edogawa's diary 03-04 #25. |
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2004.03.25.Thu. 19 : 00 p.m.
2004.03.19.Fri. 19 : 00 p.m.
2004.03.17.Wed. 12 : 40 p.m.
冥王星自体が惑星ではないという考え方もあり、大きさからいってもセドナは惑星と呼べない。冥王星周辺やその先には太陽の周りを回っている大きな天体が多数ある。望遠鏡の性能向上で、もっと遠方で大きな天体が見つかるかもしれないが、その天体がある空間で突出した存在でない限り、惑星とは呼びがたい。私の音楽感想文じゃないんだから、科学者がこんな印象批評みたいなコメントしちゃいけないのではないか。何をもって惑星と非惑星を区別するんだか(そして区別することにどんな科学的意味があるんだか)、これじゃ全然わかりません。「突出した存在でない限り、惑星とは呼びがたい」って、おまえは日本陸連か。セドナはオリンピックで勝てないとでも言うのか。明確な選考基準を示さないと、天文ファンは納得しないんじゃないの?
私が初めてソニー・ロリンズの演奏を耳にしたのは、たしか高校生の頃だったと思う。来日して「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」に出演した彼のステージを、NHK−FMが生中継していたのだった。雨の降りしきる中でロリンズが聴かせてくれた凄まじい演奏は、今でも鮮烈に記憶している。いや、アドリブのフレーズを覚えているわけではもちろんないが、まあ、その壮絶さが胸に刻まれてるってことです。とくに、放送時間の都合で途中でフェイド・アウトしてしまった『Don't Stop The Carnival』のソロといったら、それはそれは物凄い勢いだった。まさにギンギンノリノリ。そこではギンギンが漲り、ノリノリが迸っていた。あれ以上にギンギンノリノリなテナー・サックスの演奏を、私は知らない。最後まで聴けなかったがゆえに、その後も数日間、ロリンズのギンギンノリノリが耳の奥で鳴り響いていたぐらいだ。 さて、『刺青の男』である。ジャケットがキモチ悪い。ライナーノーツによれば、これは過去のアルバムのアウトテイクを寄せ集めたものであるらしいのだが、それでもこんなに充実したアルバムをこしらえられるあたり、やっぱりストーンズってアベレージヒッターなのかなぁと思ったりしているが、それより何よりジャケットがキモチ悪いし、ここで問題にしたいのはソニー・ロリンズだ。ジャケットはキモチ悪いが、このアルバムにはテナー・サックスのソロの入った曲がいくつかあり、ライナーによればそれはソニー・ロリンズが吹いているのだという。先に音を聴いてからライナーを読んだので、びっくりした。だって、おそろしくノリが悪いのだ。ソロが始まったとたん、頭がカクンとなるようなズッコケ感。思わず「ちょっとアンタ大丈夫か?」と脇から体を支えてあげたくなるくらい、乗れていない。で、「なんだコイツは」と思ってキモチ悪いジャケットの中に入っているライナーを見たらソニー・ロリンズだっていうんだから参っちゃうよなぁ。私にとって、ソニー・ロリンズは「ギンギンノリノリの人」なのだ。その人がこんなにノリの悪いソロを吹くなんて、話が違うじゃないか。ジャケットもキモチ悪いじゃないか。 しかし、あのロリンズでさえこんなふうに困惑を隠しきれない演奏をしてしまうぐらい、ロックとジャズは違うということかもしれない。べつにストーンズはこのアルバムで「ロックとジャズの融合」を目指したわけじゃないし(なにしろ寄せ集めだし)、「ジャズマンをスタジオに連れてくる」と「ジャズの理屈やらリズムやらをロックに導入する(あるいはその逆)」は同じではないけれど、プログレとかジャズ・ロックとかフュージョンとか呼ばれる音楽における「融合」も、実はそう簡単なことじゃなかったに違いないと思ったのだった。ロックとジャズの接合面には、どのような齟齬があったのであろうか。たとえば私たちはこうして漢字と仮名が交ざったテキストを当たり前のように読み書きしているけれど、これだって「訓読み」とか「送り仮名」とか発明しないと成立しなかったわけで、ストーンズと共演したソニー・ロリンズも、漢字をぜんぶ音読みしてしまっているようなぎこちなさがある。しかしジャズ・ロックやフュージョンにはそれが感じられないのであり、そこには何か送り仮名のような発明があったはずだ。それが何なのかはこれから考える(考えないかもしれない)が、しかしどうしてこんなにキモチ悪いジャケットを作るかなぁ。
2004.03.16.Tue. 11 : 00 a.m. 嬉しいのは、当たり前といえば当たり前だが詩が日本語なので私にも理解できるということである。末松康生という人は演奏はせず詩だけを提供しているようで、今どこで何をしているのか知らないが、ものすごく面白い。はっぴいえんどや井上陽水にもそんなところがあるが、この人の詩も、きわめて日常的な言葉なのに人をソワソワさせるような不可解かつ誘惑的な世界を持っている。こんなことをここに書くのはたいへん勇気の要ることだけど、私も詩を書いてみたくなりました。へへ。練習しようかな。興味深かったのは、家で2回ほど聴かせただけでセガレが『空と雲』の詩とメロディを諳んじて口ずさんでいたこと。私は「子供の感性」とやらを必要以上にありがたがるほどオメデタイ人間ではないと自分では思っているが、末松の詩は子供の未熟な感覚にも訴えるプリミティブだが強迫的な何かを持っているのかもしれない。何かって何だ。わかりません。わからないが、それは「日本的な何か」ではないかという気がする。「J国」ではなくて「日本」だ。そういう観点から70年代の日本語ロックを研究した本があったら読んでみたい。それにしても、今どき「何か食べ物を〜 買ってから〜」と四人囃子を口ずさんでいる未就学児って他にいるだろうか。
2004.03.15.Mon. 14 : 35 p.m.
Greenroomであそこまで師匠に言われりゃ聴かないわけにはいかないので、さっそく買いました。ブラフォードの『ONE OF A KIND』。そうかー。『FOREVER UNTIL SUNDAY』はこのアルバムに入っていたのであったか。というのも、この曲は大学時代に私が所属していたサークルでタボン君たちが演奏したことがあるんである。私は関わらなかったが、かっこいい曲だなぁと思っていた。で、ごく最近まで私はブラフォードといえばこの曲しか知らなかったため、プログレを集中的に聴き始めた際に各所でビル・ブラフォードの名前を目にしたときは、実のところかなりの違和感があったのである。ロックの人だと思っていなかったのだ。そのサークルはあまりロックと縁のない音楽集団だったので、『FOREVER UNTIL SUNDAY』もジャズ・フュージョン系の音楽なんだろうと漠然と思っておった。実際、ロックには聞こえないし。なので、師匠の解説を読みつつこのアルバムを聴いて、いろいろなことが何となく腑に落ちた次第なのだった。ロックの人が「ロックの地表から解き放たれ」て作り上げた音楽なのであれば、私が「ブラフォード@プログレ」に違和を感じたのも無理はない。 しかし、あれだよな。師匠の書いたものを読まずにこれを聴いていたら、きっと私もウェザー・リポートやらリターン・トゥ・フォーエバーやらを引き合いに出したくなったに違いないよな。と言いつつ、すでに引き合いに出しているわけですが。たとえば4曲目の『TRAVELS WITH MYSELF - AND SOMEONE ELSE』あたりを何も知らずに聴かされて、「これウェザー・リポートの未発表作だよ」などと言われたら、「ふうん。WRにしてはかっちりしてるっていうか、音の滲みみたいなもんが少ないよね」などとわかったふうなことをブツブツ言いながら、いとも簡単に騙されていたような気がしなくもない。あらあら。結局のところ、人は(というか私は)自分の体験に基づく文脈でしか音楽を語れないのだった。 だから人の語る音楽の位置づけや評価やカテゴライズはアテにしにくいのであって、たとえばアマゾンのカスタマーレビューなんか読んでいると、私は必ずその人がどれぐらい音楽を聞き込んでいるのかを知りたくなってしまうのである。まあ、どっちみち自分で聴かなきゃ何もわからないわけだが、でも、「これがそんなふうに聞こえる人もいるのかー」というのも音楽の面白いところだ。だから、たとえ大ハズシにハズシているレビューでも、その人が自分の耳を頼りにしてまっすぐに聴いた結果として書いているように感じられたときは、そんなに腹も立たない。腹が立つのは、どっかで誰かがさんざん書いてるような論評をコピペしてきたようなやつですね。自分はなるべくそういうことをしないように心掛けたいと思う。だけど、それはとても難しいこと。
ゆうべは確定申告書を作成しながら日本×バーレーン(五輪アジア最終予選)とラツィオ×ウディネーゼ(セリエ第25節)を観戦。サッカーは偉大な娯楽だが、ときどき週末を台無しにしてくれるのが困ったところだ。ラツィオが開始早々に2点を連取したときは、これで五輪予選(0-1で負け)の口直しができて、ぐっすり眠れるだろうと思った。すぐに1点返されたときも、こういう前半がバタバタした試合は往々にして後半は何も起こらず2-1で逃げ切るだろうとタカをくくっていた。ところが、後半ロスタイムに追いつかれて2-2のドロー。やってられないっつうの。誰かオッドにサッカーのやり方を教えてやれ。あと、もうミハイロさんにプレイスキック蹴らせるのはやめたほうがいいよ。見てて悲しくなるよ。あんなに偉大な選手に、晩節を汚させちゃいけないと思うよ。
2004.03.13.Sat. 20 : 50 p.m. このアルバムは『RUSH』という映画のサウンドトラックであるようで、その映画は観たことがないしストーリーも何も知らないが、ガッカリしたくないので映画は観ないほうがいいかもしれないと思うぐらい、これだけで十分に聴かせる。イェーイ、めっちゃブルース。これまでもクラプトンはちらほらと聴いていて、正直そんなにグッとくるものはなかったのだが、これは刺さりました。なるほど、やっぱり大した人だ。ギターを歌わせる技術が半端じゃない、とでも言えばいいんだろうかなぁ。音を拾ってなぞるだけなら私でもできそうなぐらい音数の少ないフレーズが、聴いていてクラクラしてしまうぐらい雄弁かつ表情豊かに響くのだった。あと、このアルバムは全体にとても広い空間で音が鳴っているように聞こえるのが不思議だ。聴き手にスペースを与えてくれる音楽は心地よい。そこに酒のつけ込む隙もある。タダでこんな名盤が手に入って、ものすごく得した気分だ。結婚ってすばらしい。……え? あしたはホワイトデー? あー、はいはい。んじゃ、ちょいと奮発しましょうかね。クッキーよりもバーボン、かな。
2004.03.12.Fri. 13 : 00 p.m. 調べてみたら、この『CLOSING TIME』というアルバムはトム・ウェイツのデビュー作であるらしい。私はトム・ウェイツをこの一枚しか聴いたことがないのだが、ひどく意外だった。てっきり「晩年の傑作」みたいなものだと思っていたのだ。言われてみりゃジャケットの写真もそんなに老けてはいないのだが、二十代の若者がこんなに渋い声を出すものだろうかね。まったく肩に力が入っていないように聞こえることもあって、とても処女作だとは思えない。そういえば先日のマンU×ポルト戦で、まだ前半なのにただ歩いてるだけで脚をつらせて引っ込んだジョルジュ・コスタを見て、「そんな彼でも俺より年下なんだよなぁ」などと思ったものだが、欧米人って老けるのが早いよな。ともあれ、こういう歌のバックでさりげなくギターを弾けるようなおっさんになってみたいもんだよなぁと思わせる、素敵なアルバムだ。英語がわかんないのが悔しいけれど、それはコレにかぎった話じゃないし。だから今まで歌の入った洋楽にあんまり近寄らなかったわけだが。でも、まあ、トム・ウェイツの言いたいことは何となくわかるよ。うんうん、わかるわかる。わかることにしておこう。
先日、近所の教会で幼稚園の「卒園礼拝」という行事があったそうだ。卒園を控えた園児が神父さんのありがたいお話を聞く、というようなことであるらしい。出席した愚妻の話によれば、それは下記のようなお話だった。あらすじを又聞きしただけなので私なりに脚色しているが、おおむねストーリーは間違っていないと思う。ちなみにこの話をした神父というのは、一昨年の聖誕劇に招かれて挨拶をし、これから行われる劇のあらすじをダラダラ喋るだけの退屈な話に終始して父兄の顰蹙を買った人物である。 ぜんぜん、めでたくないのである。入学を目前にして精神的に不安定になってる子供たちに、スリルとサスペンスのホラー話なんか聞かせてどうすんだよ。おまえはエクソシストに憧れて神父になったのかもしれんけど、子供が怯えちゃうじゃんかよ。「ひとりで寝られるかどうか」は、この年齢の子供にとって大問題なんだよ。幼稚園のフルーツバスケットでも、オニになった子が「ひとりで寝てる人!」とか言うらしくて、しかしうちのセガレは正直だから立ち上がることができなくて内心忸怩たるものがあったりするんだよ。入学をきっかけにひとりで寝ようかどうしようか、めちゃめちゃ迷ってるところなんだよ。 べつに私は、そんなことが自立心の尺度になるとは思ってないから、「小学生になったらひとりで寝るべきだ」なんて言わないよ。でも、本人が「できればひとりで寝られるようになりたい」と思ってるなら、その気持ちは後押ししてやりたいと思ってるよ。それを何だよ。ひとりで寝たら天涯孤独になっちゃうような大袈裟な話をしなさんなよ。ひとりでベッドに入ったって、家の中には親がいるんだよ。家庭の安心感ってそういうものじゃないか。なんでそんなこと神様に頼まなきゃいけないんだよ。おまえらの信仰心って、そうやって恐怖心を煽らないと育たないものなのか? だから戦争が起きるんじゃないのか? そりゃあ、信仰心もないのにキリスト教系の幼稚園に子供を入れる親も不見識っちゃ不見識かもしれんよ。だけど、そうは言ってもここは日本なんだし、そこはまあいい加減なもんだってことはお互いに了解済みの話だろ? いい加減なもんだからこそ教会が得してる部分もあるんじゃないの? だったら、もっと無難な教訓話か何かでお茶濁しておきなさいって言うんだ。だいたい、もっとマシなネタ持ってないのか? これから新しい世界に踏み出していく子供たちに向かって、「苦しいときの神頼み」ってどうなんだよ。 しかしまあ、どんな世界にもまともなプロはせいぜい二割ぐらいしかいないわけで、神父だって例外じゃないってことだ。これから通う小学校だって、どんな教師がいるかわかったもんじゃない。どんな教師に当たっても自分の生活を台無しにされないだけの強さを持つのが、自立するってことだろう。 そう考えると、その教会はともかくとして、セガレを通わせた幼稚園自体はプロフェッショナルな感じの先生が多かったのでラッキーだったと思う。年少・年中・年長と担任してくれた三人の先生方は、それぞれたいへん熱心で尊敬できる人たちだった。そして私が気になるのは、フルーツバスケットでオニが「ひとりで寝てる人!」と言ったときに、おそらくは一緒にプレイしていたであろう先生(二十代後半・独身)が立ち上がったかどうかということだ。
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