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にし・たかヲのサッカー日誌
1999-2000/vol.03



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7月6日(火)18:55 p.m.
「行くぜ、ハジ!」「ムスタファだ!」
 うーむ。つい大笑いしてしまったB型平次捕物帖。嫌いじゃないとはいえ声を上げて笑うような種類のもんでは本来ないのであるが、これはツボにはまった。こんな笑いを提供できる人間に、私もなりたい。

 お待たせしました。仕事がオワ。ああ、しんど。結局すでに徹夜できるような体力も気力もないことに気づいた俺は、いったん帰宅して仮眠を取るつもりで6時間も爆睡し、やっと今日の夕方に原稿を仕上げたのであった。ま、どーせ10月に出る本だからな。1週間ぐらい遅れたって、どーってこたないんである。だって、まだ編集から一度も催促されてないし。いったい、あの連中はどれぐらいサバ読んで〆切を設定してんだ? ともあれ、次の仕事からはちゃんと計画的に書いていかなければ。……と、日記には書いておこう。あれ、そっか、もう日記に書いたことになんのか。へんなの。

 そんなことはともかく。
 俺は自分が投稿欄開設当初に失策を犯したこともあって、本誌に険悪な空気が流れぬようにそれなりの気遣いをしてきたつもりであるが、考えてみれば人間同士のコミュニケーションにミス・リーディングはつきものであるし、常に和やかな雰囲気が維持されるというのも気色悪いものである。それに、誤解や揚げ足取りやそれに対する修正作業を辛抱強くくり返していく以外に、お互いのリテラシー(読み書き能力)を鍛える術はない。オンライン・コミュニケーションの何が面白く何が難しく何が問題なのかを体験的に確認したいという意味においても、今、俺はあえて「険悪」を厭わない気分である。ま、単に仕事で疲れてて気を遣うのが面倒になってるだけかもしれんから、あとで後悔するかもしれないけれど、ウェブページというのはそういう「とりあえずの思考過程や感情の移ろい」を現在進行形でモロに見せてしまう性質を良くも悪くも持っているような気もするのである。俺はいつもこの日誌を書きながら、自分の脳味噌の中身をさらけ出しているような感覚にとらわれて空恐ろしくなることがある。

 ともあれ、思いついたことを(ひとかけらの誠実さだけは失わないように留意しつつ)そのまま書くぞ。はじめに断っておくが、これから書く文章には、過剰反応との誹りを免れない部分が多々ある。いや、たぶん全面的に過剰反応だ。でも過剰反応したくなる俺がいる、という現実を俺はここでさらけ出す。マスターのご機嫌が悪いこともある心の止まり木スナックFLF、だ。タボン氏を大いに不愉快にさせる表現も少なくないと承知しているが、それは言ってみれば俺が彼に対して抱いている劣等感と敬意の裏返しであるように感じなくもない。それから、これもあらかじめ断っておくと、俺はあらゆる問題について自分を棚に上げるつもりはない。たとえばリテラシーの問題や電子メディアの危うさについて語るとき、俺は必ず自らをも戒める意識を持っている。たとえば日本人について語るとき、俺は同時に「私」について語っている。俺が「日本人は」と言うとき、そこには常に「俺も含めた」あるいは「たぶん俺も含めた」といった言葉が省略されていると思っていただきたい。エクスキューズが長くなったが、とりあえずは、投稿No.75までをお読みいただいたことを前提に(とはいえ基本的にはNo.70&71へのリアクションだが)話を進める。
 行くぜ、ハジ。……あ、「受け」のネタが思いつかねーや。これじゃバッテンだ。

*

 サッカーは謙虚に、野球は尊大に語る。それが私の生きる道。ゴーマンかましてよかですか。
 ふん。毎日毎日テレビでアホ采配を事細かにリアルタイムで見せられる巨人ファンの気持ちが、自分の好きなチームが勝っても負けてもスポーツニュースや新聞で断片的な情報しか得られず、たとえ監督の愚挙があってもそれに気づくことの少ない非巨人ファン(ここでは「巨人が積極的に嫌いな人々」を「アンチ巨人」、「巨人以外のチームが好きな人々」を「非巨人」と呼んで区別しておくことにしよう)の連中なんかにわかってたまるかってんだ。非巨人ファンはテレビが巨人戦ばかり中継することに憤慨し、俺だってそれを気の毒だと思わんでもないけれど、世の中には「毎日見ることがでできてしまう不幸」というのもあるんである。実際、巨人ファンを停止中のZ・J氏などは、その不幸から遠ざかって、さぞや心うるわしい日々を送られているのではなかろうか。まあ、その不幸を非巨人ファンに理解してくれというのは酷だろうけどね。

 いずれにしても、トマソン氏の苛立ちは(たぶん)そういう不幸がもたらすきわめて日常的なものであって、千年帝国だか日本社会の業だか大衆の責任だか何だか知らないが、そんなことぜーんぜんカンケーないんである。そりゃ、一般論としてナベツネの権力志向やスポーツ観に苦言を呈してみせるのはかまわんよ。でも、それとこれとは話が別。土俵が違う(ちなみに「日本社会の業」を持ち出した箇所には飛躍があって、何がどう「業」なのか俺には読み取れません。ウェブマスター兼友人として忠告しておくと、タボン氏の文章にはこういう思わせぶりな表現が散見されるが、「どういう意味?」と即座に聞き返すことのできないネット上では、極力これを避けるべきだと思う。そういうオンライン・コミュニケーション独特の「かったるさ」に本人も苛立ちを感じているように見受けられるのだから、なおさらそうだ。どういう辞書を使っているのか知らないが、まずは読み手の辞書に合わせて語るべきだよ。どんな安物の辞書にも載っている言葉を使って、もっと端的な物言いを心掛けたまへ)。

 ここで話はやや横道に逸れるのであるが、たとえばタボン氏の投稿には「ブラジル全国選手権の名の重み」に言及した箇所があって、これは遙か昔に俺が「高校生の大会みたい」とか何とか軽口を叩いたことに対するリアクションと読むことが可能だが、そういう知識を披露していだだくのは誠に勉強になってありがたいことではあるのだけれど、そんなふうに自分の無知を嗤われるのは愉快じゃないし、話の次元が違いすぎて「ああ、そうですか」としか言えない。ああ、そうですか。これは俺の被害妄想だと思いたいし、タボン氏がそんなに意地悪な人間だともさらさら思っていないが、メールにしろウェブにしろ、いわゆる電子メディアというのは、どうしてそうなのか理由は俺にもわからないが、受け手を被害妄想に陥らせやすい媒体である。送り手がちょっとした苦言や提案のつもりで書いたものでも、受け手は全人格を否定されたように感じてしまう危険性を秘めているから、お互い、気をつけたほうがいい。

 話を戻す。このブラジル全国選手権をめぐる言説の中で俺とタボン氏との間に生じているのと似たような「温度差」というか「ズレ」のようなもの(やはり「土俵が違う」としか言いようがないな)が長嶋をめぐるやりとりの中にもあって、それを生じさせたタボン氏の物言いは、少なくともトマソン氏(おそらくは少し躊躇しながらも俺を励ます意味で共感を表明してくれた新しいお客さま)の投稿に対するリアクションとしては、ちと不適切なものだと思うのである。内容は別として、その姿勢と手口が。悪いけど、ここは俺の店だからね。新規のお客さんは大切にしてもらわないと。トマソン氏は寛容な心の持ち主で、意外に(と言っては失礼だが)タフな論客だからまた投稿してくれたものの、もし狭量で気の弱い俺が彼の立場だったら、二度とこの店には近寄らなかったかもしれない。

 ともかく、そんなふうに話の土俵をすり替えちゃいかんよ。われわれの抱えている苦悩は、あるいはそれを次元が低いと見る向きもあるやもしれぬが、ひどく現実的かつ切実なものなのだ。「100打点の選手を20人集めたら2000点取れると思ってるんでは?」というトマソン氏のとびきり気の利いた揶揄には大いに笑わせてもらったが、ひょっとしてこれも冗談じゃ済まないかもしれないと心配してしまうぐらい、われわれの心は荒んでいるのだ。そんな高みから(しかも巨人を愛しているわけではない人間に)モノを言われちゃかなわんね。閉鎖的なコミュニケーションを展開する気は毛頭ないが、せめて同じ土俵に立つことから始めてもらわないと困る。同情ならまずは不幸な巨人ファンに向けてもらいたい。

 念のため言っておけば、俺とタボン氏のつきあいはかれこれ17年になる。生身のタボン氏はきわめて心やさしい人物であるし、「高み」から物を言う人間でもない。したがって、俺がこうして彼の投稿に突っかかるのは、その実像と電子メディア上の「タボン」との間に言いようのない印象のズレを感じるからにほかならないのである。生身の彼を知らなければ、そして生身の彼に大いなる敬意を抱いていなければ、むしろこの稿はもっと穏やかな調子になったに違いない。俺がそのように感じたことは、電子メディアの性質を語る上で実に興味深いサンプルになるのではなかろうか。トマソン氏のために付け加えれば、Z・J(ジダンユベ……そのあとはいろいろ)氏はタボン氏の知り合いだか友人だか仕事仲間だか何だかで、俺は物理的な意味での「面識」がないし、声も聞いたことがありません。辛うじてファックスで肉筆の文字を拝見したことはありますが、それ以外はまったくの「電子的関係」(こういうのを最近は「E関係」というらしい。うそだけど)です。

*

 さて、ここから先はタボン氏の投稿に対する反論というよりは、俺が考えるところのアンチ巨人一般に対する考察ならびに批判なので、そのつもりで読んでいただきたい。むろん、その中にはタボン氏に疑義を呈する部分もあるだろうが、そのへんの「仕分け」については書き手としても十分な配慮をするつもりではあるものの、完璧に両者を区別して書き分けるのは非常な困難を伴う作業である(読むほうも面倒だろう)し、書き手の力量が及ばない点もあろうかと思うので、とりあえずは読み手のリテラシーを信頼しておくことにしよう。

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 以前この日誌で、ジャイアンツを「日本社会(あるいは体制)のアナロジー」として語りたがる進歩的文化人への嫌悪感を表明したことがあった(※未読の者はここらへんを参照せよ)。彼らの物言いがジャイアンツというチームの「意味」を必要以上に肥大化させている、というようなことを書いたと思う。ミスター・タボンがそうかどうかは知らないが、アンチ巨人の多くはその肥大化させられた部分に対して「アンチ」を唱えているわけだ。だから俺は「アンチ・アンチ巨人」を標榜するんである。

 俺は昔、「巨人は強すぎて憎らしい」というのが、アンチ巨人の「動機」なのだろうと思っていた。少なくとも9連覇の時代には、おおむねそういうものだったと考えて間違いはあるまい。しかし、今の巨人は強くない。ぜんぜん、強くない。「強すぎる巨人」などという「神話」は、ほぼ四半世紀前の1975年に長嶋巨人が球団史上初の最下位という屈辱を味わった瞬間に崩壊している。こうして巨人が強くなくなると、アンチ巨人は巨人を憎めない。憎めないなら「アンチ」をやめればいいのだが、彼らはすでに「アンチ」が揺るがせないアイデンティティと化しているのか、あるいはよほどアンチ巨人とは居心地の良いものなのか、どういうわけかは知らないがそのポジションを捨てられない。しかし巨人は弱いから、そのポジションを維持するには「強さ」に代わる憎悪要因が必要だ。そこで彼らは、反体制を気取る進歩的文化人が批判したがる肥大化した「意味」の部分に目を向ける。おお、その手があったか、ありがたい、これで憂いなくアンチ巨人が続けられるぞ、というわけだ。言うまでもなく、ここでは「動機」と「結果」が逆転している。つまり今のアンチ巨人一般は、「はじめにアンチありき」のいわば「ためにするアンチ」に堕しているのだ。

 昔は「巨人が弱いと野球がつまらない」のがアンチ巨人に広く見られる心性だったが、今や彼らにとって巨人が強かろうが弱かろうがどうでもいいことなのに違いない。つまり彼らは驚くべきことに野球を楽しむことさえ放棄してアンチ巨人であることを選択したのだ。いったい、何のために? 心の平穏を得るために、である。あえて彼らの好むアナロジーを逆手にとって言うなら、多くの日本人が事あるごとに「だから日本人はダメなんだ」という科白を口にすることで奇妙な安心感を得ているのと同じように、彼らも「だから俺は巨人が嫌いなんだ」と言ってさえいれば心の平穏を得ることができるのだ。なんというネガティブな平穏だろうか。そして、なんと寂しいアイデンティティだろうか。何かを否定することでしか保てないアイデンティティほど貧しいものはない。もし、この点に賛同が得られるならば、心ある巨人ファンと心ある非巨人ファンは「アンチ・アンチ巨人」で結束し、共同戦線を張れる可能性があるとさえ俺は思っている。なぜなら、今やアンチ巨人は野球ファンですらないからだ。

 かくてアンチ巨人は「グラウンドの外」のジャイアンツを語りたがるようになった。そして長嶋信者は野球を見ずに長嶋を見ている。誰も「グラウンドの中のジャイアンツの野球」を見ようとしない。しかし俺にとって最大の関心事は「グラウンドの中でどういう野球が展開されるか」ということだし、きわめて素朴に「ジャイアンツの野球がつまらない」ことを嘆いている。長嶋茂雄が人間として愛情にあふれているかどうかなんて、知ったことか。もし監督の愛情が邪魔になって勝てないのなら、監督を代えればいい。ただそれだけの話である。

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 それに、「大衆の責任」を言うなら、読売のやり方にぶつくさ文句を垂れながらも、この60年間ろくな対策も講じないで、自らの「ステイタス」を向上させるための努力を怠り、巨人人気におんぶにだっこでやってきた他球団の「責任」はどうなる? たかだか一介の新聞屋にすぎないオヤジに振り回されるしかない脆弱な球界の体質は? 責任を問うなら、そっちのほうが先じゃないか。大衆の責任を問うのは簡単だけど、たとえば政治家の低レベルを「民度」の低さにリンクさせて語るのがひどく空しいのと同じで、それを言っちゃぁおしめぇよ、だ。ちっとも建設的じゃない。大衆なんて、そんなもんだよ。責任なんか取れないから大衆なんじゃないか。もちろん俺も大衆の一員として言っているわけだが、とにかく大衆なんかに過度な期待をしちゃいけません。

 さらに付け加えておくと、球団経営に関しては野球でもサッカーでも「企業名を冠することの是非」がしばしば問題にされるが、ヴェルディはともかくとして、巨人が本来は「読売ジャイアンツ」であるにも関わらず一貫して「読売」ではなく「巨人」と呼ばれることを受け入れてきた事実を忘れてもらっては困る(無論、これはタボン氏への苦言ではなく、アンチ巨人一般へ向けられた言葉である)。ユニフォームのロゴにしても、「YOMIURI」の文字はごく控えめな体裁で肩についているだけで、ビジター用の胸文字は「TOKYO」だ。アンチ巨人はこの事実にあえて目を瞑っているように見受けられるが、これは存外に重要なことである。昭和10年のアメリカ遠征時に「ジャイアンツ」の呼称を得て以来、巨人は「巨人」であり続けてきた。「大阪」を捨てて途中から「阪神」になったタイガースや、「名古屋」だか「金鯱」だかを捨てて「中日」になったドラゴンズとは懐の深さが違う(このへん、歴史的事実の誤認があるやもしれんが、まあ、そういうことだ)。たしかに正力松太郎は新聞を売る手段としてプロ・リーグの旗揚げを思いついたかもしれないが、当時は朝日や毎日がそれぞれ夏・春の高校野球を商売道具として(たぶん今以上に大々的に)利用していたわけで、その対抗手段としてプロ野球を発足させた読売だけが批判されるのは筋違いというものだろう。むしろ大正力の豪気な企画力と行動力に、すべてのプロ野球ファンは感謝の念を捧げるべきだとさえ俺は思っている。批判するのはその後にしてもらいたいもんだ。いずれにしても、ジャイアンツというチームが築いてきた歴史と伝統の重みを、数々の苦難と障害にもめげずプロ野球という至上の娯楽をこの国に定着させてきたこの球団のプライドを、「ステイタス」なんぞという大雑把な言葉で軽々に語って欲しくはない。

 だいたい、仮にナベツネが「千年帝国志向的権力欲」なるものを持ち合わせているとして、それがたとえばミランやインテルやラツィオやバルセロナや何やかやの会長が持っている志向とどう違うのか俺にはとんと見当がつかない。何か本質的な違いがあるのなら教えてほしい。こんなことは釈迦に説法であるが、欧州のサッカーは「金満強者」と「貧乏弱者」が共存してリーグ戦を戦っており、だからこそのダイナミズムを作り上げている。むろん、日本プロ野球が持ち合わせていない「地域密着」がそれを支えていることぐらいは俺だって百も承知しているし、したがって両者を単純に比較しようとは思わないが、少なくともそこには戦後の日本人が持ち続けてきたおかしな平等意識(「フェア」と「イコール」を混同した悪平等主義)など微塵もない。もちろん、アンフェアな世界でもまったくない。機会さえ平等に与えられていれば結果的に弱肉強食になってもそれを(とりあえず)容認するのが、近代の平等意識であり市民意識だ。それをわれわれ日本人が踏襲すべきか否かはまた別の問題だが、少なくとも「反体制」を気取る市民主義者の多くが近代的平等主義を信奉しながらその意味を履き違え、アンチ巨人の多くがその履き違えを踏襲したまま巨人に反感を抱いていることは間違いあるまい。もしアンチ巨人一般が「読売ばっかりカネ使って選手を集めるのはけしからん」というのなら、それは単なる甘えだと俺は思うね(ほら、ここでもアンチ巨人は日本人そっくりだ)。戦う以上は、できるかぎりの努力をして強いチームを作る。千年帝国志向的権力欲、大いに結構じゃないか。実にすがすがしい。もちろん、その方向性や手法に間違いや勘違いがあることもあろうし、「馬鹿げた金の使い方」もあろうが、それは純粋にその(ファンを含めた)チームの「内政問題」であって、アンチ勢力にとやかく言われる筋合いはない。本来なら、それでジャイアンツが弱くなるならアンチ巨人にとっては願ったり叶ったりのはずなのだが、価値判断にねじれ現象を起こしている今のアンチ巨人には、そんな単純なことも見えなくなっているのであろうか。

*

 揚げ足取りに陥る危険があることを承知の上で、あえて逐語的な反論を続ける。まず「あの馬鹿げた金の使い方の責任」は、「彼に全くないとは言」えないどころではなく、ほとんど全面的に長嶋の責任だと俺は思うね。心やさしき平和主義者であるトマソン氏は、おそらくは常連客に遠慮する気持ちも手伝って「50:50」という落とし所を提案したが、そんなふうにお気をお遣いになるこたぁ、ござんせん。長嶋は自分が「長嶋茂雄」であることを最大限に利用して、(いみじくもトマソン氏が金持ちのドラ息子に喩え、Z・J氏が「幼児性」と指摘したとおり)だだっこのように欲しいモノをねだってるだけだよ。槙原にバラ17本贈ったのも、清原に「私の胸に飛び込んでこい」と言ったのも、ぜーんぶ「長嶋茂雄利用型」の確信犯的おねだりだ。「昨年・一昨年の外国人野手の辛抱強いばかりの使い方」も、「オーナーやフロントが頑張って金を出してくれた選手」に「冷たくはできない」からでは全然なくて、単に彼がリアリスティックな視点を持ち合わせておらず、まるで一ファンのように呑気で無責任な期待感を選手に抱き続けてしまうという、プロの監督にあるまじき愚劣で幼稚なロマンティシズムのなせるワザとしか俺には思えない。「醜悪な顔」と言うなら、オーナーを見る前にそのチームの指揮官の顔を見てみたまへ。走者が三塁ベースを蹴るたびに腕をぐるぐる振り回しているときの彼の顔(彼の信奉者が愛してやまないあの顔!)ほど醜悪なものを俺はほかに知らない。

 それから、「第1期藤田政権を支えた選手たちは彼が育てています」なんてことがどういう根拠で言えるのか俺にはわからんが、ある種の常識として語られているこの「神話」も、俺は眉唾だと思う。たしかに当時の選手の中には引退後も事あるごとに「長嶋さんのお陰」と口走る連中が多いけれど、そんなもん、そう言って「長嶋派」の一員だと世間に思われていたほうが商売上「得」だと判断しているだけのことじゃないの? そして、それが現実に「得」になってしまうこと自体が、今のジャイアンツをめぐる問題の本質なんである。もっと言えば、「長嶋派」であることが「得」だと感じさせてしまう、この国の「空気」こそ問題にすべきではないだろうか。そういう意味では、「日本社会のアナロジー」として語られるべきはジャイアンツではなく、長嶋信者および長嶋信仰だと言うこともできなくはない。盲目的に長嶋を奉じる人々の姿は、主体性を放棄して「空気」に流されやすいわれわれ日本人の姿そのものじゃあないか。俺は自分にもそういう面があることを十二分に知っているからこそ、そのことがよくわかる。

 仮に百歩譲って「第1期藤田政権を支えた選手たち」を長嶋が育てたんだとしても(まあ、いくらか貢献した部分があったにしても、それは「育てた」というより「鍛えた」ぐらいのもんだと思うが)、重要なのは長嶋がその選手を使って勝てなかったのに、藤田は勝った、という揺るぎのない事実だ。たとえ長嶋に「選手」を育てる能力があったとしても、「チーム」を作ってマネージメントする能力は皆無なのだということを、この事実は裏付けている。しかも藤田は勝っただけでなく、その野球は実に魅力に富んだものだった。たとえば83年の日本シリーズ(対広岡ライオンズ)で長嶋がベンチにいたら、あれほど感動的で濃密な7試合をわれわれは絶対に見ることができなかったに違いない。3勝4敗で敗れはしたものの、あのシリーズは4勝2敗で森ライオンズを下した94年(だったかな)のシリーズとは比較にならない価値があった。ここらへんが、そこらの巨人ファンとは違う俺の度量の広さである(このへんがゴーマンなところでもある)。さらに、その94年のペナントレースを振り返るなら、もし藤田(というか長嶋じゃない人)が監督であれば、中日との最終戦が「国民的行事」になることなど絶対になかった。あれは単に愚かさの集積の結果としてたまたま成立したにすぎない「国民的行事」であって、そんなものを見せてくれたことに対して長嶋に「ありがとう」などと言える巨人ファンを、俺は巨人ファンとは認めないぞ。あの「国民的行事」に関して長嶋に感謝する者があるとすれば、最後までペナントレースを楽しめた非巨人ファンだけである。

 したがって、真に同情されるべきは、断じて長嶋茂雄などではない。2度に渡って緊急避難的にONの後釜を任され、見事に結果を出してみせたにもかかわらず、必ずしも監督として高い評価を受けているようには見えない藤田元司こそ、心から同情するに値する人物なのである。

*

 トマソン氏が「ヘタな鉄砲がやっと当たったような怪進撃」と評したように、今季のジャイアンツは序盤の弱体ぶりがウソのように順位を上げてきた。もしかすると優勝するかもしれない、とも思う。むろん、そうなれば、俺が嬉しくないはずはない。なぜなら巨人が好きだから。しかし、優勝したからといって長嶋の監督復帰から現在まで日常的に連綿と味わわされてきた不快感や苛立ち(心の傷、と言ってもいい)が癒されるわけではないのも事実だ。優勝するなとは言わないが、優勝がジャイアンツの未来に悪影響を及ぼすのではないかと心配にもなる。

 このアンビバレントな感情を安定させるには、やはり「優勝して長嶋勇退」が俺にとってはベストのシナリオ(優勝逃して長嶋もう一年、が最悪)である。その後は、もう愛想を尽かしていそうな森に頼めないのであれば、とりあえずクロマティにでも監督をやらせるのがいいんじゃないかと秘かに思っている俺であった。

*

 最後までつきあってくれて、どうもありがとう。ジャイアンツについて(換言すれば自分自身について)再考するきっかけを与えてくださった全ての投稿者諸氏に感謝申し上げる。



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