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紐育市(お前は女さ)
(Al Kooper)


2004.12.01.Wed. 10: 40 a.m.
BGM : AL KOOPER "NEW YORK CITY(YOU'RE A WOMAN)"


 ものすごい邦題もあったものだが、このアル・クーパーの『紐育市(お前は女さ)』は『赤心の歌』に勝るとも劣らない感動的な傑作アルバムだし、それより何より私は今もうれつに腰が痛い。いつギックリしてもおかしくない感じ。肩はもう一ヶ月ぐらい凝りっぱなしだし、目もいまだに見えていることが不思議なぐらい疲労している。それに、この膝の痛みはなんだ。ためしに屈伸運動をしてみると、バキバキゴリゴリとものすごくイヤな音がする。ひょっとして砕けてないかこの膝は。ダメかもしれない。おれはもうダメなのかもしれない。

 しかし更新された裏わしズムを読んで、「苦しいのはおれだけじゃない」と思い直す。そうなのだ。みんな、倒れそうになりながら、それでも自分の作っているものにはそれだけの価値があると信じて働いているのだ。そうでなければ、あんなふうに働けるわけがない。時折その情熱を忘れそうになる自分を「ダメじゃないかダメじゃないか」と責めながら読んだ今回の裏わしズムだった。発売は10日に延期されたようだが、『わしズム』13号の編集作業は完了したらしい。みなさん、お疲れさまでした。そして、編集部の阿部さんの温かい言葉にはとても励まされた。そうなのだ。ライターがどこでどんな苦労をしているか、わかってくれる人はわかってくれるのだ。ありがとう阿部さん! もしこれを読んでくださっていたら、単行本の原稿は24時間以内に上がる(はず)、とシギーにお伝えください。







赤心の歌
(Al Kooper)


2004.11.30.Tue. 9: 10 a.m.
BGM : AL KOOPER "NAKED SONGS'"


 念のため言っておくが『赤恥の歌』ではないので、日本語力の低い人は読み間違えないように注意しよう。さらに言っておけば「赤心」は共産党マインドのことではないので、アル・クーパーは『インターナショナル』とか歌ってません。『ジョリー』などを歌っている。このアルバムを薦めてくれたsamさんに感謝。失恋の歌ではないようだけれど、なんとなく恋人に捨てられたような気分の今の私に『ジョリー』は沁みすぎる。結局、くよくよしている。しかし顔を上げれば目の前に、なかなか減らない仕事の山。赤貧の歌にならないよう、一心不乱に働くことにする。







The Freewheelin'
(Bob Dylan)


2004.11.29.Mon. 11: 55 a.m.
BGM : BOB DYLAN "THE FREEWHEELIN'"


 4時半就寝、8時半起床。「泥のような眠り」という比喩を世界で最初に思いついた人に心の中で拍手を送りながら、ベッドを降りる。しかし「泥酔」とは言っても「泥睡」とは言わないことの不思議。

 母親に起こされるなりテンションの高いセガレの声で、実際には7時過ぎに覚醒させられていた。「あー、なんだかよく眠れたなー。ぐっすり寝ると夢って覚えてないんだね!」って、小学一年生が睡眠の質に言及したりするものだろうか。どうも言うことが時々おっさん臭い。やたら声でけえし。できれば父親の睡眠の質にも配慮してもらいたい。

 ゴワゴワになった体を朝風呂に沈め、ときおり鼻まで浸かって湯をぶくぶく泡立てたりしながら、ふと深川峻太郎君の来し方行く末について思いを馳せる。永遠に続く連載はない。始まったものは、いつかは終わる。そして、明けない夜もない。初めての連載が二年も続いたなんて、それだけで立派だよ。よくやった。GJだ峻太郎。

 そう。終わるんです。お茶ズボ。次号が最終回。「ああそう」って、あっさり聞き流すなよ。ウソでもいいから「えー!?」って言えよ。

 きのうの夕刻、編集部から連絡があった。今月号の内容がスカパー!の逆鱗に触れたというわけでは(たぶん)なく、編集長交代および誌面刷新に伴って、倉敷さん、八塚さん、深川のコラムが揃って終了になるとのこと。私にとっては半ば生き甲斐のような仕事だったし、大好きな名アナウンサーお二人と並んで書かせてもらえることを身に余る名誉と感じていたのでたいへん無念ではあるが、しかたがない。そろそろ潮時だったのかもしれない、と強がってみることもできる。正直、毎月いっぱいいっぱいだった。月イチの〆切でのたうち回っていると、週刊誌で1ページのコラムを連載している人たちがモンスターのように思えたものだ。

 でも、いざ終わるとなると、おれはもっとやれたのではないか、もっと新しいこと、もっと面白いこと、もっとバカバカしいことにチャレンジできたのではないか、と悔やまないわけでもない。「来月も書かせてもらえる保証はない」という危機感は常に持っていたつもりだが、気持ちのどこかに、自分の土俵が与えられていることへの「慣れ」が生じていたような気もする。得難いチャンスを、おれは十分に生かそうとしていたのか? ほんとうに全力を尽くしたのか? 絞って絞って、もう一滴のアイデアも出なくなるまで脳ミソ絞り切ったのか?

 しかし、それも経験、これも経験である。人気低迷で『わしズム』の連載もそろそろヤバイ雰囲気があり、フカガワ存亡の危機!と焦ったもりするが、まあ、いずれまたチャンスは巡ってくるだろう。ボブ・ディランも言っている。くよくよするなよ。Don't think twice, it's all right. しばし充電して次の作戦を練るのも悪くない。とは言いながら、サンタさんへのウィッシュリストには「新連載」を追加しておくけどね。数少ない固定収入がなくなるのは痛いのよ。お小遣いなくなるのよ。

 ともあれ、これまで何の制約も設けずに好きなことを自由に書かせてくれたサッカーズ編集部に感謝。パンカロの取扱説明書なんか書かせてくれる媒体は、たぶん他にはない。そして、毎月楽しみにしていてくださった皆様、べつに楽しみにはしてなかったけどついでに読んでくださっていた皆様、たまに立ち読みしてくださった皆様、いや、たった一度でもあのページに目を通してくださったすべての方々に感謝いたします。どうもありがとうございました。これからも、月刊サッカーズをよろしくお願いします。ちょっとイイ子になりすぎているような気もするが、これがオトナの挨拶というものだチキショウめ。

 それにしても、連載コラムの最終回って、いったいぜんたい、どういうふうに書けばいいんだ?







枯木
(Fleetwood Mac)


2004.11.28.Sun. 15: 00 p.m.
BGM : FLEETWOOD MAC "BARE TREES"


 きのうはセガレの作文どおり、うちでしごと。途中、気分転換にぶらりと近所の公園へ。ところどころに掃き集められた枯葉が冷ややかな風に吹かれて舞い散る様など、ぼんやりと眺める。そういえば愚妻はすでに年賀状のデザインをほぼ終えていた。そんな季節。久しぶりにセガレとボールを蹴ったら、ケガをした右足を使わずに練習しているあいだに左足のキックが上手くなっていて驚いた。レフティ特有の、ちょっと名波っぽいフォームがカッコイイ。親バカである。そして、それとはぜんぜん関係ないが腰が痛い。両肩もバリバリ。こんなに椅子に座って仕事ばかりしていたら、エコノミークラス症候群になってしまうのではないかと心配だ。しかし11月もあと少しで終わる。水曜の朝までに幻冬舎の単行本を仕上げる覚悟。『枯木』のジャケットは「幻冬舎」によく似合う。2曲目の『ザ・ゴースト』という美しい曲をテーマソングにしながら頑張っている。







I.B.W
(爆風スランプ)





おとうさん


2004.11.27.Sat. 12: 15 p.m.
BGM : 爆風スランプ "I.B.W - IT'S A BEAUTIFUL WORLD"


 これが15年前に発表されたアルバムだと思うと茫然とするが、あの名曲『大きな玉ねぎの下で』を含む爆風スランプの傑作である。と、私は勝手に思っている。これを買った当時の私は25歳で、九段下にある出版社を辞める直前だった。なので、九段下の駅やら千鳥ヶ淵やらの情景を描いた『大きな玉ねぎの下で』には妙にノスタルジックな思い入れがある。送別会の二次会でも、カラオケでこの歌を歌った。恥ずかしい話だが、泣いた。多感な年頃だった。多感になるのが人より10年ぐらい遅いような気もするが。

 で、このアルバムには『45歳の地図』という曲も入っている。一流私立大学生の息子にスネをかじられ、妻には「足が臭い」と言われる中年サラリーマンが「私の青春を返せ!」と叫ぶという、まあ、月並みといえば月並みな世界観に基づく歌である。そんな歌のことをここで取り上げるのは、曲の途中、息子が小学生時代に全校集会で「父のようにはなりたくない」という作文を発表したというクダリがあるからで、うちのセガレも昨日、「おとうさん」という作文をクラスメイトの前で読み上げたのだった。父親となった者が一度は通る一里塚のようなものであろう。きのう妻子が寝静まった深夜に帰宅したら、食卓の上にそれが置いてあって、笑った。それは、こんな作文である。


 おとうさんは、本をつくるしごとをしています。いつも、しごとばだけど、ときどきうちでしごとを、します。おかあさんも、たまにてつだっているけど、ワープロをうちすぎてつきゆびを、しました。

 読点の打ち方がダメなのは、以前からの課題だ。どうも息つぎのタイミングが悪い。それに、タイトルが「おとうさん」なのに、これでは「おかあさん」のほうが主役になってしまうので悔しい。ぜんぶ持っていかれた。ボブ・ディランをゲストに呼んだときのザ・バンドの気持ちがよくわかる。しかし起承転結もしっかりしているし、まあ、よく書けました。「ちち」「はは」と書ければもっと良かったが、ふだん「とうさん」「かあさん」のセガレにしてみれば、「お」を添えただけでも上出来である。あと、みんなにウチは印刷屋か製本屋でもやってるのかと勘違いされるかもしれないけどね。ちなみに愚妻がつきゆびをしたのは、わしズム対談のテープ起こし作業中のことだ。気の毒なことをした。しかしその甲斐あってか、やけにテープ起こしが速く&うまくなったので、どなたか仕事を発注してやってください。少なくとも私がゴーストする本に関しては、今後、テープ起こし込みで引き受けようと思っている。そうでもしないと部数激減によるマイナスを埋められないと焦る40歳のおとうさんであった。

 ともあれ、「おとうさんみたいになりたくない」とは言われなくてヨカッタ。作文の裏面には仕事中の私の絵があり(左の写真)、なかなか男前に描いてくれている。そういえば『45歳の地図』はなぜかセガレのお気に入りの曲で、いつもクルマの中でCDを聴きながら「青春よそれじゃあんまりだぜ!」などとシャウトしているのだった。私が45歳(セガレは6年生)になったら、二人でカラオケに行って一緒に絶唱してみたい。そのころ、彼の目には父親の仕事がどんなふうに映っているだろうか。







クリムゾンキングの宮殿
(King Crimson)


2004.11.26.Fri. 22: 00 p.m.
BGM : KING CRIMSON "IN THE COURT OF CRIMSON KING"


 意外な「似てる曲」を発見したのである。さっきUSENを聴いていたらキング・クリムゾンの『21世紀の精神異常者』が流れ、終わるやいなやまた「ジャーン」とイントロが鳴ったので、なんで同じ曲がリピートされるんだろうと思ったらそうではなく、それはポール・マッカトニー&ウィングスの『ジェッツ』なのだった。スキッツォイド君もビックリだ。あいにくウィングスのCDが手元にないので再確認できないんだけど、かなり似てるよねぇ、一発目の音。両方とも持ってる人は、ちょっと聞き比べてみてください。超ウルトライントロクイズだったら、そうとう難しいと思う。超ウルトライントロクイズって、何歳の人まで知ってるんだろう。けっこう好きで見てたよな、あの番組。以上、今夜の逃避はおしまい。







欲望
(Bob Dylan)










※「無純」についての内田樹の文章はこのページにありました。たぶんこれが『ためらいの倫理学』に収録されたんだと思う。加筆・修正等はあるかもしれないが。

2004.11.26.Fri. 13: 45 p.m.
BGM : BOB DYLAN "DESIRE"


 「メール到着が遅れる」「大きなサイズのメールを受信できない」といった苦情に応えてメールサーバーの増強作業を実施したらバランスが崩れて以前より悪くなってしまいました誠にお恥ずかしいことです〜、というリムネットも間抜けだが、そこで右記のような業務連絡をしたにもかかわらず携帯電話を携帯してくるのを忘れてしまった私もかなり間抜けである。したがって本日は携帯メールを見られません。ま、用があったら仕事場に電話してくれ。べったり机に張りついてるから。

 水曜日に報じられた「日本語力」低下 4年制私大、国立さえ… 「留学生以下」お寒い大学生という産経新聞の記事によれば、

 大学生の「日本語力」が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年制私立大で20%、短大では35%にのぼることが独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)の小野博教授(コミュニケーション科学)らの調査で分かった。「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生より劣る実態で、授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメディアル(やり直し)教育が必要」と指摘する。
 といったことになっているらしい。そこで「リメディアル教育」とか口走って新聞記者に説明の手間をかけさせているコミュニケーション科学者の「日本語力」(およびコミュニケーション能力)はどうなのよ、ということも「指摘」しておかなければいけないですね。「入学後も日本語教育をやり直す必要がある」とでも言えばいいんである。こういう人たちに習ってりゃ、学生の日本語力だって低下しますわな。「リメディアル教育」とかそういう大袈裟な看板を掲げてハッタリをかまさないと予算がもらえない仕組みなのかもしれないが、ともあれ、簡単に言えることは簡単に言ったほうがよい。そうしないと、「世の中には簡単に言えないこともある」ということもわからなくなる。

 しかし「難しい言葉を簡単に言う」は意外に難しいのであって、日頃から編集者に「わかりやすく書け」と命じられている私なんぞはそれを仕事にしているようなところもあるのだが、だからこそ、セガレに「ヨクボウ(欲望)ってナニ?」などといった類の質問をされると大いに冷や汗をかくのだった。「ここで絶句したらライターとしての敗北だ」などと思うと余計にプレッシャーがかかって、ワケのわからない答え方をしてしまうのである。

 おそらく、「カイジュウ(懐柔)するってナニ?」と訊かれたとしても、咄嗟に「手なずけること」とは答えられないであろう。えーと、だから、その、つまりアレだよ、人に言うことを聞かせようと思ってだな、まあ、いろんなことをするわけよオトナって奴は、たとえばホラ、父さんだって妙に気前よくおまえにカイジュウのオモチャとか買ってやることがあるだろ? いやいや、そのカイジュウとこのカイジュウは違うんだけどさ、ほんと、日本語って難しいねぇ、とか何とか言っているうちに「わかんないよ、それじゃ」とセガレに呆れられるのが関の山である。選択肢を見て「手なずける」が正解だとわかったぐらいのことで、自分に「日本語力がある」などと自惚れてはいけない。ところで、この日誌を読んでくれているほど知的レベルの高い大学生諸君なら、まさか「関の山」が何だかわからないなんてことはないよね? 言っておくが、お相撲さんの名前じゃないぞ。

 あれはたしか内田樹の『ためらいの倫理学』(角川文庫)だったと記憶しているが、「矛盾」を「無純」と書く大学生がいる、という話(※)を読んだことがある。内田樹がそれについてどう書いていたのかは忘れてしまったが、私はこれ、メディアで発言するコメンテーターの責任じゃないかと思った。テレビに登場する有識者はしばしば「社会の矛盾」という表現を使うが、その大半は「社会の歪み」とか「社会の欠陥」とか言えば済む事柄であって、「論理的に辻褄の合っていない話」でも何でもない。なんとなく「矛盾」と言うと頭が良さそうに聞こえるんじゃないかと思い込んで、使っているだけのことである。そうやって、矛盾でも何でもないことを「ムジュン、ムジュン」と耳から聞かされていれば、無敵の矛と無敵の盾の一騎打ちのことなど思い浮かばなくても不思議はない。何だかわからないけど、どうやら世の中の「良くないこと」「間違っていること」「汚らわしいこと」を「ムジュン」と言うみたいだなぁ、じゃあきっと「純粋じゃない」という意味で「無純」と書くに違いない……といったような連想によるものではなかろうか。じっさい、世の中に本格的な「矛盾」はそう多くないが、裏側で薄汚いヨクボウの渦巻く「無純」に満ちた話はたくさんあるからね。もしかしたら夏目漱石だって、そんな当て字をするかもしれない。

 そんなこんなで、要するに、バカな大学生を笑えるオトナはそんなにいないんじゃありませんか、っていう話でした。言葉の意味を知らないことより、意味を正しく知らない言葉を知ったかぶりして使うことのほうが、よほど愚かで恥ずかしいことだと私は思う。たとえば「三位一体」という言葉を意味わかって使ってんのかどうかってことも、誰か総理大臣に質問してみたほうがいい。







ほうろう
(小坂忠)


2004.11.25.Thu. 11: 40 a.m.
BGM : 小坂忠 "HORO"


 ウェブ日記、あるいは「ブログ」という汚らしい語感の略称で呼ばれるもの(よくわからないがブログにはブログ特有の「機能」があるようなのでいちおう区別しておく)を日常的に書く者は、ときおりワケもなく「ふと我に返ってバカバカしくなる瞬間」に直面してたじろくものである。これはまあ一種の宿命みたいなもので、そういう瞬間をいっさい経験したことのない者がいるとしたら、それは人並み外れた強い目的意識の持ち主か、人並み外れた強い使命感の持ち主か、あるいは人並み外れた鈍感さの持ち主かのいずれかではないか。少なくとも私はそう思いたい。「毎日毎日こんなところにこんなことを書きつけて、いったい何になるというのだ」「このクソ忙しいのに何をしているのでしょうかボクはワタシは」といった疑問とも自嘲ともつかない思いにとらわれるのは、人としてごく自然なことであろう。

 それでも私たちは、こんなところやあんなところに、こんなことやあんなことを書きつけてゆく。それは常に「ふと我に返ってバカバカしくなる瞬間」との戦いだ。そのバカバカしさをねじ伏せるために、私たちは「それでも書く理由」を求めずにいられない。私はこの日誌を書き始めて6年になるが、その間に自らひねり出した「それでも書く理由」は、個条書きにすればおそらく50行以上になるであろう。しかし当然その大半は(立派な理由であればあるほど)自己欺瞞のようなものなのであって、たぶん本当は理由なんかないのだ。それはちょうど、便所の壁に落書きをする者が特段の理由を持ち合わせていないのと同じように。もっとも便所の壁に落書きをする者が、ふと我に返ってバカバカしくなったりするのかどうかは知らないけれど。

 ……というようなことを書こうと思っていたのだ昨日の私は。しかし、「ああ、どうやら私は久しぶりにふと我に返ってバカバカしくなっているようだなぁ」と思いながらCCRのジャケット写真をレイアウトし、まだ日付とBGM以外はテキストの書かれていないブラウザーのウインドウをぼんやりと眺めていたら、CCRのメンバーたちがポッカリと空いたスペースを覗き込みながら、

「なんだ、何もないじゃないか」    
「ひどいな。話が違うぞ」       
「インターネットは空っぽの洞窟なのだ」
「チッ、何してやがんだ江戸川ぁ」   

 ……といった会話を交わしているように見えるのが可笑しくなり、そうだよなぁ時にはそんなことがあったっていいよなぁと思い立って、そのままアップしてみたのだった。いちばん右の人には、そんなに深刻な顔しなくてもいいじゃないか、と言ってあげたい。もし、あなたが昨日CCRの姿と自分自身を重ね合わせて苦笑いしたとすれば、そんなあなたのことが私は好きです。うっかりジョン・ケージのことなど想起して深遠な物思いに耽ってしまったあなたのことも。あと、てっきりミカン汁で書かれているのだと思って、ブラウザーを裏から火で炙ってみたあなたのことも相当好きだ。

 ともあれ空白とはイヤなものである。あなたも昨日はイヤな思いをしたかもしれないが、実を言えば私もときおり自分のページを見ながら、ずっとイヤな思いをしていた。空白がこんなに不安なものだとは思わなかった。自分は、書かないことで不安な思いをするより書くことで不安な思いをするほうが何倍もマシだと感じる人間だということが再確認できた昨日だった。

 ああ、『ゆうがたラブ』という駄洒落(というか語呂合わせ?)はすでに30年前に小坂忠がやっていたのであったか。名曲。

 きのう、IEのシェアがダウンしたとか何とかいうニュースを見て初めてそういうものがあることを知り、Firefox1.0をダウンロードして使ってみた。使い心地はNetscapeと大差ないようだが、右上の検索エリアは便利だ。いちいちGoogleやAmazonに行かなくても、その場でキーワードを打ち込めるので、かなりの省力感がある。しかし表示はフォントサイズのメリハリが効きすぎているような印象で、デカい文字がNetscapeよりもデカくなってしまうのがヤだ。まあ、それでもIEよりはシャープな感じだけど。それにしても近頃はSafariやOperaとやらを使う人も増えてきたようで、細かいことを気にし始めたらキリがないのだった。マヨネーズはキューピー、ブラウザーはNetscapeだけありゃいいじゃん、と思っている私は何か思想的に間違っているのだろうか。

 どうもメールサーバーの調子がおかしいようで、ゆうべ自宅で受信しようと思って自分宛に仕事場から送った原稿添付メールが、今朝になってようやく届いた。けっきょく仕事場で受信してやんの。不安だ。私から返信があるはずのメールを出したのに返信が来ないという方がいらっしゃいましたら、念のためご一報ください。ただしスパム関係者は除く。このあいだ「モデル募集の件」というメールを寄越した人も、返信が来るとは思わないように。「モデル募集の掲示板見てメールしたんですけど、まだ募集の方はされていますでしょうか。プロフィールの方を一応お送りしておきます。水着着用は可です」って、うるさいよ。モデルのほうも何のほうも募集のほうは何にもしてないよ。ほーほー。ちょっと面白かったけどね。「Age:23 身長:165cm 体重:43 B85W57H86 趣味:和太鼓」には笑った。このごろ、ただウケを狙っているとしか思えないスパムが多くはないですか。インターネットは、じつに賑やかな洞窟である。  







Pendulum
(CCR)














2004.11.24.Wed. 10: 10 a.m.
BGM : CREEDENCE CLEARWATER REVIVAL "PENDULUM"


 




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