edogawa's diary 03-04 #02.
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2003.07.22.Tue. 12: 00 p.m.
BGM : 向井滋春 "ORISSA"

 きのう(月曜日)体重を量ったら、なぜか土曜日より2キロも減っていた。ひゅーひゅー。パチパチパチ。……あー。おれ、思い出し笑いが止まんないよ。でも考えてみると、思い出し笑いの材料って、私たちが積み重ねていくさまざまな思い出の中でもいちばん貴重なものではないのか。人を思い出し笑いさせる人はえらい。ひゅーひゅー。そんなことで褒められてもO崎君だって困ると思いますが。

 本人は「もう書いてくれるな」と言いたいだろうが、日曜日のO崎君がおもしろかったのは、彼が「ひゅーひゅー教」の教祖のように見えたからだと思う。そこには、「ひゅーひゅーの効能」に対するいかにも酔っ払いらしい信念のようなものがあった。ひゅーひゅーは人に闇雲な幸福感を与えるのだ! だからおれも闇雲にひゅーひゅー言うのだ!

 実際、意味がわからなくても、裏声で「ひゅーひゅー!」って言いながらパチパチ拍手されたら、誰だって悪い気はしない。何かの精神療法でも、患者が集まってお互いに拍手し合うことで心のあり方を変える、というようなものがあったような気がする。精神療法じゃなくてスポーツ選手のメンタルトレーニングだったかな。まあ、どっちでもよろしい。大事なのは、根拠も脈絡もおかまいなしに人を賞賛することだ。会社や学校でも、これをやってみてはどうか。朝、ふつうに挨拶する代わりに、だれかれ構わず万雷の拍手とひゅーひゅーで迎え入れるのだ。現代人の抱える漠然とした不安が解消され、みんな生き生きと仕事や勉強に励めるに違いない。

 私はその会社に入りたくないが、この社会的ムーブメントをラジカルにリードするのが、ひゅーひゅー教団である。それはおそらく街頭から始まるだろう。どこからともなく、数名の信者を引き連れたO崎君が風のように現れ、次々と通りすがりの人を取り囲んでひゅーひゅーパチパチと拍手攻めにしている場面を想像すると、私はまたしても笑いが止まらないのだった。

 そういうことじゃなくて、体重の話をしたかったんだった。中一日で2キロも減る理由がぜんぜん判らない。このところ1ヶ月ぐらい増えもしないが減りもしなかったのに。日曜日にバッヂのライブを聴いたせいだろうか。どんなバンドだそれは。卑猥なモーツァルトに何か吸い取られたのか。あるいは、4時半から3時半まで11時間も呑んでいたのがよかったのかしら。あんまり食わないで話ばっかりしてたしね。これは画期的なダイエット法かも。週末ごとにやると、みるみる痩せていくんじゃないだろうか。

 そういえば三軒目に入った白木屋で「クエン酸サワー」とかいう腰を抜かすほどマズい異様な緑色の飲み物を口にしたが、もしかしてあれが驚異の痩せ薬だったのかなぁ。もう飲みたくないなぁ。誰が注文したんだよ、あれ。いいトシなんだから、もうちょっとマトモな店で飲みましょう今度から。スーフリもかくやと思わせる脳腐れな若造どもがバカ騒ぎしててアタマ来たし。ケーサツは渋谷ばっか行ってないで、高円寺でもちゃんと不良を射殺したまえ。射殺はしてないですね射殺は。でも催涙弾の一発や二発はぶち込んでもいいと思いました。最近あんまり使ってないから余ってるだろうし。催涙弾を知らない子供たちめ。私も知らないが。

 ともかく、ふと気がつけば、前に設定した夏までの目標値にあと1キロだ。実をいうと、この忙しいのに木曜日から家族を連れて御宿で海水浴をすることになっているのだが、それまでに目標達成できるかもしれない。なんだか知らないが、このところ順調なのは減量だけだ。やはりダイエットと仕事は両立しない。

 っていうか、この涼しいのに海水浴かよ。なんで夏になんないんだよ。早く予約しずぎたよ。ほんとツイてないよ。勘弁してほしいよ。

 バッヂのベース奏者タボン君がさっそくメールで教えてくれたところによると、セガレも私も気に入った一昨日の2曲目は「The Pale Moon」という曲で、実力派セッション・ドラマー沼澤尚のソロアルバムに収録されているそうだ。作曲は、どうやら元オルケスタ・デ・ラ・ルス(ナカグロの位置はこれでよかったか)のメンバーでもあったらしいピアニストの塩谷哲とのこと。「実力派セッション・ドラマーのソロアルバム」というだけで何か心惹かれるものがあるのは、一昨日の酒席で後輩に仕事の現状を問われ、自分のことを「一枚だけリーダー作を発表したことのあるスタジオ・ミュージシャン」にたとえて説明したせいだろうか。どんな人か知らないが、がんばれ沼澤尚。




2003.07.21.Mon. 16: 10 p.m.
BGM : 向井滋春 & MORNING FLIGHT "MARGARITA"

 O崎君は、「酔うと手で自分の顔を叩く」という奇癖の持ち主である。私の観察によれば左手で左の頬をぴしゃぴしゃと二度ほど叩くことが多く、ふだんきわめて真面目で硬派なO崎君の、それが「わたし酔っちゃいましたサイン」なのだった。彼を知る仲間たちにとって、「あ、O崎が顔叩いてるぞ」「あー、叩いてる叩いてる」「だいじょうぶかなぁ」は毎度お馴染みの会話だ。おもしろいのは彼の目がそのとき必ず笑っていることで、「5分おきぐらいにニタニタ笑いながら黙って顔を叩いている酔っ払い」の姿は、あんがいチャーミングだったりする。

 きのう、高円寺の「黒潮」で私がそのサインを最初に目撃したのは、夕方の6時ぐらいだっただろうか。こんなに早い時間帯に彼の顔叩きを見たのは初めてだが、飲み始めたのが4時半ぐらいだったので仕方がない。それはJIROKICHIで行われたFor Badgeholders Only(2003年2月9日の日誌参照)のライブの打ち上げで、きのうは終演が4時と早かったのである。前回にも増して愉しいステージだった。「ノーチェ・コルリエンド」(松岡直也)、「カレイドスコープ」(ザ・プレイヤーズ)といったジャパニーズ・フュージョン、R指定にすべきではないかと思うほど卑猥にアレンジされたモーツァルトの40番、渾身の難曲「サード・ウィンド」(パット・メセニー)、恒例の「スペイン」(チック・コリア)などを堪能。ちなみに、汗びっしょりになりながら客席の片隅でずっと踊っていたセガレは、「2曲目がいちばん楽しかった」らしいのだが、あれ、なんていう曲だったっけ。あんまり子供向けの曲じゃなかったよねぇ。私もあれはとても気に入ったが。

 それにしてもO崎君だ。顔叩きのスタートが過去に例を見ないほど早かったため、私は初めて、彼の酔い方に次のステップがあることを知った。時計が7時を指す頃になると、彼は顔ではなく、手を叩き始めたのである。その時点で彼は、「ひとりで別の世界に入っていながら話の輪には何となく加わっている」という、ひと足早く酔ってしまった者にありがちな孤独なのかそうじゃないのか微妙なポジショニングになっていたのだが、そのような状態で、O崎君は誰かが何かを言うたびに、やたら大きな音でパチパチパチと拍手をするのだった。それに加えて、ときどき「ひゅーひゅー!」とか「ほー!」とかファンキーな奇声を発している。ぜんぜん、意味がわからない。いま私はこれを書きながら昨夜のシーンを思い出してゲラゲラ笑っているのだが、うまく描写できているような気がしないので、たぶん、読者には何のことやらわからないだろう。なにしろ、現場で見ていてもわけがわからなかったのだ。あの不可解さを言葉で再現するのは難しい。だって、むかしキーボードのN尾君が温泉旅館で財布を紛失したときの思い出話をしている私たちに向かって、だしぬけに「ひゅーひゅー!」って拍手されても、茫然とするしかないじゃないか。それはいったい何を賞賛しているのか。おもしろかったなぁ。

 7時半になると彼は「テーブルに突っ伏して寝る」という第3段階に入った。その後しばらくして私たちは8時に店を出たのだが、最後の第4段階で何が起きたのかは書かないほうがいいだろう。私とタボン君が先に店を出て待っていると、まず表情を完全に失ったO崎君の腕を抱えたN尾君が出てきて彼をタクシー乗り場へ連行し、やがて「後始末」をしていたヤマちゃんとモルちゃんがゲンナリした顔をして出てきた。おそらく彼は8時半ぐらいに家に着いたはずで、そんな早い時間帯に一家の主が正体不明になって帰宅したのだから、O崎家のみなさんはさぞびっくりなさったのではないかと思う。各方面の皆様、いろいろな意味でお疲れ様でした。




2003.07.19.Sat. 12: 45 p.m.
BGM : 矢野真紀 "明日"

 本日二度目の更新である。なので、下から先に読んでね。

 早朝に帰宅して仮眠をとって起床して朝刊を見ると、天声人語では渋谷を<大都会が備えているダイナミズム・躍動という段階を超えてカオス・混沌(こんとん)に近い>と表現していた。そういうシブヤもあるんだろう。

 仕事場に戻ってネットを見ると、 矢野真紀の日記が更新されていた。<雨と風がすごくてうた声が雑踏と一緒にもってっちゃってた。悔しかったけど、楽しかった。すごい新鮮な気持ちでラララーーーってうたった>。これもまた渋谷の風景である。どちらも日本人の目に映った「渋谷」には違いないけれど、どちらが「先入観を排した自分の目線」に正直であるかは言うまでもない。そのストリートライブの時間と空間を共有できなかったことが心底から悔やまれる。

 ところで、どうやら7月16日は矢野真紀の歌い手としての誕生日でもあったらしい。そこはかとないシンクロニシティを感じる今日この頃である。




2003.07.19.Sat. 01: 40 a.m.
BGM : 矢野真紀 "明日"

 ワイドショーやニュース番組に登場する渋谷の街は、いつだって紋切り型だ。制服のミニスカート、だらしなく胸元を開けた娼婦テイストな装い、薄汚い茶色の髪、福島弁を下品にしたような感じの奇妙に右肩上がり(それってヤバくない?)なお喋りとそれをコーティングする痙攣に似た半笑い、そしてキーキーと不気味に響くキカイで改変された音声。画面上の「渋谷」はきわめて扇情的であり、ときには狂気さえ孕んでいる。プライバシー保護のための操作が、それを演出するのに一役買っていることは言うまでもない。顔を映さずに少女たちの姿を撮ろうとすれば、いきおい映像は彼女たちの下半身や胸元ばかりになる。いや、たぶん映像制作者たちはプライバシー保護という建て前を隠れ蓑にして、むしろ喜び勇んでそのような風景を切り取っているに違いない。音声も同じ。仮に少女たち本人が「そのままでいいよ」と言っても、テレビ局はその声を改変するんじゃないかと思う。すでにあの神経にさわる異様な合成音は、メディアにおける「渋谷っぽさ」の一部になっているからである。むろん少女たちもカメラの前でマイクを向けられれば、期待に応えてその「渋谷っぽさ」を演じようとするだろう。リポーターが指示や教唆をしなくたって、無自覚な「ヤラセ」はいくらでも起こる。そうやって「局部」だけを肥大化させられた記号としてのシブヤが、「良識あるオトナたち」を挑発するのだった。

 井の頭線沿線に住む私にとって、渋谷はわりと身近な街だ。銀座線や山手線への乗り換えのために通り過ぎることが大半で、街を徘徊することはあまりないものの、まあ、しばしばその風景は目にしている。で、その私の目に渋谷の街が「あんなモノだらけ」に見えるかというと、決してそんなことはない。私にとって渋谷は、「ものすごく人がたくさん歩いているとくに面白味のない街」にすぎない。たしかに居心地はあまり良くないけれど、そんなにトクベツな意味を持つ場所のようには感じられないのである。それは私が世間知らずで鈍感だからなんだろうか?

 いま売られているサッカーズ8月号のコラムで私は、「紋切り型は過大評価につながる」というようなことを書いた。あまり深く考えずに直観で「えいやっ」と書いたもので、文章を「承」から「転」へ運ぶためのいわば強引な屁理屈だったのであるが、マスメディアにおける渋谷の扱われ方を見聞きしていると、私の直観もあながち間違っていなかったのではないかと感じる。渋谷は過大評価されていないか。

 たとえば「現代社会のゆがみ」という紋切り型は、現代社会を過大評価していないか。「現代人の抱える漠然とした不安」は、現代人を過大評価していないか。「時代の閉塞状況」は時代を、「出口の見えない不況」は不況を、「常識にとらわれない柔軟な発想」は発想を、「ジェネラリストよりスペシャリストを目指せ」はスペシャリストを、「それを含めてサッカーですから」はサッカーを、「地球にやさしい」はやさしさを、「子を持つ親として」は子を持つ親を、「人間らしい生活」は人間と生活の両方を、「傘のお忘れ物にご注意ください」は傘を、「変態餓鬼をかばう人権外道」は変態を、「命の重さを子供たちに教えたい」は命を過大評価していないか。

 あらゆる言葉はあらゆる現実を過大評価していないか。

 原稿が書けない。




2003.07.18.Fri. 9: 45 a.m.
BGM : 矢野真紀 "明日" (5th Single『タイムカプセルの丘』より)

 誰も興味ないと思うから放っておけばいいようなものだが、7月14日の日誌に訂正。矢野真紀の『明日』という曲は、たしかにアルバム『そばのかす』に収録されているものの、それは生ギター1本の伴奏によるセカンド・バージョンで、オリジナルはシングル盤の『タイムカプセルの丘』の3曲目なのだった。

 で、それを買っていま聴いているのだが、これがまた涙が出るほど素晴らしい! 矢野真紀のソングライターとしての力量は「そばのかすバージョン」でも十分にわかっていたが、先にそれを聴いていた私が今回このオリジナルに触れて強く感じたのは、「アレンジの力」だった。この曲における亀田誠治プロデューサーのパワフルかつワイルドなアレンジは、矢野真紀の言葉と声に魔力のようなものを与え、彼女がそこに込めた控え目だが強靱なメッセージの輪郭を鮮やかに浮かび上がらせている。もしかしたら、今のところ矢野真紀の最高傑作はこれかも。自家製のベスト盤にこの曲を入れなかったのは、たいへんな失態である。

 矢野真紀の(とくにB面系の)歌にはそういうものが少なくないのだが、『明日』の歌詞にも、凡庸でろくでもない日常や冴えない「私」を描写した自虐的な言葉が並んでいる。しかし彼女の自虐はいつもどこか楽観的だ。自らを愛撫しているようにも聞こえる。とはいえ、それは決して軟弱な自己憐憫ではないし、欺瞞に満ちた独善でもない。彼女が、<こんな私だしどうせこんな私だし 私なんか私なんかだし>と歌うとき、私はそこに、おのれに対する過大評価も過小評価も注意深く避けながら、等身大の自分を受け容れることによって懸命に前を向こうとする強い精神の力を感じるのだった。「自分探し」と称してアテもない漂流を無駄にくり返す者たちと、矢野真紀は対極のところに立っている。その立ち位置から彼女が見ている世界の風景をもっとも端的に表現しているのが、『明日』という歌ではないだろうか。矢野真紀というシンガーを知ってから1年半ぐらいになるけれど、これを聴いて初めて彼女に「出会った」ような気がしたぐらいだ。

 あえてものすごく大袈裟に言い放ってしまうなら、現代人が孤独やニヒリズムを克服するために目指すべき突破口のようなものを、この『明日』という歌は私たちに提示している。ような気がする。ちょっと大上段に振りかぶりすぎて照れ臭い。だいたい、こういう新聞の社説みたいな物言いは何も言っていないのと同じだ。もっと肩の力を抜いて言えば、ささやかだが信じるに足る希望と、体の片隅に置き忘れていた元気と、そして人を愛したいという差し迫った感情が、ふつふつと湧き上がってくるような歌です。……少なくとも私にとっては。そして矢野真紀も、「少なくとも私は」と呟くところから歌という行為を始めているような気がする。

 ちなみにこのCDには、カラオケ化もされたという『風をあつめて』も収録されているのだが、この『風をあつめて』は、あの松本隆と細野晴臣による『風をあつめて』だった。いいっすよ、これも。やはり矢野真紀という歌い手にとってのベスト・プロデューサーは亀田さんなのではないかと改めて思った。




2003.07.17.Thu. 11: 55 a.m.
BGM : "GETZ/GILBERTO" featuring Antonio Carlos Jobim

 さっき書き込み(65)をした後で気づいたんだけど、この名盤もちょうど40年前の録音なんですね。1963年3月18、19日。場所はニューヨークだ。ちなみにビートルズがアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』をリリースしたのは3日後の3月22日で、その9日後には台東区の公園で吉展ちゃんが誘拐された。Kay'n君が産声をあげた2日後には、奇しくも第2次池田内閣が発足してますね。林家ぺーなのか私は。ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺されたのは11月22日だ。ケネディはボサ・ノヴァが好きだっただろうか、嫌いだっただろうか。

 スカパー!CL中継の視聴方法が発表されている。やれやれ。またプラス1000円の出費である。「THE FOOTBALL KINGDOMセット」と合わせて、月4,990円。ゴルフも夜遊びもしないからそれぐらいはいい(タクシー帰宅一発でそれぐらいになるもんね)とはいえ、「テレビに毎月5,000円」はいまだに心理的な抵抗がある。

 でも最近、サッカーがないので珍しく地上波をだらだら見たりしていると、やはりカネを払ってでも見たいものを見たいと思うのだった。とくに民放のニュース番組は、精神衛生に大変よろしくない。文句ばっか言うから、家庭の雰囲気も悪くなる。ゆうべニュースステーションを見てたら、辻元清美事務所の郵便受けに辻元清美の顔写真がこちらに見える格好で新聞が差し込まれていたが、それ、つくってないか?

 地上波の番組がぜんぜん面白くないとは言いませんけどね。ゆうべも、いくつかバラエティをハシゴしてへらへら笑ってました。しかし、たまたまそういうのが重なっていただけかもしれないけど、「視聴者からのハガキやメールをネタにしてツベコベ言う」というスタイルの番組が3つもあったのはどういうわけなのか。そこに、自らの才覚で「世界」を創り出そうという気概はあるのか。ゆうべ見たタレントの中で、そんな野心を感じさせるのは、ただ一人マシューだけだった。

 野心といえばアブラモビッチである。チェルシー、マーケットで大暴れでんがな。とうとうラウールにもオファーを出したとか出さないとか、どっかに書かれてた。135億だって。ウソにしてもおもしろい。ラウールとヴェロンとダビッツがいるチェルシー、見てみたいです。ぜんぜんプレミアっぽくない。どうせならチームごとスペインに移籍してはどうか。




2003.07.16.Wed. 11: 15 a.m.
BGM : 長谷川きよし "ふるいみらい"

 80年代の名演を集めたベスト盤『Better Days Of SHIGEHARU MUKAI』が、自宅と仕事場のどこを探しても見つからないのである。おっかしいなぁ。私の所有しているCDの中でも屈指の貴重品なのに。誰かに貸したのだろうか。そんな気もする。あなたのCDラックに、私の向井滋春はありませんか。

 ところで向井滋春といえば、アストラッド・ジルベルトと共演した名盤『SO & SO - Mukai Meets Gilberto』がCD化されているのを知っていたか皆の衆。皆の衆っていうか、「中古レコード店に行くたびに探している」と言っていたO崎くんに言ってるんですけど。そういえば、前にごっそり預けたマルガリータとかオリッサとかヤポネシアとかハップハザードとかのCD−R化作戦は進んでますかO崎くん。いや、私もすっかり忘れていたのでべつに催促しているわけではないのだが。そもそも私には、何かを誰かに催促する資格などないのだった。

 それはともかく、『SO & SO』は手に入るぞ。きのう仕事から逃避してなんとなくHMVで向井さんのCDを探したら、あった。すごくびっくりした。なんで今まで探そうとしなかったんだろう。「あるわけない」と思い込んでいたからだが、どうやら94年にアメリカでとっくにCD化されていたらしい。さすが天下のアストラッド・ジルベルトと共演しただけのことはある。もしかしたら今までも、店頭でアストラッド・ジルベルトのコーナーを探せば『SO & SO』はそこにあったのかもしれない。いわゆるひとつの盲点ってやつですね。

 ちなみに『SO & SO』は、CD−Rの国内盤も発売されていた。意味がよくわかんないので輸入盤CDのほうを注文したんだが、安い国内盤CD−Rでもよかったのだろうか。なんかCD−Rって言われると、違法コピーっぽい感じがしちゃってさ。どう違うのか、誰か教えてください。私は300円ばかり損をしたのか。音質とか耐久性とか、いっしょなの?

 どうでもいいけど、つい「アストラッド・ジウベルト」と書きたくなるサッカーファンは私だけだろうか。さらにどうでもいい話をすれば、このあいだは何かの拍子にEL&Pのことを「エメルソン・レイク・アンド・パーマー」と言いそうになった。今時なんでそんな固有名詞を口にしたのかは忘れたが、それは一体どのエメルソンなのか。どのエメルソンでもないです。

 このところ音楽の話ばかりしているような気がするが、きのう、「お取り寄せ」待ちだった長谷川きよし『ふるいみらい』が届いた。全曲完全弾き語りソロアルバム。それだけでも私にとっては感涙モノである。彼の声とギターの音色さえあれば、もう、ごはん何杯でもいけちゃうよね。めし食ってちゃいけませんけども。

 3部構成に分けられた全19曲のうち、最初の3曲は中原中也の詩(湖上、雪の宵、わが喫煙)に曲をつけたものである。中原中也といえばKay'n君と20年前(20年前だ!)に出会った頃のことを突如として思い出したりするわけだが、そんな内輪話はともかく、ユーミンも中原中也も同じように取り込んで自分の世界を描いてしまうことのできるシンガーは、他にいないであろう。

 続く12曲は、『ふるいみらい』と題された組曲になっている。中村道雄という人が描いた絵に中山千夏が詩を寄せ、その詩に魅せられた長谷川きよしが曲をつけたんだそうだ。その曲に触発されて絵を描くべつの人が現れたら一体どうしたらいいのかと私がうろたえることもないのだが、まあ、それはそれで「あたらしいふるいみらい」が作られるのであればいいのかなぁとも思われ、そのエンドレスな循環具合にはいかにも「ふるいみらい」的なパラドックスを感じるのであったが、そんなことはともかく中山千夏の名前を久しぶりに見ました。

 最後の4曲は、いずれも初期の名作バラード。デビュー以来初のギター弾き語りによる『別れのサンバ』だ! と一人でコーフンしているのはけっこう辛いものがあるわけだが、私はうれしい。あとの3曲(雨あがり、夕陽の中に、光る河)も昔から好きなナンバーだが、やはり弾き語りされるとたまらんね。たまらんたまらん。永遠の愛聴盤になりそうである。

 うれしいこともあれば悲しいこともあるもので、どうやらシメオネがラツィオを去ることになったらしい。本人から聞いたわけじゃないので、私としてはまだ信じたくない気持ちなのだが、アトレチコに復帰するようだ。かなりショック。しかし以前からアトレチコとシメオネは相思相愛の間柄だったみたいだから、やむを得ない。いつかその日が来ることはわかっていた。

みんなわかっていたはずなのに
心の奥の寂しさを ああ
わかって あげれば
別れも 知らずにすんだの
 という『別れのサンバ』の一節がいっそう沁みたりするわけですが、しかしまあ、彼がサッカーをやめるわけじゃないしね。こうなると、私のアンチ白装束魂にもますます磨きがかかるというものだ。シメオネも、自分のいないアトレチコがベッカムのいるマドリーにやられるのは我慢ならなかったのかも。どんな男気を見せてくれるか楽しみである。そういえばヴェロンはチェルシー行きが取り沙汰されているがどうなっているのか。こっちはこっちで、ユナイテッド粉砕のモチベーションが猛然と高まる。ぜひ実現してもらいたい。

◇課題 江戸川が愛好する矢野真紀と向井滋春と長谷川きよしとシメオネの4者に共通するものについて、500字以内で述べられるものなら述べてみよ。




2003.07.15.Tue. 11: 20 a.m.
BGM : 松岡直也&Wesing "MAJORCA"

 いまゴーストで書いている原稿の一人称は「俺」である。著者のパーソナリティから自然に選択されたものだが、なんだか新鮮だ。過去に例がないわけではないけど、滅多にないからね「俺」は。そういえば前に「オレ」で書いたのも恋愛論だったっけ。べつに「恋愛」と「俺」に相関関係はないと思うが、なぜか私がゴーストする恋愛論は俺率100%だ。まだ2冊目だけど。

 この日誌における私の一人称も昔は俺だった。いまでは私が俺だったことが自分でもピンと来ないが、私が私になったのはわりと最近のことだ。2001年9月22日からだから、まだ2年もたっていない。そもそもは『キャプテン翼勝利学』を「私」で書くための布石というかトレーニングみたいなものだった。不思議に思うのは、「私」以前と以後では文章中の一人称登場頻度が後者のほうが圧倒的に高くなっていることである。そんな印象、ないですか。ちゃんと調べたわけじゃないし、気のせいかもしれないけれど、もしかしたら倍以上になってるんじゃないだろうか。日本語の文章、とりわけ日記というのは、その気になれば一人称をほとんど使わずに書けるのであって、つまり私は「俺」のときより「私」になってからのほうが「俺が俺が」になっているということかもしれない。そんな私が「自分の話ばかりするナルシストは女にモテない」という原稿を書いているのだった。うー。恋愛と詐欺と終盤のパス回しは「おれ」のほうがいいのかもしれない。パス回しは「オーレ」ですね。

 気になったので、世間の一人称を調べてみた。いずれもGoogleでキーワードにして検索したときのヒット数である。

「私」=27,400,000 「ワタシ」=379,000 「わたし」=2,390,000
「俺」=7,280,000 「オレ」=1,390,000 「おれ」=662,000
「僕」=6,520,000 「ボク」=852,000 「ぼく」=1,230,000

 ちなみに「ミー」も721,000件ヒットしたが、これは「トミー」とか「ホーミー」とか「マンマ・ミーア」とかが大半なようなので何の参考にもなりません。では上記の数字を参考にして何がわかるかというと、とりたてて気の利いたことは思いつかないのだった。「俺」は「僕」より多く、「オレ」も「ボク」より多いにもかかわらず「おれ」は「ぼく」より少ないが、だから何だというのだろうか。5年おきぐらいに継続調査すると、その変化に投影された「現代社会のゆがみ」なんかが見えてくるかもしれませんが。




2003.07.14.Mon. 11: 00 a.m.
BGM : 矢野真紀 "そばのかす"

GUEST BOOKの62を先に読んでちょ)

 なにぃ!? 『アンスー』が歌えるカラオケ店があるだとぉ!? しかもヤマちゃんちの近所にぃ!? 時間がなくても行くわい、そんなもん。って、怒るこたぁないのである。しかし、なんで『さよなら色はブルー』がないのに、『もっと騙して』や『アンスー』があるんだろう。などと疑問を呈したところで矢野真紀ファン以外には宇宙人の愚痴を聞かされているような話なのだが、『さよなら色はブルー』が堂々たる(昔で言うところの)A面であるのに対して、『もっと騙して』と『アンスー』は、ちょっとだけヒットした『大きな翼』のシングルCDに添えられた2曲目、3曲目なのだった。キャンディーズでたとえれば、『微笑みがえし』がカラオケに入っていないのに、『私だけの悲しみ』(『年下の男の子』のB面)や『一枚のガラス』(『その気にさせないで』のB面)が入っているようなものじゃないか。私も私だ。朝から何を一生懸命に語っているのか。たとえ話にするにはマニアックすぎる。

 ちなみに『私だけの悲しみ』や『一枚のガラス』がどんな歌なのかは私も知りません。さっき検索して調べたのだが、キャンディーズのB面はタイトルが投げやりだ。たとえば『内気なあいつ』のB面は『恋の病気』、私の大好きな『哀愁のシンフォニー』のB面は『別れても愛して』である。演歌でも失格だ。これは企画段階の仮タイトルだろ、ふつう。『恋の病気』『別れても愛して』とタイトルのつけられる歌は、世の中にそれぞれ3000曲ぐらいあるのではないか。というか、この2曲のタイトルを入れ替えても誰も違和感を持たないんじゃないかと思いました。

 すっかり話が逸れたが、カラオケに入っている『夢を見ていた金魚』というのはこれがまた異様な歌で、孤独を癒すために名前までつけて飼っていた金魚が死んで悲しい、というような話である。出だしはこんな感じ。

初めて買った金魚鉢
お祭りでとれる金魚は弱いから
すぐ死んじゃうって誰か言ってた
今朝も一匹水面に浮いた 泣きながらそっと手の平にのせた
 これが陽水の『氷の世界』を思わせる攻撃的なサウンドで歌われるという、すばらしい曲である。それを熱唱している自分というのは想像するだけでいかがなものかと思わないでもないが、歌いてー。あとね、『明日』というのもアルバム『そばのかす』のラストに収められた名曲です。譜割が複雑なんで、カラオケで素人が歌うのは難しそうだけどね。どうでもいいですか。どうでもいいですね。だが私は挑戦する。鉄人めざして今日から練習する。




2003.07.13.Sun. 17: 30 p.m.
BGM : 渡辺香津美 "KYLYN LIVE(DISC 2)"

 昨日ようやくエアコンが直ったと思ったら、たちどころに冷房不要の寒々しい天候になるのだからイヤになる。もしかして私はすでに、この夏いちばん暑い時期をエアコンなしで過ごしてしまったのだろうか。私ならあり得る。私のツキのなさが本物なら、東京はこのまま秋になるに違いない。エアコンを新品に買い換えなかったのが、せめてもの救いである。

 ほんとに世の中「どっちもどっち」なのであって、鴻池発言に対して長崎弁護士会は例によって例のごとく「現代社会のゆがみが少年に投影され、その結果惹起された事件の可能性もある」などといつもの紋切り型をくり返すのだった。そもそも「現代社会のゆがみ」が何のことを言っているのか定かではないが、仮にそういうものがあったとして、現代社会のゆがみは全ての現代人に投影されているはずで、しかしその「ゆがんだ現代社会」において事件を惹起するのはほんの一握りの人々なのだという、これまた紋切り型のツッコミを一体いつまで続ければいいのか。

 鴻池も弁護士会も同じ穴の狢だと思うのは、第一に事件そのものを既成の「ジャンル」に分類せずに先入観を排して見つめる姿勢を持ち合わせていないこと、第二に自分たちの言葉が世間に理解してもらえるだろうという「甘え」があることである。鴻池の「市中引き回し」も弁護士会の「現代社会のゆがみ」も、そこから「真意」なるものを読み取って支持する人はいるだろうけれど、それにはものすごーく深い読解力(と親切心)が求められるのであって、まあ、ふつうの人には読み取れない。むしろ読み取れた人は意図的に誤読してるんじゃないかと思うぐらいだ。要するに、彼らの言葉は彼らを甘やかしてくれる「仲間」にしか届かないのである。だけど政治家も弁護士も、はじめから自分の意見を善意で受け止めてくれるわけではない不親切な相手、むしろ隙あらば揚げ足を取ろうと待ち構えているような相手を、そのレトリック技術で説得し打ち負かすのが仕事じゃないのか? そんな人たちの言葉を甘やかしてどうする。

 どっちもどっちと言えば、大阪出張からの帰途、山手線の車中で「ケータイやめろ爺さん」に遭遇した。私は東京から乗り、爺さんは品川で降りたのだが、その間に「貴様、携帯電話を使うな!」と一喝された者は三人。いずれも真面目そうな勤め人風の人々で、ちゃらちゃらした若造ではなかったせいか爺さんに襲いかかる者はなく、皆、不服そうな顔をしながら黙って電話をバッグやポケットに片づけていた。爺さんが行動開始したときの車内の空気は、微妙としか言いようがない。「たしかにケータイ使用はルール違反だけど、そんな人前で恥かかすような叱り方せんでも」といった感じでしょうか。三人とも大声で喋っていたわけではなく、メールを打っていただけなので、迷惑がかかるとしたらペースメーカー使用者ぐらいだからね。ほかにも何かあるのか、よく知らないけど。いちばん悪いのは、車内使用を禁止せざるを得ないような(つまり医療機器に悪影響を与えるような)ケータイを作って売ってるメーカーだと私は思う。緊急時の連絡にもっとも威力を発揮するキカイは、場所を選ばずに使えなきゃ意味がない。

 しかし「爺さんは圧倒的に正しい!」と私が思ったのは、爺さんが降りた後、私の左隣に立っていた20代とおぼしき男性会社員が打ったメールを横目で見たときだった。べつに、不躾に覗き込んだわけではない。彼は打ち終わったメールの送信ボタンを押すと、画面をこちらに向けて高く掲げるようにして、ケータイを持った右手で吊革を握ったのである。「見ろ」と言わんばかりじゃないか。なので、見た。それは、こんな文面であった。

はあ〜。きょうも残業です。
イヤですねぇ。
契約書のチェックです。
 そうか。残業か。契約書チェックするのか。大変だな。しかし、(1)ペースメーカー使用者が近くにいるかもしれないリスク、(2)第二の「ケータイやめろ爺さん」が出現して叱り飛ばされるかもしれないリスク、(3)それが爺さんではなくヤクザだったらインネンつけられて金品を巻き上げられてしまうかもしれないリスク、などを負ってまで移動中に寸暇を惜しんで誰かに伝えたいことなのかそれは。他人の携帯メールを見たのは初めてだが、みんながシコシコ打っているのはこういうものだったんですか。だったら、やめておけ。

 ゆうべは、日本女子×メキシコ女子(W杯予選プレーオフ第2戦)をビデオ観戦。スタンドの声援も含めて、実にいい雰囲気の試合だった。国歌斉唱時の表情なんか、男どもよりよっぽど魂がこもっている。中山やアレックスみたいに思いっきり歌うならいいが、中途半端に口先だけ動かすぐらいなら、彼女たちのように胸に手を当てて口を真一文字に結び、じっと目を閉じていたほうがよい。試合は2-0の快勝。先制点は、容貌もプレイスタイルも俊輔そっくりな山本が華麗な切り返しから上げたクロスを、沢(穂希って何て読むんですか)がヘッドで決めたもの。2点目は、奈良岡朋子を思わせる古風な色気を漂わせたキャプテン大部のFKを、何者かがクライファートばりのジャンピングボレーで決めたものだった。いやあ。私、大部さんのファンになっちゃいました。あんなに見ていて切ない気分になるキャプテンシーの持ち主が、他にいるだろうか。美しいぞ、ニッポン女子代表。




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edogawa's diary 03-04 #02.