edogawa's diary 03-04 #01.
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2003.07.12.Sat. 15: 50 p.m.
BGM : 松岡直也&WESING "SON"

 大阪は、あつかった。といっても虎関係のフィーバーの話ではない。あの湿気はなんとかならんのか。10日前に北海道を訪れた身としては、ニッポンの広さ(長さ)をあらためて実感。東京も蒸し暑いが、大阪の場合は「むしむし」を通り越して空気が「べたべた」だ。頬を撫でる風までべたべたしてるってどういうことだよ、おい。などと一泊二日しただけの私に文句を言われても大阪だって困るだろうが、住んでる人はたいへんですね。そら川にも飛び込みたくなるっちゅうもんだわさ。

 それにしても、打ち合わせの日付を勘違いした頃からボーっとしているようなので気をつけなければいけない。おとといの午後は、新幹線に乗る前に寄った東京駅の立ち飲み喫茶店でテーブルの飲み物を倒してしまい、阿鼻叫喚の騒ぎを引き起こしてしまった。きのうは、朝食を取るためにホテルのレストランに行ったところ、入口でガンバ宮本似の従業員に「あのう、お客さま。お部屋履きのままでは、ちょっと……」と追い返されてしまった。嗚呼、自分がスリッパを履いていることに気づいたときの恥ずかしさといったら。たるんでるぞ私。しっかりしろ私。

 虎フィーバーのほうは、大阪駅近辺で飲んだだけで繁華街に行かなかったし、泊まった晩は広島でのカープ戦だったせいもあるのか、とくに何事もなかった。甲子園で巨人にバカ勝ちした昨夜だったら、何事かあったかもしれないが。しょうがないので、帰りに駅の土産物店でタイガース・チョコみたいなものを買った。タイガース・グッズに描かれた例の虎の顔は実にトラディショナルで、ガキに媚びていないところがいい。オトナの鑑賞に耐えられるグッズ、とでも言うべきか。

 一方、オトナの鑑賞に耐えられない言葉ばかり吐き散らしてるのが、この国の保守政治家たちである。集団レイプは元気、出産しない女を税金で云々、さらには市中引き回しに打ち首ゴクモン。ゴクモンとは言ってないか。冗談だかたとえ話だか何だか知らないが、彼らの使うレトリックの貧しさ幼稚さは、人を絶望させるのに十分だ。そもそもレトリックの技術というものは政治家の良くいえば雄弁術、悪くいえば詭弁術から始まったのではないかと思うのだが、その政治家の言語能力がこんな程度では、母語が「ブーム」になるという寒々しい状況が出来するのも無理はないという気がする。保守政治家の言葉が幼稚だから、いわゆる左翼の空疎な物言いもなくならないのではないか。どっちもどっち、である。左翼は空想が過ぎるし、保守は想像力がなさすぎる。だからその言葉は人に届かない。

 だいたい、「三度の飯よりも水戸黄門が好き」な奴なんか、国会に送り込むなっつうの。田舎のじいちゃんばあちゃんだって、水戸黄門よりは三度の飯のほうが好きだと思うぞ。あんた、テレビの時代劇で政治の勉強してきたわけ? 勧善懲悪勧善懲悪って、学級会やってんじゃないんだからさ。そんなに時代劇が好きなら、せめて黒澤明の『羅生門』ぐらい見て、真実ってもんのややこしさを勉強しておけよ。長崎の立体駐車場で何が起きたのかは、まだ「藪の中」だ。少なくとも、「裸にしていたずら」と「転落死」は当面べつべつに論じるべきではないのか。ところが、今のところ最初から殺害目的で連れ去ったことを示すような状況証拠はない(むしろ「事故」とはいわないものの、殺害は偶発的な出来事だったような印象のほうが強い)にもかかわらず、みんな寄ってたかって無条件で酒鬼薔薇事件と同列に扱っているように思えてならない。どいつもこいつも、そんなに「快楽殺人」に仕立て上げたいのか? 過激に親の責任を問う鴻池発言は、<間違った子育て→人格障害→殺人>というステレオタイプな枠組みでしか事件を見ていないがゆえに出てきたものだと私は感じる。少年が「幼児を裸にするような人間だから突き落とした」のかどうか、その因果関係はまったく不明なのだ。それ以前に、「間違った子育てが幼児を裸にするような人間を作る」のかどうかも定かではない。

 私はかねてより、もし自分のセガレが人を殺してしまったら、セガレを殺して自分も死ぬ、と決めている。本当は被害者の家族に復讐させてあげたいけれど、それでは相手に殺人の罪を負わせることになってしまう。もちろん、臆病な私が現実にそういう行動を取れるかどうかは、その時になってみないとわからない。いくら親だからって子を殺す権利があるなんて思わないし、たぶん妻は止めるだろう。どこまでも子を守ろうとするのが母親というものだ。ただ、それ以外にどういう対処法があるのか、いまのところ私にはわからない。メディアに顔をさらして謝罪すればそれで済むとは思えないのである。だから、少なくともセガレには、あと何年かしたら、私がそういう覚悟でいることだけは伝えようと思っている。そんなことぐらいで何かの歯止めになるほど簡単なことではないのはわかっているが、そんなことぐらいしか思いつかないんだからしょうがない。

 もちろん、私は自分が被害者になったときのことも想像する。家族を殺されれば、万難を排して復讐しに行くだろう。法律なんか知ったことか。愛情の表現方法を法律ごときで縛られたくはない。だが、日頃からそんなふうにぐずぐず考えているからこそ、私は被害者の遺族だけに同情を寄せる気分にはなれないのだった。鴻池発言を「よく言った」などと擁護するメールを各所に送る人たちの神経も理解できないし、それを喜々としてウェブ日記で報告するジャーナリストの神経も理解できない。加害者の親にテレビカメラの前で謝罪させたからって、何がどう解決するっていうんだ? 大衆のサディスティックな欲求が満たされるだけの話じゃないか。そういうオトナの姿を見て子供たちが何を感じるかということも、少しは考えたほうがいい。

 人が人を尊敬するとはどういうことなのか、人が人を愛するとはどういうことなのか、人が人を大事にするとはどういうことなのか。それを「人権」という言葉を使わずに考え、教える道筋を模索しなければいけないのではないか、という気がしている。




2003.07.10.Thu. 12: 00 p.m.
BGM : Herbie Hancock "SPEAK LIKE A CHILD"

 新幹線までまだ間があるので、予定を変更して書いている。

 被害者とは2歳、加害者とも6歳しか違わない男の子の保護者としては、心境はとても複雑だ。亡くなった子のご両親はもちろん、補導された少年のご両親についても、その心中を察するといたたまれない。

 いま「加害者」と書いたが、彼の加えた「害」が本当に「殺害」だったのかどうかを疑いたい気分が、私にはある。12歳の少年が事情聴取されていると聞いたときに私が思ったのは、「殺意はなく、転落は何かの手違いによる事故だった可能性はないのか」ということだった。その後、報道によれば少年自身が「殺害」を認めたということだが、それでもなお、これが「殺人事件」ではないのではないかという疑いを私は捨てきれない。何の根拠もない、いわば「願い」のようなものだが、12歳の少年が「殺人」と「過失致死」の違いを知っているとは思えず、したがって仮に何かの手違いで転落死させてしまったのだとしても、警察で「おまえが突き落として殺したのか」と問われれば、「ぼくが殺しました」と答えるのではないだろうか。「死なせたのは事実ですが、殺してはいません」などと答えるほど知恵の回る中学生は、いるかもしれないが滅多にいないと思うのである。

 私は加害者に同情しているわけでは決してないし、それほど報道を丹念に追っているわけでもないのだが、なにかこの事件にはワケもなく「哀しさ」のようなものを感じて仕方がない。例によってメディアでは、少年本人に会ったわけでもない「識者」たちが「性的サディズム」「人格障害」といったレッテル貼りを始めているようだが、危険なことだと思う。人格障害の診断なんて、何度も患者に会っている精神科医でさえ容易なことではないはずだ。それを医師でもない教育評論家ごときが「人格障害の疑いがある」などと大新聞でコメントしていいものだろうか。人格障害って一言で済ましてるけど、それだけで何種類あるのか知ってんのか? だいたい、12歳の少年の人格が「障害」を起こすレベルまで成熟しているかどうかも疑問だ。「ちゃんとしているべきものがちゃんとしていない」のが「障害」であって、「ちゃんとしていなくて当たり前のものがちゃんとしていない」は障害以前の問題だと思うのだが。作っている途中の自動車が走らないからといって、それを「故障」とは呼ばない。ふつうは「未完成」という。「未熟」を「障害」と呼ぶのであれば、中学生時代の私だって、そうとうな人格障害だったと思う。

 むろん、私だって専門家では全然ないし、詳しい事情を何も知らないのだから、あまり軽率なことを言ってはいけない。少年は識者たちが予想するとおりのデタラメな人間かもしれないし、そうではないかもしれない、というだけのことである。「授業中にパニック状態になることがあった」などという「証言」も見かけたが、それも事件と関係があるかもしれないが、ないかもしれない。いまどき、そんな子供は他にも大勢いるだろう。いずれにしろ私たちは、この事件がもっと「素朴」なものである可能性から目を逸らしてはいけないような気がしている。

 では、大阪へ行って参ります。ガッツ・タイガース!




2003.07.09.Wed. 21: 55 p.m.
BGM : Herbie Hancock "SPEAK LIKE A CHILD"

 午前中、自宅でちょいと仕事をしたのち、午後から千駄ヶ谷のG舎でゴンザレスとこれから書く本の打ち合わせ。恋愛術(!)みたいなものをゴーストで書くのだが、これがなんと6月に片づける予定だった仕事である。私も前の仕事が遅れに遅れたが、ゴンザレスも忙しくて準備ができなかったため、こんな時期のスタートになってしまった。彼から「早く書け」というプレッシャーがあれば私も前の仕事をこんなに引っ張ることはなかったはずで、要するに私だけのせいではないということが言いたいのだが、誰のせいであるにせよ失われた時間が取り戻せるわけではないので、とにかく一生懸命やるしかないのである。とりあえず、この恋愛術は10日間ぐらいでやっつけてやる。えいやあとお。

 とはいうものの、明日から一泊二日で大阪なのだった。のっけから2日間のロス。なんでこんな時にふだんは滅多にない出張が続くかなぁ。それにしても大阪は今どんなことになっているんだろう。やはり街中に阪神優勝ファシズムが渦巻いているのか。と、いきなり思い切ったことを書いてみたわけですが、はしゃぎたい気持ちはわかるものの、みんなちょっと浮かれすぎじゃないのか。阪神阪神って。きょう電車の中吊りで、週刊朝日が「阪神絶対優勝!」というようなタイトルの増刊を出すことを知ったが、いささかジャーナリズムの土俵から足を踏み出しているような気がした。公平中立はどうしたのか。「勝負事に<絶対>はあり得ない」がスポーツ報道の基本ではないのか。

 阪神のことはともかく、出張があるのに加えて、きょうヤマちゃんからもらったメールによれば、彼らがやっているフュージョンバンド「For Badgeholders Only」が13日と20日に二度もライブをやるというのだから実に悩ましい。ファンとしては1ステージたりとも聴き逃したくないところなのだが、ちょっと両方とも行くのはきついかも。すまんね。20日は家族も連れて行くつもりです。

 どうやら鬱っぽさを前面に押し出すと同情が集まるようで、というか同情されたくて鬱っぽさを前面に押し出していたわけなのだが、あちらこちらから抗鬱剤のようなお言葉を賜っちゃって恐縮である。このところ、先に深川を知ってから江戸川にたどり着いた方も増えてきたようで、なんだか妙な心持ちではありますが。で、ゴードン・ストラカンのことをどう思うかというセインツさんの御質問であるが、今までとくに好きとか嫌いとか思ったことはないものの、なんか気になる人ではありましたね。ほっとけない感じっていうか。しかしセインツさんの編集なさった「名言集」で、どうやら彼がサー・アレックスと「犬猿の仲」であるらしいことを知り、私は俄然、好感を持ったのだった。サー・アレックスのことが嫌いな人に悪い人はいないと私は信じているのである(べつにサー・アレックスが好きな人が悪人だとは言っていない。サー・アレックスが悪人でないとも言ってないが)。がんばれゴードン。

 というわけで、木曜と金曜は更新しません。




2003.07.08.Tue. 11: 30 a.m.
BGM : Diann Reeves "Diann Reeves"

 各方面からのメール&書き込み、さらに11時間の熟睡および低気温のお陰もあって、元気溌剌オロナミンCである。恥ずかしげもなく「オロナミンC」などと書けてしまうあたり、元気溌剌がいいのか悪いのか微妙なところだ。ヘンなクスリはやってませんので念のため。ファイト、いっぱぁつ。ベッカムくんは2を自乗して3を足すべきだったわけですね。それじゃ奥さんのほうが計算できないかもしれないけど。やあねえデイヴィッド、このちっちゃい2の前にも「+」を書かなきゃダメじゃない。ひどいことを言っている。

 重版通知は来なかったが、ゴーストした本の「文庫化の噂」は届いた。担当編集者からではなく、同じ会社に勤務している友人が「ギャラ、もらい損ねないようにね」と教えてくれたのである。慌てて契約書を見たら、文庫化に関する記述は一切ない。どう解釈したらいいんだろう。契約書なんかあると、かえって厄介だな。通常は、そもそも親本の時点で契約書がないことのほうが多いし、それでも文庫化されればふつうは親本と同じ条件で印税が支払われるのである。だいたい、これだけ部数が減っている以上、文庫も「重版」の延長で考えてもらわないと書籍の仕事なんかやってられない。しかし、文庫化が決まったらしいのに担当者本人が連絡を寄越さないというのが不穏だ。まあ、いいや。その本の著者は何度も一緒に仕事してる人だし、今後も私のことをアテにしてくれているようだから、何かあったらそっちに言いつけよう。

 読者の方が、『キャプテン翼勝利学』の感想を記したページを教えてくださった。迷惑がかかるといけないのでリンクは張りませんが、どうもありがとうございます。教えてくださった方も、拙著を読んでくださった方も。鬱な書き手にとって、これにまさるクスリはないのである。それにしても鬱は40代から始まることが多いらしいので、39歳の私としても気をつけなくちゃいけない。そういえば、コレステロールが不足すると鬱になりやすいというような話を、ナントカ心理学という本で読んだ(っていうか書いた)ような気がする。生活習慣病の心配ばかりしているとメンタルヘルスを害する恐れがあるってことだ。なるほど、このところブルーになりやすいのは、昨年来の減量がいけなかったのかもしれない。痩せた鬱病患者になるか、明るいブタになるか。それが問題だ。




2003.07.07.Mon. 16: 40 p.m.
BGM : 長谷川きよし "MY FAVORITE SONGS"

 結局、朝までかかってしまった。1ページの原稿で徹夜しちまったのは初めてだ。ウンウン唸っているあいだに、時計の針がおそろしいほどの速度で進んでいた。「思いつかん病」は時間の感覚をも狂わせるおっかない病気なのである。早く治したいが、何かいい薬はないものだろうか。LSDとかやるといろんなことを次々と思いつけるのかもしれないけれど、そういう危ないことはこういう場所に書かないほうがいいですね。いま、ロバート・メイプルソープの伝記なんか読んでるもんで、そんなことをちょっと思いついてみました。……あれ、思いついてんじゃん。

 それにしても、さすがにもう若くはないということなのか、10日間で2度の徹夜はこたえる。肉体的にはそうでもないのだが、メンタルのほうにキますな。昔は明け方になるとハイになったものだが、先週も今朝もすんごいブルーになった。感情の老化ってやつが始まってるんだろうか。ブルーな精神状態で原稿を読み返しても、いいのか悪いのか全然わからない。ゲラが出るまでにテンション上げないと。長谷川きよしに浸ってる場合じゃないか。なんか陰鬱な日誌になっちゃってすみません。誰か元気の出るメールでもください。たとえば重版通知とか。

 だいたい、何がいけないって、エアコンが壊れているのがいけないのである。この蒸し暑いのにエアコン使えないんじゃ、そらテンションも下がるっつうの。なので、さっき修理の人に来てもらった。インバーター回路だか何だかがデータを読み取れなくなっているとか何とかで、部品を取り寄せれば直りそうだというのはいいのだが、2万円ぐらいかかると言われてまた気持ちが鬱ぎ込んだ。「鬱ぎ込む」って書いて「ふさぎこむ」って読むんですね。知らなかった。それを知っただけでも鬱ぎ込んだ価値があるというものだ。鬱ってすばらしい。物事は前向きに考えないといけません。




 

2003.07.06.Sun. 21: 40 p.m.
BGM : 長谷川きよし "MY FAVORITE SONGS"

 すずき君が「お茶ズボ」の原稿を月曜朝着で送れと言うので、晩飯を食ってから仕事場に来てウンウン唸ってみたのだが、なーんも思いつかないので日誌を書き始めてみた。で、買わずに後悔したものがあるかという烏龍茶さんの御質問(55)に答えようと思ったのだが、これまた、なーんも思いつかないのである。間違いなく何かあるはずなのに、思いつかん。思いツカンポ。などと書いてみても、何も思いつかない。まずいなぁ。もしかしたら「思いつかん病」なのかも。今日の午後、西友吉祥寺店の食品売り場で愚妻に「何か食べたいものある?」と訊かれたときは、間髪を入れずに「手巻き寿司」と答えたぐらいだから、何も思いつけないわけではないはずなのだが。うー。食い過ぎたのがいけなかったのだろうか。なんだか頭がぼーっとしている。今日のタコはほんとうに旨かった。さすが北海道産。

 などと呑気なふうを装っているものの、実のところ猛烈に焦っているのである。もう4日ほど前から思いつこうとしているのだが、思いつけるような気がしない。過去8回、自分が何かを思いついてきたことが信じられないくらいだ。どうして思いつけたんだ私。答えは簡単で、まだシーズン中だったからですね。もう欧州サッカーが終わっちゃってるのに、私にサッカーのこと書けっていうほうが無理だよな。無理無理。書けません。どこかに、口述なしでも書けるぐらい腕のいいゴーストライターはいないでしょうか。

 と、苦悶する私の背後では、長谷川きよしが『黒の舟唄』をうたっているのだった。コラムと私のあいだにも、深くて暗い川がある。それでもやっぱり書きたくて、えんやこら今夜もキー叩く。きのうHMVから届いた『MY FAVORITE SONGS』は、1969年から1975年までに録音された18曲を収めた自選集である。セガレに聴かせたら、1曲目(ひとりぼっちの詩)のサワリを耳にした瞬間に「しぶいねー」と言っていた。きわめて正しいリアクションだ。初めて聴く曲も多く、新鮮な気分で浸れた。

 荒井時代のユーミンが作詞作曲した『旅立つ秋』がいい。ユーミンはけっこう長谷川きよしに詞や曲を提供していて、わりと意外な組み合わせだが相性がいいのである。このCDには入っていないが、マルク・シャガールを題材にした『美しい日々』(作詞:荒井由実、作曲:長谷川きよし、1983年)なんて、すごい傑作だと思う。ユーミンの作詞家としての才能に、長谷川きよしの声が別の角度から光を当てているという感じ。そういう、声。声自体に説得力があるっちゅうか、声そのものが「世界」を持っているっちゅうか、うまく言えないが、そういうシンガーはそう多くないような気がする。シンガーの「声」と物書きの「文体」は、似ているだろうか、似ていないだろうか。




2003.07.04.Fri. 11: 25 a.m.
BGM : BluesFest Radio

 ポプラビーチで、詩人の渡邊十絲子さんが「詩人の悪だくみ」と題した連載を始めた。なぜ私がそれをここで宣伝するかというと、彼女は私の大学時代の同級生だからである。したがって彼女のプロフィールを見れば私が所属していた学科もわかるのであって、同じ学科を出ても詩人になる者もいればゴーストライターになる者もいる(ちなみに最近マドリディスタをやめたベッカム嫌いの某小説家も同じ学科の一級下)というあたり、人生はダイナミックだ。うー。私もほんとうは詩人か小説家になる予定だったのに。もっとも彼女は月刊専門誌『競艇マクール』にもコラムを連載しているので、そのかぎりでは私と似たようなものだが。ともあれ、よろしければご一読のうえ、「面白い!」に投票してあげてください。ほんとうに面白いので。

 で、そういう学科に進んでこんな仕事をしている私は、世間的に言えば間違いなく「文系」である。しゅうちゃんさん(はじめまして)が54で指摘されたようなこと(数学が嫌いな者が文系に進む)を前に書いたかどうか記憶が定かではないけれど、最近書いた記憶があるのは、自分は「文系」なのではなく「非理系」なだけなのではないか、ということだ。つまり私には、「文系」ってどんな系なのか、よくわからないのだった。しかし、しゅうちゃんさんのように国語が苦手で理系に進む人もいるということは、「非文系」だから結果的に理系、というケースもあるらしい。人生は消去法で選ばれる。そういうもんだと思う。

 実際、たしかに私は数学や物理や化学や生物や地学が大の苦手であったが、じゃあ古典を含めた国語が好きだったかというと、全然そんなことはない。国語の授業を面白いと感じさせる教師には一度も出会ったことがないし、これは前にも書いたと思うが、現国の長文読解問題などはかなり嫌いだった。単に、それよりも数学や物理や化学や生物や地学のほうが嫌いだったという比較の問題である。そもそも、文系であれ理系であれ「国語が好きだった」という人間に私は会ったことがない。

 だいたい国語というのは文字どおり国の言語なのであるからして、好きになったり嫌いになったりする対象ではないように思いますけどね。きのうビデオでフィンランド×イタリア戦を観ていたら、実況の中で「トッティはイタリア語の文法をよく知らず、うまく喋れないのでインタビューが嫌い」というような話が出ていたが、そんなトッティが「理系」かというと、もしかしたらそうかもしれないが、そういうモンダイではないのだった。母語がうまく使えない人間は、ふつう、文系にも理系にも進めない。いくら体育会系だからって、日本語がうまく喋れない日本人Jリーガーって見たことないし。どうなってんだトッティ。いったいぜんたい、どんなふうに喋ってるんだキミは。

 私は「国語が苦手」を公言する理系著者のゴーストをしたことも何度かあるが、そういう彼らだって日本語はちゃんと喋っていた。文章を書くのは苦手なのかもしれないけれど、それでも学術論文は自分で書いている。「国語力」が基本的な読み書き能力のことだとすれば、国語のできない人間に学問ができるはずがない。よく言われることだが、文章が読めなければ、算数の問題だって何を訊かれているのかわからないのである。そういう意味では、小学校の授業なんて、教科書を使わない体育以外はすべて「国語の時間」だと言ってもいいぐらいなんじゃなかろうか。もちろん、問題を作る教師の側にも国語力は求められる。テーブルの上にミカンが3つ、リンゴが2つあります、合わせていくつですか。そんなこと言われたって、ミカンとリンゴは合わさりませーん。「合わせて果物はいくつですか」と書け。

 そんなわけだから、「国語」と「文系」のあいだに何か関係があるとは私には思えない。しかし現実問題として、しゅうちゃんさんのように「国語が嫌いだから理系」という人は少なからずいるわけで、そこで語られている「国語」とはいったい何かということに問題の本質があるような気がしてきたが、よくわかんなくなってきたので、もうやめる。このあたりが文系の文系たる所以なのかもしれない。




2003.07.03.Thu. 16: 30 p.m.
BGM : Shambara "シャンバラ"

 やれやれ。ものすごく恥ずかしい話なので、ものすごく小さな字で書くのだけれど、ようやく確定申告が済んだ。自分史上最大の遅れである。この時期に提出するだけでも図々しいのに、その申告内容たるや厚顔無恥レベルの図々しさ。さすがに怒られるんだろうか。それとも、やはり税務署のお役人さんは淡々と処理してくださるんだろうか。

 去年の収入をいまごろ把握しているというのもどうかと思うが、ものすごく少ないと思い込んでいた平成14年の売り上げは、思っていたよりもはるかに多かった。まったく生活実感に合わない。計算を終えた瞬間に、「そんなはずはない!」と声を荒げてしまったほどだ。いったい、誰がいつ私にお金を払い、誰がいつ私からお金を奪っていったのか。嗚呼、銀行を通り過ぎてゆくお金たちよ。たまには、しばしそこで立ち止まって来し方行く末をじっくり考えてみないか。

 要するに一昨年の凹みがここで埋め合わされているのだった。ここ数年、「なぜこんなに稼ぎが少ないのだ」「なぜこれだけ稼いで手元に金がないのだ」を1年おきにくり返しているような気がする。いずれにしても、金がないことに変わりはない。過去5年間を均してみれば、この年齢のフリーランスにはあるまじき低年収である。ではどうすればいいかというと、受注をこれ以上増やすとたぶん死ぬので一本あたりの単価を上げるしかないのだが、私がいくら頑張っても売れない本が売れるようになるわけもなく、むしろ部数は減る一方なので、印税率を上げてもらう以外に手はないのだった。ゴーストの仕事を捨てるつもりはなくとも、ここまで雑誌原稿との格差が開いてしまうと、続けるのはしんどい。

 しかしお金の交渉というのは難儀だ。いちいち「すんませんが、もう少し……」などと言うのは気詰まりだし、お金の話ばかりしていると自分がとても矮小な人間になったような気がしてくる。いや、まあ、実際問題、図体はデカいが人格は矮小なんですけどね。代理人がいればなぁとも思うが、そんなものを雇うほどの金ガサでは全然ないし。

 そもそも困るのは、本ができあがるまで編集者とのあいだでギャラの話がいっさい出ないケースが大半だということだ。もちろん最初に訊かない私も悪いが、やっぱり仕事の発注は金銭的な条件込みでしてもらいたいよなぁと思う。まあ、各社ともそれなりに信頼関係を築いてきたので、「悪いようにはしないから」ということだろうと思ってはいるし、実際、そう悪くされることもないのだが、その「悪いようにはしない」のレベルが十年前とくらべると20%ぐらい自然減しているような気がするし、信頼を裏切られることも皆無ではない。

 なので、この際、交渉のストレス削減およびギャラの底上げを目的とした「料金表」を作ってしまおうかとも思う今日この頃である。そういうのって、かなりヤなライターだとは思うが、カメラマンなんか人によってはそういう「言い値」があるみたいだし、「そんなに払えるかよこのボケ」と仕事が来なくなったとしたら、それはそれで仕方がない。その程度の力量だということだ。必要とされないなら、続けていてもしょうがない。べつに私が書かなくたって、世の中にライターは掃いて捨てるほどいる。ライターがいなくたって、著者が自分で書けばよろしい。書く時間や能力がないのなら、それなりのコストを著者も負担してください、という話なのである。売れたらたくさん持っていっていいけど、初版はこっちにたくさんくれ。

 と、実際にはそこまで思い詰めているわけじゃないし、一発ベストセラーでも飛び出せばすべて丸く収まる話だったりするのだが、こうも初版部数に「ガッカリ」「愕然」が続くと、モチベーションも下がるっつうもんです。だからって、それが〆切モラルハザードの原因だなんて言うつもりはないけれど、それなりに立派なニンジンがぶら下がってないと、300枚書くのはきついのである。部数が減ったぶん、一冊150枚から200枚ぐらいにしてくれれば受注も増やせるんですけどね。高齢化社会だし、もっと字ぃデカくすれば、それぐらいで十分イケるんじゃないの? あんがい本気で言ってるんだけど、駄目ですか。




2003.07.02.Wed. 11: 15 a.m.
BGM : Yumi Mtsutoya "U-miz"

 きのうは7月1日だった。一昨日が6月30日だったのだから当たり前のことであるし、私もきのうの日誌に自分で日付を入れているのだから、それを知らなかったわけでは決してない。それなのに、なぜ、7月2日だと思い込んでいたのだろう。2日ではなく1日だと気づいたのは、神楽坂の駅を降りてSC社の受付で名を名乗り、「おかけになってお待ち下さい」と言われた後のことだった。なんか、受付嬢たちの様子がおかしかったのだ。彼女たちは混乱していた。あちこちに内線をかけて、会議室がどうとかこうとか言っている。私のせいだった。受付嬢は私を傷つけまいとして何も言わなかったが、私は「はっ」と気づいたのである。たぶん「はっ」と声に出したはずだ。

「す、すみません、きょ、きょうは何日ですか(汗)」
「7月1日です(ニッコリ)」
「あ、あの、私、何かとんでもない勘違いを……(大汗)」
「いえ、大丈夫ですよ(あくまでもニッコリ)」

 2日の4時に来るべき人間が1日の4時に来てしまったため、急遽、打ち合わせに使う会議室を手配してくれていたのだった。嗚呼。ものすごく間抜け。受付嬢は最後まで私の間違いを指摘しようとしなかったが、その優しさは大変ありがたいものの、こういうときは「明日だろボケ」ぐらい言われたほうが気が楽になるというものである。打ち合わせ相手のI氏がたまたま在社していたので会うことができたとはいえ、初対面の挨拶が「早く来ちゃってすみません」なのだからとんでもないバカだ。「遅くなってすみません」は週1ぐらいのペースで口にする人生だが、早すぎて謝ったのは初めてかもしれない。穴があったら底までもぐって膝を抱えたかった。

 勘違いの理由はいろいろ考えられる。まず、不慣れな出張に行ったこと。私の中では「30日まで北海道で、中1日おいてSC社で打ち合わせ」という感覚だったのだが、30日の午後に帰宅してその日は自宅で休んだため、その時点で「中1日」を消化したような気分になっていたのである。また、曜日に関する混乱もあった。だって、ほら、1日って何となく月曜日っぽいじゃないですか。なので、私の中では最初から「火曜日の4時にSC社」という錯誤があったのだと思う。

 いずれにしても、こういうことはリコンファームが大事だ。私はあんがい慎重なタチなので、昔は前日や当日の朝に確認の電話を相手に入れることが多かったのだが、最近はそれを怠っていた。しかし何事も確認は大事である。各社編集者の皆様には、今回のトラウマによって、今後はしつこいぐらい確認の電話を入れることになるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

 それにしても2日ではなく1日だと気づいた瞬間に脳裏を過ぎったのは、神楽坂に出かける前に特急で仕上げた原稿のことである。「2日の17時まで」と言われていたハーバード・ビジネス・レビューの商品情報を、15時前に書いてしまったのだった。〆切の26時間も前に送ってしまうなんて、いつも待たせてばかりいる他社の編集者諸氏に顔向けできないじゃないか。っていうか、それを送稿した後の電話で「ずいぶん早いですね」とひとこと言ってくれれば、1日早く神楽坂に行くこともなかったのに。

 その7月1日に開設されたという長谷川きよしOfficial Siteを管理してらっしゃる方から、メールを頂戴した。3年も前の日誌(2000年4月8日)を検索で発見し、CD情報を寄せてくださったのである。あの日誌で知らない方から情報が寄せられたのは二度目だ。長谷川きよし関係者の情熱を感じずにはいられない。どうもありがとうございました。その情報によると、2002年に「ふるいみらい」という作品と、長谷川きよし自身のセレクトによるベスト盤「My Favorite Songs」がリリースされており、どちらもHMVやタワーレコードなどのオンラインショップで購入可能とのこと。さっそくゲットすべし。

 きのう、打ち合わせの前に時間調整のために入った(本当なら24時間10分ぐらい立ち読みしなければいけなかったのだが)神楽坂駅前の書店で、タイトルにひかれて阿久悠『日記力』(講談社+α新書)を買った。まえがきを見たら、いきなり「この本は語り下ろしである」と書いてある。やっぱ流行ってんのかな、こういうの。違和感があったのは、同じまえがきの中のこんな文章である。

 日記に関する本の出版の話が持ち込まれた時、ぼくは、書くのではなく、語ることに拘泥わった。ハウツーものとか、マニュアル本を越えるためには、スラスラと方法論を書いては駄目である。多少ギクシャクして、遠回りな感じがするとしても、ぼくのものの見方や考え方、仕事のやり方や生き方までが集約されていなければならず、そのために語ることを選んだ。これはこれでエネルギーのいることであるが。
 私の感覚では、これ、逆なんですけどね。「書く」行為って、とても「遠回り」で、否応なく「考え方」や「生き方」が反映されてしまうもので、だから面白いんだと思っているのだが。「スラスラと方法論を書い」た「マニュアル本」を作るときこそ、ライター使ったほうがいいんじゃないかしら。しかしまあ、考え方は人それぞれである。阿久悠のいう「語り下ろし」は「ライターを使う」とは違うのかもしれないし。実際、まだ冒頭部分しか読んでいないのだが、「多少ギクシャク」に関しては、その狙いは成功していると思いました。『バカの壁』とは別の意味で、私にはこういうふうには書けそうもない。




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