edogawa's diary 03-04 #12.
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2003.11.23.Sun. 16 : 45 p.m.
BGM : THE BEATLES "LET IT BE ...NAKED"

 温泉ムック脱稿。ふう。ぐだびれだ。濁点がつくぐらい疲れたということだ。指が痙攣しそうである。なのにまたこれ書いてる私ってどうなんだろう。しかし、ホッとひと息つきつつ日付を書いて気づいたが、今日って勤労感謝の日でやんの。前にもそんなことを書いたような気がするが、結局は「仕事があることに感謝する日」なのか。ナッシングが私の世界を変えるのに。じゃいぐるーでいう゛ぁ。




2003.11.22.Sat. 19 : 15 p.m.
BGM : THE BEATLES "LET IT BE ...NAKED"

 ものすごく忙しいのに本日二度目の更新。手に入れるまではそんなに期待していなかったのに、ふと気づけば延々と「NAKED」を聴き続けている。もう5回ぐらい聴いてしまった。賛否両論の渦巻く作品だけど、どうやら私はこれが好きらしい。最先端技術のもたらす音質にまんまとしてやられているのかもしれないが、なんだか聴いていて気持ちがいいのである。世間に流布しているこの作品の歴史的背景や理屈っぽい議論や十人十色の思い入れに彩られたレビュー等によるバイアスを抜きにしてこのアルバムと向かい合ったとき、ビートルズの声や演奏に奇妙な「若々しさ」を感じるのは私だけだろうか。なぜか「これから頑張っていこうとしている若手バンド」みたいな活きのいい野心が私には伝わってくるのだった。そんなわけはないんですけどもね。不思議だ。

 ところで、ちょっと調べればわかることだったが、オリジナルとは異なるテイクの曲もこれにはいくつか含まれているらしい。しかし「ACROSS THE UNIVERSE」はフィル・スペクター版と同テイクだとか。それでもやっぱり速く聞こえるんだよなぁ。


2003.11.22.Sat. 17 : 15 p.m.
BGM : THE BEATLES "LET IT BE ...NAKED"

 楽しむ。味わう。満喫する。堪能する。楽しむ。味わう。満喫する。堪能する。温泉ムックのリライトはその繰り返しだ。まちがいないっ! その目的語は、「景色を」「景観を」「絶景を」「四季折々の花を」「露天風呂を」「湯を」「料理を」「食事を」「素材を活かした匠の味を」「女将の心遣いを」といったところだ。まちがいないっ! あと、温泉宿には雰囲気とかムードとか風情とか情緒とか風雅な空気とか湯気とか湯煙とか、いろんなものが「漂って」いる。まちがいないっ!

 で、「脱いだままで」だ。さっき、amazonから届いた。CCCDの国内盤は何かと評判が悪いようだし、値段も高いのでUS盤。前に矢野真紀のCCCDを聴いて以来、どうもCDプレーヤーの調子が良くないような気がするし。それにしても、なんで国内盤と輸入盤に1000円も差があるんでしょうか。同じものを1000円も余計に出して買って、どんないいことがあるのかよくわからないぞ。経済って難しい。

 私は専ら中学生時代にFMの特集番組でエアチェックしたカセットテープ(および有線のビートルズチャンネル)でビートルズを聴いていたため、アルバム単位で鑑賞したことがほとんどなく、どの曲がどの時代のものなのかもさっぱりわからないという程度のつき合い方なのであるが、服を着た「LET IT BE」はCDで持っている。ビートルズナンバーでいちばん好きなのは何かと問われれば「ACROSS THE UNIVERSE」と即答して憚らないほど、この曲が好きだからだ。その質問自体にあまり意味があるとは思えませんが。訊かれたこともないし。「LET IT BE」以外には、ホワイト・アルバムぐらいかな。CDがあるのは。そんな感じ。

 さてさて、「君はこんな体をしていたのか……」とは何かの不倫小説だか不倫映画だかに出てくるセリフだったと記憶しているが、脱いだ「LET IT BE」がどんなふうに感じられるかというと、どういうわけかヤケにテンポが速めに聞こえるのが不思議だなぁ。どうしてだろう。これって別テイクってわけじゃないんだよね? 脱いだか脱いでないかが誰の耳にも歴然とわかる曲はたぶん「THE LONG AND WINDING ROAD」だと思われるが、これもやけに忙しくて落ち着かない印象。もっとも、じゃあ服を着ていたほうがいいかというと、あのオーケストラアレンジもいかがなものかと以前から思っていたわけで、つまり私はこの曲自体があんまり好きじゃないのだということに気づいたりもしたのだった。そもそもタイトルが好かんですたい。

 ともあれ、そういう人はわりと多いんじゃないかと想像するが、これまで私はビートルズの「曲」ばかり聴いて「演奏」を聴いていなかったようなところがあるので、そういう意味では新鮮な感じ。なんとなく、音質がいいように感じるのは気のせいなのかしら。3ヶ月前にレコーディングしました、みたいな感触がある。




2003.11.21.Fri. 11 : 45 a.m.
BGM : 美空ひばり "ジャズ&スタンダード"

 温泉で大事なのは「四季折々の花」と「満天の星」と「専用露天風呂付きの客室」だということを深く認識せざるを得ない今日この頃である。もう飽きました。世の中に「絶景」ってこんなに沢山あるものだろうか。海と山が見えりゃみんな絶景なのか。構造主義的温泉ムック執筆中。

 きのう、ゴーストで書いた単行本とサッカーズ1月号がそれぞれ編集部から送られてきた。書いたものが形になって手元に届くのはいつも嬉しい。今月のサッカーズは、なんといっても2万字に及ぶという中田英寿の超ロングインタビューだ。聞き手は後藤健生さん。代表の問題点を語りまくりである。中田の愚痴なんて、滅多に読めるものではない。愚痴じゃなくて建設的提言か。まあ、どっちでもいいや。似たようなもんだろ。ともかく「よくぞここまで」という内容なので、スカパー!無関係者も買って損はないと思いました。いや、どの号も損はないのだが。あと、私のコラムは絶対にイタリア語に翻訳してはいけない。本人が読んだら告訴されそうな気がしてきた。それにしても「密会」って。編集長ったら。




2003.11.20.Thu. 10 : 20 a.m.
BGM : ACO "Lady Soul"

 やば。新書と私のことなどダラダラ考えているうちに、もう木曜日じゃないか。なのに70本ノックはまだ2割も終わっていないのだった。今週中に片づけないといけないのに。「今週中」のサイズが必ずしも明確ではないが。また3連休があるみたいだし。

 昨日の知世ちゃんと同様、この「Lady Soul」というアルバムもシギーが貸してくれたのだが、ACOって誰。見たことも聞いたこともない。だが、見たことも聞いたこともないシンガーのCDが「アタリ」だと、ものすごく得をした気分になる。おもしろい声の人だ。不愉快な声になりかねないギリギリのところで生まれる心地よさ。腐りかけの食い物が旨いのとは、たぶん意味が違うと思いますが。

 昨日は、また私の知らないあいだに愚妻がツタヤで借りていたザ・バンドのベスト盤(2枚組)を自宅で聴いた。サントリーか何かのCMで耳にして懐かしくなったらしい。これも良かった。ふつうにイイ。失礼な言い方かもしれないが、ふつうにイイものをたくさん作れる人はえらいと思う。それにしても、原田知世とかACOとかザ・バンドとか、人がセレクトしたものばかり聴いていて、どうにも主体性が感じられない。しかし「聴く主体」としての人間という伝統的な主知的人間観はすでに音を立てて崩れ去ったかもしれないので、それでいいのだ。「聴くとは引用である」という仮説について論じてみたくなったが、時間がないのでやめた。

 ゆうべは、自宅で原稿を書きながら日本×カメルーン(キリン関係)を横目で観戦。終盤、実況アナが「大変な試合になりました! 大変な試合になりました!」と連呼していたのに、ちっとも大変な試合に見えなかった私はきっとサッカーがわかっていないのだろう。とくに興奮させられることもなく、スコアレスドロー。シュートが遅い。判断も脚の振りもボールも。シュート態勢に入ってから実際にシュートを撃つまでの時間って、筋力や骨格のモンダイなんだろうか。だから日本人は遅いんだろうか。サッカーは、あの短い時間が倍になるか半分になるかで結果が大きく左右されるように思うのだが。そんなことより、例のあの「画面隅のアオリ文句」を消せ。「アオリ文句を消せ国民大連合」(略称:ア消し連)を結成してデモ行進したい。

 あのアオリ文句って、正式には何ていうんだ?


2003.11.19.Wed. 13 : 00 p.m.
BGM : 原田知世 "BLUE ORANGE"

 本日のBGMは、シギーが宅配便で届けてくれた「女の声特集」(全20タイトル)のうちの1枚である。もしかしたら日本一忙しいかもしれない編集者にこんなことをしてもらって、恐縮至極。ありがたい。それにしても原田知世は侮れないのだった。いいよ、これ。

 なにより残念なのは、ゆうべの「新書の会」に来るはずだった仲俣さんが来なかったことである。どうやら忘れていたらしい。忘れていたらしい。忘れていたらしい。3回も書いてしまった。いくら待っても姿を現さないので主宰者の渡邊さんが電話をしてみたら、「あ、どうも。久しぶり〜」とたいへん呑気な仲俣さんだった。この場合、ふつうは主宰者の声を聞いた瞬間に思い出して「あ。きょきょ今日だった?」とか何とかうろたえるものだが、実に男らしい見事な忘れっぷりだ。ある意味、完璧である。完璧である。完璧である。まあ、誰にでも忘れることはあるし、私も日曜日にマンション管理組合の理事会に顔を出すのをすっかり忘れていたが、しかし私をこの会に引き込んだのは誰だ。仲俣さんだ。先月の別れ際に「発表、楽しみにしてるね〜」と私に手を振ったのは誰だ。仲俣さんだ。発表の途中に仲俣さんのフォローやリアクションが入ることを前提に話の中身を考えていた私はどうすればいいというのだ。

 そんなこんなで、集まったのは私を含めて4人である。先月は8人だった。8人だった。8人だった。貴重な時間を浪費する人が少なかったのはとてもいいことだ。4人って、「会」と呼べるかどうかの瀬戸際だが。聞き手が3人だと、誰もボンヤリできないからね。一定の割合でボンヤリしている人がいてこその「会」であろう。

 ともあれ、3人の気の毒な出席者諸氏の前で話したテーマは「新書と私」。テーマじゃないですねこれは。ふつう、そういうのは世間話という。酒の席で自分の話ばかりすると嫌われると承知はしているが、きちんと「論」を立てるほどの力量がないのでしょうがない。しかし、あらためて「新書と私」について考えてみると、いろいろ発見(と再発見)があったのも事実である。コンテはこんな感じ。

 第1章 私が書いた新書
 第2章 昔の私が読んだ新書
 第3章 私が買ったけど読んでいない新書
 第4章 最近の私が読んだ新書
 第5章 将来の私が書けるかもしれない新書(笑)

 これまで数えたことがなかったが、私がゴーストした新書は意外に多く、12冊あった。7〜8冊に1冊が新書という計算だ。時系列で並べてみると、90年から95年まではトンデモ本と実用書を中心とするカッパの本タイプ(カッパの本は書いたことがないが)ばかりだった。その後98年までは新書の仕事がなく、99年から03年までは全て岩波新書タイプ(岩波新書は書いたことがないが)である。出版界における新書のあり方がそのまま反映されているだけのことだが、なるほどと思った。

 昔の私が読んだ新書として紹介したのは、次の3冊。
 E・A・アボット『二次元の世界』(講談社ブルーバックス)
 大和球士『プロ野球三国志 全12巻』(ベースボールマガジン社)
 ????『ウンコの本』(たぶんカッパの本/挿絵=山藤章二)

 いずれも小学校高学年から中学生時代に読んだ本だ。『二次元の世界』はブルーバックスには珍しい小説仕立ての読み物で、主人公の正方形さんが三次元世界からやって来た球さんと出会って衝撃的な体験をするというお話。残念ながら書庫を探しても見つからず、したがって内容はうろ覚えなのだが、平面の二次元世界で物がどう見えるかといったあたりの描写が面白く、とても興奮した記憶がある。三次元世界の私たちは、たとえば立方体の箱を見てそれが立方体だと認識できるわけだが、実のところその見た目は(サイコロの絵を描けばわかるように)角度によって正方形だったり六角形だったりするのであり、その平面図形が立体に見えるのは不思議といえば不思議である。それと同様、二次元世界の住人たちは「直線」が「平面図形」に見えるのだった。厚みのない三角定規を水平方向から見て、それが三角形だと認識できるのである。しかし立体という概念がないので、空から降りて来た球さんは球に見えない。まず目の前にポツリと「点」が出現し、それが次第に「円」になってゆく。とまあ、そんなような話だ。

 球さんと出会った正方形さんは、生まれて初めて「空」を飛び、三次元世界へ連れて行ってもらう。その際、「上空」から自分が住んでいた二次元世界を見下ろした正方形さんが、「ああ! みんなの『中身』が見える!」といったような驚きの声をあげるシーンが印象的だった。そして物語の終わり頃、さんざん三次元世界を見て回って「立体」を把握した正方形さんは、球さんに「次は四次元世界を見せてください。そこでは立体の中身が見えるんでしょう?」と頼む。当然の要求である。しかし球さんは、「四次元世界? そんなものはないよキミ」と答え、正方形さんを失望させるのだった。とても悲しいお話ですね。しかし、同じブルーバックスの『四次元の世界』は読んでいないものの、もしかしたら『二次元の世界』のほうが四次元世界を想像させる(できないのだが)だけの強い喚起力を持っているのではなかろうか。いずれにしろ、私が物事の見方や考え方を身につける上で大きな役割を果たした一冊だと思う。近いうちに手に入れて、いずれセガレにも読ませてやりたい。

 大和球士の『プロ野球三国志』は、私の持っている本の中ではナンバーワンの宝物である。ということを、「新書と私」について考えたおかげで久しぶりに思い出した。大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)誕生から川上哲治の引退(昭和33年)までのプロ野球史を、練達の文章で活写した名著だ。奥付を見ると、第1巻の初版が1973年5月、最後の第12巻の初版は1975年12月。小学生だった私は、懸命に小遣いを貯めながら必死とも言える情熱で全巻を買い揃えたものである。活字は小さいし(新書サイズなのに二段組み!)、難しい漢字も山ほど出てくるので、当時の自分がどこまで理解して読んでいたかわからないが、それでも12巻を読み通したのだから、よほど面白かったのだろう。久しぶりにパラパラと眺めてみたが、山越音という人の挿絵がすばらしい。この挿絵がなかったら、小学生には読み通せなかったかもしれない。今の出版界は、挿絵の意義を軽視していないだろうか。「文章を(バカバカしいほど噛み砕いて)わかりやすく書く」だけが子供(や幼稚な大人)に本を読ませる手段ではない。

 挿絵といえば、『ウンコの本』だ。兄の本棚にあった本で、確実なのは山藤章二が挿絵を描いていたことだけで、著者名はわからないし、版元や書名も記憶が怪しいのだが、べらぼうに面白かった。べつに駄洒落のつもりはないけれど、ウンコに関するウンチクやバカ話が詰め込まれていたと記憶している。しかしネットで検索しても、同名の本はあるものの、これは見つからない。再読したいので、これを機会に古本屋で探してみようと思っている。誰かそれらしき本を見つけたら教えてください。

 そろそろ仕事をしないといけないので、以下略。ところで今朝、某K社から1年前に書いた新書の重版通知が届いた。新書と私の関係は、こうでなくちゃいけない。こうでなくちゃいけない。こうでなくちゃいけない。




2003.11.18.Tue. 11 : 30 p.m.
BGM : Georg Solti & Chicago Symphony Orch. "MAHLER : SYMPHONY NO.7 LIED DER NACHT"

 そろそろマッキー事務所に頼まれた600〜2500字の温泉ムック原稿(ガチャピンとは無関係)70本ノックに取りかからねばならぬのだが、今夜は月例「新書の会」で発表をすることになっており、その準備は当然まだ整っていないわけで、何かと気忙しい。シギーから仰せつかった単行本の加筆作業もまだやってないし。まあ、彼は彼で「裏わしズム」を見るかぎり死なないのが不思議なくらい忙しいようだから、いま原稿を送りつけても読む暇ないだろうけど。いや、それでも読むからあんなに忙しくなるのか。いま気づいたが、「裏わしズム」って「浦和沈む」に似てるよね。うわっ、生タマゴとか火炎瓶とか投げないでくれ。

 それにしても発表である。内容は「新書のこと」という以外とくにシバリがないようなので、何でもいいっちゃ何でもいいわけだが、困った。忙しい人々の貴重な時間を無益な話で奪うかと思うと心が痛む。この機会にまとめて本を読もうと思っていたのに、音楽ばっかり聴いてるし。拾い読みは何冊かしたものの、まともに読んだのは竹田青嗣『ニーチェ入門』(ちくま新書)と町田健『ソシュール入門』(光文社新書)だけだ。嗚呼。どうしてこんなに難儀なものに入門しまったんだろう私は。背伸びはいかんよ背伸びは。

 なので、もっと身の丈に合った本を読もうと思って手に取ったのが野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』(生活人新書=NHK出版)である。開いてみると、いきなり「書くとは引用である」と来た。「私たちが独創的な自前の文を作ることなど滅多にあるものではない」そうだ。ほほー。いいこと言うじゃないか。ものすごく励みになる。で、ナニナニ、「語る主体」としての人間という伝統的な主知的人間観は構造主義の登場によって音を立てて崩れ去った? ふーん。言語は一つの体系(構造)であり、語る人間より以前にすでに「構成された構造」として存在する、か。ふむふむ。だから、人間が語るというよりは言語という構造を通してしか語りえない。人間が語るというよりは言語が人間をして語らせる、言語が語るというべきなのだ。だってさ。そんなこと『ソシュール入門』に書いてあったかなぁ。もう忘れてるなぁ。いかんなぁ。まあ、読んですぐ忘れてしまうような本はその程度のものだということにしておこう。

 だいたい、この『うまい!日本語を書く12の技術』にも『ニーチェ入門』にもソシュール(もしくは構造主義)に関する記述があり、たしか途中まで読んだ『バカの壁』にもシニフィアンだのシニフィエだのと書いてあったような気がするが、その中で『ソシュール入門』が一番わかりにくいってどういうことだ。その道の専門家ほど、入門書を書くのは難しいってことかもしれない。入門者にとって何が新鮮で何が驚きかということが、わからなくなってるだろうからね。そういうときこそ自分で書かないで、何も知らないライターを使ったほうがいいと思うよ。私も学者の口述取材で、著者が自明のこととしてあっさり流した話に「ええっ。そうだったんスか!?」などとビックリすることがしばしばある。そういう素人のフィルターを通して書いたほうが、入門者に伝わるんじゃなかろうか。

 ……というようなことを今夜話せばいいような気がしてきた。このまま書き続けると、出席者がこの日誌を読めば済んでしまうということになりかねないので、これぐらいでやめておこう。

 ゆうべは読書をしつつ、イングランド×フランス(ラグビーW杯準決勝)を横目でビデオ観戦。イングランドが一つもトライを取らないで勝った。ウィルキンソンがチーム全得点の5PG3DGだ。ほんとうに名前をよく知らない解説の人が、しきりに「ラグビーの将来にとっていいのかどうか」といったようなことを言っていた。勝ったのに文句つけられるイングランドって、ラグビー界のイタリアなんだろうか。あるいは、ラグビー界の森ライオンズか。私はべつにいいんじゃないかと思うけどね。退屈なチームが勝ってしまうことのあるスポーツのほうが面白いよ、たぶん。




2003.11.17.Mon. 14 : 00 p.m.
BGM : Kiril Kondrashin & Moscow Phil. "SHOSTAKOVICH : SYMPHONIES NO.9 & 10"

 きのうは午後から横浜国際競技場にて、JFAキッズ(U-6)サッカーフェスティバル2003(2002FIFAワールドカップ1周年記念事業)ユニクロサッカーキッズ in 横浜を観戦。来年以降も規模を拡大して(今年は3会場、来年は10会場)続けるとのことだが、大会名をもっと短くしないと世間に定着しないと思う。

 予選はなく、抽選で当たった6歳以下のチームがわさわさと集うイベントである。なにしろ午前60チーム、午後60チームだ。1チーム8〜16名(試合は8人制)。プラス選手の家族などで、きのう1日で5000人ばかり集まったらしい。わさわさ。受付を済ませると、チームごとに色を揃えたユニフォーム代わりのシャツと帽子が参加賞として全員に支給される。どちらもユニクロの売れ残りというわけではなく、ちゃんと大会のロゴなどがプリントされていて、けっこうお金がかかっていた。いや、あの程度ではそんなにかかんないのか。よくわかりません。

 開会式では、日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンとユニクロの何といったか玉ナントカCOOが登場して挨拶。おお。生キャプテンと生COOだ。しかし整列した子供たちは、なぜか来場していた生ガチャピンと生ムックばかり見ていた。どちらも代表のユニフォーム着用で、ムックの背番号は69。なるほど。ガチャピンは88で、意味がよくわからなかった。……あ、8チャンネルの8?

川淵キャプテン「みんな、元気かなぁ〜?」
子供たち(ほぼ全員)「は〜い!」
川淵キャプテン「今日の試合を楽しみにしてた人、手を挙げて〜」
子供たち(ほぼ全員)「は〜い!」
川淵キャプテン「じゃあ、芝生でサッカーをしたことのある人は〜?」
子供たち(ほぼ全員)「は〜い!」
川淵キャプテン「なんだ、そんなにいるのか……」

 ダメだよキャプテン。「芝生でサッカーやらせてやるんだぜベイベ」って強調したいなら、そこは「芝生でサッカーをやるのが初めての人は?」って訊かなきゃ。勢いで全員「は〜い」って言うんだから。そういうことでは、人を扇動することはできません。

 というわけで、そのために午前・午後とも連続使用を2時間以内にしていたのかどうかは知らないが、このあいだの味スタとは違って天然芝のフィールドも全面使用。一部トラックも人工芝を敷いて使っていたが、16面のコートのうち12面が天然芝だった。セガレのチームは3試合のうち2試合が天然芝。セガレによれば「フワフワしてて走りやすかった」とのことだが、そんなコメントを吐けるほど走ってなかったぞおまえ。

 今回はふだんのクラブではなく、幼稚園の同級生を集めた急造チームである。3回ほど公園で練習し、お母さんチーム対子供チームで試合などしていたらしい(愚妻はゴール前の決定機で空振りしてショックだったらしい)が、スーパーなタレントが一人もいなかったので弱かった。1戦目こそスコアレスドローでしのいだものの、2戦目は0-2で敗北。3戦目もハンドで2度もPKを取られたこともあって0-3の完敗である。ガキの試合でハンドに笛を吹くのも大人げないような気がしなくもないが、いずれもボールを手で拾い上げてしまうというサッカーを根底から否定するようなプレイだったので仕方がない。JFA主催の大会だしね。そのへんはキッチリしておった。ハンドを犯してしまった子が、ベソをかきながらピッチの外に出て行ってお母さんにしがみついているシーンは、見ていて辛かったが。どうやら、敵の選手に「やーい、おまえのおかげで点が入ったぜ」とか何とか意地悪なことを言われたらしい。ハンドでPKを与えるなら、そういうクソガキにはちゃんとレッドカードを出さないといけない。ともあれ、1分2敗の成績では、このチームからU-6日本代表選手が招集されることはなさそうである。

 天然芝を踏めるのは選手だけで、保護者はトラックまでしか入れないのが残念だった。でも、ちょうど国歌斉唱をするあたりの場所から正面スタンドを見上げてみると、グッとくるものがある。もっとグッときちゃったのは、正面スタンドの地下にある喫煙所から階段をのぼってグラウンドに出た瞬間だ。選手が入場の際に通る階段である。段を上がるにつれて徐々に姿を現すバックスタンド。当然、頭の中には「タンタッタタンタン|タータタタターン」という例のメロディが流れるわけだが、考えてみたらそれは日韓大会ではなくフランス大会のアンセムだった。どういうわけか、日韓大会の曲は印象が薄い。

 やはり正面スタンドの地下にあるミュージアムには、日韓大会の名場面をとらえた写真がズラリ。ベルギー戦の「吠えながら中山にしがみつく鈴木」のアップがいい。ロシア戦の「先制ゴールに狂喜する日本ベンチ」もよかった。いちばん興奮していたのはダバディだね。地面に跪いてガッツポーズだ。あと、そのミュージアムにはおそらくトルシエが自分で色紙に書いたと思われる「フイリツプ・トルシエ」というカタカナのサインも陳列されていた。あんがいケナゲな人だったんだな、と思った。

 土曜の晩に、スコットランド×オランダ(EURO2004予選プレーオフ第1戦)をライブで観た。やれやれ、だ。よく自己啓発か何かの宣伝で「思考は実現する」というフレーズを目にすることがあるが、そんな感じ。オランダの相手がスコットランドと決まった瞬間から世界中の人々が思い描いていた悪い想像がそのまま実現してしまったようなゲームだった。前半の1点を守りきられて1-0。たしかにスコットランドのスピリットは凄まじかったけど、あんなチームに負けたらいかんわなぁ。スコットランドのパスミスって、人をズッコケさせるためにやっているとしか思えない。オランダには、「スピリットだけで勝てるほどサッカーは甘いもんじゃないんだぜえ」というクールな勝利を見せてほしいのだが、あきまへんな。誰がダメって、ファン・ニステルローイがダメだ。ユナイテッドでは腹立たしいほど見事に決めやがるのに、代表では腹立たしいほど決めてくれない。どっちにしろ腹の立つ男だ。解説だけ副音声にできないのも腹が立つ。下北沢を「シモキタ」と略すと怒る人が、ファン・ニステルローイを「ニステル」なんて言っちゃダメだと思いました。

 ゆうべは、スペイン×ノルウェー(EURO2004予選プレーオフ第1戦)を22時からWOWOWで観戦。いちおう錚々たるメンバーなのに、スペイン代表にいつも一・五流感が漂っているのはどうしてだろうと思うのだが、たぶん「名前が覚えにくい」というのが最大の要因ではなかろうか。なんかこう、アルベルダとかバラーハとかシャビ・アロンソとかフェルナンド・トーレスとか、印象に残りにくい名前が多いよな。顔も区別がつきにくいし。要するに、華がないのである。ものすごく乱暴なこと言ってますが。そんなスペインの中でいちばんインパクトがあるのは、やっぱりエチェベリアだ。以下、エチェベリアに関する夫婦の会話。

妻「そのへん歩いてたらサッカー選手に見えないよね」
夫「じゃあ、何に見えるんだ?」
妻「雑貨屋さんとかさ」

 べつに、駄洒落のつもりではないらしい。試合のほうは、早い時間帯にノルウェーが意味のよくわからないゴールで先制するという、スコットランド×オランダ戦の再現かよオイオイと思わせるような展開。いや、カウンターを仕掛けるたびに「あわや」の場面を作っていた分、ノルウェーのほうがスコットランドよりも可能性を感じさせたと言えよう。だが、オランダにはラウールがいないがスペインにはラウールがいるのだった。あれはFKだったか、ゴール前に林立するノルウェー人たちに埋もれながら、右サイドからのクロスをヘッドで同点ゴール。決定機のラウールほどクールな男が他にいるだろうか。その後はツキもなくなかなか得点できなかったスペインだが、最後の最後に相手のオウンゴールという幸運が訪れて、なんとか逆転勝ちである。しかし「アウエーの第2戦は1-0でぎゃふん」という悪い想像がふつふつと湧いてくるような出来映えではあった。




2003.11.14.Fri. 14 : 50 p.m.(一部追記)
BGM : YES "FRAGILE"

 レッド・ツェッペリンはオリジナルタイトルを購入するまでしばしお休み、というわけでもないのだが、「ロック父さん育て直しプロジェクト」の第2弾はイエスである。とはいえ、この「こわれもの」は私のチョイスではなく、愚妻が私の知らないあいだにツタヤで借りていたのだった。自分の妻がイエス好きだったと結婚9年目にして初めて知ったのは、先日デルボツ家のCDラックを物色(忍び込んだわけではない)していたときのことだ。ずらりと並んだイエスのCDを見て、「私も学生時代にアルバムほとんど持っていた」と彼女が呟いたときの驚きと言ったら。昔ミシェル・ポルナレフのファンクラブに入っていた(あまり関係ないが曙の後援会にも入っていた)のは知っていたが、イエスとはなぁ。で、そのLP群はどこにあるんだ?

 さて、ロック音痴の私もプログレはいくらか聴いていた。前にも書いたが11歳か12歳で兄が高校の友達から借りてきたピンクフロイドの「狂気」を初めて聴いたときはぶっ飛んだし、EL&Pはアルバムを3枚ぐらい持っていたと思う。どうやらEL&Pと(よく知らないが)何か関係のあるらしいTHE NICEというユニットの「ELEGY」というアルバム(ELEGYの「THE NICE」じゃないよね?)もあって、これは先日O崎くんにCD-R化してもらった。「展覧会の絵」のLDも持っている。なんだか、ものすごくEL&Pが好きな人みたいだ。いや、まあ、好きは好きだったんだが、そのわりにどのアルバムを持っていたのか記憶がない。あのLP群はどこにあるんだ?

 そんなプログレとのつき合いが長続きしなかったのは何故かと考えてみるに、「狂気」のインパクトが強すぎたということが一つあるのではないか。あのアルバムに封じ込められた巨大かつ強靱な世界像を凌駕する作品って、そうはないからね。しかも小学生のときに生まれて初めて耳にしたロックアルバムが「狂気」だとなればなおさらで、たぶん少年の私は無意識のうちに「狂気」こそが世界最高峰のロック作品であると位置づけていたのだろうと思う。音楽の印象というのは、出会った「順番」に大きく左右されるものだ。その後、CD時代に入ってからピンクフロイドの「原子心母」やイエスの「危機」を買って聴いてはみたものの、「狂気」の濃密さを期待していた私にはどちらも退屈なものでしかなかった。そういえば「原子心母」はヤマちゃんやO崎くんと高円寺を歩いているときに買って、ヤマちゃんのアパートで聴いた記憶があるな。あのとき何をしていたんだろう私たちは。

 しかし今あらためて「危機」や「こわれもの」を聴いてみると、これはとても素晴らしいのである。やや球質が軽い印象はあるものの、聴かずに死んじゃいけない音楽の一つですね。レッド・ツェッペリンとの出会いによって、私の中でずっとOFFのままだった対ロック哨戒スイッチがONに切り替わったのかもしれない。だけど、この2曲目のブラームスはどうしても必要なんですか?

 ゆうべは、ようやくチェルシー×ニューカッスル(プレミア)をもちろん主音声でビデオ観戦。3-2ぐらいの乱暴なゲームを期待していたが、シアラーもベラミーもダイアーも不在のニューカッスルはからっきし元気がなく、おまけに退場者も出たおかげで、チェルシーが5-0と圧倒したのだった。ラツィオ戦から2試合で9ゴールとは凄まじい。3点ばかりラツィオにお裾分けしてほしかった。

 何という名前の人なのかよく知らないが、解説の人がチェルシーの対ラツィオ連勝を「予想の範囲内」とか何とか後出しジャンケンみたいに言うのを耳にして憤慨。「ペルッツィとスタムがいないから二つイケると思った」だとぉ? あんまり間違っていないのが辛いところだが、せっかく八塚さんが「ラツィオに連勝したのは素晴らしいですよね」っておっしゃってるんだから、「そうですね」って言えばいいじゃんか。何という名前の人なのかよく知らないが、あの解説の人はいつもああだ。いちいち「辛口の一家言」を吐かないと気が済まないのである。しかも、「辛口の一家言」をお金をもらえるエンターテインメントに仕立てるには高度な芸が求められるということがまるでわかっていない。せめて、「ラツィオファンの方には申し訳ないですが」っていつもみたいに言いなさいよ何という名前の人なのかよく知らない解説の人。あーあ。解説だけ副音声にできたらいいのになぁ。何という名前の人なのかよく知らない解説の人のファンの方には申し訳ないが。




 

2003.11.13.Thu. 10 : 40 a.m.
BGM : PIZZICATO FIVE "THIS YEAR'S GIRL(女性上位時代)"

 ZEP祭り開催中のGUEST BOOKで「楽器屋で天国」の話題(284、289、293等)を見て思ったのは、世のトロンボニストは楽器屋で何を吹いているのだろうか、ということである。私はトロンボーンを購入したことが二度しかなく、一度目はまだ初心者だったのでドレミファソラシドだけ吹いて買った。では二度目は何を吹いたかというと、記憶がない。やはりドレミファソラシドだったような気もする。かっこ悪いなぁ。さらっと軽く吹いてみるような曲を知らないというより、そもそも私は譜面がないと(デタラメなアドリブもどき以外は)吹けない性格なのだ。性格じゃなくて技量の問題ですが。メロディを諳んじているのは、なぜか「オルフェのサンバ」と「イッツ・オールライト・ウィズ・ミー」ぐらいだろうか。どちらも、楽器店で試し吹きするには身構えすぎでダメな感じである。トロンボーン業界には、ギター業界における「天国」に相当する曲があるんだろうか。でもトロンボーンの名曲って、あんまりないもんなぁ。クラシックでトロンボーンのソロがある曲というと、まず思い浮かぶのはラヴェルの「ボレロ」だが、大袈裟すぎるよなぁ。そんなに力いっぱい試し吹きしてどうする。やかましいっつうの。

 ちなみに私はデパートなどの楽器売り場にピアノが置いてあると、必ず「ラ・フィエスタ」(チック・コリア)のイントロ(長いイントロが終わったあとの短いほうのイントロ)を弾くのだった。それしか弾けるものがないのである。「ネコふんじゃった」さえ弾けない。「ネコふんじゃった」の正式な表記はこれでいいのだろうか。猫? 踏んじゃった? そんなことはどうでもいいが、もっとどうでもいい話をすると、高井戸のオリンピックあたりで「ラ・フィエスタ」が聞こえてきたら、電子ピアノ売り場に私がいると思ってもらって間違いない。ただしイントロだけね。テーマも弾いていたら、それは私ではない。

 それにしても、もはやウクレレなんか習ってる場合じゃないよなぁと思う今日この頃だ。いろいろ情報提供してもらったので申し訳ないが、やっぱギターだろう、この際。サンタさんに、エレキギターも頼もうかなぁ。




 

2003.11.12.Wed. 10 : 00 a.m.
BGM : PIZZICATO FIVE "SWEET PIZZICATO FIVE"

 差し迫った〆切もなく、レッド・ツェッペリンにウツツをぬかしつつ心穏やか&脳味噌ゆるゆるで暮らしていた昨今だったが、きのう「わしズム」の副編シギーから連絡があり、急遽対談記事が発生したから速攻でやれとの指令。すでに収録は終わっており、そのテープがバイク便で送られてきた。これがまた猛烈に聞き取りづらい!のである。どうして私が取材現場に行かなかったときに限ってこうなんだろう。聞き取りづらさを多少でも補うために、参考資料として、シギーが取材中に書いたメモも同封されていた。書き殴りのメモなのに「復讐」を漢字で書けるシギーってすごいな、と思った。

 シギーからは「そろそろ第1弾も飽きてきただろうから」とCD貸し出し第2弾のリストも送られてきた。こちらから要求したわけでもないのに、親切な人だ。で、第2弾のテーマは「女の声」。UA、おおたか静流、小島麻由美、矢野顕子、鮫島有美子、ジョニ・ミッチェル、ダイアン・リーヴス、ベス・ニールス・チャップマンなどに混じって、原田知世だけ2枚もリストアップされている。原田知世? しかし彼が勧めるんだから、きっとヨイんだろう。そういえば小島麻由美はタボン君からも借りたような気がする。まだ聴いていないが、流行ってるのか小島麻由美。

 ちなみに本日のBGMはタボン君から借りたもの。これは私の希望で、二十数枚のうち7枚か8枚がピチカート・ファイブだったのだ。ピチカート・ファイブとレッド・ツェッペリンの共通点を2分30秒ほど考えてみたが、「語感がスーパー戦隊っぽい(ゴーゴーファイブとかハリケンレッドとかそういう奴)」という以外、とくに思いつかなかった。では違うところは何かというと、それも「日本語と英語」という以外、とくに思いつかないから不思議だ。

 急な仕事が入ったおかげで、まだチェルシー×ニューカッスルが観られない。いまだに結果を知らないのが不幸中の幸いである。永遠に知らずに終わってしまったらヤだけど。




2003.11.11.Tue. 12 : 30 p.m.
BGM : 矢野真紀 "B面コレクション(自家製)"

 ゆうべは表参道FABにて、矢野真紀の「茶会」と題されたライブを愚妻と共に鑑賞。会場に入ると、パイプ椅子の上に湯呑み茶碗と茶菓子を載せた小盆が置いてあった。ほんとうに茶会なのである。会場の後方でスタッフがヤカンを並べて茶をふるまっていた。茶をすすり、曲間のトークで使うらしい「矢野真紀への質問」など書いて質問箱に入れているうちに、開演。伴奏は中村修司の弾く生ギター1本という、誤魔化しのきかないシンプルなステージである。挨拶なしでいきなり始まった1曲目の「君の為に出来る事」に、集中力の凄まじさを感じた。冒頭の1小節、いや、ほんの1拍半のあいだに、場内は彼女の声に支配されてしまう。最初の4小節を聴いただけで、私はすでに泣きそうになっていた。隣に妻がいなかったら、堪えきれなかったかもしれない。

 矢野真紀の歌がすばらしいと思う理由の一つは、言葉が生きていることだ。彼女は、諳んじている歌詞を惰性で口にすることが一瞬たりともない。一語一語たしかめるように、というより、その場であらためて歌詞を紡ぎ直しながら歌っているような印象。だから、意味の欠落した音素列としての言葉を垂れ流すだけの凡庸な歌い手とは違って、彼女の歌にはちゃんと意味が備わっている。自分の作った歌の意味を問い直し、その問いに答える形で歌っているとでも言えばいいだろうか。おそらく彼女は、同じ歌を何度ステージで歌っても、そのたびに自分の作品に新たな意味を発見しているに違いない。

 そういう言葉の噛みしめ方と関係があるのかもしれないが、日本語の発音もきれいだ。トークではわりと筋肉弛緩系のユルい喋り方をするのだが、歌になると母音の曖昧さがまったくなくなる。「君の為に出来る事」が「ケメの為ねデケる事」になったりしない。ニュース原稿に曲をつけていいなら、アナウンサーもやれそうだ。

 歌唱技術のことはよくわからないが、テクニックもかなり高いレベルにあるんじゃないだろうか。感心するのは、ピアニッシモで歌うときも声の「強さ」が変わらない点だ。たぶん「小さい声で歌う」と「弱い声で歌う」は似て非なるものであるに違いなく、たとえば管楽器でも私などはピアニッシモで吹くと弱々しいヘタレな音になってしまうわけだが(フォルテでもヘタレだが)、矢野真紀は囁くように歌うときでも声がしっかりと張りつめている。だから聴き手をシラケさせる緩みが生じない。プロなら当たり前のことかもしれないけれど。

 うれしかったのは、第二幕の「質問コーナー」で私の書いた質問が取り上げられたことだ。質問用紙には「HNも可」とあり、どの名前にしようかしばし迷った末に深川名義にしておいたのだが、彼女がクジ引きの要領で質問箱から取り出した二つめの質問が「えーと、深川さんからのご質問です」だったのである。やった。矢野真紀は「深川さん、どうもありがとう」とも言ってくれた。もう一度書くが、「深川さん、どうもありがとう」だ。えへへ。ものすごく光栄である。好きなアーティストに名前を呼んでもらうのがこんなにうれしいことだとは思わなかった。いま、私、年甲斐もなく恥ずかしいこと書いてますか。

 そんなミーハー中年からの質問は、「有線で『アンスー』を聴いた瞬間にファンになりました。あの『アンスー』という大胆な略語を思いついた経緯を教えてください」というものである。彼女の答えは長くなるので端折るが、その話で客席の笑いを誘っていたのでホッとした。実際に渋谷で友達と一緒にカボチャ入りのスープを食べ、さらに「あんなスープはおやつよね」と言いながらカフェでブラウニーを食べたあと(と言っても歌を知らない人にはチンプンカンプンですが)、速攻で家に帰って5分で書き上げた曲だそうだ。ミュージシャンの発想の瞬間が垣間見えるヨイ話だった。ちなみに私の前に読まれた質問は、「あした地球が終わるとなったら、最後に何を食べたいですか」というもの。矢野真紀の答えは「レバ刺し」だった。うーむ。私も新鮮なレバ刺しなら食べられるようになったが、そんなに優先順位は高くない。

 ともあれ、「アンスー」もナマで聴けたし、トリは私のいちばん好きな「明日」という歌だったし、矢野真紀のトークは意外と言っては失礼だがとても面白かったし、使った湯呑み茶碗はお持ち帰りできたし、愚妻も「また聴きたい」と言ってくれたし、すべてに満足のいくライブだった。中村修司のギターもかっこよかったなぁ。やっぱウクレレじゃなくてギターかなぁ。もう一つ、きのうのステージですばらしかったのは照明だ。小さいライブハウスなので大した設備があるわけではなく、シンプルな白いライトだけなのだが、曲とのシンクロ具合が完璧で、実に劇的な空間を作り上げることに成功していた。弘法は筆を選ばずというとおり、プロがちゃんと知恵を絞って仕事をすれば、素朴な道具でも豊かな表現ができるのである。

 それにしても矢野真紀ファンは実にお行儀がヨイ。というより、引っ込み思案な人ばかりなのかもしれない。というのも、拍手のタイミングが異様に遅いのである。ギターの余韻がすっかり消え、誰かが遠慮がちにパチパチ叩き始めるまで、「気まずい」と言ってもいいぐらいの間があった。余韻を最後まで聴くのはヨイことだと思うので、それはそれでいいんだけど、「ひゅーひゅー」とか「イェイ」とか誰も言わないのがちょっと淋しかったなぁ。唯一、ギターの中村修司が紹介されたときに思わず「イェイ」と口走ってしまったのは、私だった。もしかしたらヤノマキスタの流儀に反する行いだったのだろうか。

 愚妻の実家で待ってくれていたセガレへのお土産は、キディランドで買ったポケモンカード。前から欲しかった物であるらしく、私が「おかげで楽しかったよ。ありがとう」と礼を言うと、「いやいや、こっちこそありがとう」などとのたまっていた。6歳で「いやいや」って。生意気な、いい奴だ。

 と、そんな素敵な夜を過ごした後に、ローマダービーのことなんか思い出したくないのである。なので、試合は観たけど書かない。あーあ。もうちょっとで「守る気になりゃいくらでも守れる」って証明できるところだったのになぁ。




 

2003.11.10.Mon. 10 : 45 a.m.
BGM : LED ZEPPELIN "LED ZEPPELIN BOXED SET(DISC THREE)"

 今日は自慢をします。金曜の晩に、あの八塚浩さんにお目にかからせていただき奉り申し上げ候なのでございました。敬語(というか日本語)がめちゃくちゃになっているが、それぐらい感激したということだ。コラム原稿の受け渡し(八塚さんは手書き&手渡しなのだ)の場に、岩本編集長が私を呼んでくださったのである。夜9時半に渋谷の焼き肉屋。わりかし遅めだが、ふだんヨーロッパ時間で生活しているであろう八塚さんにとっては、お昼ご飯だったのかもしれない。

 八塚さんは、テレビや文章から受けるイメージと同様、とても気さくでとても愉快なお方だった。なにしろ名刺を渡したとたん、「いたずら電話してもいいですか?」だ。してして。毎日して。受話器を耳に当てるやいなや「キターーーーーーーッ」って言って。およそ2時間、ここに書きたいけど書けないお話ばかりうかがう。ちなみに日曜日(つまり昨日)はPRIDEの生中継をした後、チェルシー×ニューカッスルとローマダービーの仕事があるとおっしゃっていた。「格闘技は終わる時間が読めないけど、まあ間に合うでしょう」とカラカラ笑っておられたが、大丈夫だったのだろうか。

 というわけでチェルシー戦もローマダービーも私はまだ観ていないので、命が惜しければ、例によって例のごとく、私の耳目の及ぶ範囲でその話題に触れないでね。八塚さんに「チェルシーとラツィオをよろしくお願いします」と頼んでおいたのだが、あまり意味がなかっただろうか。

 週末は、モナコ×デポルやら北ロンドンダービーやらを観戦してそれぞれ面白かったのだが、今日はこれからローマダービーを観たりセガレを愚妻の実家に預けて矢野真紀のライブに行ったりなど忙しいので、また後日。




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