深川峻太郎の江戸川春太郎日誌 05-06 season #13
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1. Last Train
2. Coffee Cup
3. 8 Ball
4. Take Me Down Easy
5. Love is Turnin Green
6. Hot Shoe Blues
7. Crawlin
8. Friends*
9. Whole Thang*
10. Slammer Jammer*
11. World Keep Spinnin*
12. Long Ride Home*


2005.12.16.Fri. 10 : 50 a.m.
BGM : Crawlin / Marc Beno & The Nightcrawlers featuring Stevie Ray Vaughan


 きのうは午後から、井の頭線沿線の某所にある美容院へ。ギター持って人前に立つ日も近いので、ボサボサに伸びた頭をどうにかしておこうってわけだ。厳密にいうと、ボサボサに伸びていたのは頭ではなく髪だが、ともあれこういうときは、やっぱ床屋じゃなくて美容院だろ美容院。というわけで、美容院なら近所にいくらでもあるのにわざわざ電車に乗って出かけたのはなぜかといえば、そこにヤマちゃんの奥さんのお姉さんがやっているお店があるからだった。美容院には15年ほど前に一度だけ、絶対に逆らうことが許されない業界の先輩に「おまえ、この店でワンレンにしてもらえ」と命令されて行ったことがあるだけで、それは青山あたりにあるバブル丸出しのギラギラした美容院だったのでとても居心地が悪く、それ以来私の中で美容院はひどく敷居の高い場所になっていたので、そういう関係性でもないと怖くて入れないのである。

 そうはいっても初めての場所なのでそれなりに緊張しながら行ったのだが、店に入って数十秒後には、こみ上げる笑いを押し殺すのに苦労するほどリラックスしていた。人はなぜ、「似てる人」に出会うと笑ってしまうのだろう。ヤマちゃんの奥さんのお姉さんは、ヤマちゃんの奥さんにとてもよく似ていた。顔は雰囲気が似通っている程度だがそれでも会った瞬間に「この人だ」とわかるのだし、何より瓜二つだったのは声と喋り方だ。しばらく脇で待っているあいだ、出入り業者と何やら打ち合わせしているのを聞くともなく聞いていたのだが、ヤマちゃんの奥さんではない人がヤマちゃんの奥さんのように喋っているのがどうにも可笑しくてたまらず、しかし初めて来た客が一人で笑っている風景はかなり不気味なので、両手で顔を覆った。でも肩の震えは隠せなかった。あとで本人に「妹さんと喋り方がそっくりですよね」と言ったら、心外だという顔で「え〜! 私のほうがやさしいと思うけどな、あの女より」とおっしゃっていたが、その言い方自体がほぼ同じなんだってば。おもしろいなぁ。私も人のことは言えないぐらい顔や声や喋り方が兄と似ているが、似ているのはおもしろい。本人はおもしろくないが、他人にはおもしろい。

 美容院で髪型を自らリクエストするだけの知識もイメージもボキャブラリーも勇気もナルシシズムも持ち合わせていないので、ここはプロに任せようと思い、職業的な事情をはじめとする背景情報だけ説明して「いちばん似合うと思う形にしてください」と俎板の鯉モードで座っていたら、やがて私の髪は、どんどん、どんどん、どんどん、どんどん、短くなっていった。たぶん、この30年間で最短だと思う。シャンプー後に体を起こして鏡を見たら髪の毛がぜんぶ立っていたので驚きました。愚妻に言わせると、その状態は赤ん坊の頃のセガレによく似ているということで、ここでもまた「血縁おそるべし」という話になるわけだが、とにかくまあ、なんとも新鮮なことになったのだった。白髪を隠すためにヘアマニキュアってやつも初めてやってもらい、また少しオトナになった気分。

 しかも「そのままだと、ただのコドモみたいになる」ので、毎朝ハードワックスなるちょっと美味しそうなクリーム状のもので自ら髪の立ち具合をデザインしなきゃいかんというのだから、ますますアダルトな感じだ。いままで「髪に何かをつける」という習慣が皆無だった(つける意味がわからなかった)のである。しかし、これが難しい。店でコツを教わってきたのだが、今朝はじめてやってみたら、愚妻に「野菜みたい」と言われて泣いた。なんだそれは。どの野菜だ。せめてカイワレダイコンではないことを祈りたいところだが、なんにしろ野菜みたいな頭で人前に出るのは、かなりモンダイがある。おさらい会本番までに練習すべきことが、また一つ増えてしまった。

 ショックだったのは、41歳になって初めて、自分の後頭部が「絶壁」だと知ったことだ。いままで誰もそんなことを指摘してくれなかったが、ヤマちゃんの奥さんのお姉さんによると、「ペタンコっていうより、むしろヘコんでるわよ」とのこと。なので髪を立てるときは後ろにボリュームをもたせるのが重要なんだそうで、そのために後頭部は少し長めに髪を残してくれたのだが、おれ、ヘコみアタマなのかよ〜。なんでそんな後頭部になってしまったんだろう。もしかして兄も絶壁なのかなぁ。しかしまあ、専門家のアドバイスを聞くのはおもしろかったし、おのれを知る良い機会になった。いままで床屋に行くのがあまり好きではなく、年に3回ぐらいしか髪を切らない人生だったが、これからはマメに通うことにしよう。







1.Wild About You Baby
2.Sun Is Shining
3.Roll Your Moneymaker
4.Give Me Back My Wig
5.Walking the Ceiling
6.See Me in the Evening
7.Phillips Goes Bananas
8.It Hurts Me Too
9.What'd I Say
10.Rock Me
11.Phillips' Theme
12.Take Five
13.She's Gone
14.Ain't It Lonesome
15.Ain't Got Nobody


2005.12.15.Thu. 10 : 30 a.m.
BGM : Delux Edition / Hound Dog Taylor & The Houserockers


 またヒマになったので、先日の仕事場リセット作業で手を着けていなかった書架の整理を敢行した。12本ある本棚の大半が二列置きになっており、必要な資料を探すのに苦労していたので、思い切って処分することにしたのである。あらためてじっくり眺めると、なんで持ってるのか見当もつかない本が山ほどあって茫然とする。

 もう仕事で使うアテはないであろうと思われるロクでもないビジネス書や、セガレが中学生や高校生になっても読まんでいいと思われるロクでもない小説や、背表紙の著者名を見ただけで胸糞が悪くなるようなロクでもないサッカー本や、ロクでもなくはないが結婚前に愚妻と私が買っていて重複していた村上春樹などを抜き出して、吉祥寺のブックオフに出張買取を要請。本にかぎらず所持品を中古店に売るのはたぶん初めての経験で、相場も何もまったく知らないが、こっちに来て持ってってくれるなら、いくらでもかまわん。

 と思いつつ、いざ売るとなると「これでCD何枚買えるかなぁ」などと皮算用を始めてしまうのが貧しさというものだが、300冊弱で1万4000円ぐらいになり、まあそんなもんかなという感じだった。中古CDなら20枚分ぐらいか。そっちのほうがいいや。とはいえ、以前から一度手に入れた本を手放すことにはなぜか抵抗があり、実際に手放してみるとやはり何となく寂しい心持ちがしないわけでもない。どんなにロクでもない本でも、自分の手に落ちた以上は何か縁があったんだろうしなぁ。

 意外だったのは、値がつかずに引き取ってもらえない本が300冊のうち4冊しかなかったこと。「こりゃ売れねえだろ」と思いながらも一応提出した本が1割以上を占めていたのだが、あんがい持ってく人たちだ。値がつかなかった4冊は、いずれもいわゆる「背焼け」が理由。2人の若者が300冊をほんの15分か20分程度で査定していたので、本文や奥付までじっくり検分しているはずもなく、要は店頭で目につく背表紙さえ綺麗なら、いま読んでもあまり意味のない古い本でもブックオフは買う、ということなんですね。これもまた、本のことを知らない人間にもできる仕事なのだった。







1.The Land of Love
2.Lay Down Your Weary Tune
3.Your Love
4.Don't Let Me Come Home A Stranger
5.The Real You
6.Stand Up
7.Full moon
8.Straight As A Die
9.Siul A Run
10.St. Kilda Again
11.To Make You Feel My Love


2005.12.14.Wed. 12 : 00 p.m.
BGM : Full Tide / Mary Black


 メアリー・ブラックを通じて先日その存在を知ったばかりのノエル・ブラジル(ダブリン出身のシンガー・ソングライター)が、実はすでにこの世に不在なのだということを、この新作『Full Tide』のライナーを読んで知った。2001年11月に40代前半の若さで脳腫瘍のため亡くなったという。ソングライターとしての仕事をほんのわずか知っているだけで、シンガーとしての仕事ぶりは知らないし顔も見たことがないが、それでもファンになるには十分すぎるだけの深い感銘を受けたので、遅ればせながらご冥福をお祈りしたい。ノエル・ブラジルがサッカー好きだったかどうかはわからないけれど、せめて亡くなる半年後に開催されたワールドカップにおけるアイルランド代表チームの活躍を見せてあげたかった。手前勝手な感傷ですが。

 ふだん駅を利用しないのでそれまで知らなかったのだが、一昨日、京王井の頭線久我山駅構内(2階)の啓文堂書店がとっくにオープンしていたことを知った。駅前の2書店が出店差し止めを求めて行った仮処分申請(9/30および10/4の日誌参照)は、どうやら認められなかったようだ。じっさいに開店してみると、べつに電鉄会社が好きでこの街に住んでいるわけではないのに街並みが京王化していくのは癪に障るものの、やっぱり新刊の置いてある書店が近所にあるのは便利だし安心できるのもたしかである。

 でも、じゃあ、啓文堂書店が「良い書店」かといえば、とくに悪くはないけれど、とくに良くもない。少なくとも、書店としてのプロフェッショナルな努力を他店よりもしているようには見えない。ネットのベストセラー・ランキングでも覗けば誰にでもわかる売れ筋の新刊を目立つところにベタベタと平積みするだけなら、本のことを何も知らない素人でもできる。じっさい、私が挨拶代わりに『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』を買ったときレジに立っていた店員は素人で、雑誌を入れる紙袋(書籍を包むカバーではない)にセロテープを貼るだけの作業にさえ手間取って私を苛立たせた。胸に「研修中」の札をつけているからって、できなくても許されることとそうでないことがあると思いました。「本」を扱う以前に、「紙」を扱うのに向いていない。

 愚妻に聞いたところによれば、啓文堂とほぼ同時にオープンした駅構内のパスタ屋も、不慣れなバイト君が初歩的なミスをしてオーダーが滞っていたらしい。新規にオープンした店で新米の店員を働かせて平然としていられる経営者の料簡が許せない。そこにあるのは、「サービスなんか悪くたって、どうせ客はウチの店を使うしかねぇんだよ。うへへ」という驕りであろう。べつに呼ばれて来たわけでもない新参者が地域住民の信頼を得たいと思うなら、新米は既存のチェーン店で研修させて、彼らが仕事を覚えるまではとりあえずベテランの店員を配置するのが丁寧なやり方ってもんじゃないのか。

 既存の駅前2書店が今後どうなるのかは知らないが、これも愚妻が近所の美容院で耳にしてきた商店街の噂話によると、私がときどき利用していたほうは店を畳むことになりそうな状況らしい。だとしたら気の毒だ。経営努力を怠った者は潰れるのが競争社会の掟だそうで、たしかにその書店は努力をしていたとは言い難いものの、しかし彼らは書店同士の競争に敗北したわけではない。電鉄会社に負けたのである。啓文堂も、書店としての努力によって競争に勝利したわけではない。いわば、親の七光りで食っている芸のない二世タレントと同じである。ぜんぜんフェアじゃない。競争社会は「努力した者が報われる社会」だというが、久我山駅前で起きていることを見るかぎり、そんなのウソだと思う。いや、競争社会は本来「努力した者が報われる社会」かもしれないが、いま進行しているのはそういうものではない。よく言われることだけど、やっぱり「努力する意欲を奪う社会」になろうとしているように見えて仕方がないですね。

 そういや啓文堂には、あの怪著『ファスト風土化する日本』(洋泉社)でその豪快な芸風を強烈に印象づけた三浦展センセイの近著『下流社会 新たな階層集団の出現』(光文社新書)も山積みされてたよなぁ。まだ読んでないけど、「上流」から送り込まれた本屋でそれを買うのは皮肉すぎてシャレになんないかも。

 ゆうべは、バルセロナ×セビリア(リーガ第15節)をビデオ観戦。前半、速攻の最中なのにしばしば無駄に立ち止まってチームの流れを止めるカヌーテが鈍くさくて面白く、「こりゃあフィールドの止め男、いわばセビリアの大出俊だな」などと古い国会議員の名前を思い出してニタニタしていたら、後半、サビオラがゴールポスト経由で寄越したビリヤードパス(本当はシュートです念のため)を幸運にも足下で受けたカヌーテが先制ゴールを決めやがるのだから参る。だがセビリアはリードするやいなやサビオラを引っ込めて守りに入り、その結果「かかか勝てるかもぉ〜」と選手たちが先のことを予想し始めたせいで目の前のボールへの集中力を失ったのかどうかはわからないが、ロナウジーニョのCKをディフェンダーがうっかりトンネルしてしまい、先制から間もなくエトーの同点ゴールが決まったのだった。さらに、エジミウソンのクサビを受けると見せかけたロナウジーニョが身を翻してボールをラーションに渡し、電光石火のワンツーパス。セビリア守備陣にしてみると、鼻先に突きつけられた桂馬に気を取られて歩を動かしたらアララこっちに角道が空いてましたぁ〜、というヘボ将棋指しみたいな心境だったことだろう。ともあれ、ロナウジーニョならではの「実用的な曲芸」が炸裂して2-1。いまのロナウジーニョって、全盛期の長嶋茂雄みたいだ。バロンドール受賞を祝福に来たついでに孝行息子の決勝ゴールまで見ることができたお母さんのことが、とても羨ましい。







1.Blue Grass
2.Sammy's Alright
3.Anna
4.Just for the Box
5.Hold On
6.Fool's Life
7.Yellow House
8.Dying Fire
9.I'm on the Run
10.Colours


2005.12.13.Tue. 10 : 30 a.m.
BGM : Kossoff/Kirke/Tetsu/Rabbit


 ゆうべは、インテル×ミラン(セリエ第15節)をビデオ観戦。あっと驚く大三元、3-2でインテルの勝ちである。いやあ、ええもん見せてもらった。インテルってば、しばらく見ないうちに好チームになっていてビックリだ。11人全員が満遍なく目立つインテル、チーム一丸のインテル、最後まで諦めないインテル、運動量で勝負するヴェロン、汚いファウルをあんまりしないコルドバ、自軍のゴールに飛び跳ねて喜ぶマンチーニ、流血するフィーゴなど、いずれも初めて見たような気がする。

 試合は、前半にそれぞれPKを決めて1-1。エリア内でハンドを犯したネスタとスタンコビッチはどちらも元ラツィオの選手であることを多くの人は忘れているが、それはまあ、忘れられても仕方がないぐらい世間的にはどうでもよいことだ。ちなみに後半、FKのこぼれ球をマルティンスが押し込んで2-1となった後にCKからヘッドで同点弾を叩き込んだスタムもラツィオにいたことがあるのだし、終盤にモタモタと出てきてインテリスタのブーイングを浴びつつロスタイムのCK時にゴール前で伸びきったジャンプをしてアドリアーノに競り負けることを通じてインテルの劇的な勝利に貢献したあの人がラツィオにいたことなんか私でさえ時々ウソじゃないかと思うぐらい遠い過去なのだが、そんなことはともかくとして、ゴールはすべてセットプレイからだったものの、じつにセリエらしい、ね〜っとりとした空気の重さを堪能できる熱戦だった。これを現地の実況席でご覧になっていた岩本編集長のことが、気絶するほど羨ましい。

 コゾフ、カーク、テツ、ラビットの4人は、いずれも元フリーのメンバーである。でもポール・ロジャースとアンディ・フレーザーがいないので、これはフリーではなくコゾフ/カーク/テツ/ラビットなのだった。クリス・スクワイアが入ってないからイエスじゃなくてABWH、みたいな話だ。でも「KKTR」とは呼ばないようだし、その後「驚異の6人フリー」とかにならないところもイエスとは違う(しかもそんなに驚異的な感じもしない)わけだが、まあイエスと違うところは他にもたくさんあるというよりも同じところを探すほうが難しいので、それはもうよい。いまのインテルはサネッティがいなくてもインテルを名乗れそうな気がするが、それもあまり関係ない。

 カークとラビットがボーカルを担当するコゾフ/カーク/テツ/ラビットは、ポール・ロジャースがいないのにポール・ロジャースがいるように聞こえるのが不思議と言えば不思議だし、そういうもんかもしれんと言えばそういうもんかもしれん。まだ聴いていないが、ポール・ロジャースのいるクィーンはフレディ・マーキュリーがいるように聞こえるのだろうか。聞こえるわけないよな。何だろうポール・ロジャースって。何だろうってことはないが、存在感が濃いんだか薄いんだかわかりにくい人だ。

 一方のアンディ・フレーザーは、いないといるように聞こえない。当たり前か。当たり前だな。べつに山内テツのプレイが悪いというわけではないし、この日本人ベーシストがフリーのあとにロッド・スチュワートのいるフェイセスにも参加していたことを最近になって知り、これはもうフルアムからウエストブロムに移った日本人フットボーラーより派手な経歴ですごいよなぁと思うのだが、アンディ・フレーザーがいないと、いるはずのポール・コゾフまで時々いないように聞こえるのが寂しい。マケレレさんがいないと、いるはずのグジョンセンが時々いないように見えるのと似ているかもしれない。でもこのアルバム、ひたむきなインテル的結束力を感じさせるなかなかの好盤である。







1.It's a Long Way There
2.Help Is on Its Way
3.Reminiscing
4.Man on Your Mind
5.Other Guy
6.Night Owls
7.Lonesome Loser
8.Take It Easy on Me
9.Down on the Border
10.Happy Anniversary
11.Lady
12.Cool Change


2005.12.12.Mon. 11 : 50 a.m.
BGM : Greatest Hits / Little River Band


 京都の学習塾で起きた事件は、やはり「校内」も「危険な場所」であることをあらためて思い知らせたわけで、「通学路の危険な場所に防犯カメラ」というような粗雑きわまりない発想しか持たない人たちがこの事態にどう対応するのかは知りたくもないが、ともあれ、監視カメラの電源を抜いて教室を自ら「死角」に仕立てる教師や講師がいるのでは校外からの侵入者だけ排除しても意味がないのであって、考えてみれば長崎の事件だって学校の部外者が起こしたのではなかったのだし、こうなると、もう、毎日PTAが当番制で授業参観する以外にありません。いやいや、いまどきはPTAだって信用できないか。古くは音羽の幼稚園で母親が娘の同級生をなきものにした事件もあったし、じっさい「こいつの家にはセガレを遊びに行かせたくない」と思うような、言動の不審な保護者はたくさんいるもんな。畜生、どうしようもないじゃないか。

 リトル・リバー・バンドを聴いたからといってその出身国の弱点がわかるというものではないが、それはともかく、ドイツW杯における日本の対戦相手は、南米の優勝経験国、クロアチア、そして英語圏のアウトサイダーと、8年前とあまり印象の変わらない新味に欠けるものとなった。だいたい、初戦なんて、ある意味アジア最終予選じゃないか。前回のメキシコ×アメリカ戦みたいなもんで、そんなのW杯で見たくありませーん。いったい何度W杯に出場すれば欧州の優勝候補国と試合ができるんだろう。今回F組を突破すればイタリアかチェコと対戦できる可能性があるけれど、そっちはそっちで信用できないしなぁ。KOラウンド1回戦でアメリカにPK戦で負けて終わり……という、いつかどこかで見たような悪夢のシナリオが脳裏を過ぎってしまいました。話は変わるが、がんばれドログバ。クレスポ、ケジュマン、ロッベンと新旧チェルシー関係者が揃ったC組だが、私はきのう見たウィガン戦で途中から2トップを組んだ2人の決トナ進出を願っている。

 というわけで、ゆうべはチェルシー×ウィガン(プレミア第15週)をビデオ観戦。マケレレさんがいなくてロッベンのいるチェルシーはそれまで以上に躍動感に欠けるチームになっているわけだが、この試合でもウィガンの堅守を前に右往左往するばかりで何の展望も感じさせず、こりゃセットプレイでランパードの右足かテリーの頭しかなさそうだよなぁと思っていたら、ランパードのCKをダイビングヘッドで叩き込んでくれるんだからジョン・テリーは男でござる。偉大なキャプテンの2戦連続ゴールで2戦連続のイチゼロ。必死でしのいでる感じだよなぁ。いつもながら妙な時期に開催されるアフリカ選手権で戦力ダウンするまで、何とか今の勝ち点差をキープしたい。

 土曜日に、南大沢の映画館で『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(日本語吹き替え版)を鑑賞。愚妻とセガレは過去のシリーズを観ていたが私は一つも観ておらず、いわば『頂上作戦』から仁義なき戦いシリーズを観たようなものなので理解できない部分が多々あるのは当然だし、「順番にぜんぶ観てから文句を言え」という話かもしれないが、それにしたってちょっとどうかと思うような映画ではあった。短い時間で物語を消化するだけで精一杯なのか、こっちが観たいものをことごとくすっ飛ばしてくれる作品。冒頭のなんとかかんとかワールドカップ決勝戦(アイルランド×ブルガリア)は試合の様子を1秒も描写しれくれないのでそれがどんな競技なのか皆目わからないし、4人の代表選手が競う魔法学校の対抗戦1回戦の「ドラゴン退治」も、3人の戦いを端折ってハリー・ポッターの分しか見せてくれない。魔法を主要アイテムとする映画なのに、魔法に関する蘊蓄みたいなものも皆無。ご都合主義的に魔法が使われるだけで、魔法習得のプロセスとか、3つの魔法学校の魔法観や教育方針の違いとか、そういうの何にもないんだもんなぁ。あらすじだけでカネ取るのはやめてほしい。あらすじにカネ払うのもやめないといかんけども。

 あと、南大沢のTOHOシネマズは全席指定(ネットで予約可)なので座席争いのストレスがなく、シートの座り心地もいいので好感が持てるものの、場内が臭いのが玉に瑕だ。館内で販売している飲食物を専用トレイに載せて持ち込めるのだが、キャラメル味のポップコーンとか、あれは何なのかわからないが揚げた食い物の油とか、ビールとか、それらの臭いが混ざり合ってひどいことになっている。なんで映画観ながらポップコーンなんか食いたいんだろう。せっかく家族連れで出かけたんだから、終わってからゆっくり旨い物でも食えばいいじゃないか。それに、煙草の臭いにはさんざんクレームつけるくせに、ああいう臭いには鈍感でいられる世間の神経も理解できない。ビール飲んで途中でトイレに立っている計画性のないお父さんは、もっと理解できない。客がちゃんと集中して観てないから、あんなレベルの映画が幅を利かせてるんだな、きっと。







1.There's A Train That Leaves Tonight
2.State of Heart
3.Nightime
4.The Crow On The Cradle
5.Greatest Dream
6.The Water Is Wide
7.Ellis Island
8.Strange Thing
9.Without The Fanfare
10.As I Leave Behind Neidin
11.Diamond Days
12.Going Gone


2005.12.09.Fri. 10 : 25 a.m.
BGM : Without The Fanfare / Mary Black


 きのうはセガレの小学校で授業参観。受付には来客用の赤いリボンさえなく、誰でも自由に出入りできる状態だった。何とかしなくちゃいけない。イベント時は大人の目がたくさんあるから大丈夫だと思っているのかもしれないが、今の学校は少子化のせいで使用している教室が少なく、がらんとした部屋(一応それぞれ○○室と名づけられてはいるものの実質的には空き部屋)があちこちにあるので、「死角」が下校時の通学路並みに多いのである。

 参観したのは音楽の授業。学校へ足を運ぶたびにブツブツ文句ばかり言っている私だが、これは良かった。自分が学校の音楽の授業を楽しいと思った記憶がないせいかもしれないが、子供たちが最初からノリノリで授業を面白がっていることに驚く。そういえば学芸会でも多くの生徒が真剣な面持ちで演奏に取り組んでいたので、きっとふだんから音楽の教師がいい仕事をしているのだろう。実際、さまざまなメニューを次々と提供して音楽室を音楽的な空間に作り上げていく手際は見事なものだったし、うしろで見聞きしていても楽しい授業だった。勉強になったのは、トライアングルの鳴らし方。あの楽器は、隙間の空いている頂点と向かい合った辺(楽器が「ム」の字だとしたらその底辺)を叩くともっともきれいな音で鳴るのだが、「どうしてだかわかる?」と訊かれて(私が訊かれたわけではないが)さっぱりわからなかった。正解は、「まっすぐ伸ばすとそこが棒の真ん中だから」だ。常識だった? 私はそんなこと考えたこともなかったので、かなり感動した。棒の真ん中を叩くとなぜ良い音になるのかはよくわからないのだが(振動のバランスの問題か?)、ともあれ、「トライアングルなんて幼稚園でもやったよ〜ってバカにする人もいるけど、ちゃんときれいな音で鳴らそうと思ったら意外に難しいのよ」といった教え方をする教師はわりかし信用できる。

 ところで学校からの帰り際、担任の教師に挨拶をしたら、向こうはニコニコしながら「あ、江戸川君のお父さん、こんど聴かせてくだいさいね」と言ってリコーダーを吹く手つきをしてみせたので慌てた。どんな情報が学校側に漏れているかわかったもんじゃない。「おまえ先生に何か言ったろ」とセガレに問い質したら、どうやらセガレがクラスメイトに話したことが教師に伝わったようだ。だもんだから、伝言ゲームよろしく「江戸川君のお父さんがリコーダーを始めた」が「江戸川君のお父さんはリコーダーが上手」になってしまったに違いない。こうなると、ギターおさらい会のことも心配だ。気がついたときには「江戸川君のお父さんは東京ドームでコンサートをやって5万人を熱狂させた」になりかねないので、セガレには口止めをしておこう。







1.Rose of Allendale
2.Lovin' You
3.Loving Hannah
4.My Donald
5.Crusader
6.Anachie Gordon
7.Home
8.God Bless the Child
9.Rare's Hill


2005.12.08.Thu. 10 : 00 a.m.
BGM : Mary Black / Mary Black


 体重が70キロ台になった。言っておくが太った結果ではない。3年に及ぶ減量作戦の成果である。何を隠そう、3年前には97キロという驚くべき数字を叩き出したこともあり、「三桁」が見えてきたことに慌てふためいて減量に取り組み始めたのだ。9だった十の位が7になったのは感動的。思えば17年前、就職2年目にして、数名の編集部員で構成されていた秘密結社「やじゅう会」に所属してしまって以来の70キロ台である。言うまでもなく、「やじゅう」は「野獣」ではなく「八十」なのだった。したがって一時は「上に」脱会していたわけだが、減量開始から数ヶ月で再入会し、このたび晴れて「下に」脱会したのである。さらば、やじゅう会。まあ、キープするのはそう簡単ではないから、しばらくは頻繁に復帰と脱会をくり返すことになるだろうけど。

 ゆうべは、チェルシー×リバプール(CL第6節)をビデオ観戦。0-0の引き分け。おもしろいことが一つもない試合。いや、一つだけ痛快なことがあった。例の悪い解説者の小予想が外れたことだ。悪い解説者は先日のミドルズブラ戦の中継で、ジョー・コールがベンチにも入っていないことを「休養」と説明し、「モウリーニョはリバプール戦を勝ちに行こうとしている」とのたまった。ジョー・コールはリバプール戦でよく活躍するからリーグ戦では温存しているのだ、という解釈である。しかし「故障」のジョー・コールはリバプール戦でも戦列を離れていたのであり、悪い解説者に恥をかかせてくれたのだった。がはは。やーい、やーい。ってオイ。ぜんぜん痛快じゃねえよ。ただ痛いだけだよ。いないと困るんだよジョー。早く戻ってきてくれよ。

 小学校の安全対策についてきのう一つ書き忘れたのだが、ちょっと心配なのは、いまは「通学路」にばかり注意が向いているように感じられることだ。通学路の長い地方はそちらを重点的に考えたほうがよさそうだが、家から学校までさほど距離のない都市部では、どちらかというと「校内への侵入」のほうが危険度が高いように思われる。大阪のひどい事件の後はそれに対する危機感が高まり、セガレの学校でも防犯システムを導入し校門に警備員を配備するなどの対策を講じているものの、運動会や学芸会など保護者が大量に出入りするイベント時の入場者チェックはきわめて杜撰。保護者は胸に赤いリボンをつけることになっているがそんなものどこでも買えるし、つけ忘れていても警備員に誰何されたりはしない。その程度の障壁で事足れりと考えている人間が導入したのだとしたら、その防犯システムとやらもどれだけ有効性があるのか怪しいものだ。たぶん、どこの公立小学校も似たり寄ったりだろう。いずれにしろ、生徒数の少ない地方の場合は保護者同士が顔見知りであることが多いだろうからイベント時の不審者侵入に気づきやすいが、都市部の場合、どれが保護者でどれが不審者なのか見分けがつかない。私自身、一般的なお父さんと異なる不審な身なり(きょうも平日なのにジーパンとか履いて午後から授業参観する予定)なので、怪しまれやしないかと思うと落ち着かない。いくらか剣呑な空気になったとしてもしょうがないから、厳重なチェックをすべきだと思う。







1.By The Time It Gets Dark
2.School Days Over
3.Once In A Very Blue Moon
4.Farewell Farewell
5.Sparks Might Fly
6.Katie
7.Leaving The Land
8.There Is A Time
9.Jamie
10.Leaboys Lassie
11.Trying To Get The Balance Right
12.Moon River


2005.12.07.Wed. 14 : 20 p.m.
BGM : By The Time It Gets Dark / Mary Black


 毎朝、家から仕事場まで歩くあいだに、三つの区立小学校の通学路をかすめる。もちろん帰りも同じルートをたどっているわけだが、朝は通学路が通学路として機能している時間帯に通るので、「ああ通学路だよなぁ」とより明確に認識するわけだ。で、その時間帯は子供たちが一斉にわさわさと歩いているので賑やかなのだが、時間のバラける下校時は閑散として人目につかないだろうなと容易に想像のつく道はいくらでもある。住宅街の路地はほとんど全部そうだと言ってもいいだろう。霞ヶ関あたりで働いている人たちは知らないかもしれないが、平日の昼間の郊外というのは本当に人の気配が薄い。東京でもそうなんだから、人口密度の低い地方はなおさらそうだろうと思う。

 広島と栃木の事件を受けて、政府筋では「通学路に危険な場所がないかどうか再検討して防犯カメラを設置しよう」というような話になっているようだが、役人のアリバイ作り以上のものになるような気がしない。本気で「危険な場所」を全てカバーしようとしたら、いったい何台の防犯カメラが必要になるのか考えただけでも気が遠くなる。数が足りなくてもいくらかの抑止力にはなるかもしれないが、そのカメラが監視するのは犯罪者だけではないということも考えたほうがいいだろう。登下校の様子を逐一監視されるというのは、子供にとって(私にとっても)あまり気持ちのいいことではない。高学年になれば、カメラを避けるために決められた通学路以外のルートを開拓する者が出てくる可能性もある。そうなれば当然、低学年の子供もそれを真似するだろう。防犯カメラの設置が、新たな「危険な場所」を生み出すわけだ。

 そういう「危険」に身をさらさないよう、安全に対する意識を教育によって子供たちに植えつけるべきだという意見も昨夜のニュース番組で耳にしたけれど、いまはそんな迂遠な話をしていられる状況ではない。セガレは今日も学校から帰ってくる。おそらく集団下校になると思うが、広島の事件後に始めた集団下校を数日間でやめ、栃木の事件後にまた慌てて再開するという、何を根拠に集団下校のオン・オフを決めているのかサッパリわからない学校の場当たり的な対応にはあまり期待できないし、集団下校といっても家の玄関まで誰かと一緒というわけではあるまい。結局のところ、今すぐ本気で子供を守ろうと思ったら、親が迎えに行くしかないしそれがベストだと私は思う。「いつまでも親が送り迎えしていたのでは子供の自立心が育たない」などと言う人もいるが、たとえば日本よりは自立心の強い人が多いと思われる英国あたりでも小学生は親が送迎するのが当たり前だという話を聞いたことがあるし、人間の自立心は通学路だけで育つものではなかろう。そんなものは他にいくらでも育てようがある。でも子供を守る方法はあまり多くない。

 もちろん、すべての親が毎日下校時間に迎えに行けるわけではないが、その場合は各家庭で知恵を絞って何か方法を見つけてくれ。冷たいようだが自立というならそれが自立というものだろうし、なんかこう、今の世の中は公的なシステムによってリスクをゼロにしてもらいたいというような依存心が強すぎるようにも感じる。しかし、いくら検査システムを作っても倒壊しやすいマンションやホテルは建つのであって、それこそ「検査機関の検査」みたいな間抜けな形で、そのシステムをチェックするために新たなシステムが必要になったりなんかしてキリがないのだから、それは無い物ねだりというものだ。それに、そもそも何であれリスクというものはゼロにはならない。建築基準を満たすビルばかりになったとしても地震の規模は人間がこしらえた基準なんか守ってくれないのと同じように、役人が認定した「危険な場所」だけが犯罪者の行動範囲になるわけがないのである。

 とはいえ各個人の努力には限界があるので、リスクを減じるための社会的な取り組みも考えないよりは考えたほうがよい。そこで一つ、防犯カメラなんかよりは有効なんじゃないかと愚考した対策を書いておくと、とにかく下校時に通学路周辺の人通りを増やすことが大事なので、その時間帯には学校で何か決まった音楽なりアナウンスなりを近隣に聞こえる音量で流して周辺住民の注意を喚起し、それが聞こえたらなるべく買い物なり散歩なり井戸端会議なりで道端に出てもらうようお願いするというのはどうだろう。まだるっこしい話かもしれないけれど、これなら金がなくても今すぐに始められるし、カメラには死角があるが音にはないので、犯罪者に対する抑止力にもなるような気がする。昔は下校時間というと『グリーンスリーブス』やら『新世界より』の第2楽章やらが流れてきたもので、近頃はそれが「騒音」と見なされているのかすっかり聞かれなくなった(私自身も積極的に聞きたくはない)が、子供を守れない地域社会でいるよりは、ちょっとやかましい地域社会でいたほうがいいじゃないですか。

 数週間前に「アイルランドの女性シンガー」という簡単な紹介文とジャケ写だけ見て何気なく購入した『シャイン』というアルバム(きのうのBGM)を聴いて一発でビビビっと気に入り、このところ中古で何枚も買い集めて聴きまくっているのがメアリー・ブラックである。日本での世間的な知名度が皆目わからんので、説明が必要なのか不要なのかもよくわからんのだが、どうやら「日本を休もう」というJRのCMに彼女の歌が使われたこともあるようだし、何度も来日しているから、知っている人は多いのであろう。ともあれ国内盤のライナーその他によれば、「アイルランドではエンヤを凌ぐ人気を誇る国民的シンガー」なんだそうだ。老若男女を問わず愛されているというから、ダフやロイ・キーンも家で彼女の歌を聴きながら私のように涙腺を緩めているかもしれない。あまり想像したくない光景ではあるが。

 メアリー・ブラックはシンガー・ソングライターではなく、シンガーである。先月リリースされた6年ぶりの新作では初めてソングライティングを手がけたらしく、私はまだそれを聴いていないが、基本的には「歌い手」としてトラディショナルなフォークソングやお気に入りのソングライターの書き下ろしやカバー曲などを歌ってきた。一般に、曲を書かないシンガーはシンガー・ソングライターよりも「アーティストっぽさ」の点で低く見られる傾向があるように思われ、正直なところ私も以前までは漠然とそんな印象を抱いていたような気がするが、たとえばカントリー系の女性シンガーの多くもそうであるように、他人の作った曲を歌うことで優秀なシンガー・ソングライターに匹敵するクリエイティビティってやつを発揮する人は大勢いる。シンガーではないが、それこそジェフ・ベックも自分ではほとんど曲を書かないが偉大なアーティストであるわけで、まあ、それはそういうものだ。

 そして、曲を書かないが優れたアーティストの才能というのは、単に「表現力や演奏技術に長けている」といったようなものだけではない。ということを、メアリー・ブラックを通じて認識させられた。彼女(に限らず多くのシンガーがそうなんだろうと思うが)はただ与えられた歌を歌うという受け身の姿勢で仕事をしているわけではなく、たとえば無名のソングライターを見出して曲を提供させたり、この『暗くなるまえに』という邦題を持つアルバムでは誰も知らないようなフェアポート・コンベンションの未発表曲を「発掘」してタイトルナンバーに据えたりしているようだ。そういう方法で自分の歌うべき歌を手に入れるのに必要な努力と執念と才能は、自分の歌うべき歌を自分で作るのに必要な努力と執念と才能に、勝るとも劣らないものであろう。いや、ある意味では前者のほうが困難かもしれない。出版業になぞらえればその仕事は編集者に似ているが、本や雑誌の原稿も自分で書くより他人に書かせるほうが難しいものだ。だから私は編集業から逃避してライターという易き道を選んだ面もあるのだが、私のことはともかく、つまりシンガー・ソングライターではないメアリー・ブラックは、しかし「シンガー・ソングエディター」とでも呼びたくなるような仕事をきわめて高いレベルで行っているのだと思いました。

 そのお陰で、メアリー・ブラックのアルバムを聴くとアイルランドにも良いソングライターが大勢いることがわかるのだが、とくに、このアルバムで『Sparks Might Fly』を提供しているノエル・ブラジルという人や、『Katie』を書いたジミー・マッカーシーという人はすばらしい。英語の苦手な私が英語で詞を書くソングライターを褒めても説得力はないが、しかし彼らの書く歌は中学生レベルの英語力であっても歌詞を目で追いながら聴くと何かを強く訴えられているように感じられるし、意味は漠然としていても言葉の美しさといったものが溢れていてグッと来るのであって、それはシンガーの力量にもよるだろうが、ソングライターの腕でもあるだろう。ブラック編集長の采配でその才能が引き出され磨き上げられたのだとしたら、ライターとしては実に羨ましいことだ。

 無論、それはデクラン・シノットというプロデューサーの手柄でもあるに違いない。この人はギタリストとして演奏にも参加しており、インストの『Jamie』をはじめ多くの曲で美しいアコースティックギターを奏でている。シンガーのソロアルバムなのにインストナンバーが収められているあたりがメアリー・ブラックのエディター的な資質を物語っているのかもしれないが、いずれにしろ、プロが互いに触発し合う集団作業の愉しさが伝わってくるアルバムである。ものすごくたくさん書いてしまった。




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深川峻太郎の江戸川春太郎日誌 05-06 season #13