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2004.06.17.Thu. 13: 50 p.m. ●スウェーデン×ブルガリア(グループC) ブルガリアの試合を担当するアナウンサーには、「ベルバトフ」はともかくとして最低限「ブルガリア」ぐらいはきちんと発音してほしいと思うのは私だけではないはずだが、そんなことより、おそるべきはスウェーデンの決定力、であった。得点になった5つの決定機は、フィニッシャーが日本人だったら(PKも含めて)0〜2点ぐらいしか決まらなかったに違いない。ブルガリアも意外に形のよい攻撃はしていたものの全てがスピードに欠け、シュートの制球も定まらず5-0。ラーション&イブラヒモの2トップは、こうした短期決戦においては相当な脅威であろう。おまけにリュングベリもかなり調子が良さそうだ。このスウェーデンから、イタリアは勝ち点1をもぎ取れるのか。というより、このスウェーデンとあのデンマークの対戦がグループC最大の見所になるあたりが、イタリアのイタリアたる所以かしらね。ところでブルガリアのベンチで放心していた労務者風の監督は、いったい何に似ているのだろう。われわれ夫婦のあいだでは、「栗」「ひじき」「上だけ黒っぽい饅頭」といった意見もある中で、最終的には「もっと海苔っぽい何か」という結論になったのだが。何でしょうか、「海苔っぽい何か」って。それは海苔ではないのか。
![]() マンチーニのラツィオ退団、きのう訪れたフロムワン(サッカーズを編集している会社)のオフィスのことなど、他にもいろいろ書きたいことがあったのだが、そろそろ取材に出かけなければならないので、また後日。
2004.06.15.Tue. 13: 10 p.m. ●スイス×クロアチア(グループB) いっしょに観戦しているわけではないが、セガレはこの大会で「スイスを応援する」と言っていた。「上から読んでも下から読んでも同じだから」だそうだ。子供の考えることはよくわからない。トマトは嫌いなくせに。だが、もっとわからないのは岩佐アナの実況である。ゴール前のシーンになると興奮して早口になってしまい、しかしカツゼツが喋りのスピードに追いつかないため、何を口走っているのかさっぱり聞き取れない。言葉が文字バケしている。クロアチアの右ウイングがペナルティエリアに向かってドリブルしたときなど、「ブルルッ!ブルルッ!ブルルッ!」と連呼するので何事かと思ったら、それはモルナルという選手だった。なんで「モルナル」が「ブルルッ」に聞こえるのか。そう発音するほうが難しいと思う。それはともかくとして、セリエのダメな試合をリーガのダメな主審が裁いているようなイエロー乱発マッチは、スコアレスドロー。10人になったスイスのゴールをほとんど脅かせなかったクロアチアはかなり情けない。もっとも、あのメンバーで本大会に出てきただけでも立派なものというべきか。フランスW杯で3位になったときの主力は皆無であるにもかかわらず、世代交代を進めながら大きな大会には必ず顔を見せるあたり、国としての底力を感じる。ただし袖だけ市松模様の異様なユニフォームを見ると、デザイン力には疑問を感じざるを得ない。クロアチア人がデザインしてるわけじゃないのかもしれんけど。あと、クロアチアの監督は安部譲二に似ている。スイスのほうは、おちゃめな「腹這いヘディング」を見せたGKシュティールが印象的。そんなもんが印象に残ってしまうような試合だったということでもあるが、ヤキン兄弟を中心としたチームだけに、スイスはナイトゲームのほうが実力を発揮できたのかもしれない。お後がよろしいようで。テケテンテン。
2004.06.14.Mon. 15: 40 p.m. ●ポルトガル×ギリシャ(グループA) とほほ、としか言いようがない。のっけから哀愁が漂ってしまったのだった。私自身こんなタイトルをつけたとはいえ、いくら何でも黄昏れるのが早すぎないかポルトガル。前後半とも早い時間帯に失点して、1-2の負けである。嗚呼。 ポルトガルの選手たちは、たぶん、アガっていたんだと思う。地に足が着いていなかった。自分がアガリ性だからかもしれないが、私にはそう見えた。では人がアガるのはどういうときかというと、聞くところによれば、実力以上のものを自分に求めてしまったときにアガるらしい。要するに、できないことをやろうとするとアガるわけだ。で、この試合の場合、ポルトガルは「ポルトガルらしいサッカー」を見せようとしたことでアガってしまったのではないか。矛盾しているようだが、そんな気がする。「華麗な中盤」というような言葉で語られるサッカーに私たちは「ポルトガルらしさ」を感じ、それを期待するわけだが、実のところそれはすでに過去の幻影にすぎないのかもしれない。ところが地元開催の開幕戦であるがゆえに、彼らは無意識のうちにファンの期待に応えようとし、必要以上に(そして実力以上に)「華麗な中盤」を世界のお茶の間にババ〜ンとお届けしようとしてしまったのではないか。でも、よく考えてみたらできないので、アガっちゃた。アガちゃったから、ミス連発だ。パスカットされまくりである。ギリシャの先制点も、「華麗なパス回し」の大失敗がきっかけだった。志ばかり高くて技術が追いついていないあたり、正確なリズムも刻めないのにチョーキングにトライしてしまう私みたいじゃないか。 そんな中、われらがフェルナンドだけは普段どおりのプレイを心掛けており、敵のシュートに体を寄せるでもなく、シュートコースを切るでもなく、やすやすとゴールを決められていてホッとした。ホッとしている場合ではありません。ところでフェリペ監督は、ルイ・コスタとデコを使う順番を逆にしたほうがよいのではないだろうか。今のルイ・コスタは「苦しいときに変化をつける」ぐらいの役割でちょうどいいように思う。デコにしても、地元大観衆の前で大先輩と交替するのは荷が重いだろうし。あと、ポルトガルはセルジオ・コンセイソンを欠いたのが痛い。と、思いたい。
![]() きのうは鶴見ラバーソウルにて、ぼくが泣くのデビューライブを鑑賞。GBを見ていない人のために説明しておくと、ぼくが泣いたわけではなく、ぼくが泣くというユニット名のアコギ・デュオがあるのだった。メンバーのタボンくんとモルちゃんは、どちらも私の友人である。二人とも、学生時代からいっしょに音楽をやっていた。タボンくんはベースで、モルちゃんは私と同じトロンボーンだ。本人たちが読んでいるからといってヨイショするわけではないが、実力・センスともに、私たちのサークルの中では頭一つも二つも抜きん出たエース級の存在だったと私は思っている。タボンくんのベースの上に乗っかり、隣で鳴っているモルちゃんのトロンボーンに引っ張られていると、とても安心して演奏できたものだ。そんな二人が楽器をギターに持ち替えてデュエットするというのだから、これはもう私にとっては夢の共演……というのは正直なところかなり言い過ぎだが、たいへん嬉しい試みなのである。出演4バンドのうちの一つで、したがって演奏時間が30分しかないのが物足りなかったが、楽しかった。さすがのリズム感、さすがのグルーヴ。とくにそれを感じたのは『I Saw Her Standing There』や『She Loves You』だったのであり、私としては、いかにもアコギ・デュオ風のしっとり系ナンバーよりも、こうしたロケンローを彼らがアコギ二本でいかに表現するかというあたりに期待したいところである。今回はビートルズ仲間のパーティみたいなステージだったので難しかったかもしれないけれど、もっとアレンジや選曲などで冒険してもいいんじゃないかと思いました。 それにしても驚いたのは、ぼくが泣くの二つ後(4番目)に出演したNi(ニー)というバンドだった。ザ・フーの曲を中心に演奏していたのだが、ギター、ベース、ドラム、キーボードの4人が揃いも揃って凄腕。ステージアクションも堂に入ったもので、何やら眼光に狂気さえ孕んだギタリストの「右腕ぐるぐる回し」は、ピート・タウンゼント本人よりもカッコよかった。こう言っちゃ何だが、1番目と3番目のバンドがいかにも宴会ノリで、それはそれで別にいいとは思うものの、お仲間ではない私は「招かれざる客」という気がしていたので4番目は1曲だけ聴いて帰ろうと思っていたのだが、あんな凄い演奏されたんじゃ帰れるわけがない。CDやWOWOWで観たライブ映像ではピンと来なかったザ・フーだが、彼らの演奏を聴いて、あらためて聴き直さなければいけないと思ったぐらいだ。考えてみると、私は本格的なロックの生演奏に接した経験がほとんどなかったのであり、そんなこともあって、Niのライブには、なるほどロックを演奏するとはこういうことかと深く感じ入った。当たり前といえば当たり前だが、何よりもまず、ロックは音がデカいのである。あんなにデカい音で演奏するというのは、それだけで常人が持っていない特別なモチベーションを必要とする行為であろう。それを持ち合わせていない者は、ロックなんか演奏しちゃいけないのではないかとさえ思った。近所迷惑を気にしてアンプのボリュームを必要以上に絞ってしまうような小市民的メンタリティではイカンのかも。
2004.06.11.Fri. 13: 55 p.m. 思えば私の欧州サッカー観戦歴は、EURO96におけるコウトの宙返りから始まったのだった。本格的に見始めたのはフランスW杯からだが、八年前のあの大会で素人目にも「ぜ〜んぶ中盤」に見えるポルトガルサッカーの異様さに触れ、なるほどフットボールというものは国によってこんなにもテイストが異なるのかということに感じ入ったのである。我が心のポルトガル、だ。そのシンボルがルイ・コスタでもフィーゴでもジョアン・ピントでもなくコウトだというのはどうかしているとしか思えないが、映像的にはなぜか彼の宙返りが脳裏に焼き付いてしまったんだから仕方がない。 で、98-99シーズンに初めて真剣にセリエを見始めたときに、そのコウトがプレイしていたのがラツィオだった。「幸か不幸か」と言いたくなるような展開だが、私はそうやって、フェルナンド・コウトに導かれるような形でラツィオファンになっていったのである。なんということだ。運命のいたずらとしか言いようがない。そんなに大袈裟なものではないが、哀しい話といえば哀しい話である。しかし、サッカーはいつだって哀しい。99%の哀しみと1%の喜びによって織り上げられるのが、サッカーというものだ。がんばれフェルナンド。負けるなフェルナンド。涙は心の友達さ。いや、だから泣くなってば。
![]() 模様替えをしたついでに、この日誌のタイトルも「江戸川春太郎日誌」から「深川峻太郎の江戸川春太郎日誌」に変更してみた。どうも新規の読者には深川と江戸川の関係性がわかりにくいようなので、より親切な表現にしたつもりなのだが、かえってわかりにくくなったような気がしなくもないのは気のせいだろうか。
![]() きのうは小学校の授業参観。とはいえ昔の授業参観とはかなりスタイルの異なるもので、始業から終業まで学校が保護者に開放されており、どの授業でも自由に参観してよいというものである。それも、わが子の所属するクラスだけではない。たとえば、一年生の保護者が二年生や五年生の授業を見るのもオーケー。つまり、教師も生徒も誰も会ったことがない大人が教室に入ってくる可能性があるわけで、いまどき、ずいぶん思い切ったことをするものだ。したがって当然、入るときにはさぞかし厳重なチェックが行われるのであろうと思いながら校門をくぐったのだが、受付はあるものの、そこに人はいない。机に生徒の名簿が置いてあり、参観に来た保護者はそこに○印を書き込み、箱に入れて置いてある「お客様カード」を首からぶら下げることになっている。おいおい誰でも入れるじゃんか。しかも「お客様カード」は私が訪れた時点で箱の中に三枚しかなく、校内にはカードなしでブラブラしている保護者(だと思われる大人)が何人もいた。要するに、ノーチェックなのである。 本気で保護者かどうかをチェックしようとすれば、それなりに面倒な作業になることはわかる。受付に数名の係員を配置して、いちいち免許証やら保険証やらを提示させ、名簿と照合したりしなければいけない。手間そのものはそう大したことはないかもしれないが、そういうモノモノシイ状況は作りたくないというのが、学校関係者の本音であろう。そういうことをすると「子供たちが怯える」とか何とか文句をつける輩が、PTAみたいな世界には必ずいるからである。私自身は、現実的に予測できる危機が存在する以上は一定のモノモノシサが現出するのはやむを得ないと思うし、怯えるべき状況で子供が怯えるのが悪いことだとは思わない。むしろ、危機意識を身につける上で有益だろうと思っている。しかし考えてみれば、子供たちを怯えさせてまで実施しなければいけないことだろうか授業参観って、と思わないでもないし、まあ、和やかなムードでやれるならそのほうがいいだろう。 だが、そうは言っても「誰でも入れる」はまずいと思われるのであり、ではどうすればいいかというと、あらかじめ保護者全員に入校許可証のようなものを発行しておけばよい。で、実は学校はそれをやっている。入学式の時点で、保護者の氏名を記した許可証を配布しているのだ。それはいいのだが、問題は、それを各家庭に一枚ずつしか与えていないということである。したがって、きのうの授業参観でも、愚妻はそれを首から下げて入校したが、私は無記名の「お客様カード」だ。どうして、そういう中途半端なことをするかなぁ。ちょっと考えれば、大半の生徒には二人の保護者がおり、さまざまな行事に父母がそろって学校を訪れるケースも少なくないだろうことはわかるでしょうに。まさか、「二枚発行すると片親の生徒が可哀想」とか何とかぬかすんじゃねえだろうなぁ。 もっとも、あらかじめ許可証を発行していたとしても、受付が無人では話にならない。学校側にその人手がないのなら、PTA側が受付係を出すなり何なりして、訪問者が許可証を携帯しているかどうかチェックすればよかろう。愚妻によれば、先日のPTA総会では防犯対策が議題となり、教室に設置する警報システムをPTA会費で購入すべきかどうか(行政が負担すべきではないのか、という反対論があるらしい)という眠たい議論が行われていたらしいが、そんな神学論争をしているあいだにも犯罪は起きるかもしれないのであり、そういうことが議題になる程度には危機意識があるのなら、今すぐにやれることは何かを考えてそれ(たとえば授業参観の安全確保)をやったほうがよいのである。 というようなことは、授業参観後に配られたアンケートに(もっと穏便な表現で)書いて学校に提出するつもりであるが、セガレの入学からわずか二ヶ月のあいだに、こんなようなことですでに何度となく溜め息をついている。セガレが通っているのは学校ではなく役所なのだと思っていたほうが、話はわかりやすいのかもしれない。だとすれば、学校が子供たちではなく自分たちの立場を守ろうとするのは当然だ。「当然だ」と言い切ってしまえるあたりがひどく悲しいところだが、やっぱり当然だ。それが役所の本質である。だからアリバイ作りみたいな「お客様カード」を用意して「やることはやった」と肩の荷を下ろすわけだ。やるべきことはやっていないのに、である。 たぶんPTAも体質は同じだろう。意味不明の前例踏襲ばかりが目につくそのやり方を見ていると、この国では本当にあらゆる組織が官僚機構化するのだなぁとつくづく思わされる。重箱の隅をつつくような一例を挙げれば、先日PTAから配布された総会用の資料は、B4とA4の用紙が混在するきわめて読みづらい代物であった。それも、B4を横長、A4を縦長に使って、ホチキスで留めてある。つまり、全体がL字型になっている。こういう書類をありがたがる人間は皆無であろう。そもそも今の世の中は、たとえば家庭用ファックスがA4までしか対応していないことを考えてもA判主流の時代だと思われ、B判を使うこと自体がわりと迷惑である。にも関わらず、なぜAB混在になっているか。それは書類の内容を見れば明らかで、毎年同じことを書いて配っていると思しき部分はB4、今年新たに付け加えたと思しき部分はA4になっている。ただそれだけのことである。新たに付け加えられたのは警報システム購入に関する会長の状況説明文であり、おそらく会長の家庭にあるプリンターはA4しか扱えないのだろうと思われ、そうであるならば今後も同様の事態が起こり得るのであるから、そろそろA4に統一しようと考える人がいても不思議ではないと私は思うのだが、誰もそれは考えない。「今までこうだったから、これからもこうする」ということになるのである。 また、これは教師が作るのかPTAが作るのかよく知らないが、クラスごとの緊急連絡網も、誰が考えたって何か改善策を施したほうがいいと感じるような代物になっている。「昼間は必ず保護者が不在の家庭」がいくつも並んでいたりするのである。どうやらわが家の後ろの数軒がそうであるようで、愚妻はいつも何軒もの留守番電話に用件を吹き込み、その次の家庭に回している。そもそも連絡の内容自体が少しも緊急を要さないものであることが多いのだが、それも含めて、連絡網のあり方に不満を抱いている保護者は多いだろうし、それは決して今に始まったことではないはずだ。おそらく何年も前から、みんなが「何とかならないかしら」とブツブツ言いながら、しかし各家庭の事情に応じた配列やメール・携帯電話の活用などを検討することもなく、去年と同じシステムを今年も受け入れている。緊急連絡網に、自宅以外の緊急連絡先を並記するという考えてみれば当たり前の知恵さえも出さないのである。 そんなこんなで、やけに長々と書いてしまったような気がするが、状況が許し(つまりそんな暇があり)、自分にリーダーシップがあったなら、PTA会長にでもなって組織改革を断行してみたいという衝動に駆られるぐらいだ。現実には時間も指導力もないので、できる範囲で関わっていこうと思ってはいるが、しかし日本中の小学校がこんなことになっているに違いないと思うと、「PTA改革マニュアル」みたいな本を作ったらあんがい需要があるのではないかといったスケベ心も出てきたりなんかする今日この頃である。
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