかり注目されたために、自己愛が傷ついているのだ。ならば現在の4バックにも、テキトーな名前をつけてやればいいのではないか。何でもいいんだけど「ダイナミック4」とか。なんだなんだ、そりゃ一体どういう4なんだーっと大騒ぎになれば、彼らもどうにかしてダイナミックたらんと奮起するに違いない。話は変わるけど、なんで前半途中でカストロマン引っ込めるんだよ。ばか。もっと見せろ。

 これもきのう書き忘れたのだが、Kay'n君の書き込み(23)を見るまで、作詞の世界でもそういうことがあるなんて知らなかった。というか、考えたこともなかった。どんな世界も、外からは窺い知れないところがあるものだ。考えてみれば当然あり得ることなんだが。作詞家に書き直させているうちに結果として8割書いていた、というのは、出版物でいえば編集者の仕事に相当するわけで、つまり指導的な関わり方ということだから、ゴーストライターの立場とは微妙に違うかもしれない。その編集者に雇われている身ですから。

 ……あ、そうか。ライターの貢献度に無関心な著者というのは、自分がライターを雇っているように錯覚してるのかもなー。実際、著者から直に頼まれることもあるしね。それでも私は編集者に雇われているつもりだし、印税もあくまで版元からいただくのであって、著者からお裾分けしてもらっているとは思っていない。だから印税の「総枠」にも基本的には無関心で、総枠が7パーだろうが12パーだろうが、大事なのは私に何パー払ってくれるのかということだ。そういえば以前、このサイトを通じて知り合った同業者から、「ゴーストの印税分配率を著者と相談して決めてくれと版元に言われたのだが、これをどう思うか」というような相談を受けたことがある。そういうケースも世の中にはあるようだが、私自身は経験がなく、仮にそう言われても断るだろう、なぜならライターは版元に雇われていると思うからだ、と答えたと記憶している。

 とはいえ、「年来の友人」でもなければ著者とライターのあいだには立場的な高低差があり、作った物を「直される」のは著者ではなく私なので、やっぱり「直す」立場のほうが自己愛は満たしやすいんじゃないかと思ったりしました。そのへんは、翻訳者ともたぶん違う。ベッカムが東本さんの原稿を直すことはおそらくあり得ないわけだから。日本語読めないっつうの。英語だって満足に読(以下略)。

 要するに、その仕事がクリエイティブであるかどうかは、「直す権限」の有無で決まるってことなのかなぁ。ちょっと違うか。たとえばマイルスの自伝を書いた作家なんかは、どの程度まで関わってるんだろう。当然、ゲラは最後まで見るよな。私は見ない。原稿を渡したら、本が出来上がるまでどんな文章になっているかわからない。これは少なくとも私の「表現物」とは言えないし、当たり前だがゴーストで書く本を自分の表現物にしたいとも思っていないわけで、この意識のあり方は名前がクレジットされる英米のライターとは違うような気もする。誤解されると困るが、私は「直す権限」が欲しいと言っているわけでは全然ない。面倒臭いから要りません。でも結果として直されていなければそれはそれで嬉しいわけで、ああ、もう、ごちゃごちゃと鬱陶しい男だな私。

 と、ここまで書いたところで改めてGUEST BOOKを見たのだが、あれれれ。IYさん、なんで(24を)削除しちゃったんでしょうか。おーい。




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edogawa's diary 02-03 #31.