edogawa's diary 03-04 #04.
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2003.08.12.Tue. 11: 10 a.m.
BGM : 久保田早紀 "夢がたり"

汽車は川に沿って走ってゆく
汽車はどんどん川を追いこす
けれど追いこしても追いこしても
汽車は川を追いぬいてしまうことができない

(谷川俊太郎『汽車と川』より)





 タイプ3のエラーが発生しました。
 再起動まで1週間ほどお待ちください。





 タイプ3の鰓(えら)が発生したら怖いよね。そんじゃ、また。




2003.08.11.Mon. 12: 00 p.m.
BGM : Paul Simon "Still crazy after all these years"

 目がダメだ。「8時間睡眠をとっても起きると目が疲れてますエラー」だ。しょぼしょぼ。ちかちか。愛用していたサンテ40Vも効かなくなってきた。これだけ休めても具合が悪いとなると、もはや単なる疲れ目ではないような気もする。パソコンのディスプレイだけでなく、最近は取材時に喋っている相手の顔をじっと見ていても1時間ぐらいで目をこすり始めるのだから「駄目」としか言いようがない。べつに話が退屈で眠いわけじゃないんですよぅ。とくに右目が駄目だ。駄右目だ。眼科に行ったほうがいいに違いない。




2003.08.10.Sun. 11: 35 a.m.
BGM : J.S.BACH "THE BRANDENBURG CONCERTO NOS.4.5&6"

 よく晴れた夏の朝、快適にエアコンディショニングされた部屋で聴くバッハは格別だ。……なーんて書くと、それだけでバッハの音楽に精通しているような印象を与えたりするわけだが、実のところ、教科書程度の知識さえ怪しいのである。ゴーストライターの文章は知ったかぶりに満ちているので気をつけなきゃいけない。ブラインドテストをされたらバッハとヘンデルの区別もつかないぐらいなわけで、要は、バロック音楽ってこういう日の室内によく似合う気がするなぁ、というようなことだ。

 そんなわけで、ほかの演奏と聴き比べたことがあるわけじゃないのだが、このNEVILLE MARRINER指揮によるACADEMY OF ST.MARTIN-IN-THE-FIELDSの演奏(1980年の録音)はすごく良いです。こんなのいつ買ったのかなぁ……と思いつつ、さっきCDのブックレットをパラパラめくったら、「これはこの録音での全曲盤を買ったので差し上げます」という手書きのメモがはさまっていた。そうなのだ。何年か前にゴンザレスがくれたんだった。べつに一昨日から彼をここに登場させていることを意識していたわけではなく、なんとなくCDラックから手に取っただけなのだが、無意識の作用とは侮れないものである。ともあれ、こんな素敵なCDをくれる人に、本を送れなどと要求してはいけない。

 妻子は、今日から一泊で海水浴。愚妻の両親および妹一家と一緒に、上総一ノ宮に行っている。毎年恒例の行事で、私は毎年忙しくて行けない。先日の御宿があんな具合だったから、今回は晴れて良かった。私が行かなければ晴れるということかもしれない。

 どういうわけか、一昨日あたりからインターネット・エクスプローラーが使用不能になっている。何度やっても、起動が完了する前に「予期せぬ理由で終了しました」だ。始まってないのに終わらないでほしい。昔から思っていたのだが、この「予期せぬ理由で」って無責任で好かんなー。おまえね、コンピュータだからそれでも許されてるけどね、これライターだったら大変だよ。ためしに「予期せぬ理由で原稿はまだできておりません」ってメールを編集者に送ってみなさい。明日から失業するから。予期された理由なら許されるってわけでもないけどさ。もっと怒られるか。そんなことはともかく、現在はネットスケープのみで表示確認を行っておりますので、IEでヘンなことがあったら教えてください。トップページからのリンクの張り方に手を加えたので、ちょっと心配。




2003.08.09.Sat. 11: 45 a.m.
BGM : サディスティック・ミカ・バンド "黒船"

 颱風イエィ!

 きのうの夕刻、ゴンザレスから、「ども、ゴンザレスです」で始まるメールが来た。げ。ゴンザレスはこの日誌を読んでいないから、私がゴンザレスをゴンザレス呼ばわりしていることはゴンザレスに知られていないはずだったのに。『戦争論3』を送れと言ってくれれば送ったのに、といったようなことが書かれていたので、「見ぃたぁなぁ〜」と編集部に電話をしたら、たまに気紛れでここにアクセスすることがあるんだと言っていた。気紛れゴンザレスめ。おっ、『気紛れゴンザレス』って、あんがいタイトル的にイケてるかも。何のタイトルか知らないが。『気紛れコンセイソン』も悪くないかな。いや、やっぱここは『気紛れゴンザレス』でしょう。でも、ひらがなのほうがいいかもね。きまぐれゴンザレス。うん。いいじゃんいいじゃん。なんかこう、楽ちんに生きる勇気が湧いてくる感じがするよ。しかしコンセイソンも捨てがたいよなぁ。ならば、『きまぐれゴンザレスとやさぐれコンセイソン』ではどうか。けっこう売れるかもよ〜。だからそれは何。えーっと…………絵本、かな。

 しかしまあ、ほかにも「私は読んでないと思っているが実はたまに読んでる知り合い」っているに違いない。私もROMってる知人のサイトはいくつかあるから人のことは言えませんが、よかったらGUEST BOOKに足跡つけてってください。読んでる人の悪口は書かないようにするので。かっこ笑ひ。

 仕事のほうは、だんだん気持ちの中から「焦り」というものが消えてきた。ある種の達観。焦って行数が稼げるなら焦ればいいが、実のところ焦燥感はブレーキにしかならないのである。もう、商が増えていくばかりの割り算もしない。やるときはやるように自分の体ができている、と信じることにする。




2003.08.08.Fri. 12: 20 p.m.
BGM : THE ALAN PARSONS PROJECT "AMMONIA AVENUE"

 以前、『ポスト・ムラカミの日本文学』(朝日出版社)の著者としてこの日誌で紹介したこともある友人の仲俣暁生さんが、いま発売中の『群像』9月号で評論の短期集中連載をスタートさせている。活躍してるなー。すごいすごい。何がすごいって、表紙のど真ん中のみならず、背表紙にも名前とタイトルがデカデカと載っているのがすごい。編集部の期待の表れであろう。「群像の背表紙」って、めっちゃカッコいいよね。なんだか嬉しくなる。で、タイトルは「極西文学論序説」。内容については彼のウェブサイトsora tobu kikai web pageで簡単に紹介されているので、興味のある方はご覧ください。忙しくてまだ冒頭部分しか読んでいないのは申し訳ない話だが、日本を「極東」ではなく「極西」に位置づける(著者が指摘するとおり、私たちは自国を「極東」と称しながら、アメリカを自分たちの「東」にあると感じている!)という視点の転換を提示されただけで、どんな刺激を与えてくれるのかとワクワクする。それにしても『群像』なんか買ったのは何年ぶりだろうか。もしかしたら15年ぶりぐらいかもしれない。

 で、それを買いに本屋へ行ったら、京極夏彦の新作『陰摩羅鬼の瑕』(講談社ノベルス)が出ていた。知らなかった。早く読みてー。榎木津に会いてー。加えて、『戦争論3』(幻冬舎)も購入。私は『わしズム』でよしりんの対談記事を構成しているので副編シギーことゴンザレスが送ってくれるかとちょっぴり期待していたのだが送ってくれないみたいなので自分で買った。いや、あの、べつに文句はないです。読みたい本はちゃんとお金を払って買おう。しかし、いつ読むというのだ。このごろ、書くばっかりでぜんぜん本を読んでいない。読んでいないから書けないのかもしれない。「読む」は「書く」のガソリンだったりするからね。だからって、いま読み始めるとますます書く時間がなくなるわけですが。嗚呼。

 ゆうべ日本代表ニュースを見ていたら、「チェルシーが6日、マンチェスター・ユナイテッドMFファン・セバスティアン・ヴェロンを獲得したと発表した。契約期間は4年。また、チェルシーはウェスト・ハムも獲得した」と書いてあって腰を抜かしそうになった。やりかねない勢いですからね、あの脂おじさんの場合。しかしいくら何でもクラブ丸ごとゲットはしないのであって、「ウェスト・ハムからジョー・コールも獲得した」の誤りである。以上、天に唾する間違い探しはおしまい。中田はどうなっとんのかよくわからないことになっているが、そんなことより嬉しいのはセルジオ・コンセイソンのラツィオ復帰だ。やったーやったー。バキュンバキューン。拳銃は撃たなくてよろしい。シメオネ退団で失われた要素の一つである「やんちゃ」が、これで穴埋めできた。ところで、べつにどうでもいいのだが朝日新聞の表記は「コンセイサン」で、これを「新解さん」と同じイントネーションで「コンセイさん」と口にしてみると、それはそれで可愛らしいのだった。セルジオ・コンセイさん。ナニ人だ。

 きのうの日誌を書いてから急に思い出したこと。やはり中学生のときにYMOにハマった私は、あるときプラスチックスというユニットが存在することを知り、何を根拠にそんなことを思ったのかわからないが「きっとYMOみたいな音楽であるに違いない」と決めつけて、そのレコード(タイトルは失念。なんかケバケバした緑色のジャケットのやつ)を買ってしまったのだった。あのとき感じた「オレこういうのダメ感」が、椎名林檎を聴いたときに感じたものと似ていたと言ったら、両方のファンから怒られるんだろうか。怒られそうだ。先に謝っておく。すまん。




2003.08.07.Thu. 10: 30 a.m.
BGM : 小室等 "プロテストソング"

 中学生の頃、音楽と出会うのは専らFM放送だった。わずかな小遣いは、番組表を掲載した『FMファン』とエアチェック用のカセットテープの購入であらかた消えていった。今、FMを録音してる奴なんていないよなぁ。録音した番組は何度も何度も聴いた。今は『FMファン』が『サッカーズ』になり、カセットテープがHDVになっているわけだが、一度見た瞬間に消してしまうところが昔とは違う。

 前にも書いたと思うが、ビートルズと出会ったのもNHK−FMの夕方の番組だった。NHK−FMでは当時、ニューミュージック系(!)ミュージシャンのスタジオライブもしばしば制作しており、私が小室等という人を初めて知ったのも、その1時間番組でだったと思う。いや、FM東京の「音楽夜話」が先だったかな。ともあれ、そのスタジオライブで歌われていたのが、この『プロテストソング』というアルバム(1978年録音)に収められた曲たちだった。すべて谷川俊太郎の詩に小室等が曲をつけたもので、アレンジはジャズ・ピアニストの佐藤允彦が手がけている。ここで私は、小室等にというより、谷川俊太郎に出会った。自分もこんなふうに言葉を紡いでみたい、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』みたいに格好いいタイトルの文章を書いてみたい、と思った。25年前の中学生が受けた影響の大きさは、彼が仕事で使っている筆名を見れば一目瞭然である。台所じゃなくてお茶の間になっちゃいましたが。

 中学生はその後、鞄の中にいつも角川文庫の谷川俊太郎詩集をしのばせているというヤな高校生になり、大学生になると、詩人を輩出するような学科に進んだ。やれやれ、だ。音楽サークルでタボン君やヤマちゃんと出会った私は、麻雀に明け暮れる日々に突入し、めったに授業に行かなかった。なので、その学科で何かを教わった記憶がほとんどない。しかし、一つだけ(ほんとうに一つだけ)やけに鮮明に覚えていることがある。平岡篤頼先生が、小説の書き方を教える授業でおっしゃったことだ。「○○的」という言葉を使うな、と先生は強調なさっていた。どういうわけか、私はこれをずーっとトラウマのように引きずっている。とはいえ、教えにしたがって「○○的」を使わないわけでは全然ない。ただ、どんな文章でも、「○○的」と書くときは「おれはあえて使うのだ」という意識が頭のどこかにある。「だって使わないで書くの面倒臭いじゃん」と言い訳していることもある。

 たぶん平岡先生は、「○○的」という安易な言葉遣いを避け、それを別の表現で書こうと工夫することで筆力は上がるし文章も豊かになる、ということをおっしゃりたかったんだろうと思う。たしかに「○○的」は、何かを言っているようで実は何も言っていないことが少なくない。「芸術的なフリーキック」とは一体どういうことか。芸術に似てはいるが芸術ではない、ということか。「彼のスルーパスは芸術ですね」と「芸術的ですね」は同じなのか違うのか。そこで言う「芸術」とはどんな芸術を指しているのか。スポーツは芸術に含まれないのか。

 何が言いたいかというと、「保守的」のことである。椎名林檎が苦手な自分のことを私は「保守的」と書いたが、そのときも平岡先生の顔が(正直にいえばどんなお顔だったかもよく覚えていないのだが)ちらついていた。保守的って何だ?

 伝統的、という言葉もある。誰か概念整理のできる人がいたら教えてほしいのだが、保守的と伝統的はたぶん似て非なるものであるに違いない。「コンサバ」の反対語は「プログレ」で、「トラッド」の反対語は「アバンギャルド」? ファッション界の人は、「コンサバ」と「トラッド」をどう仕分けしているんでしょうか。音楽には「プログレ」も「アバンギャルド」もあるよなぁ。ピンクフロイドはプログレで、生向委はアバンギャルドだ。サヨクは進歩派で、共産党は前衛か。うーむ。忙しいのに、何をごちゃごちゃ悩んでおるのか。小室等なんか、聴かなきゃよかった。

 CL予備予選の選手登録期限が切迫しているらしい。報道的には、ラツィオ的にもパルマ的にもオーケーで、あとは中田的にはどうかという話になっているようだ。はよ決めてくれ。一方、アブラモビッチ的チェルシーはベロンをゲットした模様。うほほー。愉快的蹴球熱烈歓迎。




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