edogawa's diary 03-04 #27.
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2004.04.27.Tue. 10 : 30 a.m.
BGM : FREE "FREE +10"

 フリーのフリーはフリーのセカンド・アルバムである。いま聴いている『フリー +10』はオリジナルに10曲ものボーナストラックを加えて編集されたものだ。全19曲。いくら何でもボーナス多すぎないか。これではむしろ『ボーナス +フリー』である。オリジナルのほうが消費税みたいじゃないか。ちゃんと税込み表示にしなきゃダメじゃないか。だいたい、こういうのは、曲目リストを見ながら聴かないとどこまでがオリジナルなのかわからず、「フィニッシュ感」が得られないのが困りますね。シマリがないよシマリが。そう言えば洋楽のCDには「日本盤のみボーナストラック追加」というのが多いが、あれはどうしてなんだろう。シマリを犠牲にしても「お得」を大事にする国民性なのだろうか。それとも、延長戦が好きなことと何か関係があるのだろうか。

 きのう、生まれて初めて「宿題やれ」という台詞を口にした。おお。私ってば、あたかもお父さんであるかのようだ。この十数年、常に山のような宿題から逃避し続けてきた私に言われたくはないと思うが、父親たるもの、時には自分のことを棚に上げてセガレを指導しなければならないこともあるんである。宿題を命じられたセガレは、1分も経たないうちに国語のノートに「の」の字を十個書いて、任務を完了していた。いいなぁ、おまえの宿題は文字数が少なくて。

 ゆうべは、レアル・マドリー×バルセロナ(リーガ第34節)をビデオ観戦。ここではあまり触れる機会がなかったが、わが家では、このところのバルサの快進撃にかなり盛り上がっていた。とくに愚妻は私が多忙でサッカーをあまり観ていなかった時期に一人でバルサ戦を観ていたらしく、すっかり入れ込んでいる。この週末はクラシコのことしか頭になかったせいで、ラツィオ戦の録画予約を忘れてしまったぐらいだ。嗚呼。したがってラツィオ×インテルは水曜の晩の再放送まで待たなければならないのだった。今節屈指の好カードを生中継しない上に、日曜深夜の録画中継から再放送まで中二日もあるってどういう料簡だスカパー! 幸いなことに、まだ結果を目にしていないが、これから36時間も知らずにいられるだろうか。明晩まではゲストブックも見ないと思いますので、ひとつよろしく。

 そんなことはともかくクラシコである。アタマ痛くなるぐらい面白かった。「いま勝たんでいつ勝つのか」という勢いで敵地に乗り込んだはずのバルサだったが、序盤からなかなか敵陣に攻め込むことができず、押され気味。どいつもこいつもシンキングタイムが長く、リーガ一般にはそれで通用しても、本気のマドリーには通用しないようにも見えた。とりわけライツィハーが眠たい。パンカロ並みにチンタラしている。オフェルマルスとのコンビネーションも、何年いっしょにプレイしてんだこのオランダ人!と罵りたくなるような凡庸さであった。

 そうこうしているうちに、マドリーの猛攻である。前半30分から後半10分まで、何本のシュートが飛び交っただろうか。0.3点から0.5点ぐらいあげてもいいようなシュートが、最低でも5本はあったように思う。しかし、それでも得点にならないのがサッカーなのであって、バルサはGKバルデスが神がかっていた。止める止める。掻き出す掻き出す。ヤケクソな守り方をするGKというのを初めて見たような気がする。あの大舞台でヤケクソな開き直り方ができるのはえらい。顔相に偽りのない、太か男でごわすな。ごわすごわす。プジョールの顔面ブロックも忘れてはいけない。なにしろ相手はロベカルだ。石崎くんを超える史上最痛ブロックに認定しよう。最後はとうとうソラーリに決められて先制されたものの、あの25分間にはフットボールがもたらす原始的興奮が詰まっていた。ある意味、バルサは最高にフットボールを面白がっていた。

 直後、ライカールトはサビオラとオフェルマルスを下げてクライファートとルイス・エンリケを投入。太か采配でごわすな。ごわすごわす。ルイス・エンリケのほうは最後まで冴えないプレイの連続で寂寥感を漂わせていたが、クライファートがいきなり結果を出してみせるのだから愉快だ。コクーが裏に放り込んだボールを、ギリギリのタイミングで飛び出したファン・ブロンクホルストがダイレクトでふわりと折り返したところにクライファートの頭。3人のオランダ人による痛快なゴールであった。オランダって、相変わらずいいのか悪いのかよくわからない。

 そろそろ仕事しないといけないので先を急ぐが、フィーゴの退場によって生じた数的有利をしっかり生かして、たしかに数的に有利なように見えるサッカーを展開できるところが、いまのバルサの充実ぶりを物語っていたような気がする。逆に、あからさまに数的不利を感じさせる戦い方しかできないところが、いまのマドリーが落ち込んでいる証拠であろう。このゲームにかぎっては、「退場が試合の興味を削いだ」「最後までフルメンバーで観たかった」とは少しも思わない。

 この日のロナウジーニョはいささか入れ込み過ぎていたようで、FKでも力みが目立っていたが、最後に大仕事をしてみせるあたり、やはり並大抵のプレイヤーではないでごわすな。ごわすごわす。いや、それは「仕事」のようには見えなかった。乾坤一擲の遊び、である。この試合のあの局面で、あんなに優雅な浮き球ラストパスで遊べる選手が他にいるだろうか。これを後方から走り込んだシャビが、あれは何と呼べばいいのだろう、ジャンピング・ボレー・ヒール・ショットとでも言えばいいのか、とにかく二度とできないような蹴り方でゲット。あんなゴールは、たぶんリーガ・エスパニョーラでしか観ることができないと思う。1-2でバルサが雪辱。首位まで5ポイント差。ひょっとすると、ひょっとするでごわす。




2004.04.26.Mon. 10 : 55 a.m.
BGM : MARCUS MILLER "PERFECT GUY"

 体調はやや回復。その証拠に、煙草がうまい。むかし「煙草は健康のバロメーター」という発言で顰蹙を買った政治家がいたが、どうしてそんなことで叱られなきゃいけないのか全然わからない。何を健康の指標にしようが、本人の勝手である。喫煙者ほど、オウン・リスクの意味を知っている者はいない。

 さて、体調は回復したものの気分はすぐれないのであって、ゆうべライブ観戦したニューカッスル×チェルシー(プレミア)は2-1でチェルシーの負け。敗戦投手は自責点2のデサイーであった。アメオビとシアラーのゴールは、いずれもデサイーが背後に張りついていながらアッサリ反転されて撃たれたもの。ふつう点にはならんよな、どっちも。あまりにも寂しいシーンだった。貴花田に負けたときの千代の富士を思い出した、などと言ってはシアラーに失礼だが、名CBがそのキャリアを終えたゲームとして記憶されるかもしれない。

 試合終了後、何となくWOWOWにチャンネルを合わせたら、さっきまで力のないシュートを放っていたハッセルバインクがベースを弾いていたので驚いた。エリック・クラプトン、ジョー・サンプル、スティーヴ・ガッド、デイヴィッド・サンボーン、それにハッセルバインクというドリームチームである。そんなはずはないと思ってよく見たら、それはハッセルバインクではなくマーカス・ミラーだった。錯覚とは恐ろしいものだ。1997年のモントルーの映像だった。すでに試合は終盤を迎えており、2曲半しか聴けなかったのが残念。サッカーなんか観なきゃよかった。クラプトンの左手を食い入るように観察したが、参考にしていいのかどうかよくわからない。どうしてあんなに親指が上に出てるんだろう。それにしてもスティーヴ・ガッド、知らないあいだにずいぶん老けちゃったねぇ。7年前でアレじゃ、今はどうなっていることやら。デサイーよりは元気かもしれんけど。




2004.04.25.Sun. 13 : 35 p.m.
BGM : ORNALLA VANONI "ARGILLA"

 日誌をいっぱい書いているので信じてもらえないかもしれないが、先週の中頃から体調がものすごく悪いのである。熱こそ出ないものの、鼻水やら咳やらは出ており、何より頭が(ふだんの3倍ぐらい)ボーっとしていけない。ときどき目眩もする。PTSDを患うような心当たりはないので、たぶん風邪なんだろうと思われるが、なにしろ素人の自己診断なのでアテにはならない。そもそも「風邪」の定義がよくわからない。何であれ、とにかく体調が悪いので昨日は一日ゴロゴロしていたのだが回復せず、しかし実のところ仕事はかなり逼迫しているのでそんなに休んでもいられないのであり、今日は原稿を書かなければいけないと思っているのだが、しかし辛い。それにしてもORNELLA VANONIって誰なんだろう。だいぶ前にシギーに借りた「女の声シリーズ」の一枚をいまごろ聴いているのだった。穏やかで、気怠くて、憂いと希望が絶妙のバランスでブレンドされていて、聴いているとますます仕事をしたくなくなる素晴らしい歌声だ。ところで女の声も素晴らしいが女のサッカーも素晴らしいのであって、ゆうべ観た日本×北朝鮮(女子サッカー五輪予選)は3-0でアテネ行き決定。ひたむきさがツキを呼び寄せていたように見えた。私もひたむきに原稿に取り組むことにしよう。原稿の進み具合がツキに左右されるものかどうかは知らないけど。いつも以上に脈絡がなくなっているが、GK山郷に割烹着を着せたいと思うのは私だけだろうか。




2004.04.23.Fri. 12 : 15 p.m.
BGM : "ROGER NICHOLS AND THE SMALL CIRCLE OF FRIENDS"

 ここ数日、タボンくんが貸してくれたこのアルバムをくり返し聴いている。ロジャー・ニコルズというのは、カーペンターズの『雨の日と月曜日は』などで知られる有名なソングライターであるらしい。その人がMacleod兄妹(何者だか私は知らないがタイトルからしてニコルズの友達なのであろう)と3人で作ったこの名盤に私が好感を持つのは、全編を「慎み深さ」のようなものが貫いているように感じられるからだ。軽妙で心地よいメロディを美しいコーラスで包んだこの作品には、聴く者を愛おしい気持ちにさせる謙虚さやケナゲさが詰まっている。そんな「スモール・サークル」の音楽が妙に沁みるのは、小集団になると逆に居丈高になって図々しく振る舞いがちな私たち日本人の姿に、少々ウンザリしているからかもしれない。

 何年か前に、「3人以上で昼飯を食いに行くサラリーマン集団はどうしてああもふんぞり返って歩いているのか」といったようなことを書いた記憶があるが、これはサラリーマンに限ったことではないのであって、たとえば夜10時頃に駅前のコンビニに入ってみれば、小中学生もまたそうであることがわかる。小腹を空かせてジャンクフードを買い食いしている塾帰りのガキどもの横柄さといったら、ゴールを決めたカッサーノに勝るとも劣らないほどだ。まるで店内で天下を取ったかのように大声でわめき散らし、狭い通路でジャレ合い、ほかの客の通行を妨害している。

 カッサーノと違うのは、彼らが単独行動になるとオドオドして傍若無人に振る舞えなくなる点だ。いやカッサーノはコンビニで他人に迷惑をかけたりしないと思うが、奴の場合は一人になっても偉そうな態度を取るに違いない、という話である。そうでなければ、カルチョの世界でストライカーなどやっていられるはずがない。しかし塾帰りのガキどもは、友達と別れて夜道を一人で歩き始めたとたん、背中を丸めて周囲をキョロキョロと見回し、コンビニでの尊大さが嘘のように「か弱い存在」になるのだった。店内での狼藉自体にも腹が立つが、私がもっとも苛立つのは、このギャップである。徒党を組んだときと一人になったときとでは、まるで別人になってしまうのがイヤなのだ。

 自己責任という言葉を説明するとき、もっともわかりやすいのは「赤信号」の例だろう。この言葉もすっかりインフレを起こしているように私には見えるが、本来「自己責任」というのは、赤信号を渡りたいなら<at your own risk>でどうぞ、というときに使われるもので、「不祥事の責任を取って辞めます」とかそういう場合の「責任」とはちょっと意味合いの異なるものだと思うのだがどうなんだろうか。それはともかくとして、この国には赤信号を律儀に守る歩行者が多い。少なくとも、私が日常的に歩いている井の頭通り周辺はそうだ。どう見ても絶対にクルマが来ないとわかる状況で、しかも横断歩道がたった5メートルしかないにもかかわらず、じっと信号が青に変わるのを待っている。ただし、それは一人のときだけだ。今更こんな紋切り型を書くのもバカっぽくてイヤだが、「赤信号みんなで渡れば怖くない」は私たち日本人の実態を見事に言い当てた至言である。「スモール・サークル」になった途端、日本人は「キャー」「急げー」とか言いながらリスクを負って赤信号を渡るのだった。いや、リスクをテイクしているという自覚さえそこにはない。ただの付和雷同である。NTT株とかで大損こいた人たちも、たぶん似たようなものだったんだろう。

 もちろん、私は自分のことを棚に上げるつもりはない。赤信号ぐらいは一人でも渡るが、私も付和雷同型の人間だ。何か慣れないことを始めるときなど、「みんなはどうしているのか」ということが気になって仕方がない。たとえば今わが家では自宅にブロードバンドを導入しようと画策しているのだが、どれを選ぼうか比較検討していると、つい「みんなは何を使ってるんだろう」と考えてしまう。「みんな」って誰のことだかわからないし、そんなもの「人それぞれ」に決まっているのだが、自分で条件を設定して決めることができないのである。

 いまのところ、イラクでの単独行動の最中に人質になった日本人はいない。5人は、いずれも「つるんで」いた。そこが重要なのではないかと私は思う。人質や家族への誹謗中傷を「自分と異なる価値観を持つ人間に対する不寛容の表れ」と見る向きも少なくないようだが、むしろこれは逆なのではないか。少なくとも私の場合、一連の事件で抱いた不快感の背景には、自分自身のイヤな部分を見せられたような感覚があったような気がする。だとすれば、キーワードは「自己責任」ではなく「自己嫌悪」かもしれない。いま噴出しているのは、「他者を排斥する不寛容な憎悪」などではなく、私たち日本人の自己嫌悪なのではあるまいか。徒党を組まないとリスクを負えない自分たちに、ようやく私たちはウンザリし始めたのではないか。そういう心理が、フランスあたりの新聞社に理解できるとは到底思えない。




2004.04.22.Thu. 12 : 00 p.m.
BGM : PAOLA & CHIARA "FESTIVAL"

 サッカーは出勤前に観るものではない。重要な試合ほど結果を知りたくないから早く観てしまうわけだが、しかし重要な試合だからこそ、勝てば勝ったでコーフンして仕事にならないし、負ければ負けたで落胆して仕事にならないし、引き分けたら引き分けたで気持ちが宙ぶらりんになって仕事にならないのである。サッカーを観なければ仕事になるかというと必ずしもそうではないけれど、それはクドいようだが別の問題だ。

 しかし、観てしまったものはしょうがない。けさ8時から(副音声で)ビデオ観戦したラツィオ×ローマ(セリエ第何節かなんてことはどうでもよろしい)は、1-1のドロー。ものすごく中途半端な気分である。「中途が半端」と書いて中途半端だ。いや「中途で半端」か。よくわからない。わかっているのは、本当はラツィオが勝っていたということである。なぜなら、この試合の最初の45分はすでに何週間か前に済んでいたからだ。そして、けさ行われた「セカンド・ハーフ」はコラーディのゴールでラツィオの1-0。90分やって1-0ならラツィオの勝ちじゃないか。それがサッカーというものじゃないか。なんで45分も延長しなきゃいけないんだよ。おかしいじゃないか。

 おかしいのはそれだけではない。ルールブックにどう書いてあるのか知らないが、エリア内でのハンドは「故意」の場合のみペナルティになるのではなかったのか。コラーディは故意に手なんか使っていない。バランスを取るために出した手の指先に、ちょっとボールがかすっただけだ。いいじゃないかそれぐらい。それで笛吹くんなら、PK決めた後にフィールドから飛び出してテレビカメラなんか操作してた奴にイエローぐらい出せよ。なにが「トッティ・カメラ」だよ。なんにも映ってねえよ。電波を無駄遣いしてんじゃねえよ。どうせなら、もっとちゃんと撮ってぃ。って、怒ってるときにつまんない駄洒落を言わせるなよ。頼むよ。

 しかし勝てるゲームだったよなぁ。頼みのペルッツィとジャンニケッダが絶好調だったし。スタムがいないのは心配だったけど、いまのコウトは昔のコウトじゃないし。コウト、先日の2ゴールでようやくチームの一員になれたという手応えを得たのか(何年かかってんだよオイ)、これまでとは顔つきがまるで違っていた。やけに頼もしく見えた。……と思っていたら、いつの間にかネグロと交替していたんでビックリしましたが。ふともも痛めちゃったの? 短い全盛期だったなぁ。

 ともあれ前半は、ローマダービーではあり得ないぐらいラツィオが強く見える内容だった。プレスにメリハリがあり、気持ちよくパスが回っていた。とりわけコラーディの動きが良く、いつか必ず得点する予感があった。実際、得点してくれた。ゴール前へのクロスをコラーディが頭で逆サイドに流し、GKより一歩早く追いついたザウリがオーバーヘッドで折り返す。これをコラーディが体勢を崩しながらも当たり損ないのシュートを右隅に流し込んだのだった。わっしょい、わっしょい。スタンドのラツィアーレもお祭り状態になっていた。だから私はこの時点で、イタリアの美人姉妹PAOLA & CHIARAが歌う『FESTIVAL』を今日のBGMにしようと決めたのである。PAOLAとCHIARAがどこのファンなのかは知らないが。

 撮ってぃのPKで追いつかれても、今日はまだまだイケる気がしていた。誤算だったのはリヴェラーニだ。途中から入ったくせに、立て続けにイエロー食らって退場である。トッティのシャツ引っ張ったぐらいで2枚目を出す主審もどうかと思うが、1枚もらってる奴のやることじゃないだろそれ。アホか。おまえはアホなのか。さてはアホなんだな。

 マケレレさんと違って、トッティは普段やっていること(ちょっと引っ張られると「こんなんじゃ俺様やってらんないよ」とウンザリした顔でプレイを止める)をやっただけだったので、ローマが数的有利の罠に嵌ることはなかった。ちぇっ。途中で下でも投入しておけば、「埋め合わせPK」の一つぐらい貰えたかもしれないのになぁ。しかしまあ、カッサーノのゴールシーン(およびシャツ脱ぎ)さえ見ずに済めば御の字だと思っていたので、そう悪くない結果だと思うことにしよう。なんにしろ、疲れた。ローマダービーだけは、ホントに出勤前に観ないほうがいい。




2004.04.21.Wed. 12 : 20 p.m.
BGM : QUEEN "NEWS OF THE WORLD"

 サッカーは出勤前に観るものではない。重要な試合ほど結果を知りたくないから早く観てしまうわけだが、しかし重要な試合だからこそ、勝てば勝ったでコーフンして仕事にならないし、負ければ負けたで落胆して仕事にならないのである。サッカーを観なければ仕事になるかというと必ずしもそうではないが、それはまた別の問題だ。

 しかし、観てしまったものはしょうがない。けさ8時からビデオ観戦したモナコ×チェルシー(CL準決勝第1戦)は、3-1でチェルシーの惨敗。ものすごく落胆している。「胆が落ちる」と書いて落胆だ。意味がよくわからない。よくわかっているのは、後半7分、モナコの何者かが退場させられたシーンが、この試合における最大のターニング・ポイントだったということだ。

 前半は、松浪健四郎プルソのゴールでモナコに先制を許したものの、オフサイド・トラップを巧みにかいくぐった(というか副審の目を巧みに誤魔化した)パーカー・グジョンセン・クレスポの連携プレイであっさり同点。アーセナル戦の勝利で逆境に強いチームカラーに変貌したチェルシーが、主導権を握るかに見えた。

 だが、後半7分。どういう経緯か知らないが、マケレレさんにやさしく頬を撫でられたモナコの何者かが激昂。マケレレさんの後頭部を手ではたいた。試合の流れを変えてしまったのは、そこからマケレレさんが倒れるまでの1秒だ。私の知るかぎり、マケレレさんはきわめて穏やかで紳士的なお人柄である。下インザーギの対極にいる人物と言っていいだろう。痛くもないのに痛がってのたうち回るような真似はしないのがマケレレさんという人だ。ところが今日のマケレレさんは違った。どう見ても痛くない叩かれ方だったにも関わらず、1秒間の「熟考」ののち、頭を抑えて倒れてしまったのである。

 あの1秒間にマケレレさんの脳裏を駆け巡ったのは、おそらくこんな思いだ。「……あれ? いまのは報復行為ってやつだよな。報復はいけないんだよな。イエローぐらい出るよな。だったら、痛くも痒くもないけど倒れとくのがサッカーってもんだよな。そういうのって恥ずかしいからイヤだけど、チームのためにはしょうがないよな。なにしろ勝ったらファイナリストだもんな。でも、どうしようかな。おれ、倒れ方あんまりうまくないしな。たしかスペインでは、みんなこんな風にしてたよな。とりあえず叩かれたところを押さえて……バタッ」。

 汚いプレイをやったことがいけないと言いたいのではない。普段やらないことをやったのがまずかった。主審がレッドカードを出したあと、動揺していたのはモナコの連中ではなく、明らかにマケレレさんのほうだった。まさか相手が退場させられるとは思わなかったのだろう。うまくいきすぎたのだ。よく効くクスリは副作用も大きい。立ち上がったマケレレさんは顔面蒼白になりながら(嘘)首をコリコリ回してみたりなんかして、「おれは痛かったんだ。ほんとうに痛かったんだ」と懸命に自分自身を納得させようとしているように見えた。普段やらないことをやってしまったために、自らメンタル・コンディションを乱してしまったのである。

 これがチーム全体、とりわけラニエリに伝染してしまったのだと私は思う。その後の采配は、「普段やらないこと」の連続だった。まず、右SBのメルヒオットを下げてハッセルバインクを投入。グジョンセン、クレスポとの3トップも異例なら、パーカーをDFラインに取り込んだ変則4バックも異例である。茶の間で見ていても「何じゃこりゃ」だったんだから、選手たちはどうしていいやらわからなかったのではないか。たしかにメルヒオットは前半から動きが鈍く、私もできることなら引っ込めたほうがいいと思っていたが、ベンチにはジョンソンもギャラスもおらず、交替要員が見当たらなかった。適任者がいないなら、メルヒオットで辛抱するしかない。

 当然、この突飛なフォーメーションはまったく機能せず、モナコの猛攻に慌てたラニエリはパーカーに替えて本来CBのフートを右SBに起用。そんなの見たことないっつうの。こんな大事な試合で新しいアイデア試してんじゃないっつうの。慣れないポジションに投入されたフートは懸命にSBらしい仕事をしようとドタドタ攻め上がってシュートを撃ったりしていたものの、不細工で見ていられなかった。試合は完全にモナコのものになっていた。ゴールは時間の問題だった。チェルシーの試合で、こんなに失点が確実視されたのは初めてだ。

 案の定、気力体力充実しまくりのモリエンテスに決められて2-1。典型的な「数的有利の罠」にはまってすっかりリズムを崩し、おまけに過密日程でスタミナも切れたチェルシーは反撃の糸口さえつかめず、さらにノンダという人を食った名前の人にも決められて3-1である。ラニエリ株、乱高下。アーセナルに勝ったことで、ちょっと図に乗りすぎていたのかもしれない。

 もっとも、私にも反省すべき点はある。きのう吉祥寺のTSUTAYAでクイーンの『世界に捧ぐ(NEWS OF THE WORLD)』なんか借りたのがいけなかった。ジャケットに描かれたロボット(なのか?)がスタムに似てるなぁと思って選んだのだが、このアルバムには『We Are The Champions』が入っているのである。言うまでもなく、CLの決勝終了後に場内で流れることの多い曲だ。借りたときはCLのことなんか微塵も考えていなかったつもりだが、もしかしたら気持ちが早くもファイナルへ飛んでいたのかもしれない。「今すべきこと」を忘れて意識を未来に飛ばしていた。だからセルフイメージが縮小して実力を発揮できなかったのである。「今すべきこと」が何だったのかは全然わからんが。

 だが、まだ終わったわけではない。唯一の救いは、クレスポが奪ったアウェイ・ゴールだ。ホームでの第2戦は2-0でよい。マケレレさんの出場停止は痛いが、「逆転」がこのCLのトレンドであることを信じよう。

 先日、知り合って日の浅い編集者に年齢を訊かれた際、「四十です」と答えたらとても意外そうな顔をされたので、「そんなに若く見えます?」と言おうと思ったら「もっと上に見えますよね」と言われたのでショックだったのだが、きのうはこの日誌を見て私が四十だと知った旧知の編集者から「外見から、まだ三十代なかばだと思っていました」というメールを頂戴して嬉しかったものの、それはもしかしたら「外見」のせいではなく普段の「言動」のせいではないかとも思われ、うまく歳を取るのは難しいものだなぁと思う今日この頃である。まあいいや。うまく歳を取ったからといって、何かいいことがあるわけでもなかろう。それ以外にも何通か祝メールをいただきまして、どうもありがとうございました。




2004.04.20.Tue. 10 : 30 a.m.
BGM : FREE "FIRE AND WATER"

 きのうはセガレの人生初給食であった。これまでは、教室に閉じこもる日々に早くも嫌気が差したのか「学校は土日が人生だぁ」(※「生き甲斐だ」ぐらいの意味か)などと溜め息をついていたくせに、この週末は「早く月曜日にならないかな」と楽しみにしていたので、最初のカレーが不味かったらどうしようと思っていたのだが、「一回しかおかわりできなかった」と不満を漏らしていたぐらいだから美味かったんだろう。でも、おかわりは一回にしておけ。どうしても三杯目を食うなら、そっと出せ。一食200円で三杯も食ったのでは、税金を納めている国民の皆様に申し訳ない。追加料金とか請求されても困るし。せめて私たちぐらいは、謙虚で控え目なニッポンの家族でいようじゃないか。はじめから申し訳なさそうな顔さえしてれば、たぶん、自己負担なんか求められないんだよ。その程度のモンなんだよ、この国の責任観念なんて。

 ところで、私は見ていないのだが、学校に入学式の集合写真が掲示されているらしい。それを見て保護者が注文票に希望する写真の番号を記入するわけだが、愚妻によれば、それはこんなような掲示だったという。


1番 1年2組
2番 1年1組
※番号をお間違えにならないよう、ご注意ください。

 この学校でわが子に教育を受けさせてよいものかどうか、いきなり不安に駆られてしまいました。一事が万事っていうからね。こういうことでは、かりに3年生に2年生の教科書が配られていたとしても、私は決して驚かないであろう。大丈夫なんだろうか、この国の公務員は。人を無駄に混乱させるのはやめてもらいたいものだ。おまえが注意しろっちゅう話である。だいたい、この2枚だけなんだったら、番号なんか必要ないじゃん。クラス名と注文枚数だけ記入すりゃわかるじゃん。それとも、これは一種の「引っかけ問題」なのだろうか。これから子供たちが受験競争の中で味わう世界を保護者にも体験させて覚悟を促そうという、親心なのだろうか。あるいは、学校特有の平等意識の表れなのかもしれない。2組はいつも2番目にされて可哀想だから、たまには1番にしてあげようというわけだ。平等って、すばらしい。どっちにしても、面倒臭い世界である。いや、どっちでもないとは思うけど。

 この「フリー」という工夫やヒネリや野心を微塵も感じさせない名を持つバンドのことは、しばらく前にWOWOWで放送していた「栄光のロック・マスターズ」とか何とかいう番組を見て初めて知った。ライブの映像を見なかったら、とくに興味は持たなかったかもしれない。しかしフリーの4人が演奏している姿は、ただちにCDを買いたくなる不思議な魔力を放っていた。4人が4人とも、微妙に挙動不審なのだ。全員にちょっとずつ江頭2:50が入っているような感じ。要するに、「こいつらを放っておいちゃダメだ」と人を心配させる何かがあるのだった。あんなに不自由そうな人たちが「フリー」なんて名乗ってたら、そりゃあ心配にもなるじゃないか。もっとも音楽自体は、挙動不審でも不自由でもないストレートな印象。過不足なしにきっちり4人分の音が聞こえてくるシンプルな感じが好きだ。アンディ・フレイザーという人のベースがおもしろい。こんなふうに明朗快活に存在を主張するベースって、この時代のロックには珍しかったんじゃないかと思うのだが、どうなんだろうか。

 ゆうべは、アトレチコ・マドリー×レアル・マドリー(リーガ第33節)をビデオ観戦。サッカーがしたいのかケンカがしたいのか、どっちなのかよくわからない試合だった。「ダービーがしたかった」が正解か。もちろんベンチにシメオネ様が控えているアトレチコに肩入れしながら観ていたのだが、すさまじい闘志が画面からも伝わってくるものの、しかしアトレチコには闘志しかなかったような気がする。いくら何でも雑すぎるよな。絶対に追いつけないスペースへのパスや誰もいない場所へのクロスボールなどが多すぎて、いちいちズッコケた。できないことをやろうとし過ぎていたのかもしれない。いったんはPKで同点に追いついたものの、10人のレアルを崩すことができず、最後はエルゲラに頭で決められて1-2。なんでシメオネ出さないかなぁ。せっかく「ベッカム対シメオネ」というキラー・コンテンツ持ってるんだから、大事にしてもらいたい。




2004.04.19.Mon. 12 : 20 p.m.
BGM : BLACK SABBATH "BLACK SABBATH(黒い安息日)"

 金曜の晩に『月刊Voice』編集部S氏より「緊急」と題したメールをいただいた。前日に高崎で取材した対談を月曜朝までに書く予定だったのだが、イラクでの人質解放を受けて急遽その関連記事を掲載することになったので、その対談記事は次号送りになり、したがって急いで書く必要はなくなったとのこと。日曜日を潰して書くつもりでおり、かなり憂鬱だったのだが、思いがけず休日を与えられてうれしかった。安息日ではないし、たぶん黒くもないけど。いや、少しばかり黒っぽいかな。ちょっとだけね。それにしても絶妙のタイミングで解放してくれたものである。解放が2日ぐらい遅れていたら、原稿用紙25枚分の記事を徹夜で仕上げた挙げ句に「すみませ〜ん、差し替えで〜す」ということになっていたかもしれない。こんな形で自分に余波が及ぶとは思わなんだ。イラク情勢は、いろいろな形でフリーライターの生活を左右するのだった。

 同じく金曜の晩に、師匠の解説によって『モビー・ディック』の謎が解けた。まず、この曲を弾く前にやるべき「或ること」とは、「6弦を(通常はEのところを1音下げて)Dにチューニングする」である。1〜5弦は通常どおりでよい。なぜ6弦をDにするかというと、曲中の最低音がDだからである。では、なぜジミー・ペイジはわざわざチューニングを変えてまでEではなくDで弾きたかったのか。細かい説明はとても面倒臭いのであっさり言うと、そうしたほうが彼にとって「弾くのが簡単だから」なのだった。あるいは「快適だから」と言ってもいいかもしれない。師匠によれば、「簡単なフレーズをカッコよく弾き、カッコいいフレーズを簡単に弾く」がジミー・ペイジというギタリストの大きな特徴の一つであるらしい。難しいフレーズがあったときに、それをテクニックを磨くことで解決するのではなく、「もっと簡単に弾く方法はないか」と知恵を絞る。要は考え方が合理的なのである。「どうせ同じフレーズになるのなら簡単なほうがいい」というわけで、ある意味でプロセスより結果を重視する発想と言ってもいいだろう。華麗に10本のパスをつなごうが、ロングボール一発で決めようが、1点は1点。テクニック重視のギタリストがオランダなら、ペイジはイタリア的なのかも。ただし、ちゃんとファンタジスタの居るイタリアね。私はオランダもイタリアも好きだが、「超絶技巧でつまらないフレーズを弾くギタリスト」と比べたら、ペイジのほうが何百倍も偉大だと思う。いわゆるヘビメタの世界には、私にはクラシックの練習曲のようにしか聞こえない退屈なフレーズを壮絶な速弾きで聴かせるギタリストがいるけれど、そういうのは一種のフェティシズムに過ぎない。フェチにはフェチのマーケットがあるから、そういう音楽を否定するつもりはないが、私はあまり聴きたくない。ギターは音楽の道具であり、テクニックは音楽の手段なのである。だからといって、私が技術を習得しなくていいという理由は一つもない。今日も小指が痛い。

 そうこうしているうちに、四十歳になった。GBのほうに数多くの祝辞を頂戴し、恐縮です。どうやら、お一人を除いて皆さん書き込みを削除してしまったようなのが残念ですが。ともあれ、友人や大学の先輩が四十になったと聞くと「ええっ!?」と思ったりするが、自分に関してはとりたてて感慨のようなものはない。三年前、セガレが幼稚園に入って「父兄」と呼ばれる立場になった時点で、人生のモードチェンジが済んでいたからだと思う。さらに、ここ数年「40歳からのナンタラカンタラ」みたいな原稿を書く機会が多く、いちいち身につまされる思いで書いていたせいもあって、気分はとっくに四十路だったのである。

 しかし節目は節目なので、これを機会に来し方を振り返ってみると、三十代の十年間はなかなかに充実しておったように思う。ちょうど三十歳で結婚して家庭を持ち、子供が生まれ、運転免許を取り、サッカーを見るようになり、この日誌を書き始め、それをきっかけにして仕事の幅も広がった。家族はより家族らしくなって自分にとって欠かせないものとなり、友人たちとの信頼関係もより深めることができたような気がする。人生の後半(なのか終盤なのか知らないが)を迎えるにあたって、その足場を固める十年間だったのかもしれない。成り行きまかせ風まかせで生きてきたわりには、ぐるりの皆様のおかげで、いい感じで四十代に入れたかなぁと思っている。行く末について特別な目標はないけれど、五十歳になってもこの日誌を書いていられたら、結果的にそう悪くない四十代になってるんじゃないかな。そんな気がする。

 ゆうべは、ラツィオ×アンコーナ(セリエ第30節)を主音声でライブ観戦。岩本編集長、解説お疲れさまでした。何度も笑わせていただきました。ロマニスタであるにもかかわらず、ラツィアーレの心理を熟知しているのが編集長の強味である。こんな試合、どうせラツィオファンしか観てないんだから、思い切りファン心理をくすぐったほうが面白いというものだ。しかも実にラツィオらしい見所(笑い所)満載のゲームだったのだから、なおさらである。なにしろ主役は下インザーギとコウトとペルッツィだ。編集長が下の小狡いプレイを評してお使いになったお言葉を借りるなら、まさに「マニアにはたまらない」一戦だったと言えよう。

 どういうつもりだったのか知らないが、なぜかスタムとコウトの二人で広大なスペースを守ろうとしていたラツィオは、早い時間帯に3対2の見事な数的有利を作られてあっさり失点。たぶん、ペルッツィ復帰が裏目に出たんだろうと思う。GKがセレーニだと心配なので、みんな「俺がしっかりせねば」と一生懸命に守ろうとするが、ペルッツィだと「アニキがいれば大丈夫さ」と油断してしまうのだ。「甘え」と言ってもよい。甘えてんじゃねえぞコラ。

 しかし先制された直後、ラツィオの歴史に刻まれるであろうビッグ・プレイが飛び出した。と言うわりに記憶が曖昧だが、あれはCKだったのか何だったのか、とにかくコウトのゆる〜い山なりヘディング・シュートが、どういうわけかGKの頭上を越えてゴールインしてしまったのだ。リプレイを見ると、それは下の功績だった。GKと競ってジャンプした彼は、「手でGKの視界を遮る」という薄汚くも斬新なプレイを敢行していたのである。ほんとうは「神の手」で自分のゴールにしようとしたのだと思われるが、すばらしい悪知恵頭脳プレイであった。コウトの宙返りも久しぶりに見たよなぁ。着地に失敗してましたが。尻餅つくぐらいならやめておけ。

 ちなみに、この日の下は持てるスキルをフル活用し、「ダーティ・プレイのデパート」としての存在感を十二分に発揮しておった。「目隠し」の後には、必殺のダイブでPKをゲット。いつになく倒れ方にキレがあったから、よほどコンディションが良かったのであろう。だが、自ら蹴ったPKのほうはいつになく下手だった。シュートは下手でもPKだけは上手い選手だと私は信じていたのだが、きわめて甘いコースにきわめてゆるいボールを蹴って失敗。その瞬間、私の脳裏に去来したのが「悪銭身につかず」という言葉だったことを申し添えておこう。

 そんなこんなで、なんちゅうか、毎度バカバカしい試合ではあった。どうして勝てたのかよくわからない。いや、本当なら「どうして負けそうになったのかわからない」と言うべきなのか。どっちでもいいか、そんなこと。ともあれ後半20分、ダニエル・アンデションにミドルを決められて1-2。懸命に体を張ったコウトのスライディングが、ぜんぜんボールに届いていなかったのが哀しかった。しかし、私と同じく前日の土曜日に誕生日を迎えたフィオーレが、GKの弾いたボールをDFに当てながら叩き込んで同点。さらに、ネグロ→オッド→コウトとDF三名でパスをつないで逆転である。どうしてコウトがあんなところまで上がっていたのか、わからない。ヤケクソだったのかもしれない。実際、ヤケクソな感じのシュートだった。1試合2ゴールというインポッシブルな仕事をやってのけたコウトはえらい。2度目の宙返りは着地も見事に決まっていた。着地が決まってもそんなにカッコよくないのが彼の宙返りの特徴なのだが、あんなに笑っているコウトを初めて見た。ポルトガル、ひょっとしたらイケるかも。結局、終盤にはザウリのゴールも決まって、終わってみれば4-2。先日のユーベ戦は負けたような気がしなかったが、きのうは勝ったような気がしなかった。実際、GKがセレーニだったら逆のスコアで負けていたに違いない。でも、やけに面白かった。笑っとけ笑っとけ。笑ってられるのも水曜の晩(ダービーの再試合)までなんだから。


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edogawa's diary 03-04 #27.