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2004.10.19.Tue. 10: 40 a.m.


 発売中の『わしズム』12号の「ストップ・ザ・ビーフ鼎談」で、分子細胞生物学者の福岡伸一先生が、ある新聞の原稿に「狂牛病」と書いたところ「これはBSEが正式名なので書き直してください」と言われた、というエピソードを披露されている。実のところ「BSE」という呼称は<この病気を「狂牛病」という禍々しいイメージの言葉で呼んでほしくない人たちが持ち出してきたもので、要するに言葉の浄化>(126p)なのであり、したがって修正要求は不当なのだが、しかしこの新聞社の行動は、少なくとも署名原稿の取り扱いに関する「手続き」の点では間違っていない。それは「礼儀」とか「マナー」の問題ではなく、あくまでも「手続き」の問題である。なかには大家のエッセイであっても漢字表記などを無断で修正する新聞社もあるやに聞くが、それは「相手が大家だから失礼」なのではない。最後に書き手がその「稟議書」(テキスト)に「ハンコ」(署名)を押すという手続きは、書き手が大物だろうが小物だろうが同じだ。読者の投書などはいちいち本人に断らずに修正されるかもしれないが、あれはあれで募集要項にその旨が明記されていれば手続きとしては適正であろう。

 さて、月刊『プレミアシップマガジン』11月号に掲載された自分の文章を読んで、「あら?」と思ったことが2点あった。ゲラを戻した時点では、「ジェイムズ・ビーティーが不意に蹴ったボールがゴールインしてしまったのだ」(23p)は「ジェイムズ・ビーティーがテキトーに蹴ったボールがゴールインしてしまったのだ」だったはず。「ふつうの人が狂喜するところで苦虫を噛みつぶし、ふつうの人が乱舞するところでも苦虫を噛みつぶすのがモウリーニョだ」(26〜27p)は「ふつうの人が狂喜するところで苦虫を噛みつぶし、ふつうの人が乱舞するところでは苦虫を噛みつぶすのがモウリーニョだ」だったはずである。

 ゲラを処分してしまったので、もしかしたら私の記憶違いかとも思ったのだが、編集部に確認したところ、いずれも私がゲラを戻した後に編集部の判断で私に知らされないまま修正されたとのことであった。すでに担当編集者からは修正の経緯に関する丁寧な説明および謝罪を受け、私も署名原稿の取り扱いに関する自分の考え(というか一般的なルール)を伝えたので当事者間の話は済んでいるのだが、話が済んだからといって不当な手続きによって世に出たテキストが復元されるわけではない。それに、かつて別の媒体が無断でコラムの最終行を削った際にも、この日誌で削られた部分を公表している。なので今回も(編集部にそうする旨を告知した上で)ここに公表することにした。「印刷されて商品になったものがすべて」という考え方もあろうし、ここで「本来のテキスト」を公表したところで雑誌読者の大半には伝わらないわけだが、ウェブサイトという手段がある以上、できるだけの手当はしておきたいというのが人情である。

 上記の2点はいずれも自分なりの意図があって「あえて」選んだ表現であり、テキスト全体のニュアンスを少なからず左右する部分だと私は思っているが、自分の意図したニュアンスをくどくど説明するのはあまりにも野暮なので、それはやめておく。そもそも私はここで、どちらが適切な表現かということについて決着をつけたいわけではない。担当編集者からは「不意に」が正しくて「テキトーに」が間違っているというわけではなく、あらためて読むと「でも」より「では」のほうがよかったかもしれないと反省しているとの説明を受けているが、それでもなお編集部の修正を妥当と考える人もいるだろう。私自身、「あえて」不自然な言葉遣いをするときはそれが自分の独りよがりではないかという恐れを常に抱いているし、あくまでも書き手の原稿どおりに掲載すべきだというほど傲慢でもバカでもない。雑誌記事であれ書籍であれ、商品化される文章というのは書き手と編集者の共同作業によって成り立つものだ。媒体の個性や特性による事情の違いもあるから、たとえば私の場合、カタカナ固有名詞の表記などは編集部の方針に(納得いかない部分も正直ありますが)従っている。また、上記の2点はいずれもジャーナリスティックな誌面には馴染みにくい破調を含んだ表現だから、常識的に判断すれば修正が入っても不思議ではないと思わないでもない。もっともそれを言い始めたら、あのテキスト全体が誌面にそぐわない不適切さをはらんでいるわけですけども。やれやれ。

 それはともかくとして、ここで私が一般論として世の編集者諸氏に申し上げたいのは、どういう表現が適切であるにせよ、それを書き手と編集部が話し合い、説得し合い、最終的には文責のある書き手が決定するという「手続き」を正しく踏んでもらいたい、ということである。もし私の意図が私の独善であり、読者に伝わらないものであるのなら、それをちゃんと事前に教えてほしい。どの編集部もギリギリの日程で校了作業をしているのは承知しているから、「ひと晩考えさせてください」なんてことは言わない。電話一本もらえれば、短くて30秒、長くても3分で片づく話である。それ以前に、いわゆる「素ゲラ」ではなく、校正サイドの修正意見が書き込まれたゲラを書き手がチェックするという通常のシステムを採用すれば済む話ではあるのだけれど。

 いずれにしろ、事前に打診されてその理由に納得がいけば修正に応じるし、それでも修正に応じたくなければ私のほうからその理由をきちんと説明して納得してもらえるように努力するだろう。また、たとえば今回「ビーティーはテキトーにシュートを撃ったわけではない」と言われて納得したかどうかはわからないが、仮にそれで修正に応じるにしても、「テキトーに」でも「不意に」でもない第三の表現を選ぶ可能性だってある。前にも同じことを書いた記憶があるけれど、たとえば「枚挙にがない」を「枚挙にがない」に修正しなければならないなら、いっそ「枚挙にイトマがない」という慣用句の使用自体をやめて「山のようにある」とでもしたほうがマシ、ということがあるんである。仮に「遑」が正しい表記だとして、私がその理由に納得したとしても(本当はどっちだっていいじゃんかと思ってるが)、私は自分の感覚に馴染まない「遑」という漢字を自分の文章のなかで使用したくないのだよ猿渡君。おやおや久しぶりだね猿渡君、元気だった?

 猿渡君のことはともかく、今回のケースでも、私は私の文章に私がめったに使わない「不意に」という言葉が含まれていることに大いなる違和感を抱いている。なるほど「不意に」という言い方もあるよなぁと勉強になったし、おかげで語彙が増えてありがたいという面もないではないが、やはりここで「不意に」は使いたくない。「テキトーとは何事だ!」という批判を避けたいのであれば、「テキトーに蹴った(と私が悔しまぎれに決めつけている)ボールが」とか、「ダメモトで蹴ったとしか思えないボールが」など、それが客観的な事実ではなく筆者の主観に基づく印象であることを読み手に伝える方法はいくらでもある。というより、そうしたほうが元の原稿より私の意図したニュアンスも深まったことだろう。修正要求のおかげで文章がブラッシュアップされることも多々あるわけで、だからこそ難点は編集部内で処理せず、書き手に向上のチャンスを与えてほしいのである。

 以上、日頃からお世話になっているフロムワンの諸氏に不快な思いをさせてしまったとしたら申し訳ないことですが、多くの関係者と問題意識を広く共有したい(私が間違っていたら教えてほしい)という思いから、あえて公開の場で書きました。あしからずご理解ください。そして、これからもよろしくお願いします。

 しかしまあ、こういうことがある一方で、先日はゴーストで書いた原稿を「これは江戸川さんの著作物だから勝手に直しちゃいけないと思ってました」とのたまう編集者に「なぜ勝手に直してよいか」をコンコンと説明したこともあったりなんかして、どうにも厄介だ。だからそれは著者の著作物なんであって俺はどうでもいいんだってば。煮て食うなり焼いて捨てるなり好きにしてくれていいんだってば。いや、まあ、捨てちゃ困るけどもさ。

 ……という具合に、おかしな言葉遣いをしたときには、「このオッサン、いま『食う』ゆうべきところを『捨てる』ゆうたでぇ〜、つまりボケてはるんでっせぇ〜」ということが明白にわかるようなフォローを入れないと、誤記だと勘違いされて「焼いて食うなり」に修正されちゃったりするんだろうな、きっと。なるべくなら「ボケっぱなし」にしたいんだけど。結局は「あえて」のニュアンスを表現しきれていない自分の技術不足、ということか。でも、だったらそれを教育的に指導してください。




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