edogawa's diary 03-04 #13. |
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2003.12.02.Tue. 13 : 25 p.m.
なぜ深夜0時まで仕事に取りかからなかったかというと、10時からチェルシー×マンチェスターU(プレミア)をビデオ観戦していたからである。ナニ音声で観たかは、八塚さんに申し訳ないので書けない。私は、名前はよく知らないがギグス好きを公言して憚らない解説の人がテリーの悪口を言うのを聞きたくないのである。まあ、実際バックパス時に「あわや」のポカをやらかしてたわけですが。「ほらほら、これがあるんだよなぁテリーは」という幻聴がしてイヤだった。言ってなかった? 言ってたでしょ? 言ったに決まってる。 しかしテリーを含めたチェルシー守備陣は立派に仕事をしたのだった。前半にランパードが完璧なキックで決めたPKの1点を守り抜いて1-0。終盤はEURO2000のオランダ×イタリア戦を観ているような気分だったが、よく守りました。えらいえらい。すごーくえらい。いま、世界でいちばん真面目にカルチョを実践しているのはチェルシーだったりして。試合終了後に見せたラニエリの笑顔は、いつになく満足そうだった。そりゃユナイテッドに勝ったんだから当たり前だが、2-0や3-0で勝ってたらあんな含み笑いは見せなかったのではなかろうか。こっちに、「イタリア人はウノゼロが好き」という先入観があるせいかもしれんが。 とにかく、まあ、だんだん良いチームになっているような印象はあったが、ユナイテッドを完封したんだから本当に良いチームになっているのであろう。アブラ様は決してただの浪費家ではない。あれだけの戦力を束ねているラニエリの手腕も大したものなのだろうが、よく見ると、今季のチェルシーはそもそも(ムトゥを除いて)あまり厄介事を起こさないような善人ばかり大量補強しているのだ。とりわけマケレレとジェレミが中盤で見せる善人ぶりには目を見張るものがある。ジョー・コールを倒してペナルティを取られたキーンのプレイは、ことによると笛を吹かない主審のほうが多いかもしれないが、あれがファウルに見えたのはマケレレの善人ぶりとの対比によるものではないか。マケレレ、あらゆる意味で効いている。
善人といえば、ゆうべ仕事をしながら聴いたハットフィールド・アンド・ザ・ノース「ロッターズ・クラブ」(ラブではない)もそんな感じ。「善人のプログレ」って、「仙人のプロレス」と同じぐらい妙な語感だけど。ときどきフュージョンっぽくてキモチがいい。「フュージョンっぽい」って、もしかしてプログレの人にとっては褒めコトバにならないのかな。そのあたりのプログレ人意識に興味がある。
ラツィオファンとしては一瞬だけ手に取るのを躊躇するタイトルではあったが、版元が送ってくれた渡部昇一『ローマ人の知恵』(集英社インターナショナル)を読み始めたら、一気に最後まで読んでしまった。いい本。ゴーストで書くビジネス書に使えそう、というスケベ心も含めてですが。というか、これ一冊あったら他のビジネス書なんか要らないんとちゃう? 月刊プレイボーイの連載をまとめたもので、エッセイかくあるべし、と思わされた。ローマの格言・警句が50本紹介されているのだが、その一つである「ライオンをリーダーとする鹿の軍隊は、鹿をリーダーとするライオンの軍隊よりも恐るべきものである」という有名な言葉を見て思ったのは、「ライオン」をマンチーニ、「鹿」をパンカロに置き換えた場合どうなんだそれは、ということだった。ぜったい、パンカロをリーダーとするマンチーニ軍団のほうが強いと思うんだけどなぁ。たしかに11人のパンカロ軍団も別の意味で恐るべき存在だが。
たくさん書きたいことがあったのだが(すでにたくさん書いているとも言えるが)、あまりに眠くてまとまりのある文章になりそうもない。なので、以前あるウェブライターがやっているのを見て自分でも一度やってみようと思っていた断章形式を試みてみることにする。以下、ここ数日のあいだに頭に浮かんだ脈絡のない(あるかもしれない)思考や妄想の断片。
2003.12.01.Mon. 11 : 15 a.m.
まだ第2弾「女の声特集」も聴き終わっていないのに、シギーズCDコレクション第3弾が届いた。ほんとうに倒れるのではないかと心配になるぐらい働いているシギーだが、この情熱は一体どうしたことか。もしかすると、自宅のCD倉庫に立てこもって私に貸すものを物色するのは、彼にとって仕事からの逃避行動なのかもしれない。それにしても、タボン君が貸してくれたものを含めると、かれこれ100枚ぐらい人からCDを借りている。この場合、ジャスラックからクレームはつかないのだろうか。 そんなことはともかくとして、第3弾は私の希望もあって「プログレシリーズ」だ。ラインナップはこんな感じ。いわゆる「四天王」関係は、シギー本人が聞き飽きているのか部分的に貸し渋る素振りもあったが、私が頼んで入れてもらった。 イギリス何だかよくわからないが、大変なことになっているような気がする。世界はプログレでできているのか。で、今はシギーいち押しのP.F.M「幻の映像」を聴いているのだった。「パフ」とか歌ってるわけじゃないので勘違いしてはいけない。それはP.P.M。これはP.F.M。「プレミアータ・フォルネーリア・マルコーニ」の略で、ライナーノーツによるとこれはブレシアにあるお店(何屋さんかは不明)の名前であるらしい。おお、ブレシア。「イタリアのプログレ」と言われると何やらえらく遠い存在に感じられるが、ブレシアと言われると意味もなく親近感が湧くから不思議だ。 ともあれ、これは素晴らしい。イタリアにこんな音楽があったとは。なんて美しくて上品でカッコイイんだろう。音作りに迷いがない、という感じでしょうか。実際はどうなのか知る由もないけれど、きっちりとスコアを仕上げてから作り上げた音楽のように聞こえる。その譜面自体が一枚の絵のように美しく見えるのではなかろうか。迷いがなく、技術も高いぶん、プログレ特有の得体の知れない妖気みたいなものに欠ける気がしなくもないが、そんなものは必要ないのだこのバンドには。今、かの国のカルチョには、こういうファンタジスタが枯渇していないだろうか。トッティには、この音楽のすばらしさなんかわかんないだろうなぁ。
などとカルチョの現状を憂えている場合ではないのであって、ゆうべビデオ(副音声)で観たシエナ×ラツィオ(セリエ第11節)は3-0だ。うああああああ。頭かきむしり過ぎて血が出そうでした。どうしてスタムはいなかったんだろう。ミハイロ&コウトの破綻ぶりは、すでにシャレにならない次元まで来ている。ベントラに置き去りにされるミハイロの姿は、見る者の涙を誘っていた。コウトはコウトで、自分のゴール前で相手のために華麗なポストプレイばっか披露してるし。八百長レベルの利敵行為である。しかしまあ、あの二人だけが悪いわけではないのであって、どいつもこいつも笑いを取るためにやってるようなバカプレイの連続だ。チームとしてどうこうという以前に、みんなボール蹴るのが下手。ボール蹴るのが下手という以前に、運動神経が悪い。体育の成績が「2」の人たちを集めてサッカーやってるように見えた。そりゃあ疲れてはいるんだろうけど、それにしたってなぁ。90分のあいだに「ナニそれ」と何度呟いたことだろう。こんな人たちが前節まで4位につけていたセリエって、やっぱり、ちょっと、まずいんじゃないかと思いました。
まだまだ書きたいことがたくさんあるのだが、これから銀座まで取材に行かねばならぬので今日はこれぐらいにしといたろ。雨の日の取材は憂鬱だ。
2003.11.28.Fri. 15 : 30 p.m. ……と、きのうの日誌を読んだ愚妻に叱られてしまった。なので白状します。(涎)だけでなく「ぐふふ」もウソでした。いいじゃんねぇ、それぐらいの演出は見逃してくれたって。そんなこと言い始めたら、セガレが文字を読めるようになったとき、どれだけクレームつけられるかわからん。実際、このところセガレは猛烈な勢いで文字を習得しつつあるのだった。べつに親が覚えろと言っているわけでもなく、自分で絵を描いて作るオリジナルカードに怪獣の名前やら昆虫の名前やらを書きたいという欲求に基づくものなのだが、母親の作った五十音表を見ながら一生懸命に書いている。当たり前といえば当たり前なんだろうけど、子供の学習能力ってすごいよな。もっとも、どういうわけか鏡文字を書いてしまうことが多く、セガレが「見て見て〜」と書いたものを持ってくると、つい上手に書けた文字よりも先に誤字のほうが目がついてしまい、「これ逆だぞ」などと指摘しまうのだった。どうも親の評価基準というのは、初期設定のままだと減点主義モードになっていてイカン。まずはホメてやらな。
京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』(講談社ノベルス)をようやく読んだ。おもしろかった。榎木津サイコー。「榎木津サイコ」ではないので念のため。サイコっちゃサイコだけどね。サイコでもサイコー。なにしろ藪から棒に「お盆頭載せ」だ! なんでそんなこと思いつくんだ! 先に愚妻が読んでいたのだが、京極夏彦の小説はとても厚くて新品だとページを開きにくいので、人のあとに読んだほうが(物理的に)読みやすいということがわかった。しかし読みやすかったのはそれだけが原因ではなく、文章も前作までと比べるとスムースになっているように感じるのは気のせいかしら。それがいいか悪いかは別にして、なんちゅうか、楽に書いているような印象。どんな小説であれ、書くのが楽なわけはないんだけど。筋書きがあんまり込み入っていないせいかな。いろいろな意味で、従来よりも親切な作品、というところでしょうか。「うへえ」の鳥口君が登場しないのがちょっと淋しかった。
ゆうべはチェルシー×スパルタ・プラハ(CL第5節)をビデオ観戦。スコアレスドロー。プラハがガッチリ固めたガードの上からジャブ打ってる間に終わってしまったような感じだった。シャブ打ってたわけではないので念のため。いや確かめたわけではないが、たぶん打ってないと思います。これでグループGの勝ち点は、チェルシー10(2位以上確定)、ベジク7、ラツィオ5、プラハ5。私に人並みの計算能力が備わっているならば、最終節はラツィオ○でベジク引き分け以下ならオッケーということである。8で並んでもラツィオはベジクに1勝1分だからね。気分的には1勝1敗だけど。するってえと、チェルシーの「できれば1位がいいなモチベーション」がどれほどのものかということが問題なのであり、それがベジクの火事場のバカヂカラを凌駕するとは思いにくにので、ラツィオとしてはチェルシーに成功報酬でも払ってやりたいところなのだが、あいつら全然カネに困ってねえしな。払った金額を見たアブラ様に「何これ。消費税分?」とか言われてヘコむのもバカだ。それより何より、ラツィオが敵地でプラハに勝てるものだろうか。あなたはどう思いますか。勝てると思いますか。私は、私は……まあいいや。そんなことを私が予想してもしょうがない。何でもいいから記憶に残るような死闘を見せてほしいものである。今シーズン、「死闘」になり得るゲームはこれが最後かもしれないし。しくしく。
さらにゆうべは、アヤックス×ミラン(CL第5節)も観た。「手が合う」とでも言うのか、このカードはスリリングな好ゲームになることが多く、とくにアヤックスはミランを相手にするとものすごく輝くような印象があったのだけれど、今回はそうでもなかったような。途中から居眠りしてしまったので実は私が見ていないときに輝いていたのかもしれないが、居眠りしてしまったのは私が前夜『陰摩羅鬼』のせいで寝不足だったことだけが理由ではあるまい。どういうゴールだったか忘れてしまったものの、たしかシェフチェンコの一発で0-1。前半途中で故障したイブラヒモビッチに代わって登場したリトマネンが、なんだか痛々しく見えたのは私だけだろうか。なんかこう、若者たちとわかり合えていない感じ。浮いている、と言ってもいい。みんながJ-POPで盛り上がっているカラオケ店でうっかりバンバン(ビリーバンバンではない)の「縁切寺」を選曲してしまったおじさんみたいな浮き方、などと言ってみたくなる状況ではあった。がんばれリトマネン。おじさんもがんばれ。切々と歌い上げてしまえ。
数日前に發カン!さんがゲストブックに寄せてくださった書き込み(339)について、しばし考えていた。というか、ある意味『キャプテン翼勝利学』を書いているときから私はその周辺にあることをうっすらと考えていたような気もしますが。 どうやら昔のバンドを「必要以上に持ち上げる傾向」のあるらしい「温故知新系の雑誌」というものを私は読んだことがないし、どの雑誌がその雑誌なのかもよくわからないけれど、まあ「必要以上に」を捨象してしまえばそれはそういうもので、ペレを知っている人はマラドーナよりペレのほうが凄いと言いたがるし、クライフを知っている人はクライフがサイコー(サイコではない)だと言いたがるし、ファンバステンを知っている人は昔のオランダ代表はヨカッタと言いたがるし、私は沢田研二の「勝手にしやがれ」が歌謡曲史上最高の名曲だと言いたがるのである。 これは年寄りの特権みたいなもので、「昔は良かった」と言わせてもらえなきゃ齢を重ねる甲斐もないというものだ。發カン!さんの論旨とはあまり関係のない話になっているような気がするが、大人がそれを遠慮してあまり言わないから、根拠レスに傲慢なクソガキがはびこるのだと思わないでもない。ちょっと乱暴すぎるか。でも、そんなふうに言いたい気分。嫌われるのを承知の上で、大人はあえて過去の経験だけを盾にガキの前に立ちはだかってあげないといけないのではないか。んで、時間を遡ることができない若い人や「にわかファン」はそれに一定の敬意を払いつつしかし屈することなしに現時点で可能な範囲で自分の見方や聴き方を鍛えていけばヨイというだけの話で、いちいち「詳しくないんでアレですけど」だの「昔のことを知らなくて申し訳ないが」だのと平身低頭するこたぁないでしょうということを、私は私のためにあの本で書いたつもりなのだった。「にわか」だって、そのにわか雨を集中豪雨のように浴びてしまえば何とかなるのである。 しかしここで問題になっているのはそういうことではなく、「クィーンを最初に支持したのは女の子のファンではなく、音楽評論家であった」といった形で昔のバンドを「必要以上に」持ち上げるような所作なのであって、それが歴史改竄かどうかは私にはわからないものの、仮にそれが事実だとしたって(事実ではないのでしょうが)、評論家のお墨付きを示さなければ持ち上げたいものを持ち上げられないような権威主義には反吐が出ますな。「おれが凄いって言ってんだからおまえも聴きやがれ」と威張ってもらったほうがまだキモチがいい。いや、もちろんその権威が正しく権威であるなら持ち出したっていいし、むしろ持ち出すべきかもしれないが、しかしそこで「女の子のファンではなく」と言ってしまうとモテない男のルサンチマンが見え隠れしてしまうのでやめたほうがいいと思うなぁ。だいたい、クィーンだろうがキャイーンだろうが、みんな女の子にモテたくてやっているのだ。ミーハーファンの支持を軽視する輩は、評論家と女の子のどちらが女の子だと思っているのか。女の子に決まってるじゃないか。ベッカムが嫌いな私がそんなことを言ってはいけないような気もするが。あー。まともなレスポンスにならなくてごめんなさい。
2003.11.27.Thu. 17 : 35 p.m. 無論、他ならぬ矢野真紀の唄だ。悪かろうはずがない。じっさい、今回もすばらしい歌唱を披露してくれてはいる。だがしかし。これでいいのか矢野真紀。こんなアバウトな歌詞世界しか持たぬ月並みなメロディで彼女はほんとうに納得しているのか。ひとことで言って、役不足である。物足りない。まったくもって物足りないぞ。 私はこの寺岡呼人というプロデューサーのセンスがどうしても理解できない。シングル「さよなら色はブルー」は「え、そっち行っちゃうのかよオイオイ」という危うさがむしろ新鮮に感じられたこともあってオッケーだったものの、アルバム「この世界に生きて」、ミニアルバム「あいいろ」、そしてこのシングル「夜曲」と、どんどん不信感が募ってゆく。もしかしたらこの人は、矢野真紀という歌い手のポテンシャルを見誤っているのではないか。たしかに彼女には昔のフォークシンガーっぽいテイストがあるし、30年早く生まれていたらカリスマになったかもしれないと私は思っているが、寺岡呼人は矢野真紀の魅力のほんの一部でしかないその枠組に彼女を押し込めようとしていないか。どういう音楽的背景を持った人なのかよく知らないし大して知りたくもないが、自分の幅狭い(と私には感じられる)音楽観の中だけで矢野真紀を理解したつもりになっていないか。矢野真紀自身はこの曲をずいぶん気に入っているようなことをステージで話していたが、彼女自身、実はプロデューサーの世界観をはるかに凌駕するスケールを持っているにもかかわらず、本人の謙虚さが邪魔をして「ノー」を言えなくなっていないか。これらの疑念が、私の愚かな思い違いに基づく妄言暴言の類であることを、私は彼女のために心から祈りたい。 ちなみに2曲目の「雨のステイション」は荒井時代のユーミンをカバーしたもの。これは、まあまあ、いいっすね。「コバルトアワー」の収録曲であるようで、私も過去に本家を聴いたことがないわけはないと思うのだが、最初はカバーだと気づかなかった。矢野真紀は、実のところカバー名人でもあるのだ。「The Rose」「風をあつめて」「海辺の避暑地」、そしてこの「雨のステイション」と、いずれも妙な自意識に凝り固まって「私はこう唄う」と肩肘張ることなく自然体でこなしているのだが、それはちゃんと「矢野真紀の歌」になるのだった。ところで、このCDには金沢市民芸術村における「せんたくもの」のライブ映像もオマケでついているのだが、それを見た上で矢野真紀に一つ言っておきたいことがあるとすれば、スタッフ用のIDカードを首からぶら下げたままステージに立つのはやめたほうがいい、ということだ。リハの映像かと思ったじゃないか。
そんなわけで、今日の私がなんだかゴキゲンナナメな感じなのは、言うまでもなくラツィオ×ベジクタシュ(CL第5節)を朝からビデオで観たせいである。結論から言うと、1-1のドロー。結論じゃなくて結果だよ。やれやれだ。敗因(と言ってよかろうドローだが)は、マンチーニが風邪を引いてしまったことですね。かつて「ピッチ上の監督」と呼ばれた彼は、現在「ピッチ外のキャプテン」でもあるので、ベンチにいてくれないとたいへん困るのである。 あーあ。いいプレイもいくつかあったのになぁ。至近距離からのシュートを弾き飛ばし、まだゴール前でボールが生きていると見るやいなやすぐさま起き上がって後ろ向きのまま相手からボールを奪ったペルッツィの姿には心から感動した。尻で敵のドリブルを止められる奴なんて、他にはいない。同点ゴールとなった、ムッツィのオーバーヘッド気味ジャンピングボレーにも狂喜させてもらった。シャツを脱いだムッツィの筋肉美を見て、愚妻は「ぐふふ。ムッツィ〜って感じ(涎)」とワケのわからないことを口走っていた。(涎)はウソです。 でも下がダメだ下が。下がダメだ。下がダメだ。そのファーストタッチのデタラメさはどうにかならんのか。どうにかならんのか。どうにかならんのか。人が作ったチャンスを何だと思っているのだ。味方に向かって「なんで俺に寄越さないんだ」的クレームをつける資格なんか、ぜんぜんナッシングである。うー。裏カードの結果はまだ知らないが、どうなんだ。まだチャンスはあるのか。ところで、これは3位で終わるとUEFAカップに都落ちできるんだっけ?
ゆうべは、インテル×アーセナル(CL第5節)をビデオ観戦。前半は、「スパッ!」という音が聞こえそうなアンリの爽快なシュートと、「グシャッ」という音が聞こえそうなビエリの乱暴なシュートがそれぞれ決まって1-1。実に対照的なストライカーである。で、後半。あんがいインテルがうまいこといなしちゃいそうな雰囲気もあったのだが、カンナバーロが故障(?)でアウトしたのが致命的だったのか、終盤の3連発も含めて1-5である。びっくりしたなあもう。インテルって、見る者を茫然とさせることにかけては天下一品だ。レッジーナを6-0で木っ端微塵にするやいなや今度は自分が砕け散るんだからダイナミックである。ある意味プログレ? 終了間際にアップになったトルドの横顔が、いきなり老け込んでしまったように見えたのが印象的だった。いまごろ髪の毛まっ白になってなきゃいいですが。
2003.11.26.Wed. 11 : 45 a.m. 小さい音から始めたくなる心理はわからなくもない。プログレのアルバムは、大半がランダム選曲を許さないタイプのトータルな作品だからだ。つまり、尺が長い。私が仕事で書く単行本もそうだが、尺の長いものを作るときはローギアからスタートするのが基本である。ベートーベンの「運命」みたいなロケットスタートはなかなかできるものじゃない。あれができるのは、よほどの勇気と自信を持ち合わせている者だけだろう。私は勇気も自信もないので、ゴーストで書く本はひどく無難な一行でおそるおそる始めることが多い。いきなりガツンと大胆な結論をぶちかましたりしたら息が持たないし、書き進むうちに論理破綻矛盾炸裂支離滅裂状態に陥って収拾がつかなくなる可能性が大だ。 したがって、たとえば心理学の本なら、「もはやフロイトは死に体である。なぜなら……」なんて書き始めたりはしない。「心ない人はいるけど、心のない人はいませんよね」みたいなものすごく無難なところから始める。書いたことはないが、もし言語学の本を書いたら「コトバを使わない人間はいない」なーんて話から始めるであろう。どの心理学本、どの言語学本にも転用できるという意味では、非個性的な書き出しと言ってもよい。著者の個性的な主張はなるべく後ろのほうまで引っ張りたいのが、単行本ライターの習性というものではないだろうか。私だけかもしれないが。 おそらくライターは、そういった書き出しによって、「これは心理学の(言語学の)本ですよ〜」ということを読み手に知らせようとしているのだろう。それは読み手のためというより、書いている自分のために行う準備作業のようなものだ。読み手は本を手にした時点でそれが心理学や言語学の本であることを知っているが、書き手のほうは先月までビジネス書やタレント本を執筆したりしていたので、まだ心の準備ができていない。自分はその分野の専門家ではないという後ろめたさもある。著者が自分で書く場合は「おれが書くんだから心理学の(言語学の)本に決まってる」という専門家としての自信があるから無難なイントロなど不要だが、ライターはそうもいかないのである。 だとすると、無難に小さい音から始めたがるプログレの人たちはその道の専門家ではないという仮説も成り立つわけだが、まさかそんなことはないわなぁ。しかし心のどこかに、「これはプログレのアルバムですよ〜」と聴き手に念を押したいキモチがあるのではないか。「わかってもらえないかもしれない」という不安が「小さい音」を選ばせるのではないか。たとえばこの「クリムゾン・キングの宮殿」は3曲目に「エピタフ」という曲が収められており、私はたいへんこれが好きなのだが、もしこれが1曲目だったらどのように聞こえるだろう。私には、歌謡曲のように聞こえる。沢田研二に歌わせて、レコード大賞を狙いたい感じ。1978年、彼が「LOVE 〜抱きしめたい」ではなく、阿久悠の訳詞による「エピタフ」を歌っていたら、ピンクレディーの「UFO」なんぞに敗れたりせず、前年の「勝手にしやがれ」に続く連続受賞を果たしていたような気がする。また叱られそうなことを書いてしまった。
ゆうべは、ブラジル×ウルグアイ(W杯南米予選)をビデオ観戦。現地の機械がダメなのか安い電波を使っているのか何なのか知らないが、映像も音声もブツブツ途切れるアナウンサー泣かせの中継であった。しかし、こういう試合で喋らせたら倉敷さんの右に出る者はいない。慌てず騒がず、トラブルをエンターテインメントに仕立ててしまうテクニックはさすがだ。「ロナウドのクロスが…(ここで映像フリーズ)…入ったと想像してください(笑)」って、なかなか言えるもんじゃないでしょう。それこそ人並み以上の勇気と自信が必要だ。このまま映像が回復しないほうが楽しいかも、などと思ってしまった。 試合は派手に3-3のドロー。前半で2-0としたブラジルが楽勝かと思いきや、ウルグアイが後半に3点取って逆転。ロナウドのこの日2点目でどうにかこうにか引き分けにできました、という感じだった。向笠さんの解説によれば、ウルグアイの監督はかなりエキセントリックな人物であるらしいが、この試合展開にもそのケレンが表れているような雰囲気。両手をデタラメに振り回して喧嘩してる子供みたいなサッカーだ。おもしろい。ここにダリオ・シルバが加わったら、もっと素敵なことになるような気がするのだが。彼、今はどこでプレイしているんだろう。
2003.11.25.Tue. 11 : 55 a.m.
日曜の晩は、ラツィオ×ペルージャ(セリエ第10節)を副音声でライブ観戦。どうやら今季のペルージャはものすごく成績が悪いようなので、久しぶりのボコボコ勝ちを見せてもらえるのではないかと期待していたのだが、序盤はやけにきれいに中盤でボールを回すペルージャに振り回されて、のっけから意気消沈だ。でもね、大丈夫なんだよ。なぜならゴールマウスにペルッツィ神がいるからである。しかもその前にスタム神が仁王立ちしているとなれば鬼に金棒、ペナルティエリアに東大寺南大門の金剛力士像が立っているようなものだ。左の「阿」がペルッツィで、右の「吽」がスタムに見えます私には。運慶と快慶にふたりの巨像を彫ってもらいたいぐらいである。お願いだから、間違ってミハとコウトを作らないようにしてください。 さて攻撃のほうはというと、リベラーニのファンの方には申し訳ないが、リベラーニがダメだ。奴がペナルティエリアめがけてポワ〜ンとチップキックのパスを送るたびに、私は絶望的なキモチになるのだった。そんなんで点が入るほどサッカーは甘くねえだ。一所懸命働かねえとお天道様に申し訳ねえだ。……などと実直な農民のごとき思いにとらわれていた前半ロスタイムである。左サイドからリベラーニがポワン、だ。あーあ、おれはおまえのその緩いパスが嫌いで嫌いで仕方ないんじゃもっとビシッと蹴らんかビシッとと言い終わらぬうちに、ボールはDFの頭をかすめてフリーのスタンコビッチの足元へ。どすんと先制である。やった。シャツを脱いで嬉しそうに走り回るスタンコビッチを見ると私も嬉しい。しかしふと見ると、リベラーニもシャツを脱いで走り回っていた。いや、まあ、手柄は認めてやらんでもないが、ありゃ偶然だからね。おまえがシャツ脱ぐほどのことはないだろうと私は言いたい。 さて後半、根拠もなく楽勝ムードで観ていた私が突如として緊張したのは、いつの間にかスタムがいなくなっていることに気づいた瞬間である。なんでネグロがそこにおんねん。副音声だと、そのへんの事情がまったくわからないのが厄介だ。ともあれ、こういうときの悪い予感というのは驚くほど的中するもので、なんやバタバタしとる隙に素早いリスタートかまされてもうて、どどどどないしよ思うてオタオタしとったら同点じゃ。何をしとるんじゃ。 だが、そのまま守りきられるかと思いきや、ペルージャが自壊してくれるんだからサッカーはわからない。まず、放っておいてもさほど問題ないはずのファバッリの攻め上がりに慌てた何者かがバックチャージで一発レッド。さらに、何があったのかまったくわからないが罵り合いになったコンセイさんとペルージャの何者かが両成敗で退場。下インザーギとつかみ合ったコズミ監督も退席処分。その後、誰に何をしたのか忘れてしまったが、ペルージャはもう一人退場になっていた。未確認だが、どうやらベンチにいたガウッチ・ジュニアも追い出されたようだ。とにかく、まあ、みんな機嫌が悪かったようで、荒れに荒れまくっていたのである。タッチライン際で両軍入り乱れてわさわさする中、「おまえら、はよサッカーやらんかい」とコラーディやら下やらファバッリやらの背中をどついているマンチーニの姿が印象的だった。 で、さすがに人数が10対8になればラツィオもペルージャを圧倒できるのであって、妙にスカスカなフィールド上で、89分にコラーディが左足でミドルをゲット。ロスタイムには下のループショットも決まって3-1である。賑やかで、たいへん面白い90分だった。試合が終わってから主音声に切り替えてみたら、もっと冷静にやらなきゃいかんとか残念な展開になってしまったとか、ネガティブなコメントばっかりだったけど。まあ、解説者としてはそう言わなきゃしょうがないんでしょうが、私はゲラゲラ笑いながら観てました。副音声で観て、本当にヨカッタ。
ゆうべは、コロンビア×アルゼンチン(W杯南米予選)をビデオ観戦。暑いのか芝がダメなのかみんな疲れてるのか知らないが、やけにボールが重たそうに見えるかったるい雰囲気だった。アルゼンチンの先制点は、コロンビアGKコルドバが犯したコント風味の大失敗によるもの。ゴールキック(間接FKだったか?)が前を向いていた味方DFの背中に当たって戻ってきたところを、クレスポが拾ってすかさずゲットである。なぜか右足のアウトにかけて小細工した蹴り方をしたのが運の尽きだった。彼、もう死ぬまであんな蹴り方はしないんじゃないだろうか。 そういえばノルウェー×スペインのセカンドレグでも、蹴り損ねのゴールキックをエチェベリアが頭で跳ね返したら入っちゃいました、というシーンがあったっけ。あのノルウェーのGKは前半で足を痛めていたらしいけど、悲しい風景だった。やっぱり、自分のセガレにはGKやってほしくないと思いました。見ていて辛すぎる。かといって、コルドバのミスに驚きもせず「しめしめ」って顔して速攻でシュート態勢に入れるクレスポみたいな人でなし系ストライカーになってほしいかと言ったら、これも微妙なところなのだが。「日本にも俺が俺がの図々しいストライカーを」という声は多いが、親の気持ちも少しは考えたほうがいいと思う。試合は後半の早い時間帯にコロンビアがセットプレイから追いついて1-1のドロー。
今朝、実家の父親から電話。父の姉の旦那さん(つまり父の義兄。私の伯父。81歳)が、昨夜亡くなったという。まだまだお元気だとばかり思っていたので、びっくりした。しかし、以前から肺気腫とやらで入退院をくり返していたらしい。先日亡くなった叔母と同様、こちらも自分の結婚式以来ご無沙汰だった。叔母にも伯父にも、セガレを合わせていなかったことが悔やまれる。 伯父は畑仕事や山菜採りや釣りが大好きな人で、よく自分の庭でこしらえたトウモロコシを送ってくれた。それより美味しいトウモロコシを、私は食べたことがない。小さい頃、北海道へ遊びに行ったときに、あれは山菜採りに連れて行ってもらったのだったか、伯父さんが運転するオートバイの後ろに乗せてもらい、必死で広い背中にしがみついていたことをやけに鮮明に覚えている。いつもニコニコと笑っている、とてもやさしい伯父さんだった。合掌。
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