edogawa's diary 03-04 #13.
| #12 | TOP | BACKNUMBER | FUKAGAWA | B.I.P. | MAIL | ANTENNA | GUEST BOOK | #14 |

2003.12.02.Tue. 13 : 25 p.m.
BGM : EL&P "恐怖の頭脳改革"

 ものすごく眠い。4ページの洋酒タイアップ原稿、2時間程度で終わるだろうと思って自宅で深夜0時から取りかかったら、終わったのは朝の5時だった。計算違いだったのは、資料がやけに沢山あったことだ。読むのに時間がかかってしまった。なにも「モルトウイスキーのできるまで」(製麦から瓶詰まで四六判の書籍7ページ分。しかも二段組み)なんて付けてくれなくてもいいのになぁ。使ったのは7ページのうち5行だけだ。まあ、全部は読んでないし、仮に読んだにしたって5時間はかかりすぎだが。何をダラダラしていたんだか。プログレを聴きながらやると仕事は捗らない。ということにしておこう。

 なぜ深夜0時まで仕事に取りかからなかったかというと、10時からチェルシー×マンチェスターU(プレミア)をビデオ観戦していたからである。ナニ音声で観たかは、八塚さんに申し訳ないので書けない。私は、名前はよく知らないがギグス好きを公言して憚らない解説の人がテリーの悪口を言うのを聞きたくないのである。まあ、実際バックパス時に「あわや」のポカをやらかしてたわけですが。「ほらほら、これがあるんだよなぁテリーは」という幻聴がしてイヤだった。言ってなかった? 言ってたでしょ? 言ったに決まってる。

 しかしテリーを含めたチェルシー守備陣は立派に仕事をしたのだった。前半にランパードが完璧なキックで決めたPKの1点を守り抜いて1-0。終盤はEURO2000のオランダ×イタリア戦を観ているような気分だったが、よく守りました。えらいえらい。すごーくえらい。いま、世界でいちばん真面目にカルチョを実践しているのはチェルシーだったりして。試合終了後に見せたラニエリの笑顔は、いつになく満足そうだった。そりゃユナイテッドに勝ったんだから当たり前だが、2-0や3-0で勝ってたらあんな含み笑いは見せなかったのではなかろうか。こっちに、「イタリア人はウノゼロが好き」という先入観があるせいかもしれんが。

 とにかく、まあ、だんだん良いチームになっているような印象はあったが、ユナイテッドを完封したんだから本当に良いチームになっているのであろう。アブラ様は決してただの浪費家ではない。あれだけの戦力を束ねているラニエリの手腕も大したものなのだろうが、よく見ると、今季のチェルシーはそもそも(ムトゥを除いて)あまり厄介事を起こさないような善人ばかり大量補強しているのだ。とりわけマケレレとジェレミが中盤で見せる善人ぶりには目を見張るものがある。ジョー・コールを倒してペナルティを取られたキーンのプレイは、ことによると笛を吹かない主審のほうが多いかもしれないが、あれがファウルに見えたのはマケレレの善人ぶりとの対比によるものではないか。マケレレ、あらゆる意味で効いている。

 善人といえば、ゆうべ仕事をしながら聴いたハットフィールド・アンド・ザ・ノース「ロッターズ・クラブ」(ラブではない)もそんな感じ。「善人のプログレ」って、「仙人のプロレス」と同じぐらい妙な語感だけど。ときどきフュージョンっぽくてキモチがいい。「フュージョンっぽい」って、もしかしてプログレの人にとっては褒めコトバにならないのかな。そのあたりのプログレ人意識に興味がある。

 ラツィオファンとしては一瞬だけ手に取るのを躊躇するタイトルではあったが、版元が送ってくれた渡部昇一『ローマ人の知恵』(集英社インターナショナル)を読み始めたら、一気に最後まで読んでしまった。いい本。ゴーストで書くビジネス書に使えそう、というスケベ心も含めてですが。というか、これ一冊あったら他のビジネス書なんか要らないんとちゃう? 月刊プレイボーイの連載をまとめたもので、エッセイかくあるべし、と思わされた。ローマの格言・警句が50本紹介されているのだが、その一つである「ライオンをリーダーとする鹿の軍隊は、鹿をリーダーとするライオンの軍隊よりも恐るべきものである」という有名な言葉を見て思ったのは、「ライオン」をマンチーニ、「鹿」をパンカロに置き換えた場合どうなんだそれは、ということだった。ぜったい、パンカロをリーダーとするマンチーニ軍団のほうが強いと思うんだけどなぁ。たしかに11人のパンカロ軍団も別の意味で恐るべき存在だが。

 たくさん書きたいことがあったのだが(すでにたくさん書いているとも言えるが)、あまりに眠くてまとまりのある文章になりそうもない。なので、以前あるウェブライターがやっているのを見て自分でも一度やってみようと思っていた断章形式を試みてみることにする。以下、ここ数日のあいだに頭に浮かんだ脈絡のない(あるかもしれない)思考や妄想の断片。


◇私は権威に弱い人間である。世間でえらいと思われている人の言うこと書くことをわりと簡単に受け入れてしまう。ゴーストライターは著者の言うことをとりあえず素直に(無批判に、ではないが)受け入れないと書けないので、そういう意味では適性に合った職業を選んだのかもしれない。仕事以外の場面で、しばしば直観に頼って出鱈目なことを書きたがるのも、権威に弱いことの裏返しのような気がする。

◇私は40年近く生きてきたことが自分でも信じられないほど物を知らない。「音痴」なのは方向とロックだけではない。歌はまあまあだけど。

◇数年前にも書いたことだが、この日誌を書き始めて以来ずっと、「私の観るサッカー」と「サッカーを観る私」について考えてきたような気がする。このふたつは「本質」と「周辺」が分かちがたいのと同じぐらい分かちがたいが、「本質」と「周辺」が明らかに区別できるのと同じぐらい明らかに区別できる。

◇「私の聴くロック」と「ロックを聴く私」。

◇私は私のことを語るのが好きだ。もし私が私ではなく私の読者だったら、「おまえのことなんか知りたくない」とうんざりして私の日誌など読まないのではないかと思うぐらいだ。しかし私は私なので、私は私にとって最高の読者のひとりである。

◇統合失調症(精神分裂病)の妄想は「他人が主役」、躁鬱病の妄想は「自分が主役」なんだそうだ。

◇心配するな。

◇先日、ある友人とメールのやり取りをしているときに、世の中には「自発的に物を書くほうが楽な人間」と「受動的に物を書くほうが楽な人間」の二種類がいることがわかった。どうであれ物を書くのが苦手な人間を含めれば、三種類か。

◇私は物事の本質に迫りたいと願っているが、知識と力量が伴わないため周辺に逃げることが多い。そして、サッカーやロックの周辺にある事物のうち私にとってもっとも逃げ込みやすいのは「私」だ。

◇サッカーのプレイやロックの演奏といった「本質」は、それ自体が本質であると同時に何か別の事物の「周辺」でもある。「私」の周辺? 「人間」の周辺? 「世界」の周辺?

◇「モロ」とか「これみよがし」とか「ひけらかし」とか「衒学」が好きか嫌いかは、一概には言えないとしか言いようがない。愉快な「ひけらかし」もあれば、「モロ」の隠し方がかえって厭らしいケレンと感じられることもある。それ以前に「こういうタイプは嫌い」という言い方は、あとで自分の首を絞めることになりやすいので、あまりしたくない。つまり優柔不断。

◇無知を逆手にとって武器にするのもほどほどにしたほうがよい。その自覚がないわけではない。だが。

◇私は努力によって何かを克服・達成したという記憶がない。べつに胸は張っていない。ちなみにダイエットは「努力」ではなく「我慢」という。受験勉強も同じ。

◇「スタンドで観戦しているアブラモビッチ」は、サッカーの本質だろうか周辺だろうか。「エリクソンの連れてくる女」はどうか。

◇物を知らない私には、物知りの友人が大勢いる。有り難いことだ。私ばかり得をして申し訳ないと思わないでもないが、これも私の人徳によるものか。そうだといいな。そうだと言え。

◇死ぬときに悔いることを一つでも減らすためにも、父親が努力している姿をセガレに見せるためにも、ギターを買おう。買って練習しよう。セガレはドラムに興味があるようなので、私50歳・セガレ17歳でバンドを組んでもいい。もちろんプロ志向。

◇たとえば矢野真紀「The Rose」の中盤部分のアレンジがあれで良いかどうかという「評価」は私にはできないが、あれで良いという「嗜好」を表明することはできる。

◇「評価」は受け手を納得させてナンボのもの。「嗜好の表明」は受け手に共感されてナンボのもの。……か?

◇共感は大事だ。ものすごく大事だ。

◇私は甘えん坊である。この不親切な断章たちがその証拠だ。こんな甘え方では、空いたグラスにビールは注いでもらえない。しかし「注いでくれ」と言葉にした途端、共感の連鎖が断ち切られるのが私は怖い。

◇べつに機嫌は悪くない。ただ眠いだけ。





2003.12.01.Mon. 11 : 15 a.m.
BGM : P.F.M. "PHOTOS OF GHOSTS"

 師走である。ぼちぼち来年の支度というわけで、土曜日に吉祥寺のロフトでカレンダーを購入。昔はウォーホルとかリキテンシュタインとかダリとかカンディンスキーとかの絵をあしらった輸入物を使うことが多かったが、ここ数年、仕事場用のカレンダーは国産の実用一点張りだ。輸入物だと祝日や休日がわかんなくなっちゃうしね。体育の日とかさ。選ぶ際の第一条件は、「横長」であること。横幅が広ければ広いほど、1週間が長く感じられて心が安らぐのである。錯覚なんですけどもね。また1年、このカレンダーを横目で睨みながら「むう」とか「うへえ」とか「もう駄目かも」などと独り言を漏らすかと思うと、気が滅入る。

 まだ第2弾「女の声特集」も聴き終わっていないのに、シギーズCDコレクション第3弾が届いた。ほんとうに倒れるのではないかと心配になるぐらい働いているシギーだが、この情熱は一体どうしたことか。もしかすると、自宅のCD倉庫に立てこもって私に貸すものを物色するのは、彼にとって仕事からの逃避行動なのかもしれない。それにしても、タボン君が貸してくれたものを含めると、かれこれ100枚ぐらい人からCDを借りている。この場合、ジャスラックからクレームはつかないのだろうか。

 そんなことはともかくとして、第3弾は私の希望もあって「プログレシリーズ」だ。ラインナップはこんな感じ。いわゆる「四天王」関係は、シギー本人が聞き飽きているのか部分的に貸し渋る素振りもあったが、私が頼んで入れてもらった。

イギリス
イエス「イエスソングズ」
イエス「サード・アルバム」
イエス「リレイヤー」
E,L&P「恐怖の頭脳改革」
E,L&P「展覧会の絵」
キング・クリムゾン「太陽と戦慄」
キング・クリムゾン「アイランズ」
ピンク・フロイド「炎〜あなたにここにいてほしい」
ジェネシス「フォックス・トロット」
レフュジー「逃亡者」
ハットフィールド・アンド・ザ・ノース「ロッターズ・クラブ」
フレッド・フリス「アクロス・ザ・ボーダー」
ソフト・マシーン「1&2」
UK「ナイト・アフター・ナイト」
ジェントル・ジャイアント「オクトパス」
日本
ケンソー「スパルタ」
ボンデージ・フルーツ「「」
ブラジル
バカマルテ「DEPOIS DO FIM」
イタリア
アルティ・エ・メスティエリ「ティルト」
P.F.M「幻の映像」
アメリカ
TOTO「ハイドラ」
フランス
アトール「組曲:夢魔」
マグマ「ライブ!」

 何だかよくわからないが、大変なことになっているような気がする。世界はプログレでできているのか。で、今はシギーいち押しのP.F.M「幻の映像」を聴いているのだった。「パフ」とか歌ってるわけじゃないので勘違いしてはいけない。それはP.P.M。これはP.F.M。「プレミアータ・フォルネーリア・マルコーニ」の略で、ライナーノーツによるとこれはブレシアにあるお店(何屋さんかは不明)の名前であるらしい。おお、ブレシア。「イタリアのプログレ」と言われると何やらえらく遠い存在に感じられるが、ブレシアと言われると意味もなく親近感が湧くから不思議だ。

 ともあれ、これは素晴らしい。イタリアにこんな音楽があったとは。なんて美しくて上品でカッコイイんだろう。音作りに迷いがない、という感じでしょうか。実際はどうなのか知る由もないけれど、きっちりとスコアを仕上げてから作り上げた音楽のように聞こえる。その譜面自体が一枚の絵のように美しく見えるのではなかろうか。迷いがなく、技術も高いぶん、プログレ特有の得体の知れない妖気みたいなものに欠ける気がしなくもないが、そんなものは必要ないのだこのバンドには。今、かの国のカルチョには、こういうファンタジスタが枯渇していないだろうか。トッティには、この音楽のすばらしさなんかわかんないだろうなぁ。

 などとカルチョの現状を憂えている場合ではないのであって、ゆうべビデオ(副音声)で観たシエナ×ラツィオ(セリエ第11節)は3-0だ。うああああああ。頭かきむしり過ぎて血が出そうでした。どうしてスタムはいなかったんだろう。ミハイロ&コウトの破綻ぶりは、すでにシャレにならない次元まで来ている。ベントラに置き去りにされるミハイロの姿は、見る者の涙を誘っていた。コウトはコウトで、自分のゴール前で相手のために華麗なポストプレイばっか披露してるし。八百長レベルの利敵行為である。しかしまあ、あの二人だけが悪いわけではないのであって、どいつもこいつも笑いを取るためにやってるようなバカプレイの連続だ。チームとしてどうこうという以前に、みんなボール蹴るのが下手。ボール蹴るのが下手という以前に、運動神経が悪い。体育の成績が「2」の人たちを集めてサッカーやってるように見えた。そりゃあ疲れてはいるんだろうけど、それにしたってなぁ。90分のあいだに「ナニそれ」と何度呟いたことだろう。こんな人たちが前節まで4位につけていたセリエって、やっぱり、ちょっと、まずいんじゃないかと思いました。

 まだまだ書きたいことがたくさんあるのだが、これから銀座まで取材に行かねばならぬので今日はこれぐらいにしといたろ。雨の日の取材は憂鬱だ。




2003.11.28.Fri. 15 : 30 p.m.
BGM : BETH NIELSEN CHAPMAN "BETH NIELSEN CHAPMAN"

「ぐふふ」はないでしょ「ぐふふ」は。

 ……と、きのうの日誌を読んだ愚妻に叱られてしまった。なので白状します。(涎)だけでなく「ぐふふ」もウソでした。いいじゃんねぇ、それぐらいの演出は見逃してくれたって。そんなこと言い始めたら、セガレが文字を読めるようになったとき、どれだけクレームつけられるかわからん。実際、このところセガレは猛烈な勢いで文字を習得しつつあるのだった。べつに親が覚えろと言っているわけでもなく、自分で絵を描いて作るオリジナルカードに怪獣の名前やら昆虫の名前やらを書きたいという欲求に基づくものなのだが、母親の作った五十音表を見ながら一生懸命に書いている。当たり前といえば当たり前なんだろうけど、子供の学習能力ってすごいよな。もっとも、どういうわけか鏡文字を書いてしまうことが多く、セガレが「見て見て〜」と書いたものを持ってくると、つい上手に書けた文字よりも先に誤字のほうが目がついてしまい、「これ逆だぞ」などと指摘しまうのだった。どうも親の評価基準というのは、初期設定のままだと減点主義モードになっていてイカン。まずはホメてやらな。

 京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』(講談社ノベルス)をようやく読んだ。おもしろかった。榎木津サイコー。「榎木津サイコ」ではないので念のため。サイコっちゃサイコだけどね。サイコでもサイコー。なにしろ藪から棒に「お盆頭載せ」だ! なんでそんなこと思いつくんだ! 先に愚妻が読んでいたのだが、京極夏彦の小説はとても厚くて新品だとページを開きにくいので、人のあとに読んだほうが(物理的に)読みやすいということがわかった。しかし読みやすかったのはそれだけが原因ではなく、文章も前作までと比べるとスムースになっているように感じるのは気のせいかしら。それがいいか悪いかは別にして、なんちゅうか、楽に書いているような印象。どんな小説であれ、書くのが楽なわけはないんだけど。筋書きがあんまり込み入っていないせいかな。いろいろな意味で、従来よりも親切な作品、というところでしょうか。「うへえ」の鳥口君が登場しないのがちょっと淋しかった。

 ゆうべはチェルシー×スパルタ・プラハ(CL第5節)をビデオ観戦。スコアレスドロー。プラハがガッチリ固めたガードの上からジャブ打ってる間に終わってしまったような感じだった。シャブ打ってたわけではないので念のため。いや確かめたわけではないが、たぶん打ってないと思います。これでグループGの勝ち点は、チェルシー10(2位以上確定)、ベジク7、ラツィオ5、プラハ5。私に人並みの計算能力が備わっているならば、最終節はラツィオ○でベジク引き分け以下ならオッケーということである。8で並んでもラツィオはベジクに1勝1分だからね。気分的には1勝1敗だけど。するってえと、チェルシーの「できれば1位がいいなモチベーション」がどれほどのものかということが問題なのであり、それがベジクの火事場のバカヂカラを凌駕するとは思いにくにので、ラツィオとしてはチェルシーに成功報酬でも払ってやりたいところなのだが、あいつら全然カネに困ってねえしな。払った金額を見たアブラ様に「何これ。消費税分?」とか言われてヘコむのもバカだ。それより何より、ラツィオが敵地でプラハに勝てるものだろうか。あなたはどう思いますか。勝てると思いますか。私は、私は……まあいいや。そんなことを私が予想してもしょうがない。何でもいいから記憶に残るような死闘を見せてほしいものである。今シーズン、「死闘」になり得るゲームはこれが最後かもしれないし。しくしく。

 さらにゆうべは、アヤックス×ミラン(CL第5節)も観た。「手が合う」とでも言うのか、このカードはスリリングな好ゲームになることが多く、とくにアヤックスはミランを相手にするとものすごく輝くような印象があったのだけれど、今回はそうでもなかったような。途中から居眠りしてしまったので実は私が見ていないときに輝いていたのかもしれないが、居眠りしてしまったのは私が前夜『陰摩羅鬼』のせいで寝不足だったことだけが理由ではあるまい。どういうゴールだったか忘れてしまったものの、たしかシェフチェンコの一発で0-1。前半途中で故障したイブラヒモビッチに代わって登場したリトマネンが、なんだか痛々しく見えたのは私だけだろうか。なんかこう、若者たちとわかり合えていない感じ。浮いている、と言ってもいい。みんながJ-POPで盛り上がっているカラオケ店でうっかりバンバン(ビリーバンバンではない)の「縁切寺」を選曲してしまったおじさんみたいな浮き方、などと言ってみたくなる状況ではあった。がんばれリトマネン。おじさんもがんばれ。切々と歌い上げてしまえ。

 数日前に發カン!さんがゲストブックに寄せてくださった書き込み(339)について、しばし考えていた。というか、ある意味『キャプテン翼勝利学』を書いているときから私はその周辺にあることをうっすらと考えていたような気もしますが。

 どうやら昔のバンドを「必要以上に持ち上げる傾向」のあるらしい「温故知新系の雑誌」というものを私は読んだことがないし、どの雑誌がその雑誌なのかもよくわからないけれど、まあ「必要以上に」を捨象してしまえばそれはそういうもので、ペレを知っている人はマラドーナよりペレのほうが凄いと言いたがるし、クライフを知っている人はクライフがサイコー(サイコではない)だと言いたがるし、ファンバステンを知っている人は昔のオランダ代表はヨカッタと言いたがるし、私は沢田研二の「勝手にしやがれ」が歌謡曲史上最高の名曲だと言いたがるのである。

 これは年寄りの特権みたいなもので、「昔は良かった」と言わせてもらえなきゃ齢を重ねる甲斐もないというものだ。發カン!さんの論旨とはあまり関係のない話になっているような気がするが、大人がそれを遠慮してあまり言わないから、根拠レスに傲慢なクソガキがはびこるのだと思わないでもない。ちょっと乱暴すぎるか。でも、そんなふうに言いたい気分。嫌われるのを承知の上で、大人はあえて過去の経験だけを盾にガキの前に立ちはだかってあげないといけないのではないか。んで、時間を遡ることができない若い人や「にわかファン」はそれに一定の敬意を払いつつしかし屈することなしに現時点で可能な範囲で自分の見方や聴き方を鍛えていけばヨイというだけの話で、いちいち「詳しくないんでアレですけど」だの「昔のことを知らなくて申し訳ないが」だのと平身低頭するこたぁないでしょうということを、私は私のためにあの本で書いたつもりなのだった。「にわか」だって、そのにわか雨を集中豪雨のように浴びてしまえば何とかなるのである。

 しかしここで問題になっているのはそういうことではなく、「クィーンを最初に支持したのは女の子のファンではなく、音楽評論家であった」といった形で昔のバンドを「必要以上に」持ち上げるような所作なのであって、それが歴史改竄かどうかは私にはわからないものの、仮にそれが事実だとしたって(事実ではないのでしょうが)、評論家のお墨付きを示さなければ持ち上げたいものを持ち上げられないような権威主義には反吐が出ますな。「おれが凄いって言ってんだからおまえも聴きやがれ」と威張ってもらったほうがまだキモチがいい。いや、もちろんその権威が正しく権威であるなら持ち出したっていいし、むしろ持ち出すべきかもしれないが、しかしそこで「女の子のファンではなく」と言ってしまうとモテない男のルサンチマンが見え隠れしてしまうのでやめたほうがいいと思うなぁ。だいたい、クィーンだろうがキャイーンだろうが、みんな女の子にモテたくてやっているのだ。ミーハーファンの支持を軽視する輩は、評論家と女の子のどちらが女の子だと思っているのか。女の子に決まってるじゃないか。ベッカムが嫌いな私がそんなことを言ってはいけないような気もするが。あー。まともなレスポンスにならなくてごめんなさい。




 

2003.11.27.Thu. 17 : 35 p.m.
BGM : 矢野真紀 "夜曲/雨のステイション"

 聴いているのは本日発売のニューシングルである。うーむ。寺岡呼人プロデューサーの作詞作曲による「夜曲」は先日の「茶会」でもアンコールで歌っており、そのときは「どうなんだこれは」と思っていたのだが、あらためてCDで聴いてみると、どうなんだこれは。なにしろこの「夜曲」がどんな曲を連想させるかというと……えーと……言いたくないなぁ……でも言おう言ってしまおう言わねばならぬ。「昴」を連想させるのだった。谷村新司の「昴」だ。嗚呼。言ってしまったじゃないか。どうしてくれるんだ。いや「昴」は決して悪い曲ではないのだろう。歌い手の声や表情や人間性やカラオケ店における消費のされ方といったマイナスの付加価値によって、不当なウンザリ感を与えられてしまった曲であるに違いない。でも。やっぱ「昴」はまずいだろ「昴」は。

 無論、他ならぬ矢野真紀の唄だ。悪かろうはずがない。じっさい、今回もすばらしい歌唱を披露してくれてはいる。だがしかし。これでいいのか矢野真紀。こんなアバウトな歌詞世界しか持たぬ月並みなメロディで彼女はほんとうに納得しているのか。ひとことで言って、役不足である。物足りない。まったくもって物足りないぞ。

 私はこの寺岡呼人というプロデューサーのセンスがどうしても理解できない。シングル「さよなら色はブルー」は「え、そっち行っちゃうのかよオイオイ」という危うさがむしろ新鮮に感じられたこともあってオッケーだったものの、アルバム「この世界に生きて」、ミニアルバム「あいいろ」、そしてこのシングル「夜曲」と、どんどん不信感が募ってゆく。もしかしたらこの人は、矢野真紀という歌い手のポテンシャルを見誤っているのではないか。たしかに彼女には昔のフォークシンガーっぽいテイストがあるし、30年早く生まれていたらカリスマになったかもしれないと私は思っているが、寺岡呼人は矢野真紀の魅力のほんの一部でしかないその枠組に彼女を押し込めようとしていないか。どういう音楽的背景を持った人なのかよく知らないし大して知りたくもないが、自分の幅狭い(と私には感じられる)音楽観の中だけで矢野真紀を理解したつもりになっていないか。矢野真紀自身はこの曲をずいぶん気に入っているようなことをステージで話していたが、彼女自身、実はプロデューサーの世界観をはるかに凌駕するスケールを持っているにもかかわらず、本人の謙虚さが邪魔をして「ノー」を言えなくなっていないか。これらの疑念が、私の愚かな思い違いに基づく妄言暴言の類であることを、私は彼女のために心から祈りたい。

 ちなみに2曲目の「雨のステイション」は荒井時代のユーミンをカバーしたもの。これは、まあまあ、いいっすね。「コバルトアワー」の収録曲であるようで、私も過去に本家を聴いたことがないわけはないと思うのだが、最初はカバーだと気づかなかった。矢野真紀は、実のところカバー名人でもあるのだ。「The Rose」「風をあつめて」「海辺の避暑地」、そしてこの「雨のステイション」と、いずれも妙な自意識に凝り固まって「私はこう唄う」と肩肘張ることなく自然体でこなしているのだが、それはちゃんと「矢野真紀の歌」になるのだった。ところで、このCDには金沢市民芸術村における「せんたくもの」のライブ映像もオマケでついているのだが、それを見た上で矢野真紀に一つ言っておきたいことがあるとすれば、スタッフ用のIDカードを首からぶら下げたままステージに立つのはやめたほうがいい、ということだ。リハの映像かと思ったじゃないか。

 そんなわけで、今日の私がなんだかゴキゲンナナメな感じなのは、言うまでもなくラツィオ×ベジクタシュ(CL第5節)を朝からビデオで観たせいである。結論から言うと、1-1のドロー。結論じゃなくて結果だよ。やれやれだ。敗因(と言ってよかろうドローだが)は、マンチーニが風邪を引いてしまったことですね。かつて「ピッチ上の監督」と呼ばれた彼は、現在「ピッチ外のキャプテン」でもあるので、ベンチにいてくれないとたいへん困るのである。

 あーあ。いいプレイもいくつかあったのになぁ。至近距離からのシュートを弾き飛ばし、まだゴール前でボールが生きていると見るやいなやすぐさま起き上がって後ろ向きのまま相手からボールを奪ったペルッツィの姿には心から感動した。尻で敵のドリブルを止められる奴なんて、他にはいない。同点ゴールとなった、ムッツィのオーバーヘッド気味ジャンピングボレーにも狂喜させてもらった。シャツを脱いだムッツィの筋肉美を見て、愚妻は「ぐふふ。ムッツィ〜って感じ(涎)」とワケのわからないことを口走っていた。(涎)はウソです。

 でも下がダメだ下が。下がダメだ。下がダメだ。そのファーストタッチのデタラメさはどうにかならんのか。どうにかならんのか。どうにかならんのか。人が作ったチャンスを何だと思っているのだ。味方に向かって「なんで俺に寄越さないんだ」的クレームをつける資格なんか、ぜんぜんナッシングである。うー。裏カードの結果はまだ知らないが、どうなんだ。まだチャンスはあるのか。ところで、これは3位で終わるとUEFAカップに都落ちできるんだっけ?

 ゆうべは、インテル×アーセナル(CL第5節)をビデオ観戦。前半は、「スパッ!」という音が聞こえそうなアンリの爽快なシュートと、「グシャッ」という音が聞こえそうなビエリの乱暴なシュートがそれぞれ決まって1-1。実に対照的なストライカーである。で、後半。あんがいインテルがうまいこといなしちゃいそうな雰囲気もあったのだが、カンナバーロが故障(?)でアウトしたのが致命的だったのか、終盤の3連発も含めて1-5である。びっくりしたなあもう。インテルって、見る者を茫然とさせることにかけては天下一品だ。レッジーナを6-0で木っ端微塵にするやいなや今度は自分が砕け散るんだからダイナミックである。ある意味プログレ? 終了間際にアップになったトルドの横顔が、いきなり老け込んでしまったように見えたのが印象的だった。いまごろ髪の毛まっ白になってなきゃいいですが。




2003.11.26.Wed. 11 : 45 a.m.
BGM : KING CRIMSON "In The Court Of The Crimson King"

 プログレを語る場合にまず考えなければならないのは、言うまでもなく、「なぜ彼らのアルバムはものすごく小さい音から始まるのか」である。少なくとも(少ないのだが)私が聴いたことのある狂気、原子心母、危機、こわれもの、そして今聴いているクリキン殿といったプログレたちは、私の記憶が正しければいずれも「ものすごく小さい音」から始まる。様式美と言ってしまえばそれまでだが、わりと迷惑だ。東北の土蔵ででも聴いていないかぎり、上げたボリュームを通常レベルに下げても聞こえるようになるまで、ステレオの前から離れられないからである。私は子供の頃、ラヴェルの「ボレロ」を最初から最後までボリュームを変えずに聴いていたら母親に「うるさい!」と叱られた経験があるので、そういうことに対してとても神経質なのだ。そのため湯治は(←温泉ムック仕事の名残)当時は、「タイム」(狂気)の「ジリリリリリリ」の直前にすかさずボリュームを下げるという悲しい技術も会得していた。今でも他人の家に行ったときにテレビが大音量で鳴っていたりすると、「ちょっとボリューム下げたほうが……」と言いたくなってドキドキしてしまう。子供時代の住環境は人格形成に重大な影響を及ぼすわけですね。人格ってほどの話じゃないが。

 小さい音から始めたくなる心理はわからなくもない。プログレのアルバムは、大半がランダム選曲を許さないタイプのトータルな作品だからだ。つまり、尺が長い。私が仕事で書く単行本もそうだが、尺の長いものを作るときはローギアからスタートするのが基本である。ベートーベンの「運命」みたいなロケットスタートはなかなかできるものじゃない。あれができるのは、よほどの勇気と自信を持ち合わせている者だけだろう。私は勇気も自信もないので、ゴーストで書く本はひどく無難な一行でおそるおそる始めることが多い。いきなりガツンと大胆な結論をぶちかましたりしたら息が持たないし、書き進むうちに論理破綻矛盾炸裂支離滅裂状態に陥って収拾がつかなくなる可能性が大だ。

 したがって、たとえば心理学の本なら、「もはやフロイトは死に体である。なぜなら……」なんて書き始めたりはしない。「心ない人はいるけど、心のない人はいませんよね」みたいなものすごく無難なところから始める。書いたことはないが、もし言語学の本を書いたら「コトバを使わない人間はいない」なーんて話から始めるであろう。どの心理学本、どの言語学本にも転用できるという意味では、非個性的な書き出しと言ってもよい。著者の個性的な主張はなるべく後ろのほうまで引っ張りたいのが、単行本ライターの習性というものではないだろうか。私だけかもしれないが。

 おそらくライターは、そういった書き出しによって、「これは心理学の(言語学の)本ですよ〜」ということを読み手に知らせようとしているのだろう。それは読み手のためというより、書いている自分のために行う準備作業のようなものだ。読み手は本を手にした時点でそれが心理学や言語学の本であることを知っているが、書き手のほうは先月までビジネス書やタレント本を執筆したりしていたので、まだ心の準備ができていない。自分はその分野の専門家ではないという後ろめたさもある。著者が自分で書く場合は「おれが書くんだから心理学の(言語学の)本に決まってる」という専門家としての自信があるから無難なイントロなど不要だが、ライターはそうもいかないのである。

 だとすると、無難に小さい音から始めたがるプログレの人たちはその道の専門家ではないという仮説も成り立つわけだが、まさかそんなことはないわなぁ。しかし心のどこかに、「これはプログレのアルバムですよ〜」と聴き手に念を押したいキモチがあるのではないか。「わかってもらえないかもしれない」という不安が「小さい音」を選ばせるのではないか。たとえばこの「クリムゾン・キングの宮殿」は3曲目に「エピタフ」という曲が収められており、私はたいへんこれが好きなのだが、もしこれが1曲目だったらどのように聞こえるだろう。私には、歌謡曲のように聞こえる。沢田研二に歌わせて、レコード大賞を狙いたい感じ。1978年、彼が「LOVE 〜抱きしめたい」ではなく、阿久悠の訳詞による「エピタフ」を歌っていたら、ピンクレディーの「UFO」なんぞに敗れたりせず、前年の「勝手にしやがれ」に続く連続受賞を果たしていたような気がする。また叱られそうなことを書いてしまった。

 ゆうべは、ブラジル×ウルグアイ(W杯南米予選)をビデオ観戦。現地の機械がダメなのか安い電波を使っているのか何なのか知らないが、映像も音声もブツブツ途切れるアナウンサー泣かせの中継であった。しかし、こういう試合で喋らせたら倉敷さんの右に出る者はいない。慌てず騒がず、トラブルをエンターテインメントに仕立ててしまうテクニックはさすがだ。「ロナウドのクロスが…(ここで映像フリーズ)…入ったと想像してください(笑)」って、なかなか言えるもんじゃないでしょう。それこそ人並み以上の勇気と自信が必要だ。このまま映像が回復しないほうが楽しいかも、などと思ってしまった。

 試合は派手に3-3のドロー。前半で2-0としたブラジルが楽勝かと思いきや、ウルグアイが後半に3点取って逆転。ロナウドのこの日2点目でどうにかこうにか引き分けにできました、という感じだった。向笠さんの解説によれば、ウルグアイの監督はかなりエキセントリックな人物であるらしいが、この試合展開にもそのケレンが表れているような雰囲気。両手をデタラメに振り回して喧嘩してる子供みたいなサッカーだ。おもしろい。ここにダリオ・シルバが加わったら、もっと素敵なことになるような気がするのだが。彼、今はどこでプレイしているんだろう。




 

2003.11.25.Tue. 11 : 55 a.m.
BGM : JONI MITCHELL "DON JUAN'S RECKLESS DAUGHTER"

 仲俣さんのはてなダイアリー「陸這記 crawlin’on the ground」(11/21)で、新書の会に来なかった仲俣さんを11/19の日誌で責めたことを責められてしまった。あははー。しかし、そうなのだ。ウェブ日誌やブログ(両者がどう違うのか私にはよくわかんないけど)をマメに更新しているからといって、その人が暇だとは限らないのだ。図らずも連休中に私自身が証明したとおり、これは逃避力の賜物だから、むしろマメに更新していればしているほど忙しいと考えたほうがよいのだ。だから、「そんなに書いてる暇があったら陸を這ってでも来なさい」などと言ってはいけないのだ。

 日曜の晩は、ラツィオ×ペルージャ(セリエ第10節)を副音声でライブ観戦。どうやら今季のペルージャはものすごく成績が悪いようなので、久しぶりのボコボコ勝ちを見せてもらえるのではないかと期待していたのだが、序盤はやけにきれいに中盤でボールを回すペルージャに振り回されて、のっけから意気消沈だ。でもね、大丈夫なんだよ。なぜならゴールマウスにペルッツィ神がいるからである。しかもその前にスタム神が仁王立ちしているとなれば鬼に金棒、ペナルティエリアに東大寺南大門の金剛力士像が立っているようなものだ。左の「阿」がペルッツィで、右の「吽」がスタムに見えます私には。運慶と快慶にふたりの巨像を彫ってもらいたいぐらいである。お願いだから、間違ってミハとコウトを作らないようにしてください。

 さて攻撃のほうはというと、リベラーニのファンの方には申し訳ないが、リベラーニがダメだ。奴がペナルティエリアめがけてポワ〜ンとチップキックのパスを送るたびに、私は絶望的なキモチになるのだった。そんなんで点が入るほどサッカーは甘くねえだ。一所懸命働かねえとお天道様に申し訳ねえだ。……などと実直な農民のごとき思いにとらわれていた前半ロスタイムである。左サイドからリベラーニがポワン、だ。あーあ、おれはおまえのその緩いパスが嫌いで嫌いで仕方ないんじゃもっとビシッと蹴らんかビシッとと言い終わらぬうちに、ボールはDFの頭をかすめてフリーのスタンコビッチの足元へ。どすんと先制である。やった。シャツを脱いで嬉しそうに走り回るスタンコビッチを見ると私も嬉しい。しかしふと見ると、リベラーニもシャツを脱いで走り回っていた。いや、まあ、手柄は認めてやらんでもないが、ありゃ偶然だからね。おまえがシャツ脱ぐほどのことはないだろうと私は言いたい。

 さて後半、根拠もなく楽勝ムードで観ていた私が突如として緊張したのは、いつの間にかスタムがいなくなっていることに気づいた瞬間である。なんでネグロがそこにおんねん。副音声だと、そのへんの事情がまったくわからないのが厄介だ。ともあれ、こういうときの悪い予感というのは驚くほど的中するもので、なんやバタバタしとる隙に素早いリスタートかまされてもうて、どどどどないしよ思うてオタオタしとったら同点じゃ。何をしとるんじゃ。

 だが、そのまま守りきられるかと思いきや、ペルージャが自壊してくれるんだからサッカーはわからない。まず、放っておいてもさほど問題ないはずのファバッリの攻め上がりに慌てた何者かがバックチャージで一発レッド。さらに、何があったのかまったくわからないが罵り合いになったコンセイさんとペルージャの何者かが両成敗で退場。下インザーギとつかみ合ったコズミ監督も退席処分。その後、誰に何をしたのか忘れてしまったが、ペルージャはもう一人退場になっていた。未確認だが、どうやらベンチにいたガウッチ・ジュニアも追い出されたようだ。とにかく、まあ、みんな機嫌が悪かったようで、荒れに荒れまくっていたのである。タッチライン際で両軍入り乱れてわさわさする中、「おまえら、はよサッカーやらんかい」とコラーディやら下やらファバッリやらの背中をどついているマンチーニの姿が印象的だった。

 で、さすがに人数が10対8になればラツィオもペルージャを圧倒できるのであって、妙にスカスカなフィールド上で、89分にコラーディが左足でミドルをゲット。ロスタイムには下のループショットも決まって3-1である。賑やかで、たいへん面白い90分だった。試合が終わってから主音声に切り替えてみたら、もっと冷静にやらなきゃいかんとか残念な展開になってしまったとか、ネガティブなコメントばっかりだったけど。まあ、解説者としてはそう言わなきゃしょうがないんでしょうが、私はゲラゲラ笑いながら観てました。副音声で観て、本当にヨカッタ。

 ゆうべは、コロンビア×アルゼンチン(W杯南米予選)をビデオ観戦。暑いのか芝がダメなのかみんな疲れてるのか知らないが、やけにボールが重たそうに見えるかったるい雰囲気だった。アルゼンチンの先制点は、コロンビアGKコルドバが犯したコント風味の大失敗によるもの。ゴールキック(間接FKだったか?)が前を向いていた味方DFの背中に当たって戻ってきたところを、クレスポが拾ってすかさずゲットである。なぜか右足のアウトにかけて小細工した蹴り方をしたのが運の尽きだった。彼、もう死ぬまであんな蹴り方はしないんじゃないだろうか。

 そういえばノルウェー×スペインのセカンドレグでも、蹴り損ねのゴールキックをエチェベリアが頭で跳ね返したら入っちゃいました、というシーンがあったっけ。あのノルウェーのGKは前半で足を痛めていたらしいけど、悲しい風景だった。やっぱり、自分のセガレにはGKやってほしくないと思いました。見ていて辛すぎる。かといって、コルドバのミスに驚きもせず「しめしめ」って顔して速攻でシュート態勢に入れるクレスポみたいな人でなし系ストライカーになってほしいかと言ったら、これも微妙なところなのだが。「日本にも俺が俺がの図々しいストライカーを」という声は多いが、親の気持ちも少しは考えたほうがいいと思う。試合は後半の早い時間帯にコロンビアがセットプレイから追いついて1-1のドロー。

 今朝、実家の父親から電話。父の姉の旦那さん(つまり父の義兄。私の伯父。81歳)が、昨夜亡くなったという。まだまだお元気だとばかり思っていたので、びっくりした。しかし、以前から肺気腫とやらで入退院をくり返していたらしい。先日亡くなった叔母と同様、こちらも自分の結婚式以来ご無沙汰だった。叔母にも伯父にも、セガレを合わせていなかったことが悔やまれる。

 伯父は畑仕事や山菜採りや釣りが大好きな人で、よく自分の庭でこしらえたトウモロコシを送ってくれた。それより美味しいトウモロコシを、私は食べたことがない。小さい頃、北海道へ遊びに行ったときに、あれは山菜採りに連れて行ってもらったのだったか、伯父さんが運転するオートバイの後ろに乗せてもらい、必死で広い背中にしがみついていたことをやけに鮮明に覚えている。いつもニコニコと笑っている、とてもやさしい伯父さんだった。合掌。




| #12 | TOP | BACKNUMBER | FUKAGAWA | B.I.P. | MAIL | ANTENNA | GUEST BOOK | #14 |
edogawa's diary 03-04 #13.